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2018年04月13日
hontoで久しぶりに電子書籍を買った(四月十日)
カードが使えるかどうか確認するための買い物は、できるだけ安いものをと考えた。だからと言って読む気になれないものを買うわけにもいかない。あれこれ見ていたら無料で手に入れられるものがあった。これを買い物籠に入れてやれば、支払いのページにいけるかもと考えて入れて見たのだが、無料の商品に支払いが発生するわけもなく、そのまま手続きが済んだことになっていた。
とりあえず読んでみるかということで、「アプリで読む」というボタンを押したのだけど、何の反応もなかった。考えてみればhonto専用のリーダーソフトをインストールしていないのだから読めるわけがなかったのである。ということで面倒だと思いつつ、ダウンロードしてインストールした。以前はこの手の日本語のリーダーソフトをインストールすると、インストール画面からして文字化けが起こって、これは使えないかもと不安になったものだが、文字化けが起こることもなく無事にインストールが済んだ。そのソフトがどうも勝手に機械の認証というやつをやってくれたようで、そんなことを記したメッセージが出たような気がする。著作権がどうこうというのもわかるのだけど、こういうのを面倒だと思うのもまた事実である。
よく考えたら、hontoはファンブログのA8というので広告を出しているのである。自分で買った分からもキックバックがあったりするのかもしれない。調べてみたらあった。セルフバックとか言うらしい。せっかくなのでそっちも挑戦である。やり方をヘルプで調べて、A8のログインしたページから、セルフバックというところをクリックして、表示されたページでhontoを検索して、そこでほしい本を探す。高々購入額の1パーセントのためにここまでするのか……。honto側でもポイントがもらえるから、2パーセントになるのだけど、ちりも積もれば山となる前に資金が足りなくなりそうである。
気を取り直して実験である。講談社学術文庫も取り扱っているから、『御堂関白記』の現代語訳でも買ってみるかと検索をかけたのだけど出てこない。『御堂』は『小右記』と違って、道長のでたらめな漢文と完結に過ぎる表現のせいで、素人が原文を読んでもわからないことの方が多い。それなのに学術文庫の『御堂関白記』の現代語訳は、紙の本しか取り扱っていなかったのである。『権記』はあったので、そちらにすればよかったのだけど、その存在に気づいたときには、すでにお試しの本を購入した後だった。
お試しとして選んだのは、やはり『御堂関白記』で、一部を抽出してのぞき見的に紹介するというやつである。角川文庫のソフィアから出ている『御堂関白記』で編者は繁田信一氏。紙の本よりも150円ほど安くなっているのがありがたい。以前は全く同じ値段だったり電子書籍の方が高かったりしたからなあ。
覗き見趣味的と言えば、こんな本も書かれている。こういう覗き見趣味的なアプローチは嫌いじゃないんだけど、『御堂関白記』のほうに出てきた道長が天皇制に寄生していた的な歴史観にはちょっと賛成しかねる。
こういうので興味を持った人が原文に挑戦してくれるようだと日本もまだまだ捨てたもんじゃないということになるのだが、最初に触れる古記録の原文が『御堂』というのは無謀だからやめた方がいい。やはり、漢文、いや和製漢文の文法にかなり忠実な『小右記』から始めるのがいい。ということで、どこかの出版社が電子書籍で、『小右記』の原文を出してくれないものだろうか。東大の史料編纂所のデータベースで大日本古記録版が見られるし、日文研でもテキストデータベース化を進めているらしいから需要はないかなあ。
そうである。買い物の手続きである。買い物かごに入れて、購入手続きに進んで、支払方法を選ぶところでクレジットカードの情報を要求された。これでカードが使えないということになったら注文はキャンセルになるのだろうか。不安に思いながらカードの情報を入れてみたら、あら不思議、何の問題もなく手続きが済んでしまった。あまりにあっさりしていて何かの間違いじゃないかと思ったほどなのだが、購入が住んだというメールも届いたし、問題なく使えたようである。
次は紙の本に挑戦だというところで、今日の話はお仕舞にする。
2018年4月11日22時。
これを買うつもりで、割引のクーポンをもらっておいたのだけど、間に合わなかった。
2018年04月12日
hontoで本を買ってみよう(四月九日)
外国暮らしも長くなり、さすがに最近の品揃えの悪くなりつつあるパピレスだけでは、我が読書生活も充実しないということで、以前使っていた電子書籍の販売サイトを久しぶりに覗いてみることにした。知人の話ではhontoでは、海外発送もしてくれるということなので、電子書籍に限らず紙の本も買えてしまうかもしれない。
かつて電子書籍を購入するのに使っていた「ウェブの書斎」「ビットウェイブックス」は、電子書籍の何回目かの夜明けであった2010年前後にリニューアルをし、hontoとか、BookLiveとして生まれ変わった。その結果、使いにくくなり使わなくなったのだが、使いにくさの理由の一つが、汎用の電子書籍リーダーではなく、その店の本を読むためにカスタマイズされたリーダーを使う必要があり、読むためにはPCなどの端末を登録する必要が出てきたことだった。お試しで使ってみたリーダーは、使い勝手が悪い上に、外国語のウィンドウズ上では非常に読みにくい表示になるという問題もあった。
そして、もう一つの問題だったのは、特にhontoのほうだが、支払いがウェブマネーではできない本が増えてしまったことだった。読みたいと思ってもウェブマネーでは買えませんとかいう表示が出ることが多く、これならパピレスのほうがましだと、それまで避けていた会員登録をしてウェブマネーを全てポイントに買えたのだった。時期には多少の前後があるかもしれないけど。
しかし、考えてみれば、あのときと違って今ではクレジットカードという武器を手にしている。パピレスは明確に海外発行のクレジットカードが使えるという情報があったので、ジャパンナレッジに登録する前の実験台としてポイントを購入したりもした。日本のネット上のお店は、海外発行のクレジットカードは使えないと書かれているところが多く、そういうところではカードの使用はあきらめるしかない。注文して購入画面に進んで、このカードは使えませんと出てきたら、他に支払いの方法がないのである。買おうと決めたものが買えないぐらいなら、最初から諦めた方がましだ。
