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2019年04月01日

スロバキア大統領選挙決選投票(三月卅日)



 今日、スロバキアの大統領選挙の決選投票が行われ、第一回投票の結果、またその後の世論調査の結果どおり、チャプトバー氏が当選し、スロバキアでは最初の女性大統領が誕生した。年齢的にもたしかまだ四十台半ばだから、若い大統領の誕生でもある。ただ、スロバキアという国の現状を考えると、若き女性大統領が誕生して万々歳とはいきそうもない。チェコなどの国と同様、様々な面で分断された社会を一つにまとめることができるのか課題は大きい。
 チェコも状況は似ているが、うちの大統領、開き直って社会を一つにまとめようなんて気は全くなさそうだからなあ。就任演説では全国民の大統領になるとか何とか一定瀧がするんだけど。それはともかく、チャプトバー氏のスロバキアの大統領としての初仕事の一つが兄弟国とも言うべきチェコ訪問らしいから、大統領同士の会談で影響を受けて、わが道を走りだすなんてことのないように期待しておこう。

 スロバキアはポーランドほどではないにしてもキリスト教、特にカトリックの信者の多い、チェコ以上に保守的な国民性の国である。それが女性首相につづいて女性大統領まで誕生させてしまったのだから、驚きではある。ただ、スロバキアの社会というのは保守的でありながら、時に思い切った決断をして周囲を驚かせることがあるような気がする。この辺りの旧共産圏国家では唯一ユーロを導入してしまったのもそうだし、そもそもチェコスロバキアとして、チェコ人と組んで独立することを決めたのも、当時の民族自決主義の流行を考えてもかなり大胆な決断だったはずだし。

 第一回投票ではチャプトバー氏が40パーセント超でシェフチョビチ氏に20パーセント以上の差をつけたが、敗退した候補の支持者たちの動向如何では逆転もあるかと期待したのだが、その後行なわれた世論調査でもチャプトバー氏が60パーセント以上の支持を集めて、20パーセント以上の差をつけていたので、これは逆転の可能性はなさそうだと興味を失いかけていたのだが、テレビのチャンネルだけはチェコテレビのニュースチャンネルに合わせておいた。
 スロバキアでは、チェコと違って選挙は一日しか行なわれないため、決選投票も土曜日だけである。ただ時間が夜十時まで投票できるようになっている。当然選挙報道もその時間から始まる。驚いたのが、開票の結果の公表が始まる前の、番組の導入の時点で、アナウンサーや解説者たちが口々に、当初の予想よりもはるかに接線になったのではないかという見解を漏らしていた。世論調査結果発表後に何かあったのかもしれない。選挙運動のやり方が問題視されているとかいうニュースがあったけどあれがチャプトバー氏のことだったのかな。

 それでちょっと気になって最初の結果発表までテレビに見入ったのだが、開票率1パーセント行かないぐらいの時点で、チャプトバー氏が55パーセントちょっとで、シェフチョビチ氏に10パーセント強の差をつけていた。第一回投票や世論調査の結果ほどの差ではないけれども、接戦と言えるほどの差でもない。日本の選挙報道だったらこの時点で当選確実とか印しつけて、候補者に勝利のインタビューとかやっているだろうなあなんてことを考えてしまった。
 その後も、チャプトバー氏が少しずつ差を広げて行くのだが、チェコテレビでは、チャプトバー氏の当選が確実になったなどと軽率なことを言うことはなく、あくまでも現時点では優勢だとか、このまま行けば当選だけどという形の発言を繰り返していた。こちらはそこまでスロバキアの大統領選挙に興味があるわけでもないのと、日曜日の朝から夏時間が始まるのとで、結果が出るまで起きている気にはなれず、チャプトバー氏の当選だろうと思いながら寝ることにした。

 朝起きて最終的な結果もチャプトバー氏の勝利であることを知るわけだけれども、同時に日本の無駄に急いで選挙結果を確定させたがる日本の選挙報道を思い出して、チェコの方がまともだよなあなんてことを考えてしまう。出口調査とか、独自の判断で当選を決めるとか、選挙報道で視聴率争いをするなんざ勘違いもいいところである。その争いに一番熱心なのがNHKだというから、話にならない。最近お笑い番組ばっかりやっているというし、もう受信料なんか取る資格はないんじゃないのかねえ。日本にいたころはテレビがなかったから一度も払ったことないけどさ。
2019年3月31日23時。


 







