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2023年03月07日

iPadで古典を読む(前史)



 個人用のコンピューター、つまりパソコンの一般への普及の黎明期ともいえる1980年代に中高生だった我々の世代にとって、アップル社のパソコン、マッキントッシュは憧れの対象だった。あのころ実際に目で見て触ったことのあるパソコンは、せいぜい友人の持っていた会社は忘れたけどMSXとかいう規格のものだけで、NECの98、88シリーズも存在は知っていたけど、テレビでしか見たことはなかったと思う。電器屋で見たかもしれないけど。田舎の電器屋においてあったかは怪しいところである。

 その代わりといっては何だけど、物書きに特化したコンピューターであるワープロのほうは、いえでは父親が購入したNECの文豪、どこのか忘れたけど今や懐かしいラップトップと呼ばれていた形のものを高校の生徒会で何台か使っていた。だから、フロッピーディスクに関しては、3.5インチの物を最初に使ったため、80年代の末年に理系に進んだ先輩のうちで、NECの98に触らせてもらったときに、5インチのディスクのペラペラ具合に驚くことになる。バイト先でさわったオフコン用の8インチには、存在すら知らなかっただけにさらに驚いたし、昔のMSXのカセットテープというのも今考えるとあれだけど。
 その先輩の使っていた98は、まだハードディスクの付いたものではなく、ワープロソフトの一太郎を使うのに、フロッピーを抜き差ししながら操作する必要があるという代物で、理系がデータ処理なんかに使うならともかく、文系の人間が文章を書くのには使えそうもないと思わされた。それで、それまでは、ちょっとかっこつけてPCをワープロ代わりに使いたいなんて色気もあったのだけど、諦めてワープロ専用機を買うことにしたのだった。当時のパソコンは本体だけでも高いのに、使おうと思ったらディスプレイ、プリンターなどを追加で買わなければならないという仕様だったので、経済的にも手が出せなかったというのもある。それどころかOSなどのソフトも全部別売で馬鹿高かった。

 アップル社のマッキントッシュ、マックと呼んでたかな、を実際に使ったことのある人の話を聞いたのもその先輩が最初だった。当時、理系の大学では、割安での優遇販売があって、研究室にもマックが置かれているところが結構多かったらしい。それで実際に使ってみての感想は、デザインは凄くかっこいいんだけど、不具合が起こることも多くて使いにくいというものだっただろうか。同時に、同じ値段だったらマック買ったかもと言っていたかな。
 その後、90年代の後半になって、職場で本物のマック使いに、あれこれ話を聞かされたのだけど、圧倒的に愚痴が多かった。ただ、OSのアップデートに一晩かけた挙句に失敗したとか、何度再起動してもフリーズして一日仕事にならなかったとか、日本語変換ソフトが使い物にならないとか、内容とは裏腹に、口調は非常に楽しげで、この人は、そんな不具合も含めて、もしくは不具合があるからこそ、マックを愛用しているのだろうと思わされた。そんなソニーマニアや、イタリア製バイクに対する森雅裕のような精神性は持ち合わせていないので、結局自分では職場でも使っていたウィンドウズのパソコンを、値段も落ちていたし、購入することにした。

 そんな過去もあって、パソコンじゃなくてもアップルの製品を使うことはないだろうと思っていた。世間で流行った、今も流行っている? スマート何チャラというのも、全く魅力を感じなかったから、アップル製品云々以前に購入検討の対象にすらならなかった。その意味では、タブレットというのも、自分には必要ないと思っていたのだが、ひょんなことからiPADが手に入ってしまった。さて、どうしようというのが本題である。



※この文章を書いたのは昨年(2022年)末のことである。
posted by olomoučan at 07:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 本関係

2021年06月08日

推理小説三昧(六月四日)



 時代小説、歴史小説を濫読して飽きた後は、推理小説に手を伸ばした。赤川次郎の『三毛猫ホームズの推理』があるのを思い出して、久しぶりに読んだのが、推理小説に移ったきっかけである。中学時代に、確かシリーズの十冊目ぐらいまでは読んだと思うのだけど、一冊目の時点ではシリーズ化はあまり考えていなかったような印象を持った。一冊目が売れたから、出版社の要請で続編を出してシリーズ化したということなのだろう。

 推理小説の場合には、続編とはいっても、探偵役が同じだけで、ストーリーは一から新しく始まるわけだから、継続しようが、終了しようが、作品の質にはあまり影響しなさそうだけど、小説よりもマンガ、特に少年マンガの場合に顕著な、売れなければ話の途中でもむりやり打ち切り、売れれば無理やり話を引き伸ばすというやり口は、作品の質を落とすだけでなく、全体の売り上げも落とすことにつながるような気がする。そういえば、池波正太郎の『鬼平犯科帳』も、当初は鬼平の火盗改め在任期間に合わせて書かれていたのが、人気のせいで終われなくなって、年代不詳の作品になってしまったなんて言われていたなあ。原則として短編だから個々の作品の質には影響しないのだろうけど。
 赤川次郎は、出版社ごとにシリーズというか、探偵役の登場人物を持ち、それを頻繁に書き継ぐという特異な作家だけれども、それぞれのシリーズの中でも第一作が、作品としては一番面白かったような記憶もある。短編中心のシリーズはそうでもないかな。今回は「三毛猫ホームズ」の一作目以外は、シリーズになっていない作品を何作か読んだだけなので、何ともいえないけどさ。