hontoのホームページは、以前は海外のカードは使えないと書かれていた記憶があるのだが、今回確認したら、その記述はなくなっていた。紙の書籍の海外への販売をやっておきながら、海外のカードは使えないというのはおかしいのかもしれない。あれこれネット上で検索してみたら、アメリカ在住の人がアメリカ発行のカードが使えたということを報告されていた。アメリカがいけるならヨーロッパもいけるだろう。旧共産国とはいえEUにも入ったし銀行は外資に支配されている。
ということで試してみることにしたのだが、パスワードだと思しき言葉を入れてもログインできない。パスワードを忘れた方はこちらと書かれているところから入ったページを見て納得。hontoはこちらが使うのをやめて以来、大きくリニューアルしたらしく、古いアカウントは新しいものに更新しなければ使えないようになっていたのだ。文教堂などの書店網と連携して、ネット上で注文したものを近所の本屋で受け取れるなんてことも始めているみたいだし、日本に住んでいたら無駄遣いしていたに違いない。
そのアカウントの引継ぎだか統合だかは意外と簡単にできた。それにしても、登録しないと買えないというのは、ポイントなんかの優遇はあるにしても、ふらっと出かけて立ち読みをして気に入ればすぐに買える一般の書店の便利さには追いついていないよなあ。本の見せ方も、なんかこう現実の書店に近いような形での見せ方はないもんかね。
ネット上の本屋の派手な表紙が並んでいる画面を見ると、本屋の店頭に並んでいるのが平積みばかりのような感じで落ち着かない気分になってしまう。署名と作者名、出版社名しか入っていない背表紙だけが見える書架のような表示になっていて、クリックしたら表紙や背表紙の本のあらすじが読めるようになるなんてことはできないのかね。一部は平積み扱いで表紙が見えるように置いてあってもいいけどさ。生粋の活字中毒者としては、文字から本を探したいものなのである。
現代書館のホームページがちょっとそんな感じで好感が持てるのだけど、いかんせん並んでいる本の数が少なすぎる。とにかく、今のネット上の書店は一度に視界に入ってくる本の数が少なすぎ、偶然の発見という読書家にとっての最高の歓びの一つを味わうことができない。もう十年近く日本の本屋に入っていないせいか、不満たらたらである。最初から買う本が決まっている場合には、問題ないのだろうけど……。
さて、再登録の時点ではクレジットカードの情報を求められたりはしなかったので、カードの登録を試してチェコのものが使えるかどうかを確認してから、電子書籍を一冊かってみようと考えたのだが、どこから登録できるのかよくわからない。実際に買う本を選んで購入手続きに進まないとカードの登録もできないようだ。もし購入手続き以前にカードだけ登録する方法があるのだとしたら、わかりにくすぎる。この辺も現実の書店に完全に負けている。わからなかったら店員さんに質問なんてこともできないし。
それにしても、ネット上の書店って、特に電子書籍の書店って、どうしてどこもここもあんなに似ているのだろうか。余計なことを書いていたら買い物の話に到達しかなかった。ということで続きはまた明日。
2018年4月9日23時。
2017年04月16日
『単一民族神話の起源』( 四月十三日)
日本には、日本人以外の民族は殆ど住んでおらず、そのおかげで全国的に均一な社会となっているというのが、日本を単一民族国家として規定する人たちの考え方である。
個人的に、この考え方に最初に触れたのは、中学生の頃、1980年代の半ばに当時の中曽根首相が、日本社会とアメリカの社会を比較する文脈で、日本の優れた点として発言したことで、国内外から大きな批判を受けたときのことだ。当時はへえそんなものかとしか思わなかったのだが、左翼がかった社会科の先生が、声を大にして批判していた。「北海道にはアイヌ民族がいて、沖縄には琉球民族がいる。それに在日韓国人や朝鮮人がいるのに、単一民族とはどういうことだ」というのだ。
このときは、いや今でもかもしれないが、国籍をもとにしての日本人と、民族性に基づいての日本人の区別がはっきりついていなかったから、沖縄の人が日本人じゃないというのは変な話だと思った記憶がある。沖縄についてしか感想を抱かなかったのは、九州の人間にとってアイヌ民族というのはピンと来ず、身近にいわゆる在日の人もいなかったからだろう。
それで、日本が単一民族国家だという考え方は、右の人たちが日本の優れたところとして社会の均一性を主張する際に使われ、左の人たちが、それに対してアイヌ民族などを持ち出して批判するものだというのが頭に刷り込まれた。90年代に入ってからの出来事も、そこから大きく逸脱するものではなく、単一民族説=右翼、多民族説=左翼という構図は歴史的にも、つまりは戦前、戦中にも適用できるのだと思い込んでいた。
この時点では、国籍上日本人でありながら、国内の少数民族として規定しうるアイヌ民族や琉球民族と、国籍からして外国籍である在日韓国人、朝鮮人を一緒くたに扱うことに対する疑問すら感じていなかった。それに、中曽根首相が批判に対してどのように反論したのかも全く記憶にないし、外国人でも、日本国籍を取れば日本人になるぐらいの意識しかなかった、民族主義とか、民族自決主義なんて言葉を、今にして思えばその意味もわからないままに振り回していたものである。
この思い込みを粉砕してくれたのが、本日取り上げる小熊英二氏の『単一民族神話の起源』である。著者は、明治維新以来のさまざまな論者の日本人、日本民族に関する言説を分析し、日本人がその起源をどのように意識していたのかを歴史的に明らかにする。
著者によれば、日本には古来現在の日本人につながる民族しか住んでいなかったとする単一民族説と、原住の民族に、移民、もしくは征服のために日本にやってきたさまざまな民族が混ぜ合わさることで誕生したとする混合民族説の対立は、すでに十九世紀の終わりに形成され、その枠組みは現在でも大きく変わらないのだという。