タグ:政治 選挙

2019年03月20日

スロバキア大統領選挙第一回投票2(三月十八日)



承前
 チャプトバー氏が第一回投票の結果どおり当選すれば、スロバキアでは初の女性大統領ということになる。もともとは弁護士でブラチスラバ近郊の町のそばにゴミ処理場という名の、ゴミを積み上げて放置するだけのゴミ捨て場が設置されそうになったのに対する反対運動から、政治の世界とかかわるようになったらしい。
 この手の活動家から政治に転身した人たちというのは、日本の場合、既存の政治家たち以上に身内意識が強くて仲間をかばい倒す傾向があって、その面では既存の政治家と同じじゃないかと言いたくなることもあるのだが、ヨーロッパの場合はどうだろうか。チェコの緑の党の体たらくを見ていると、あんまり変わらないかな。あそこは喧嘩別れした後の展開もまた見物だったけど。
 チャプトバー氏はまた、キリスト教の信者が多くチェコよりも保守的なところのあるスロバキアの社会では、急進的に過ぎる意見が警戒されているらしい。同性婚の問題なんかが例として挙がっていたが、本人は自分の意見を変えるつもりはないが、同時に大統領として自分の意見を社会に押し付けるつもりもないという発言をしている。スロバキアもチェコと同じで大統領の権限は、それほど大きくないはずだから、これで安心した人たちもいるのかもしれない。

 話は変わるが、スロバキアでは、すでに女性大統領が誕生しそうになったことがある。それは、前々回2009年の大統領選挙のときのことで、キリスト教系の政党から推薦されて立候補した元厚生労働大臣のイベタ・ラディチョバー氏が、一回目の選挙で二位に入り、決選投票に進んだのである。このときには現職だったイバン・ガシュパロビチ氏に、10パーセントほどの差を付けられて当選することはできなかった。
 ラディチョバー氏はその後2010年に、ガシュパロビチ氏の指名で首相に就任して、スロバキア初の女性首相になっている。2012年に国会で信任案を否決され、それに続く解散総選挙に負けて下野した後も評価の高い政治家だったから、2014年の大統領選挙にも出馬するのではないかと思っていたのだが、立候補はしなかったようだ。
 この件と直接関係があるかどうかは記憶が定かではないのだが、ラディチョバー氏が国会の議場でとんでもない失敗をやらかしたニュースは覚えている。議案の採決に際して、スロバキアの国会では、一人一人、賛否を言うのではなく、議席につけられた賛成と反対のどちらかのボタンを押すことになっているらしい。ラディチョバー氏は、あろうことか自分の席のボタンだけでなく、他の議員の席のボタンまで押してしまったのだという。流れとしてはこれで大統領選挙の出馬をあきらめたとなりそうなのだが、どうだったかなあ。個々の事件は覚えていてもその前後関係を覚えていないのである。

 このラディチョバー氏と、今回のチャプトバー氏が、実現の可能性のある最初の女性大統領候補なのだけど、個人的にはこの人になってほしかったという候補がいる。それは、マグダ・バーシャーリオバー氏である。スロバキアの政治に詳しくない人でも、映画好きなら知っているはずだ。チェコスロバキア映画の名作の一つ、最後の文豪フラバルの原作をもとにして製作された「ポストシージニ(邦題は「剃髪式」だったかな)」で、主役のビール工場の雇われ社長(と理解しておく)の妻を演じていたのがこの人なのだ。こっちのほうが主役かもしれないけど。
 ビロード革命後は、チェコスロバキアの駐オーストリア大使を務め、外交の世界に飛び込み、その後もスロバキアの駐ポーランド大使を務めて、2006年だったかに国会議員に選出されている。この人なら、外国での知名度も高く、外交の経験もあるなど、スロバキアを代表するにふさわしいと思うのだけど、今回の選挙には立候補しなかった。所属政党としてはラディチョバー氏と同じキリスト教系の政党で保守層の支持は期待できるし、女性だという点でリベラル層の支持もある程度は期待できるから、スロバキア社会を一つにする存在になれると思うんだけどねえ。

 とまれ、このままでは、チェコの大統領選挙と同じで、どちらの候補者が勝ったとしても、社会を一つにまとめる大統領ではなく、分断を深化させる大統領が誕生しそうである。チャプトバー氏のような存在、つまりは女性候補が、既存の政治を守ろうとする側から登場していればなあと思わなくもない。リベラルの側から出てきた進歩主義的な意見を持つ、しかも前例のない女性の大統領というのを、スロバキア社会全体が支持できるのか興味深く見守ることにしよう。
2019年3月19日19時。