 逆にどの出版社からの刊行でも探偵役は変わらないというタイプの作家もいて、西村京太郎とか内田康男なんかが代表的な存在になるのだろうか。西村京太郎の場合には私立探偵の左文字なんてキャラクターもいたはずなのだが、いつの間にか十津川警部の登場する作品ばかりになっていた。当時の、確か1970年代の日本では私立探偵が殺人事件の捜査にかかわるというのが現実的ではなくて受け入れられなかったのだろうか。私立探偵が捜査に介入する状況を設定するのが大変だったのかもしれない。
 十津川警部ものでは、登場する部下の名前が違っていることが多いのだけど、出版社によって、部下の刑事を使い分けるなんてことをしていたのかなあ。今回は出版社のわからない形で何冊か読んだのだけど、部下の入れ替わりは出版社の違いというよりは、書かれた時代の違いのようにも思われた。部下ではないけれども、三浦という刑事が、事件の起きた都道府県の警察の担当者として登場することが多いのが気になった。そんなによくある苗字ではないと思うのだけどなあ。
 西村京太郎の代名詞とも言うべき「トラベル・ミステリー」は、電車がめったに遅れない日本だからこそのジャンルだと思う。鉄道の遅延が日常茶飯事で、5分までは遅れとはみなさないというチェコだと、あの時刻表をもとにしたアリバイ作りとか、実現は不可能である。毎日のように遅れて、その遅れの時間も日替わりで違うから、実際にやったら、逆に捜査も大変そうだけど、推理小説としてはどうなのかということになってしまう。

 今回次々に大抵は連続殺人事件を扱った推理小説を読んで思ったのは、実際にこんなにたくさん事件が起こったら警察も対応しきれないだろうというものだった。実際に日本で毎年どのくらいの人が殺人事件の犠牲車内っているのかは知らないが、その年に刊行された推理小説の中で殺された人の数より多いということはあるまい。まあ、刑事ドラマだと毎週一回以上は必ず事件が起こるわけだけどさ。
 森雅裕が、確か推理小説は読者の殺人願望をかなえるカタルシスであるという考えに対して、疑問を呈した上で、作者のほうが実在の人物をモデルにした登場人物を殺せるから、こちらのほうがカタルシスと呼ぶにふさわしいなんて危ないことを書いていたけれども、寡作で、人の死なない推理小説を書くことも多かった森雅裕ならともかく、赤川次郎や西村京太郎のような多作で、それぞれの作品で何人も人が死んでいく作家の場合には、いちいちカタルシスなんて感じていられないだろうなあ。読者の側も人死によりも、推理を楽しむわけだし。

 とまれ、人の死に過ぎる小説を立て続けに数十冊読んで、流石に食傷したのも、読書三昧の生活をやめて、もの書く生活に復帰した理由の一つである。活字中毒者が完全に読むのを停止するわけもなく、その後もあれこれ読んではいるのだけど、推理小説はぱったり読むのをやめてしまった。
2021年6月6日18時30分。








posted by olomoučan at 06:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 本関係

2021年05月31日

最近読んだ本(五月廿七日)



 さて、と文章を始めるのもどうかとは思うが、お休み期間中に何をしていたかと言うと、読書である。仕事も一山越えて気が抜けていたので、久しぶりにSDカードを引っ張り出して、リーダーで古い小説を読むことにした。何となく時代小説か、歴史小説が読みたくなったのである。いわゆるウェブ小説で、歴史を題材にしたり、過去を舞台にしたりした作品の多くは、現代人が過去に転移、転生して歴史を変えていくというストーリーの話が多くて、飽きてきたので、久しぶりに実在の人物ではなくても、当時の人を主人公にして歴史を変えない作品を読もうと考えたのである。
 今回、最初に読み返したのはシバレンこと柴田錬三郎の「岡っ引きどぶ」のシリーズだっただろうか。他にも平岩弓枝の「御宿かわせみ」シリーズや、宮部みゆきの『耳袋』をねたにした話などあれこれ読んだ。いわゆる捕り物帖的な作品にも実在の人物が登場することがあって、池波正太郎の「鬼平犯科帳」シリーズや、「剣客商売」シリーズの場合なんかは、実際の歴史の流れが作中のできごとに影響を及ぼすこともあるのだが、登場人物たちが積極的に歴史の流れに影響を与ようとしない限り、特に読み終えて予定調和だったという印象を持つことはない。事件が解決されるのを予定調和とは言わないだろうし。

 それに対して、歴史小説、時代小説でも歴史を動かせるような立場の人物を主人公に据えて描かれる作品、特に正史の上では敗者とされる人物を主人公にしてその視点から歴史を描き出すような作品の場合、物語が終わりに近づくにつれて、ストーリーが実際の歴史の流れに収斂されていくところに、そう書かざるを得ないのは十分承知の上で不満を感じてしまう。敗者である主人公が有能で魅力にあふれる人物として描き出された作品ほど、その傾向は強くなる。
 半村良の『慶長太平記』も、シバレンの『徳川太平記』も、徳川の世の中をひっくり返そうと陰謀をめぐらす側の姿が、見事に描き出され、これなら歴史が変わるとまでは言わないけれども、歴史の見方が変わるような結末が待っているのかと思ったら、あっさりと、陰謀は失敗に終わり、歴史の流れにひれ伏してしまうのである。