簡単に戦前の動向をまとめると、日本がまだ欧米の列強に対して劣っているという意識を持っていた時代には、単一民族説が強く、それが日本国内の他民族を排除する論拠となっていた。それに対して、日清、日露戦争を経て国力に自信がついてくると、日本人は日本にやってきた他民族を同化してきたという主張が有力になり、それが日本人の優秀さを主張する根拠となる。
その後、台湾や日韓併合などで、大日本帝国内に異民族が存在するようになると、他民族支配の根拠として日本人の多民族起源が使われるようになる。本来日本人を天皇家の子孫が日本中に広がったものと規定していた国体論も再編を余儀なくされ、他民族を養子に取るとか、婚姻関係から日本民族に包摂できるとかいう論理が生まれる。それが日本民族は世界中の民族をその庇護下に置いて同化しなければなければいけないという方向に向かう。
つまり、日本には古代から日本民族という単一の民族しか住んでいないという考えかたでは、台湾と朝鮮半島を領有した日本の現実に対応できなくなり、拡大を志向する帝国の論理として、日本人は多くの起源を持つ混合民族であるという考え方が選ばれたのである。醜悪なのは、その理論が、日本人の祖先となった人たちの住む地域への侵略の理論として使われたことである。
ただし、この手の民族論を差別解消のための理論として使おうとした人たちもいた。現在でも根強く残る在日韓国人、朝鮮人への差別に対して、古来多くの渡来人が朝鮮半島からやってきて日本人の中に入り込んでいること、その中から天皇の生母になった人もいること、天皇家の先祖が大陸から朝鮮半島を経て日本に渡ってきたという説があることなどを理由に、その不当性を訴える人たちがいるのと軌を一にするのであろう。
しかし、ともう一度ひっくり返さなければならないのは、日本人が朝鮮半島からやってきたという説、つまり日鮮同祖説は、日本が朝鮮半島で露骨な同化政策を行なう根拠となった過去があるからである。日本人にとっては新しい差別解消の理論のように見えても、朝鮮半島の人たちにとっては、忌々しい日本化教育を思いこさせて、本人は支援しているつもりでも、反感を買うという結果をもたらしているかもしれない。
戦後になると、大日本帝国時代の政策への反省から、古来日本には日本民族だけが住み続けているという単一起源の日本民族説が優勢を占めるようになったようだ。そこには、戦前のことはろくに検証するとなくすべて悪として否定することで済ませてしまった日本の戦後というものが反映しているのだろう。
そして、もう一つ忘れてはいけないのは、単一民族国家と言った場合の単一民族が、単一起源の民族をささない場合があることだ。つまり、単一民族といいながら、実質は戦前の混合民族説と変わらないのである。80年代に強く批判された中曽根首相の発言も、多民族が同化されて均一化したという意味での単一民族を意識していたらしい。
戦後の日本が自信をなくしていた時代には、日本民族の単一起源説が優勢を占め、経済成長を遂げて国力に自信がついてくると、それが右翼を批判するものであったとしても、日本の多民族性を強調する考え方が台頭してくるというのは、明治維新期の動向と類似していて興味深い。この事実は、かつて思い込んでいた単一民族説=右翼、多民族説=左翼という構図が何の意味もないものであること、日本を単一民族だと発言した人間を、日本国内の他民族の存在を理由に批判することの不毛さを示している。
以上が『単一民族神話の起源』を読んで考えさせられたことである。特に読み返すことなく記憶に基づいて書いたので誤解しているところもあるかもしれない。それにしても、戦前の議論の方が噛み合っているような気がするのは、気がするのは気のせいだろうか。最近は、単一民族説は批判しておけばいいというような短絡的なマスコミが多いような気がする。
戦前の民族を巡る議論を知る人たちが、ほとんどいなくなってしまっている以上、戦前から続く新聞社、出版社などが、自らの過去を振り返った上で、つまりは戦前、戦中、戦後を通じて自社で発表した民族論を通時的に検討し、その正当性、時代背景などを分析、反省した上で、新たな民族論を打ち立てる必要があろう。それが組織によって違ったところで、少なくとも建設的な議論の入り口には立てる。そうしなければ、単一民族説であれ、混合民族説であれ、多民族混住説であれ、悪用されることを防ぐのは難しい。
4月14日23時30分。
この本については、もう少しまともなことが書けると思っていたのだが……。4月15日追記。
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2017年04月13日
与謝野晶子の『源氏物語』4(四月九日)
承前
論文「『源氏物語』と与謝野晶子」に挙がっている「紫式部考」は、金尾文淵堂から、『新訳源氏物語』、『新訳栄華物語』に次いで大正五年(1916)に刊行された『新訳紫式部日記、新訳和泉式部日記』の冒頭に収録されたものらしい。
天弦堂書店から大正六年に刊行されたエッセイ集『我等何を求むるか』に収録された「紫式部の考証」(212-214頁)に、その旨が書かれ、その目的を「在来の不正確な伝記に多少の補正を試みようとした」と述べている。
「紫式部の考証」には、「其後気の附いたことを」書いたというのだが、中心となっているのは、紫式部がまだ子どものころに、母親と一緒に仕えていた主君についてである。ここで晶子は、いくつかの根拠を挙げて、冷泉天皇の中宮であった昌子内親王ではないかという推定をしている。ちなみに、昌子内親王は朱雀天皇の娘で、冷泉天皇とは従兄弟の関係になる。
それから紫式部の父にあたる藤原兼輔が「堤中納言」と呼ばれたこと、『枕草子』の別名に『清少納言物語』があり、『和泉式部日記』が『和泉式部物語』とも呼ばれ、物語の題名には著者名前が入ることが多いことから、本来の『堤中納言物語』は、藤原兼輔の自伝的な小説で、今日の兼輔の登場しない『堤中納言物語』は偽作であろうと言う。
この『我等何を求むるか』には、「ロダン翁に逢つた日」(101-110頁)という文章も収録されており、それによれば、与謝野夫妻がロダンと面会したのは、「一九一二年(大正元年)六月十八日の午後」である。『新訳源氏物語』のあとがきに書かれた『新訳源氏物語』を献呈したというのは見えないが、ロダンとの対面が晶子にとって感動的なものであったことはよくわかる。四男に「アウギユスト」という名前をつけたことをロダンに報告したら、喜んでくれて祝福の手紙まで送ってくれたのだという。