剃髪式 (フラバル・コレクション)













2019年03月19日

スロバキア大統領選挙第一回投票1(三月十七日)



 土曜日にスロバキアで大統領選挙の第一回投票が行われた。スロバキアの大統領はチェコと同様、任期五年で二期まで務めることができる。現職のキスカ氏は一期目なので再選を目指すことはできたのだが、かなり早い時期から再度の出馬はしないことを表明していたため、本命と呼べる候補者が存在しなかったのである。それに、前回の選挙でキスカ氏に決選投票で敗れたフィツォ氏も、昨年の記者殺害事件への対応に失敗して首相を辞任し、大統領選挙への出馬の可能性も消滅していた。

 スロバキアでは、チェコ以上に90年代のビロード革命直後に成立、もしくは再建された既存の政党、既存の政治家への反感は強く、社会も二分されている。これを右と左への二分と理解してはいけない。それは、かたくなに既存の政党、政治家を支持する右であれ、左であれ保守的な層と、新しい政治以外のところから政治に進出してきた政治家に期待する層であり、前回の大統領選挙ではキスカ氏が既存の政治に絶望した層の大半の支持を取り付けることに成功して当選したのである。
 そうなると、関心はそれぞれのグループの中からどんな候補者が出てくるかである。既存の政治家の中から出てきたのは、フィツォ氏率いるスメル党(実態は社会民主党)のEU議会議員を務めるマロシュ・シェフチョビチ氏と、かつてメチアル党のノミネートでフィツォ政権で法務大臣を務めたことのある元最高裁判所長官のシュテファン・ハラビン氏の二人。ハラビン氏は政党の推薦を受けない無所属の候補として立候補したようだが、古い政治家に属するのは間違いない。

 既存の政治を否定する層から極右に走ったコトレバ氏が出馬するのはある程度予想されていた。反対側の、いわゆるリベラルの側から誰が出てくるのかで、今回の大統領選挙の結果が左右されると言ってもいい状況だった。前回は実業家で慈善活動に力を入れていたキスカ氏が登場して、典型的な既存の政治家であるフィツォ氏を破ったのだが、今回はどうなるのか。

 既存の政治に絶望した層のうち、極右のコトレバ氏にも賛同できないグループの支持を最終的に集約することに成功したのは、女性候補者の弁護士ズザナ・チャプトバー氏だった。状況をしっかりと追いかけてきたわけではないので、はっきりしたことは言えないのだが、このチャプトバー氏は当初、色物というか泡沫候補扱いで、他の候補者と支持者の奪い合いにならないように、立候補を辞退するように求められたりもしたらしい。
 最終的には世論調査の支持率で逆転することに成功し、当初はこのグループの本命候補とみられていたロベルト・ミストリーク氏が立候補を辞退することになり、チャプトバー氏支持を表明したのだが、その前にも、ミストリーク氏と支持層のかぶる候補者が、共倒れを恐れて立候補を辞退したらしいから、このグループの候補者が一本化されるまでにもあれこれドタバタがあったのである。個人的にはこの手の談合というか野合というかには、嫌悪しか感じないのだが、チャプトバー氏とミストリーク氏が両方出馬して勝った方にリベラル層の支持が集まるという形の方が最終的な勝利に近づけたのではないかとも思う。

 チャプトバー氏は選挙前の最後の世論調査では、支持率が50パーセントを超えて大本命に躍り出たのだが、チェコの大統領選挙とは違って一回目の投票で過半数を獲得したからといって、当選が確定するわけではない。一回目の選挙で当選を確定させるのに必要なのは、投票数の過半数ではなく、有権者の過半数なので、投票率が60パーセント弱と予想されていた今回の大統領選挙では、ほぼ不可能な数字なのだった。
 二回目の決選投票には一回目の上位二人が進出し、得票数が多い方が当選する。この決選投票で有権者の過半数という縛りがないのは、何回投票を行なっても当選者が出ないという事態を避けるためだろう。ちなみ前回はフィツォ氏が一位、キスカ氏が二位で決選投票に進出し、決選投票では一回目の投票の結果が逆転してキスカ氏が当選した。だから、今回も一回目の選挙で一位になったチャプトバー氏が決選投票でも勝てるとは限らないのである。