 これは司馬遼太郎の歴史小説を読むときに感じる不満につながっている。すべての作品でそのようになっているのかは知らないが、少なくとも河井継之助を描いた『峠』を読んだときに、終盤近くまでは主人公に寄り添って、その視点から微細なところまで筆を進めてきた作者が、突如として主人公を突き放し、正史の側の視点から語り始めるのに、裏切られたような気分になったのを覚えている。物語を実際の歴史に収斂させるためには必要な書きぶりではあるのだろうし、この書き方を高く評価する人もいるのだろうけど、個人的にはこれで懲りて司馬遼太郎の作品を読みたいとは思わなくなった。

 そして、半村良の『妖星伝』では、物語が予定調和的に歴史そのものになって終わらないように、宇宙にまで話が広がって仏教的な終焉を迎えなければならなかったのかなんてことも考えてしまう。あの長い断絶の果ての無理やりにも見える仏教的な完結のしかたも、どうなのかなと思ってしまうが、鬼道衆という魅力的な存在が幕府の歴史の中に取り込まれて埋没してしまうよりはましなのかなあ。その意味では時代小説も歴史小説も、伝奇小説と同じように完結しないままに話を書き次いで行くか、物語が大きく広がっていく段階で中断するかしたほうが、読者を満足させるのかもしれない。『産霊山秘録』も舞台を宇宙に広げたといってもいい終わり方だったかな。
 そんな実際の歴史に収斂していくのを避けるために書かれたのが『戦国自衛隊』だと言ってみよう。過去に転移した現代人が、現代の技術や知識を使って歴史の流れに関与してそれを変えていくというタイプの作品のルーツとも言うべき作品だが、SF的な発想で書かれているため、主人公たちの歴史改変が、実は変わってしまいそうだった歴史の流れを、細部は異なるけれども、巨視的に見れば本来のものに戻すものだったという落ちがつく。

 そこからさらに一歩進めば、収斂すべき歴史の存在しない架空の日本的な世界を舞台にした『飛雲城伝説』につながる。日本の戦国時代を思わせる時代を舞台にしたこの小説は、多くの矛盾した記述がありながら、少なくとも前半は傑作となりそうな期待に満ちていた。それが、実在した戦国武将が登場するという方向に迷走して、完結できなくなったのが残念でならない。
 考えてみれば、未完の大作『太陽の世界』も架空の世界を舞台にした歴史小説だと言えなくもない。これは基準となる歴史の存在しない世界を舞台にして歴史小説を書き上げることの難しさを意味しているのかもしれない。希代の物語作家だった半村良ですら完結することができなかったのだから。ならば、あまたの歴史改変型の小説が、完結しないままに終わるのも、実際の歴史から乖離が大きくなるにつれて、面白くなくなっていくのも当然である。例外はあるのだろうけど。
2021年5月14日24時。












posted by olomoučan at 07:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 本関係

2021年05月15日

凶器乱舞の文化(五月十二日)



 アロイス・ラシーンというと、チェコスロバキア第一共和国時代に、蔵相として財政改革、通貨改革などに邁進し、新国家の財政を確立した人物でありながら、狂信的な共産主義者の若者によって暗殺されたことで知られる人物である。これがチェコスロバキアにおける最初の共産党による、犯人は党籍は離れていたようだけど、最初の政治犯罪の一つといってもいいかもしれない。
 このラシーンがどのくらい日本で知られているかと言うと、いささか心もとない。少なくともジャパンナレッジ所収の百科事典の類には立項されていないし、日本語版のウィキペディアにも記事はない。どちらも「ラシーン」で検索すると出てくるのは、アメリカの地名と、日参が販売していた自動車である。

 国会図書館オンラインで検索してみると、昭和五年(1930年)に、高田義一郎という人が刊行した『聖代暗殺事件』の目次に「大臣ラシーン」という章が確認できる。この本、「悪の華文庫」という叢書の第二巻になっていて、題名から推理小説、当時の言葉でいえば探偵小説のようにも思われるのだが、明治以降に暗殺された人についてまとめたもののようである。明治維新以後に日本で暗殺された人が中心だが、最後の海外編に「大臣ラシーン」と「チエツコ・スロバキヤの陸相夫妻」と、ページ表記から短いと思われるとはいえ二つもチェコスロバキア関係の小があるのである。
 残念ながら、この『聖代暗殺事件』は、オンラインでは館内閲覧しかできないようになっているが、同じ高田義一郎氏が二年後の昭和七年に刊行した『凶器乱舞の時代』は、インターネット公開になっているので、全文読むことができる。著者が同じで新しいほうが公開されているのに、古いほうが未公開なのは何故なのだろう。この辺の著作権をめぐるあれこれは、わけのわからないことが多い。

 二冊の本の目次と比較すると、どうも『聖代暗殺事件』をもとにして、増補して書き上げたのが『凶器乱舞の時代』であるように思われる。副題として「明治・大正・昭和暗殺史」がつけられているし、取り上げられる暗殺された人物も、多少増えているけれどもほぼ同じになっている。表紙の著者名には「医学博士」という肩書きがついており、「序」によれば法医学を専門としていた人のようである。
 凡例には、海外編は意図的に簡潔に書いたことが記されるが、ラシーンについての記事も、陸相夫妻についての記事も非常に短い。とはいえ、この時期にこのような本にラシーンが取り上げられていたというのは驚きである。チェコ語を勉強していて、チェコの歴史にも興味がある人でも、マサリクやベネシュならともかく、ラシーンまで到達する人は多くないはずである。かくいう自分も、チェコに来てラシーンに関するニュース、ラシーン取り上げたテレビ映画が放送されなかったら、知らなかったに違いないと思う。