同じく大正六年に書かれた「紫式部の伝記に関する私の発見」という文章は、実見できていないのだが、幸いその要約を「森の源氏物語余談」というホームページで見つけた。これを読むと、これまであれこれ書いていた紫式部に関する論考をまとめ、家系についても記した紫式部の伝記になっている。この時点でも、まだ『源氏物語』の作者としては、紫式部しか考えていないようである。
雑誌「太陽」の昭和三年一月号から三月号に掲載されたという「紫式部新考」も原文を実見することができなかったので、部分的に引用されたネット上の記事を参照した。「pearlyhailstone」というタイトルの古文を専門とする人のブログである。具体的な記事はそちらを見てほしい。
『源氏物語』の執筆順に関して、「箒木」から書き始められたというのは、以前の論と変わらないが、「桐壺」が書かれたのが大正五年の段階の全てを書き上げた後最後に序のような形で書いたという考えから、「よほど後に至って」というものに変わっている。これは、作者について紫式部の単独執筆説から、複数作者説に転向した結果と言えるのかもしれない。
作者については、『源氏物語』を「桐壺」から「藤裏葉」に至る三十三帖と、「若菜」以後の二十一帖に二分した上で、前半を紫式部の作とし、後半を他人の補作であると推定している。その補作者については、紫式部の娘である太宰三位しか考えられないという。
晶子も書いている通り『源氏物語』のうち末尾のいわゆる「宇治十帖」を後世の補作として、其の作者に娘の太宰三位をあてる説はある。また、「若菜」以後を第二部として、「藤裏葉」までとは分ける考え方もある。しかし、「若菜」以後を太宰三位の補作だというのはかなり大胆な説であるような気がする。この説に対する研究者側の反応が知りたいところではある。
とまれ、大正年間の紫式部単独作者説から、昭和に入って複数作者説に転向しているわけで、そのきっかけの一つとして、「日本古典全集」の編纂のための古典研究があったのではないかと言いたくなる。その意味でも、『源氏物語』第五巻を読んでみたいのだけど、国会図書館早くデジタルライブラリーで公開してくれないかなあ。
次はやっと『新新訳源氏物語』である。さて、次で終わるか。
4月9日23時。
2017年04月06日
与謝野晶子の『源氏物語』3(四月三日)
与謝野晶子の二度目の現代語訳である『新新訳源氏物語』に行く前に、日本古典全集の中で、見かけた源氏物語への言及を取り上げておく。
まず、大正十五年に刊行された『御堂関白記』の解題である。一編の道長論、もしくは道長賛歌となっているこの解題において、道長が新文学の激励者であり保護者であったとする部分がある。この辺りは、明治期の新しい文学の興った時代に活躍した人たちならではの意見であるような気もするが、大切なのは続けて「紫式部の「源氏物語」は與謝野晶子の考證に由れば道長の全盛期以前に作られた」と、『源氏物語』の書かれた時期を道長の全盛期以前に設定しているということである。この全盛期以前というのが何時を指すのかが問題で、公卿首座についたときなのか、彰子が中宮になったときなのか、これだけでは判断がつかない。
次は、大正十五年十月から五分冊で刊行された『源氏物語』の解題である。この古典全集版の『源氏物語』は、底本としては正宗敦夫所蔵の「元和活字本」という本を使っているが、挿画は与謝野晶子所蔵の『絵入源氏物語』から、印刷できそうなものを選んで採用したという。
また『源氏物語』の作者、成立に関しては与謝野晶子が「源氏物語雑考」を書いて五巻の巻末に付したと書かれている。晶子の『源氏物語』に対する知識の深さを褒めた上で、与謝野寛と正宗敦夫の願いに応えて書くことになったのだというから、どんなものなのか読んでみたいのだけど、デジタルライブラリーではまだ未公開なのである。うーん残念。日本の公共図書館だったら閲覧して印刷できるところがあるようだから、日本にいる知り合いに頼んでみようかな。そこまですることはないか。
それで他に何かないかと探していたら、西田禎元という人の「『源氏物語』と与謝野晶子」という文章を発見した。ちなみに名前はこの漢字で「ただゆき」と読ませるらしい。いやあこれは知らなきゃ読めんわ。この論文は与謝野晶子の「源氏物語礼賛」の歌が主要テーマになっているが、晶子の源氏論についても情報が出ていた。
最初の「紫式部の事ども」という文章は、次の「紫式部と其の時代」とともに、『人及び女として』という大正五年四月に天元堂書店から刊行されたエッセイ集の中に収録されており、文章の末尾にどちらも「一九一五年十一月」と書かれているから刊行の前年に書かれたものであることがわかる。
「紫式部の事ども」では、紫式部と近松門左衛門の二人を日本の文学界の最大の天才だとしている。清少納言、柿本人麻呂、井原西鶴の三人がちょっと下がった二番手の地位にあって、他はみなその下だと断定している。
その後、「久米博士」が源氏物語を紫式部の作ではないと論じたことを批判している。この「久米博士」は、歴史家の久米邦武(1839-1931)だろうか。「婦人」にしか書けない「婦人」の作であることは明白だと強調しているのは、久米博士が男性作家説を唱えたからかもしれない。
その一方で、紫式部の時代を自らが過ごした明治期の新しい文学の生まれた時期と重ねてみているような記述もある。特に「紫式部が小説を書くに至ったのは、今の青年が小説を書くのと同じ」だったのだと記しているのに、新しい文学を作り出そうとしてきた世代の熱を感じてしまうのは、思い入れが強すぎるだろうか。
そして、『源氏物語』が書かれたのは、夫の宣孝が亡くなった後、中宮彰子に仕えるために出仕する前の、式部が廿代半ばだった三、四年だろうとしている。古典全集の『御堂関白記』の改題よりは具体的な時期が出ているのだが、宣孝の没年長方三年(1001)とされているので、それから1005年ぐらいまでの間に書かれたと考えているようである。『源氏物語』を書いたことが評価を高め、道長に請われて彰子に仕えることになったと言うのである。