 土曜日に行なわれた第一回投票の結果は、一位のチャプトバー氏が40パーセント強、二位のシェフチョビチ氏が19パーセント弱。この差は一見大きいが、事前の世論調査と比べると10パーセント以上縮まっている。三位に入ったのはハラビン氏で14パーセントちょっと。コトレバ氏が四位に入ったのは、事前の世論調査と同じだが、得票率が10パーセントを超えたのは予想以上である。ただチャプトバー氏と合わせて50パーセントというのが、スロバキア社会の見事なまでの二分されっぷりを如実に表している。
 ということで以下次号。
2019年3月18日23時45分。






スロヴァキア熱―言葉と歌と土地















2018年11月11日

ミラン・ラスティスラフ・シュテファーニク(十一月六日)



 チェコで、チェコスロバキアの独立に最も貢献した人物を三人挙げろと言われたら、初代大統領のマサリク、その後継者となったベネシュと共に挙げられるのが、スロバキア出身のシュテファーニクの名前である。この人、スロバキア出身の人物だというから、マサリクがアメリカに渡りスロバキアからの移民たちと、チェコスロバキアの独立に関して結んだ、いわゆるピッツバーグ協定の締結に貢献したものだと思っていた。しかし、実際にはマサリクが独立運動の理念的な柱で、ベネシュが外交の柱だったとするなら、シュテファーニクは軍事面での柱であり、この三人のうち誰が欠けても独立は実現しなかったと言ってもよさそうである。

 特に、フランスをチェコスロバキア独立の支持者の側につけることができたのは、シュテファーニクの功績らしい。チェコスロバキア第一共和国がフランスと近しい関係を結んでいたのは、マサリク大統領夫人の出自がフランス系だというのが原因だと思い込んでいたが、実は、独立運動にかかわっていたシュテファーニクが第一次世界大戦勃発後にフランス軍にパイロットとして入隊し、軍の高官の知遇を得たのがきっかけになっているようである。その人脈をベネシュやマサリクが生かしたということだろうか。
 そして、チェコスロバキアが第一次世界大戦で連合国側の一員として扱われた理由の一つであるチェコスロバキア軍団の創設もシュテファーニクの功績で、特にフランスでは、チェコスロバキア軍団は例の外人部隊の一翼を担って活躍したらしい。フランスだけではなく、イタリアやセルビア、ルーマニアなどでもチェコスロバキア軍団の組織化を行い、軍団が戦果を挙げることで戦後の独立のための交渉が楽になったというから、独立直後のチェコスロバキア政府で軍事大臣に任命されたのは当然だったのだ。ただし、ロシアやフランスなどでチェコスロバキア軍団の後始末をしていたため、独立したチェコスロバキアに戻ってきたのは死の直前ということになる。

 1919年になってから、フランス、イタリアでの交渉を終えて独立した祖国に飛行機で戻ってこようとしていたシュテファーニクは、着陸寸前の滑走路上で起こった事故で亡くなってしまう。一説にはシュテファーニク自身が操縦していたとも言う。これが単なる事故だったのかについてもいろいろ説があって、フランスとイタリアの独立チェコスロバキアを巡る争いとか、ベネシュとの対立とかが原因となって暗殺されたんだとも言う。極端なのになると自殺説まであるらしい。
 ただ、シュテファーニクが乗っていたイタリア製の飛行機が性能面で問題のある物で、交渉相手だったイタリア軍の高官たちも飛行機を使わず陸路で帰国することを勧めたという話もあるから、偶然がいくつか重なった結果の不幸な事故というのが一番蓋然性が高そうなのだが、この事故が第一共和国のチェコ人とスロバキア人の関係に大きな影を落としたことは否定できない。

 シュテファーニクは、もともと西スロバキアのプロテスタントの教会関係者の息子として生まれ、建築技師になるために進学したプラハの大学でマサリクの知遇を得たのが独立運動にかかわるきっかけになったらしい。プラハではなぜか天文学を勉強し一時はフランスの天文台で仕事をしていたというから、フランス軍に入隊する前からフランスとは縁があったのだ。その後、第一次世界大戦が始まるまでは世界中を飛び回っていたらしい。もとより活動的で行動の人で、各地で多くの女性と浮名を流したプレーボーイとしても知られていたという雑誌(日本の「歴史読本」みたいな奴ね)の記事を見かけたこともある。