 せっかくなのでどのようなことが書かれているか、引用しよう。こちらでは「チエツコ蔵相ラシーン」と題されている。

   
一九二三年正月五日の午前九時、チエツコ・スロバキヤの大蔵大臣ラシーンは、自邸を出で正に自動車に乗らうとする所を、背後から狙撃されて二弾を受けた。それから、ポードルのサナトリウムで手術を受けたが、出血が甚だしくて、快復できず、二月十八日に遂に死んだ。犯人はヨゼフ・ゾウバルといふ二十一歳の青年である。


 チェコ語のウィキペディアで確認すると、運ばれた病院は、「ポードル」ではなく「ポドリー」、犯人は「ゾウバル」ではなく「ショウパル」となっている。現在のマスコミのチェコの人名、地名表記のでたらめ振りを考えたら、意外と正確だといいたくなる。犯人の年齢は、十九歳になっているが、これは高田義一郎氏の表記が数え年に基づくからかとも思われる。残念なのは、暗殺に至る経緯などが記されていないことだけど、情報がなかったのか、簡潔にという方針上割愛したのか。

 ついでなので陸相夫妻についての記事も引用しておく。

   
一九二七年二月二日、カルルスバードから首府のプラーグに向ふ途中、チエツコ・スロバキヤの陸相夫妻の自動車を狙撃したものがあつた。疾走中の為に、夫妻は幸に微傷だに負はなかつたが、犯人はそのまゝ逃走してしまつた。


 こちらは暗殺未遂だったようだ。陸相というのを国防大臣と理解してよければ、後に首相にもなったフランティシェク・ウドルジャルという人物のようだ。この人の存在も知らなかった。いや、名前を耳にしたことはあったかもしれないけど、全く覚えていなかった。
2021年5月13日24時。










posted by olomoučan at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 本関係

2021年05月10日

マサリク大統領の手紙(五月七日)



 三つ目は、一番期待していると同時に、一番期待はずれを恐れていたマサリク大統領が日本の子供たちのために書いたという手紙で、現在の講談社の全身である大日本雄弁会講談社が刊行していた雑誌「少年倶楽部」の昭和六年七月号に掲載されている。国会図書館オンラインで確認できる書誌情報の目次では、82ページに1ページだけ掲載されているようだったので、たいした事は書かれていないんじゃないかと危惧したのである。

 実際に届いたコピーを見ると、83ページもあわせて見開き1ページ分の掲載だった。書誌情報では、「チェツコ・スロバキヤ大統領 マサリツク閣下より日本の少年へ」となっていたが、両ページ上部には、右から左への横書きで、「日本の少年諸君へ」と記されている。目次と本文の題名の齟齬は現在でもままあることである
 82ページの本文上部には、「チエツコ・スロバキヤ大統領」とあり、改行して「マサリツク閣下から」と続いている。どちらも右から左への横書きで、それぞれの漢字の右側に縦書きで読み仮名がつけられている。こういうのを見ると、横書きではなくて、一行一文字の縦書きなんだという説に賛成したくなってくる。もちろん明らかな右から左への横書きも存在するから、もろ手を挙げてというわけには行かないけど。

 その下の、ページの右端の一行目に「日本の少年諸君へ」と題名が記され、マサリク大統領についての解説が小さな活字で印刷されている。せっかくなので全文引用しよう。

  

 チエツコ・スロバキヤの全国民から、父とあがめられるマサリツク閣下は、今年八十一歳の高齢でありますが、あふるゝばかりの元気をもつて、国務につくしていらつしやいます。閣下は今から十二年前に、日本にお出でになつたことがあるのです。今度非常にお忙しい中から、諸君へこんな懐かしいお手紙を下さいました。



 残念ながら、どのような伝手でマサリク大統領まで子供たちに向けた手紙を書いてほしいという以来が送られたのかは、書かれていない。他の号にはアインシュタインの日本の子供たちに向けた手紙も掲載されているようだし、どんな規準で人選したのかも知りたいところである。ただ、当時の日本では、マサリク大統領は子供向けの雑誌に取り上げられても、不思議ではないほどには知名度があったということになるから、現在よりも知られていたとは言ってもよさそうだ。

 よくわからないのは、マサリク大統領が「十二年前」に来日したことが書かれているところで、これによると、雑誌が出たのが1931年だから、1919年に来日したことになるが、チェコスロバキア独立直後の困難な時代にそんな余裕があったとは思えない。マサリク大統領は、独立以前にシベリアのチェコスロバキア軍団の帰国に際して日本を経由できるように交渉しに来て、その後アメリカに渡って新国家の承認のための交渉をしていたのだから、遅くとも1918年の前半には日本を離れていたはずである。
 誤解なのか誤記なのかは置いておくとして、本文も引用してしまう。冒頭に「親愛なる少年諸君」という呼びかけを置いた後、以下のように続く。

   

 私はかつて日本へも行つたことがあるから、何かお国のことについて書いてあげるといゝのですが、ほんの数週間足をとゞめたばかりなので、それが出来ないのを残念に思ひます。
 しかし、私は今でも、その時見た日本の幼い人たちのことをわすれません。私は諸君を見るのが大好きでした。
 少年諸君、諸君はお国の生きた花です。しかも、花であるだけでなく、大きくなつて、日本の果実とならなければならぬ人々です。日本の健全な果実、日本をますます立派にする果実に。
 私は同じことを、私の国チエツコ・スロバキヤの少年たちは勿論、世界のあらゆる国々の少年諸君にも望むものであります。
 ではさやうなら、みんな元気で勉強してください。