また、『源氏物語』が書かれた順番についても、まず現在の順番では二番目に来る「箒木」から書かれ、冒頭の「桐壺」は、全体を書き終えた後に、序文のような形で光源氏の生い立ちを記すために加えたものだろうと推測している。それは「箒木」の文章に未熟な点があることと、「桐壺」の文章の円熟ぶりからも傍証されるらしい。つまり、この時点では、『新訳源氏物語』の時点と同様に、『源氏物語』は、紫式部が一人で書いたものだと考えていることになる。
最後に式部の娘について、二人説があるけれども一人だけだと断言する。もともと「越後の弁」として出仕していたのが、「大弐三位」に呼び名が変わったのだと言う。この娘も歌人として才を発揮した「才女」であったと記されるが、『源氏物語』との関係については全く触れられていない。
もう一つの「紫式部と其の時代」は、特に『源氏物語』への言及はなく、なぜ平安時代中期に、式部をはじめとした女性の文人が活躍したのかということを簡単に記すのみである。
なんだか無駄に長くなってきたけれども、今更やめられないので、いつになるかわからないけど続く。
4月3日23時。
ちと順番が変わってしまったけれども、中巻である。4月5日追記。
価格:884円 |
2017年04月03日
与謝野晶子の『源氏物語』2(三月卅一日)
『新訳源氏物語』下巻二の末尾には、「新訳源氏物語の後に」と題したあとがきが付されている。それによれば、「明治四十四年一月に稿を起こし」、「大正二年十月に至って完成」している。この間二年十ヶ月間に「欧洲へ往復し」「二度産褥の人と」なった上に、一度は「危険な難産」だったというのだから、実際に翻訳にかけられた時間は、遥に少なかったはずである。明治四十五年の洋行によってだけでも半年以上は日本を離れていたわけだし。
その上で、当初の計画よりも早く完成したと言っているから、かなりの注ぎ仕事、あまりよくない言い方を使えばやつけ仕事になっていたのだろうか。それが不満で、後に古典研究の一環として、「古典全集」の刊行にかかわり、後に再び『源氏物語』の現代語訳に取り組むことになったのかもしれない。
その一方で「源氏物語は我国の古典の中で自分が最も愛読した書である」と言い、『源氏物語』への理解については強い自信を表明している。晶子は「ひらきぶみ」と題したエッセイで、「九つより『栄華』や『源氏』手にのみ致し候少女は、大きく成りてもますます王朝の御代なつかしく」と、子どものころから『源氏物語』を読んでいたことを記している。源氏読みとしては年季が入っていたというわけだ。
そして、江戸期に多く書かれた『源氏物語』の注釈書についての不満を述べ、明治時代にも読み続けられていた北村季吟の注釈『湖月抄』について、「原書を謝る杜撰の書」とまで批判している。ちなみに、夫の与謝野寛との共著『巴里より』の末尾には、「源氏物語を湖月抄と首引で」読むフランス人の女性が出てくる(ただしこの部分は与謝野寛の手になるものである)。
現代語訳に際しては、「桐壺」以下の数帖は、「一般に多く読まれていて難解の嫌ひの少ない」という理由で抄訳にしたことが語られる。「桐壺源氏」「須磨源氏」なんて言葉があるぐらいだから、読み始める人は多くても、通読までした人はあまり多くなかったのだろう。だから、読んだことのない人が多いだろう中巻以降は、「原著を読むことを煩はしがる人人のために」、省略せずに殆ど全訳したという。
重要なのは、このあとがきで、『源氏物語』が光源氏を主人公にした部分と、いわゆる宇治十帖とに二分できることを認めたうえで、「源氏物語を読んで最後の宇治十帖に及ばない人があるなら、紫式部を全読した人とは云はれない」と書いていることだ。つまり、この時点では、与謝野晶子は『源氏物語』の作者は紫式部一人であったという説をとっているのである。
また、「源氏物語を読むには、その背景となった平安朝の宮廷及び貴人の生活を知ることが必要である」と言い、「当時の歴史を題材とした写実小説である栄華物語の新訳に筆を著けて居る」と言っているのも注目を引く。この意識が、「日本古典全集」の刊行への参加につながっているはずであるし、『栄華物語』の現代語訳は、『新訳源氏物語』と同じ版元の金尾文淵堂から、大正三年七月、八月、大正四年三月に上中下三巻で刊行されている。こちらには序文、あとがきはないが、中沢弘光の挿画は付されている。
最後に、巴里滞在中に、彫刻家のロダンと詩人のレニエに、「この書の前二巻」を献呈したことが記される。「前二巻」がさすのは、最初の二巻ということで上巻と中巻だろうか。与謝野晶子が明治四十五年に渡欧のために東京を発ったのが、「巴里にて」によれば五月五日である。上巻は二月の発行なので問題ないにしても、中巻の刊行日は奥付によれば六月二十一日だから、普通に考えれば間に合わなかったはずである。
可能性としては二つ。一つは当時から奥付の刊行日は公式の日付であって実際の刊行は、それよりも早いことも多かったので、五月の出発時点で印刷が済んでいて著者用に製本したのを何冊かもらっていた可能性。もう一つは、中巻が完成してから郵便でパリに送ってもらったというもの。ただし、「巴里にて」の各節の末尾の日付が、書いた日付ではなく、出来事の起こった日付であるとするなら、ロダンに面会したのは六月十九日、レニエに会ったのは前日の十八日ということになるから、奥付の日付以前に発送されたことは間違いない。
書籍や雑誌の奥付の日付は、どこまで信用していいのか悩ましいものがある。一般には実際の刊行の方が早いのだが、諸般の事情で刊行が遅れた場合にも奥付の日付はそのままということもある。どのぐらいのずれがあるかは、出版社によっても違うし、同じ出版社でも時期よって変わることもある。だから、どうやって間に合ったかというのを考えるのは不毛といえば不毛である。
とまれ、ロダンは、挿画の印刷に使われた木版の技術を激賞したらしい。もちろん日本語はわからないので、将来翻訳によって内容を理解できるようになればと語ったようだ。この出会いを記念してか、夫妻は大正二年に生まれた四男にアウギュストという名前をつけている。この辺り、森鴎外が子供や孫にドイツ語の名前に無理やり漢字を当てたような名前をつけた事実を彷彿とさせる。与謝野夫妻が鴎外と親密な関係だったゆえんなのかもしれない。
4月1日10時。