 チェコスロバキアの独立に大きな貢献をしたシュテファーニクだが、チェコではスロバキア人で独立直後に亡くなったということもあって、あまり重要視されていないように感じられる。スロバキアでは、チェコスロバキア第一共和国自体を否定的に捕らえる考え方が主流だったため、シュテファーニクに対する評価もあまり高くなかったようだ。分離独立から四半世紀チェコに対する感情が改善された近年は変わりつつあるようだけれども、その功績が正等に評価されていない人物と言えそうである。
 マサリク大統領の出自の謎とシュテファーニクの事故死の謎を絡めた国際謀略小説なんて存在しないかなあ。シュテファーニクを主人公にして、マサリクの出生の謎を解きつつ、その秘密をソ連やオーストリアの秘密警察の手から守るなんてストーリーはどうだろう。誰か書いてくれんかなあ。

 ちなみに「ミラン・ラ」まで聞いた時点で、スロバキアの俳優ミラン・ラシツァを思い浮かべてしまうのもシュテファーニクがあまり話題に上がらないことの証明になっている。
2018年11月7日23時25分。









2018年04月01日

スロバキアの思い出―ポプラト(三月廿九日)

 

 昔、スロバキアを旅行したときのことを思い返すと、西スロバキアでスァリツァに行った後、ニトラとトルナバを訪れた。ニトラは大モラバ国の中心地のひとつで、南モラビアにあった大モラバ国の王(侯?)家の分家が封じられていたところである。そんなことを当時のつたない英語で理解できるわけがなく、町の近くの丘の上に、大きなお城がそびえているのを見てすげえと思ったことぐらいしか覚えていない。トルナバのほうは、きれいな白い塔がそびえていて、その中の売店で、アメリカのアニメ、「トムとジェリー」の絵葉書を発見して驚いたんだったか。チェコスロバキアのアニメスタジオで作画の下請けをやっていたらしいのである。
 それから、巨大なお城のある、城跡のほうがいいかなトレンチーンを経て、鉄道の幹線を使ってタトラのほうに向かった。拠点として宿泊したのは、ポプラトとレボチャで、そこからケジュマロクとか何とかプレソとか、動き回ったのだけど、その順番が思い出せない。シュピーシュ城に出かけたのもポプラトからだったかなあ。

 とまれ、そのポプラトでの話である。当時のチェコとスロバキアのビザは、本体はパスポートに捺された判子だったが、それに附属した申請のときに記入した用紙が一枚くっついていて、ホテルなどに宿泊した場合には、ホテル側で宿泊したことがわかるように裏側に判子を捺すことに、法律上はなっていた。ただし、その制度はすでに有名無実化していて、チェコ国内を旅行していたときに捺してくれた宿泊施設は一つか二つしかなかったし、一ヶ月の観光ビザを延長してもらいに外国人警察に出向いたときにも、問題視されることはなかった。スロバキアでも状況は同じだった。
 それから、一応念のために取得しておいたスロバキアのビザだが、チェコからスロバキアに入る鉄道ではパスポートのチェックは行なわれておらず、パスポートに出入国のスタンプが捺されることも、スロバキアへの入国の日付が記入されることもなかった。入国直後は多少気にしていたが、時間が経つにつれて問題ないのかなと油断するようになっていた。

 そうしたら、ポプラトの街中をふらふらと歩いているときに、二人組みの警察官に、パスポートを見せろと呼び止められてしまった。チェコでも確かヘルフシュティーンに行くときに、リプニークの町で警察に呼び止められてパスポートを見せるように言われたけど何の問題もなかったから安心して、渡したら、入国のスタンプがないとか言い出して、これは預るから明日の朝、どこどこの警察に出頭しろと言われてしまった。
 日本語で次々に頭に思い浮かぶ罵倒の言葉を英語にしようとして必死になっているあいだに、勝手に話を進めやがって、こちらがほとんど何も言えないうちに姿を消した。それでもチェコから入ったからパスポートのチェックはなかったぞぐらいのことはいえたのかな。チェコから離れた田舎ものはそんな事情もしらねえのかとか言いたかったけど言えなかった。

 その後、怒りをバネにいくつかの罵り文句、お前ら秘密警察の手先かよとか、賄賂出せってのかとか、頑張って英語で言うための準備をして、次の日の朝指定された警察に出向いたのだけど、にっこり笑ってパスポートを返してきやがった。勘違いだったとかなんだとか言い訳していたかな。パスポートが戻ってきたのはいいのだけど、この振り上げた怒りの拳をどこに落とせばいいのかと、更なる怒りを胸に歩き回ることになってしまった。
 警察でホテルの判子がないのは問題だから捺してもらえとつけたしのように言われたから、ホテルに戻って捺してもらったのだけど、多分態度が悪くて不快な思いをさせてしまったと思う。どこの誰だかかは知らないが申し訳ないことをした。それもこれも無能な警察官がいけないんだというイラつきで時間をかなり無駄にした。