 最後に日付「一九三一年三月十一日プラーグ市にて」と署名「トーマス・ジー・マサリツク」がある。
 これをマサリク大統領らしいといえるほど、詳しいわけではないけれども、なかなか含蓄のある文章である。「果実」という漢字に「このみ」というルビが振ってあるのが、翻訳者の工夫したところだろうか。2ページ目の上半分に英語の原文も掲載されているのだけど、翻訳文のほうがかなり長くなっているように見える。まあ、よくあることである。編集部での翻訳だったのだろうか。
2021年5月8日23時










posted by olomoučan at 06:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 本関係

2021年05月09日

シエレバッハの謎(五月六日)



 二つ目のコピーした記事は、「大日本山林会報」の184号(1898年4月)に掲載された「「ベーメン」國「シエレバッハ」市樂器製造用木材」という記事である。シエレバッハが現在のチェコのどの町に当たるのかは調べたけれどもわからなかったというのは、以前も書いたとおりである。わからなかったのも当然である。入手した記事のコピーを見たら町の名前は「シエレバッハ」ではなく、「シェンバッハ」になっていた。表紙に刷られた目次のほうでは、「ン」の活字がつぶれて二つの画がつながっているため「レ」のように見えるから、誤植というべきか、データ化の際の間違いと見るか微妙なところである。
 記事の内容は、この町で楽器製造に使用する木材の種類や産地について書かれたあまり興味深いとは言えないものだが、「ウンガルン」「ボスニーン」「ヘルツヲウイナ」などの地名が出てきて、それぞれ、ハンガリー、ボスニア、ヘルツェゴビナのことだろうかなどと考えるのはなかなか楽しい。独立前のボヘミアを、「ベーメン国」と国扱いしているのも、何か理由がありそうだけど、よくはわからない。

 もちろん、ここで重要なのは記事の内容よりも、「シェンバッハ」がボヘミアのどの町なのか頑張って確定することである。いろいろ検索などした結果、「シェンバッハ」は現在なら「シェーンバッハ」と延ばして書くことの多い地名で、ドイツ語の「Schönbach」に相当するであろうことがわかった。チェコ語のウィキペディアで検索するとオーストリアやドイツにある町も出てくるが、いくつかのボヘミアの町のドイツ名として使われていたことがわかった。いずれも西ボヘミアか北ボヘミアのドイツとの国境近くの町である。
 一応列挙しておくと、西ボヘミアのヘプの近くの村クラースナー、同じくヘプの近くの町ルビ、北ボヘミアのモストの近くの町メジボジー、リベレツの近くのズディスラバ、それにホモウトフの近くにあった廃村ポトチナーが、以前ドイツ語でシェーンバッハと呼ばれていたようだ。ドイツ語地名とチェコ語地名には何らかの関連性、類似性があると思っていたので、これだけばらばらのチェコ語の地名がドイツ語ではすべて同じ地名で呼ばれていたというのは驚きである。

 次になすべきことは、これらの町の中に、楽器製造がさかんな、もしくは盛んだったところはないか確認することである。またまたチェコ語版のウィキペディアのそれぞれの町のページで確認したところ、このなかではルビのところにだけ楽器製造について書かれていた。それによると、19世紀末の時点で、この町には4000人近くの人が住んでおり、そのうちの三分の一が楽器製造にかかわる仕事をしていたという。また特にバイオリンの生産で知られていたらしい。
 ルビの町のHPをみるとバイオリンがあしらわれたデザインになっている。それに、この町にはバイオリン作者の像や、楽器、楽器製造に関する博物館などもあるようである。ということは、この日本にまで伝えられた楽器生産の町シェンバッハは、現在の西ボヘミアのドイツとの国境の町ルビだと考えて間違いなさそうである。このようにちゃんとした結果が出ると、コピーを送ってもらってよかったと思うことができる。ただし、今でもこのまちで楽器が製造されているのかどうかはわからなかった。

 ところで、このルビについての記事は雑誌の「如是我聞録」という部分に掲載されている。「是の如く我聞けり」だから、人から聞いた話をまとめたということだろうか。情報源がどんな人だったのかも気になるが、これはもう調べようのないことである。
 ちなみに、日本のヤフーで「シェーンバッハ」で検索すると砂防会館に入っている施設が最初に出てくる。会議室の貸し出しをしているところのようで、「シェーンバッハ・サボー」というのが正式名称らしいが、「サボー」というのは何だろう。一瞬、ハンガリーの名字のひとつかと、「シェーンバッハ」はドイツ語だし、思ったのだが、何のことはない砂防をカタカナ表記しだだけだった。
2021年5月7日18時30分。









タグ:国会図書館
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2021年05月08日

「教育報知」(五月五日)



 今回国会図書館から届いたコピーのうち、原本の雑誌の刊行が一番古いのは、「教育報知」の第二十八号である。この号は明治十九年(1886年)六月一日付で発行されている。念のためにコピーした表紙の記載によれば、毎月三回、一日、十一日、廿一日に発行されていたようである。国会図書館オンラインでその二十八号の目次を確認したところ、雑報として「ヘ育報知墺國ボヘミア小學ヘ育博覽會に出づ」という記事が出ていることを発見したのである。