忘れられていた与謝野晶子の『源氏物語』の初訳を出したという事実には頭が下がるけど、署名を変えてしまうのは如何なものか。「あとがき」も収容されているだろうということで、下巻を挙げておく。4月2日追記。
2017年04月01日
与謝野晶子の『源氏物語』1(三月廿九日)
あれこれ調べてみたところ、国立国会図書館のデジタルライブラリーで『新訳源氏物語』が公開されていた。最初の版の場合には、下巻一がないけど。
奥付によると最初の上巻が刊行されたのは、明治四十五年二月、出版社は東京市麹町区平河町にあった金尾文淵堂、発行者は金尾種次郎。著者の住所も麹町区になっているからご近所さんだったのかね。デジタルライブラリーで公開されているのは、大正二年十一月に出た第十版のもので、二年弱の間に十回も版を重ねたというのは、売れ行きがよかったということだろうか。
それに続いて中巻は、明治四十五年六月に、下巻一は翌大正二年八月、下巻二は同年十一月に刊行されている。中巻と下巻一の間に一年以上の間があるのは、明治天皇の諒闇のためかとか想像をたくましくしてしまうのだが、明治四十五年の五月ぐらいから与謝野晶子はパリにいた鉄幹を追ってヨーロッパに出かけているのだった。
この最初の源氏物語の翻訳には、上田敏と森鴎外という当時の文学界の大御所が序文を寄せている。上田敏といえば、訳詩集『海潮音』で、いわゆる新体詩というものを確立した詩人だが、高校のころの英語の先生がぼろくそに言っていたのを思い出す。その先生、大学ではドイツ語を専攻して原詩に触れたことがあるようで、例の「山のあなたの空遠く」という世にも名高い一節が気に入らなかったらしい。原詩は素朴な田舎のおっさんが歌う民謡のようなものなのに、あんな格調高い言葉に訳してしまって、翻訳ではなく半分以上は創作だと批判していた。いや、詩そのものはほめていたのだけれど、あれを翻訳というのが許せなかったようだ。
鴎外も、翻訳を通じて新体詩の確立と流行に貢献しているし、短歌の世界でも子規派の連中と、鉄幹派の連中の間を取り持とうとしたこともあったらしい。言わば、文壇の重鎮だったわけだが、この序文は本名の森林太郎名義で書かれている。近代文学の人なら、そこに何がしかの意味を見出すのかもしれないが、こちとらしがないえせ平安人である。文学史の授業で名前を覚えた人たちの交流が、現実のものとして見えてくることに感動するしかない。
上田敏は、この序文で、『源氏物語』の文章を、さまざまな引用や尊敬表現などを取っ払ってしまえば、典型的な女性の話し言葉で、「殆ど言文一致の文章」ではないかと言い、後世の型にはまった文章よりも、「今日の口語に近い」と書いている。明治末の言文一致運動の最中ならではのコメントと言えるのだろうか。
そして、作品の一部を切り出して、芸術として賞玩するのであれば、古文で味わうほうがいいだろうけれども、全体を読んで味わい楽しむためには「現代化を必要とする」と、現代語訳の意義を述べ、この与謝野晶子の訳については、ただ単に言葉を置き換えただけの一般の人でも読めるようにするためのものではなく、詩人が古い調べを新しいリズムに移し変えて作り出した新曲だという。現代化によって失われるものがあることは否定しないが、訳文が「きびきびした」ものになっていることを喜び、「此の新訳は成功である」と結ばれている。
鴎外の序文は、『源氏物語』の現代語訳の必要性からはじめ、一般のことは知らず、自分にとっては必要であるという。たくさん翻訳が出ている近世の文人の擬古文や漢文で書いた著作の翻訳は不要だけれども、『古事記』のような古い時代の作品の翻訳は必要で、特に『源氏物語』の翻訳が一番ほしいという。
そして、その翻訳に対してもただの翻訳に過ぎないものだったら不満なのだけど、この晶子訳には満足だと述べ、同時代の人間で『源氏物語』を現代語に訳すのに最もふさわしい人物は与謝野晶子だとまで言う。
最後に『源氏物語』の翻訳を求める理由として、「読み易い文章ではない」ことを挙げている。桂園派の歌人であった松波資之の「源氏物語は悪文だ」という言葉も紹介している。この読みにくいという意見には、もろ手を挙げて賛成する。上田敏の言うように引用の部分とか尊敬表現とか取っ払っても、私には文脈がとりにくいところが多くて、原文で読むのには苦労させられたものだ。
この『新訳源氏物語』のもう一つの売りは、洋画家中沢弘光の挿絵が入っていることで、あとがきによれば、晶子自身の望みで、装丁と挿絵を担当してもらったようである。このあとがきについては、日を改める。
3月29日23時。
これは『新訳源氏物語』らしい。3月31日追記。
2017年03月31日
与謝野晶子の古典研究(三月廿八日)
高校時代に国語の古文の受験対策として現代語訳の『源氏物語』を読むことを勧められたのを覚えている。登場人物が多く人間関係も複雑なため事前にある程度知識がないと、問題として切り出された部分だけを読んだのでは、完全に理解するのは難しいらしいのだ。勧められたほうの生徒たちは、活字で書かれた現代語訳ではなく少女マンガの『あさきゆめみし』に走っていたけれども、その気持ちはよくわかる。
そのとき、古文の先生が一番に勧めていたのが、与謝野晶子訳の『源氏物語』だった。当時はまだ橋本治の『窯変源氏物語』は出ていなかったが、谷崎潤一郎、円地文子、田辺聖子あたりの現代語訳はすでに刊行されていたはずである。与謝野晶子訳を勧めた先生は、一番読みやすくて内容が理解しやすいからと言っていただろうか。国文学者の文法的な分析に沿った逐語訳は、古典文法を勉強するにはいいけれども、大体の内容を理解するのにはそぐわないとも言っていたかな。
そんな助言を受けたからと言って素直に読むような人間ではなく、実際に『源氏物語』を古文の教材や、試験の問題分以外で読んだのは、大学に入って岩波の『古典文学大系』やら、小学館の『古典文学全集』からに触れるようになってからである。といっても、通読したわけではなく、「桐壺の巻」なんかの有名どころをつまみ読みしたに尽きるのだけど。もちろん、現代語訳は読んでいない。ちょっと話題になった『窯変源氏物語』は、手を出したけど、桐壺源氏に終わったのだった。あの文体は全く合わなかった。
訳者の与謝野晶子については、明治大正期から新しい詩歌、特に短歌を追及していた人としてのイメージしかなかったので、『源氏物語』の翻訳をしていたことに驚いた。近代文学に興味を持たない人間には、新体詩を書き、新しい短歌を作った与謝野晶子と古典が全く結びつかなかったのだ。
その印象を覆してくれたのが、大学時代に古本屋で発見して、意外と安かったので購入した『御堂関白記』の日本古典全集版だった。当時は岩波の大日本古記録版が古本屋にあっても価格が高すぎて手が出せなかった時期で、その何分の一かの値段だったので、文庫版サイズで活字も見づらそうだったのを気にもせず購入したのだった。
それにしても恨めしきは岩波のあこぎな商売である。少部数の出版で市場に飢餓感を出して購入欲をあおった上で、予約限定復刻とか大学生には手の出せないことをしやがって、いや『小右記』は清水の舞台から飛び降りる気持ちで手を出したけどもさ。それが今や史料編纂所がネット上で公開しているのだから、時代は変わったものである。正直、岩波の経営が思わしくないとか言われてもざまみろとしか思えんもんな。
とまれ、その『御堂』の奥付を見て、びっくりした。編者に與謝野寛、與謝野晶子、正宗敦夫の三人の名前が並んでいたのだ。與謝野晶子は言わずもがな、與謝野寛は鉄幹の本名だし、正宗敦夫は、このときは白鳥の本名だと思っていたけれども、実は弟の国文学者で歌人でもあった人物である。そんなことよりも、与謝野夫妻が、共にこのような日本の古典作品を出版する叢書に携わっていたという事実に驚かされた。
この三人は、この叢書を刊行するために、日本古典全集刊行会という会社を設立している。奥付によると、住所は東京府豊島郡長崎村で、発行者、つまり刊行会の社長の名前が長島豊太郎。豊島郡の「豊」と長崎村の「長」が名前に入っているのは偶然だろうか。
そして、解題の何かと儒教的な考えかたから批判されがちな道長を擁護する文章と、下巻の末尾に付された与謝野晶子がてづから編んだ「御堂関白歌集」とその解説を読んで、ああこの人は道長のファンだったんだと理解し、『源氏物語』の現代語訳をしたというのもすんなりと納得できる気がした。「御堂関白歌集の後に」と題されたあとがきを読むと、すでに存在する「御堂関白集」と題された歌集に、誤って他人の作品が含まれているのに飽き足らず、あれこれ考証して確実に道長の作品と認められる歌を五十六首、年代順に並べたらしい。解題でも兄道隆や、源頼朝と比較して、道長のすばらしさを讃えている。
また、『小右記』に記録された「この世をば」の歌を激賞するついでに、公任について、このレベルの歌は一首も作っていないと言い、実資のことは有職故実については才があるけれども詩人ではないと切り捨てている。実資も道長の歌をけなしてはいないと思うのだけど、いいとばっちりである。与謝野晶子によれば、道長のこの歌を、その驕慢さを表していると批判し始めたのは、江戸時代の儒家であったという。水戸学の粋を集めた『大日本史』の記述でさえ、漢文で端正に書かれているがゆえに硬すぎて、歌が読まれた当日の打ち解けた情景を表せていないと批判の対象になっている。
解題によれば与謝野晶子は明治四十年に東京大学の図書館に納められた『御堂関白記』を呼んだことがあるようだ。日本古典全集版の『御堂関白記』刊行が大正十五年だから、二十年近く前ということになる。与謝野晶子の古典研究というのは付け焼刃ではなく、かなり昔から続けられていたものなのである。
その後、『御堂』以外の日本古典全集の本も財布と相談して購入するようになったのだった。そのうちの一冊に目を通しているときに、解題か何かに「我々の古典研究はまだ端緒についたばかりであり」とか、すでに出版した源氏物語の翻訳には不備な点が多いので、古典研究の成果を踏まえて改めて訳したいとかいうようなことが書いてあったと思うのだけど、どこにあったのか思い出せない。いや『御堂』の解題にあったと思っていたのだが、今読み返したらなかった。
とまれ、この記憶から、与謝野晶子の『源氏』の翻訳は一回だけではなかったのかもしれないということに気づいて、ちょっと調べることにしたのである。その結果はまた明日。
3月28日22時。
覆刻されているのはいいけれども、どの本なのかわからないのは如何なものか。適当に選んだので多分御堂ではないと思う。3月30日追記。
2017年03月13日
大藪春彦(三月十日)
NHKのテレビ番組の村上春樹特集で、冒頭春樹批判から始まったという記事を読んだ。芸能界の人なのかな、かなり読み込んだうえでわからないとか、そんな人間いないとか、言っていたらしい。そこでは、「サンドイッチを作ってビールで流し込む」なんて描写が多すぎるなんて批判が引用されていたのだが、これを読んでふいに思い出してしまったのが、ジャンルが全く違う作家大藪晴彦のことだった。
この人の作品、エロ、グロ、バイオレンスにあふれたハードボイルドということになるのだけど、意外と食事のシーンにインパクトがあったのである。体を鍛えるために何キロも走った後で、シャワーを浴びて、ボンレスハム?を丸かじりしたり、淹れたてのコーヒーにバターを放り込んで飲んだり、何とも言えず心惹かれるものがあった。狩猟で倒したばかりの動物の地の滴る肉を焼いて食べるなんてのもあったなあ。
しかし、惹かれはしても自分でも真似したいと思わなかった。いや、コーヒーにバターを入れるなんて、想像するだけでもおいしくなさそうだったし、ハムはスライスされたものを買うもので、塊で購入するなんて全く想定していなかったし、狩猟というものは自分にできるものだとは思っていなかった。所詮、肉を食べるのは平気でありながら、自らの手で命を奪うことには抵抗のある偽善者なのだった。
それが、あるとき、何かの本の解説を読んでいたときに、書いていたのは女性の作家かイラストレーターで、昔から仲のいい友達と二人でだったか、その友達がだったか、忘れたけれども、大藪春彦の作品に登場する何ともワイルドな食事を実際にやってみたなんてことが書いてあったのを覚えている。さすがに狩猟まではしなかったようだが、一見ありえないような食事というか、生活パターンでも、書いてある通りにやってみようというファンのいる大藪春彦はある意味幸な作家なのだろう。村上春樹のファンの中にも同じようなことをやる人はいるのだろうか。