 以前も書いたけれども、これを見て「教育報知」が、ボヘミアで行われた初等教育に関する博覧会に取材班を送り込んだという内容の記事だと思ったのだ。ページも13〜14と、2ページにまたがるので、そんなに短くはなく、ある程度の分量が有るのではないかと期待し、ボヘミアのどこで行われたのかとか、当時のボヘミアの様子なんかも書かれているに違いないと思い込んでいた。
 それが、届いたコピーを見てみれば、B4サイズの一ページが三段組になっているのの一番下の段の最後の、見出しを含めて六行と、次のページの上段の1行目だけが、該当する記事だった。こんなの前の記事を削ったり、改行を調整したりして1ページ目に押し込むのが編集者の仕事だろうと、中身を読む前の時点で憤慨してしまった。この時点で、詳しいことが書かれいるはずはないと、内容に関してもあまり期待できないことが明らかになった。雑報なんだから期待するほうが間違いだといわれればそのとおりなのだけどね。

 ちょっと落ち着く時間を取って確認した中身は以下の通り。せっかくなので引用しながら話を進める。変体仮名の活字が使われているけれども、普通のひらがなに翻字しておく。漢字も一部新人に改めてある。

   
このたび墺地利國「ボヘミア」に於きて小學ヘ育博覽會開設につきては同会へ出陳のため近刊の教育報知贈付の義東京教育博物館よりの照会により先月同館までその二三号をさし出したり


 つまり、オーストリアのボヘミアで行われる教育博覧会に出たのは、雑誌の編集部ではなく、雑誌そのものだったのである。いや、この時点では、東京の教育博物館の依頼で雑誌を提供したことしかわからない。「二三号」というのが、二十三号なのか、二つか三つの号なのかはわからないけれども、いずれにしても、たいした数ではない。その後、教育博物館が博覧会に向けて送付したのか、この頃あったのかは知らないが大使館を通じて送ることになっていたのだろう。実際に展示されたという記事でないのは残念である。教育博物館は、現在の国立科学博物館の前身とされる施設のひとつである。
 この小学教育博覧会についてはチェコ側で調べたほうがいいのかもしれないが、何せチェコスロバキア独立以前の話だし、当時博覧会のために集められたものがチェコに残っているのか、オーストラリアに引き取られたのかよくわからない、いや、それでもどこで行われたかがわかれば調べようもありそうだけど、それもわからないからお手上げである。一度、チェコの国立博物館の蔵書に「教育報知」がないかどうか調べてみようか。

   
思ふにこのことは弊社のみには限らさりしならん。


 うちの雑誌だけではないだろうと付け加えて記事が終わるのだけど、当時どのぐらいの教育に関する雑誌が定期的に刊行されていたのだろうか。

 雑誌「教育報知」に関しては詳しい事はわからないのだが、国会図書館オンラインで確認できる限りでは、創刊されたのは明治十八年(1885年)四月のことで、四月と五月は一号ずつ刊行され、六月からは毎月二号ずつの刊行になり、十九年の三月から毎月三号刊行されるようになっている。国会図書館で確認できる一番新しい号は、明治三十七年(1904年)四月に出た六百五十六号である。また月に一度の刊行に戻ったようだ、
 雑誌の版元は、雑誌と同じ名称の教育報知社、住所は東京府本郷区となっているから、東京で国内外の教育関係の情報を集めて、編集していたのだろう。雑誌には学術とか論説などの部分も設置されていて、教育に関する学説などの紹介もなされている。コメンスキーも登場しないかななんてことは考えてみたけど、六百冊以上も目次を確認していくのも面倒である。
2021年5月6日24時30分。












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2021年04月27日

最近読んだ本2(四月廿四日)



 チェコテレビで、毎週土曜日に「シャーロック・ホームズの冒険」が放送されるようになって、俄に軽いホームズ熱が復活して、自分がどの話をドラマで見たり、本で読んだりしたことがあるかなんて考えていたら、読みたくなってしまった。今回テレビで見た作品を読んでもいいのだけど、最初の作品で、読んだことは覚えている『緋色の研究』を最初に読んでみることにした。ウィキペディアによれば、グラナダTVでのドラマ化はなされていないというしさ。
 この『緋色の研究』、読んだのは確かなのだけど、普通の翻訳ではなくて、子供向けに修正を受けたものではないかと思う。小学校の高学年で、最初から子供向けに書かれた「少年探偵何とか」の翻訳に飽き足りなくなって、クリスティーのポワロシリーズや、ルブランのルパンなんかと共に、シャーロック・ホームズにも手を出したのだ。ただそれもまた子供向けのシリーズだったというわけだ。子供向け以外でこの手の古典的翻訳推理小説って読んだっけと考えると、西村京太郎の『名探偵なんか怖くない』で存在を知ったエラリー・クイーンの作品か。クリスティの『カーテン』『アクロイド殺し』は、早川文庫版で読んだ記憶がある。シムノンのメグレ警視のシリーズは田舎の図書館、書店では発見できなかった。