とまれ、その女性が書いていたのは、バターを入れたコーヒーはそんなにおいしいものではなかったということで、それでもファンとしては飲むべきだということでしばらくは飲み続けたと書いてあったかな。そんなことをやっていたのが高校時代だとか書いてあったから、大藪春彦の作品を女子高生が読んでいたのかとびっくりした。決して若い女性向けの作品ではないと思うのだけど。
自分では大学に入って手当たり次第に乱読していた時代に、SF作家が大藪春彦についてあれこれ書いているのを読んで、手を出したんじゃなかったか。平井和正の『ウルフガイ』とか、ハードボイルドっぽいSFはあったから、そこから足をちょっと延ばせば、大藪春彦の世界にたどり着く。銃器やバイク、自動車の細かい描写が称揚されることが多かったが、個人に対する復讐であれ、社会に対する復讐であれ、復讐譚に惹かれることが多かった。自分自身が誰かに復讐したいとか、社会に復讐したいとか思っていたわけではないと思うけれども。
考えてみると、いまだに多少なりとも無政府主義者にシンパシーを感じてしまうのは、それが可能だとも、実現することがいいことだとも思わないけれども、大藪春彦を読んだ影響なのかなあと思ってしまう。いや、逆に破滅主義的なものを心中に抱えていたからこそ、大藪作品に惹かれ、読んでいたおかげで破滅主義が表に出てこなかったともいえるのかもしれない。
こんなことを書いているうちに、以前縁があって知り合いになった波乱万丈の人生の先輩として師事している(本人にはこんなことはいえないが)方が、大藪春彦と大学時代に知り合いだったと言っていたのを思い出した。楽しそうな顔であいつ悪い奴なんだよなんて仰るのを見ながら、自分も学生時代の友人のことを思い出していたのだった。酒を飲んでこんなことを書いていると、益体もない思い出が湧き上がってきて収拾がつかなくなるから、そうなる前に、記事を閉じることにしよう。
3月11日16時。
2017年01月19日
ジャパンナレッジ入会後(正月十六日)
十二月の初めに登録して以来、当初の予定ほど使う時間が取れていないのだが、ちょくちょく使っているので、満足な点、不満な点をまとめておこう。
何よりも高く評価したいのは、辞書系のコンテンツ以外に、読み物系も入っていることで、学生時代に図書館で読むしかなかった『日本古典文学全集』や、装丁がよすぎて値段が高くなってなかなか手が出せなかった『東洋文庫』が読めるのはありがたい。不満は、この手の読み物系のコンテンツの場合に、テキストデータではなく書籍の画像データで表示されることで、そのためページめくりに長い時間がかかってしまって、快適な読書というわけにはいかない。
当初は画像の取得に失敗したというメッセージが頻発して、細切れにさえも読めなかったのだが、現在では失敗することは滅多になくなっている。このあたりは、サポートに問い合わせのメールを書いたら、すぐに返事が来て、対応策を教えてもらったおかげである。自分でもよくわからない中、サポートの方の指示通りにがんばった。キャッシュを消すとか、不具合が出たときのスクリーンショットとか、普段やらないことばかりだったので時間がかかってしまった。これでもうちょっとページ捲りが早くなるといいんだけどなあ。
それから、『日本古典文学全集』は、現代語訳はテキストでコピーできるようになっているけど、原文がコピーできず、印刷するか、一枚ずつxpsとかいう形式のファイルで保存するかしないと、オフラインで読むことができない。せめて一生分ぐらいずつ保存できれば、ページをめくることができるのだが、現時点ではファイルを一つ一つ開けていくしかない。
『東洋文庫』は、見開きで表示されるのはいいのだが、文字が小さくて読みづらい。表示を大きくすることはできるけれども、全体が表示されなくなるので、それはそれで読みにくい。こちらは原文ではなく、訳文なのですらすら読めてしまう文だけ、古典よりもページ捲りが遅いことが気になってしまう。『東洋文庫』も読むよりは、調べ物に使うことになるのかなあ。
まだ開いてはないが、『文庫クセジュ』も同じような感じなのだろう。『古事類苑』はページ単位の表示だったが、PDFで保存できた。一枚ずつというのがちょっと辛いけど、こんなの自分で買えるようなものではないので、必要なものが出てきたらあれこれ保存しておこう。
辞書に関しては、いろいろなタイプの辞書を一度に検索でき、表示できるのがありがたい。複数辞書検索だけなら、いわゆる電子辞書でも可能だけど、あっちは表示できる本文が一つだけなので、読み比べるのになんがある。それにコピーで引用が簡単なのも、かつてのコピーした紙を、切り貼りしたり、自分で入力し直したりしなければいけなかった時代からすると、隔世の感がある。コピー機やワープロのない時代には、全部手書きで書き写していたのだろうから、それを思えばなおさらである。
機能の説明には、インターネット・エクスプローラーで使えば、辞書の記述をワープロソフトなんかにコピーすると引用の出典も自動的に挿入されるというようなことが書かれていたのだが、これはまだ使えていない。あれこれ設定の必要があるのだろうけど、まだ本格的に出典が必要になる文章は書き始めていないから、今後の課題である。
今後への要望としては、昨日書いたのに加えて、角川書店を説得して『国歌大観』を使える形でデータベース化して入れてくれないかなあ。九十年代に販売されていた『国歌大観』のデータベースは、まったく使えない値段に見合わないものだったので、そのままでは駄目である。ちゃんと使えるようにデータに修正を掛けた上で収録してほしい。
角川だったら、県別の地名事典とか、俳句の『大歳時記』あたりもほしいなあ。ジャパンナレッジは、小学館の出版物が中心になっているけど、講談社や平凡社なんかの他社のものも入っているから、どんどん関係する出版社を増やして、収録辞書や本を増やしていってほしい。そうなると、個人会員も増えるだろうし、図書館だって導入すれば閲覧室の本棚や、書庫に余裕が出てくると思うんだけどなあ。
とりあえずは、個人会員では読めないJKブックス、特に吉川弘文館の『人物叢書』が読めるようになることを願っておこう。それから、外国語系の辞書要らないという人向けのコースを作ってくれないものだろうか。いや、それよりも、石川達夫氏が刊行予定のデジタル版『チェコ語日本語大辞典』が収録されることを願った方が建設的か。担当者の方、どうでしょう?
1月18日15時。