 だから、『緋色の研究』をちゃんと一般向けの翻訳で読むのは、今回が初めてだったのかもしれないのだが、話の内容をさっぱり覚えていないことに驚いた。覚えているのは、子供の頃、読んだときも、どうしてこれが『緋色の研究』なんて題名になっているんだろうと思ったことである。BBCの現代化されたシャーロック・ホームズでは、最初の犠牲者がピンク色のものを持っていたと記憶するけど、血で文字が書かれていたのが緋色なのかな。それともモルモン教が緋色をシンボルにしていた可能性もなくはないのか。
 今回再読して、改めてシャーロック・ホームズは短編のほうが面白いと思った。事件の謎解きの後に、長々と事件に至る過去の経緯が語られるのは読んでいてちょっと疲れる。短編でも先週ドラマで見た「Mrzák」、日本語だと「曲がった男」とか訳されるのかな、でインド時代の回想が続くのに、あんまりシャーロック・ホームズっぽくないなあなんて感想を抱いてしまった。こんなことを考えたのでは、模範的な読者にはなれそうもない。

 ということで次は短編集を読もう。なんて考えて、土曜日の番組表を見たら、今週放送されるのは、「Strakatý pás」となっていた。「まだらの紐」である。あれ、「しゃべくり探偵」シリーズに、「まだらの紐」の「紐」は紐じゃないとかいうところがなかったっけ? 確認しようと探したのだが、肝心の『しゃべくり探偵』が見つからない。続編の『しゃべくり探偵の四季』はあったので、そちらを確認すると、ホームズ役の保住くんが組んだバンドの名前が、英語の原題をそのままカタカナにした「スペックルド・バンド」だった。
 この部分の、「紐」とか「ヘビ」とか出てくる和戸くんとの掛け合いも面白くて、これが頭に残っていたのかとも思えなくはないのだけど、もっと露骨に誤訳をあてこするような場面があったような気もする。それにしても、「しゃべくり探偵」シリーズには、この手のディープなホームズファンじゃないとわからないような、当てこすりやら洒落やらがあるのだけど、全部はわかっていないんだろうなあ。

 ホームズのパロディといえば、赤川次郎の「三毛猫ホームズ」シリーズも、中学校の頃は熱心に読んでいた。再読したくなったのだけど、こちらにもって来た本の中にも、日本に変える方からもらった本の中にもないのが残念である。大きな声では言えない方法で入手したテキストファイルの中には、赤川次郎の作品もあったけど、「三毛猫ホームズ」はなかったし。だからといって、現在の定価で買いなおす気にもなれないし……。
2021年4月25日24時












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2021年04月25日

最近読んだ本1(四月廿二日)



 日本を離れて以来、新しい本を入手する機会というものは限られている。日本にいる知り合いに送ってもらうことも遭ったけれども、何度も繰り返しお願いするわけにはいかないし、本屋に出入りしておらず、どんな本が出ているのかわからないので、お願いのしようもない。hontoなんかのネット上の店では、手にとってぱらぱらめくることができないから、書影やあらすじだけでは読み取れない本の質感と言うものがつかめない。それで、高い送料までかけて日本から送ってもらいたいと思えるような本が見つからないのである。
 だからといって、電子書籍をPC上で読むのもあまり気が進まない。以前はどの店で買ったものでも、形式さえ対応していれば、ソニーのリーダーで読めて便利だったのに、販売店の専用ソフトでしか読めないという読者の利便性を無視した方向に業界が進み始めた時点で、電子書籍は存在価値のない物になってしまった。例外的にRentaで漫画を読むことはあるけど、クレジットカードの実験に購入したポイントを消費するのと、日本にいたときから読んでいた自転車漫画の『アオバ』の続きを読むのが目的である。読んでいるとページめくりの遅さにいらいらしてくることも多いから、あえて対象を増やしたいとは思わない。

 ということで、読書をするとなると、読んだことのない本ということは滅多になく、同じ本を繰り返し読むということになる。たまに日本に戻る人から、こちらに持ってきた本をごっそり頂くことはあるけど、読んで大当たりだったと思うような本に巡りあうことはあまり多くない。そんな例題のひとつで、読んで衝撃を覚えたのが、篠田節子の『夏の災厄』だった。
 単行本の初版が刊行されたのは1995年のことで、版元は毎日新聞社になっているから、新聞に連載されたか、週刊誌に連載されたかしたものを単行本化したと見ていいだろう。新聞社から書き下ろしで本を出すなんてよほどのひも付きぐらいのものである。その後、1998年に文藝春秋社から文庫化されていて、今手元にあるのは、その第六刷で2001年に刷られたものである。

 日本の埼玉県の架空の市でウイルス性の感染症が発生したことを発端に始まる物語には、役所の決められた手順から逸脱できない硬直した体質のせいで対策が後手後手に回るさま、マスコミの無責任な報道に踊らされた一般市民がパニックに陥って被害が拡大するさま、最初はワクチン反対を叫んでいた市民グループが最後にはワクチンの認可を求めて騒ぎ立てるさまなどが描き出されていて、日本の現状を予見していたようにも思われる。去年の緊急事態宣言以来、誰かがこの本について発言してニュースになるんじゃないかと期待していたのだが、こちらの目に入った限りでは誰も取り上げていなかった。今こそ読まれるべき本じゃないかと思うのだけど。
 久しぶりに再読して思うのは、この本やはり凄いということである。最後がワクチンが認可されて接種が始まり流行が収束に向かうことが予想されるところで予定調和的に終わるのではなく、別な土地での新たな流行を示唆する形で終わっている。ここを読んで、現在のワクチンの接種が進めば感染症は収束するという楽観論が本当に正しいのか不安になってきた。

 刊行年を考えると、日本で存在を知っていたとしてもおかしくはないのだが、読書家を自認しておきながら、作者の篠田節子の存在も、この『夏の災厄』の存在も知らなかった。1990年代の後半と言うと、こちらの読書の中心がチェコ文学の翻訳とか、ファンタジー系の作品になっていたから、現代日本を舞台にした小説は目に入ってこなかったのかなあ。ちょっと損した気分である。
2021年4月23日24時


















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2021年04月24日

『欧米学校印象記』(四月廿一日)



 次に、国会図書館オンラインで見つけたチェコスロバキアが登場する、いや正確にはプラハが登場する戦前の本は、井上貫一著『欧米学校印象記』(同文館、1923.11.25)である。「はしがき」によれば、著者は岡山県の人で、刊行の前年に県の依頼でアメリカからヨーロッパを回って各国の教育事情について視察したらしい。
 目次を見ると、最初はアメリカの部から始まり、イギリスの部を経て、大陸諸国の部と並んでいる。その大陸諸国の部の16番目の章が「チエツクの都プラーグに来て」で、17番目が「ソコール大會を見る」となっている。学校の視察を行ったはずだが、具体的な学校を訪問した様子はかかれず、ただ、現状は学校の増設と教員の養成に忙殺されていることが記されるのみである。

 この本が興味深いのは、プラハに到着そうそう日本語ができるチェコ人が登場するところにある。プラハに向かう途中で知り合いになった人が紹介してくれた「ホテルグラーフ」にタクシーで向かい、支払いにまごついていたら、ホテルのボーイが「それでよろしい」と口を出したというのである。著者が支払いに使おうと選んだお金が正しいことを教えてくれたのだろうか。
 そして、食堂の一角に日本人用の食卓が準備されていて、プラハの大学に留学している学生と食卓を共にしたことが記される。このチェコスロバキアと日本の国交が樹立されて二年内外の時期に、すでに日本から留学生がプラハに来ていたという事実に驚かされる。もしかしたら明治維新後の欧米に、新しい学問を学ばせるために留学生を多く派遣していた時期から、プラハに来ていたのかもしれないが、ウィーンやベルリンに留学した人の名前は思い出せても、チェコスロバキア独立以前にプラハに留学した日本人の存在は寡聞にして知らない。

 食事の後に、「モルダウ」の川風に吹かれようと散歩に出た著者に、「どこへ行きますか」とつたない日本語で声をかける人がいたという。プラハで日本語を聞いた著者の感想は、「日本では迂闊な人は未だに名も知らぬ中欧の新興国チエツクスロバキアの首府に来て、かく無造作に日本語をきかされ、好感を示される事はチエツク救援の代償としては安価ではあるがともかくも愉快である」というもの。「中欧」という表現がこの時期に登場するのも気になるけれども、チェコの人が日本人に対して日本語を使うのが、チェコ軍団救援のお礼の意味を持つというのはどうなのだろうか。
 独立以前から日本に興味を持って、日本に行ったり日本語を学んだりする人がいたのは間違いないが、チェコ軍団救援がきっかけで日本語を勉強し始めたなんて人がいたのだろうか。日本に滞在したチェコ軍団所属の兵士がプラハに戻ってきた後に、日本で覚えた言葉を広めたなんて可能性もあるかもしれない。とまれ、日本におけるチェコスロバキアよりも、チェコスロバキアにおける日本のほうがよく知られていたということは言ってもよさそうだ。

 その後に、プラハの建設伝説として、「女王リブツサ」の伝説を紹介する。これがリブシェの事なのは明白だが、その伝説は、古文の美文調で書かれているのだが、誰かの日本語訳を引用したのか、著者が聞いた伝説を翻訳したのかは不明。リブシェと結婚してチェコ人の王となったプシェミスルについては書かれていない。

 それから、ドイツの新聞記者と会って、このチェコスロバキアの将来について、30パーセントという、少数民族と言うにはいささか多すぎる数のドイツ系の住民の存在を理由に、この新しく生まれた国の将来を憂うようなことを記している。世界恐慌以後のチェコスロバキアとドイツ、ドイツ系住民の関係を知っていれば、慧眼だといいたくもなるけどどうなのだろう。戦争が終わって数年、まだ産業も完全に復興していなかっただろうし、経済的な余裕の無さが、チェコスロバキア人とドイツ人の対立の先鋭化につながっていた可能性はあるから、チェコスロバキアの将来を悲観的に見るのが普通だったのかもしれない。

 「チエツクの都プラーグに来て」の章の最後の部分で、プラハに二つの主要な駅があることが紹介されているのだが、その名前が、「マサリツク・バンホーフ」と「ウヰルソン・バンホーフ」となっている。マサリク駅は今もあるし、ウィルソン駅は今の中央駅のことだけど、「バンホーフ」はないだろう。他の部分で、チェコ人たちはプラハの街角からドイツ語を消そうと奮闘しているなんて書いているのだから、駅に「バンホーフ」なんて表示が出ていたとは思えない。

 チェコの体操団体であるソコルについての章では、「ソコールに唯一の掟があつて酒を飲むものは除名される」と書かれている。これ現在も続いているのだろうか。チェコ各地にあるソコロブナとよばれるソコルの集会所、もしくは体育館にはレストランが併設されていることが多く、堂々とビールの看板が出ているのだけど。「チェトニツケー・フモレスキ」に出てきた大戦間期のソコロブナでもレストランでビールを提供していた。ああ、そうか、ソコルのメンバーもチェコ人だし、ビールは酒じゃないと解釈するのか。ソコロブナのレストランでビール以外のお酒を販売しているかどうかは知らないので、この説の真偽は確認できないけど。
2021年4月22日24時30分。











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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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