 夕方になって何日か前に、ハンドボールの大会が行なわれていて、思わず観戦してしまった屋外コートに足を向けたら、中学生か高校生ぐらいの女の子たちが出てきて練習をし始めた。普段だったらそんなことは絶対にしなかったと思うのだが、このときは警察に対する怒りをどうにかする必要があったので、思わずちょっとコートに入ってシュート打たせてほしいとお願いしてしまった。コートがアスファルトで転がると痛そうだったけど、とにかく体を動かして怒りを忘れてしまいたかったのだ。
 何本か、いや何十本かシュートを打って満足してありがとうとお礼を言ったら、コーチみたいな人が、一緒に練習していかないかと誘ってくれた。当然答はAnoである。全部で二時間ぐらいだったかな、シュート練習から試合形式のものまで、頑張った。二十代前半のなくなりつつある体力で、ハンドボールができるという喜びをエネルギーに最後まで頑張った。試合形式の練習は途中で何度か交代したけどさ。

 楽しかった。死ぬほど疲れて、そのあと何日か筋肉痛で死にそうだったけど楽しかった。おかげでスロバキアに抱きかけていた嫌悪感はさっぱり消えてしまった。今でもポプラトというと個人的にはハンドボールの町なのだけど、残念なことにチェコスロバキアの女子のインテルリガにポプラトのチームは存在しない。昇格してきたら応援するんだけどなあ。スロバキアの下部リーグの情報を集めるところまではまだ手をつけていないから、チームが存在するかどうかもわからないんだけどね。
2018年3月29日23時。




 何のことやらよくわからないけれども、Strbske Pleso(シュトロプスケー・プレソ)はタトラ山中にある湖で保養地になっていたはず。確かちょっと変な電車に乗って行ったんじゃなかったか。この写真を見てもタトラだなんてわからんけどね。

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2018年03月29日

スロバキアの思い出−スカリツァ(三月廿六日)



 チェコに住んで長いけれども、チェコに来て以来、スロバキアに出かけたことはほとんどない。以前書いた自転車でスロバキアに出かけた以外に行ったことがあったっけと考えて、ないことに気づいてしまった。チェコ国内では申請できないビザを申請したときには、チェコ語が通じるブラチスラバのチェコ大使館ではなく、知人の伝を頼ってウィーンで申請したし。
 あのときは、日本の無犯罪証明書もウィーンの日本大使館で申請して失敗したのだった。日本の役所の縄張り意識の強さを忘れていたぜって、在留届を出していなかったのも問題だったし、外務省に文句を言う筋合いではない。一番の問題はチェコにすんでいながらプラハには行きたくないという理由でウィーンに行くことを選んだ自分なのだから。
 そうすると、スロバキアをある程度観光したのはビロード革命の直後の1993年だけということになるのか。当時はスロバキアに入るのにスロバキアのビザがいるのか、チェコのビザがあればいいのか情報が錯綜していた。国営の旅行会社のチェドックでは、チェコのビザがあれば問題ないから行けと言われたけれども、心配なのでプラハの日本大使館に質問しに行った。はっきりしたことは答えてもらえなかったけれども、ビザは取ったほうがいいだろうと言われて、できたばかりのスロバキア大使館に出かけてビザを取ったのだった。

 チェコに三ヶ月ほどいて、スロバキアのブラチスラバに向かい、滞在中にチェドックでどこかにガイドブックに載っていないような見所はないかと質問したら、窓口のお兄ちゃんが声を大にして勧めてくれたのが、西スロバキアのチェコとの国境近くの小さな町スカリツァだった。片言の英語での話しだったので、正確に理解できたわけではないだろうが、ロトンダという特別な教会があるんだと言っているのは理解できた。
 それで、ブラチスラバからチェコの戻る方向の電車に乗ってスカリツァに向かったわけなのだけれども、件のロトンダ以外には何もないような町だった。スカリツァのロトンダの写真は、こちらのページの真ん中の記事をご覧になられたい。原っぱの真ん中に建っていたのは覚えているけれども、こんなに丘になっていたかなあ。一番上の写真の立派な協会も記憶にない。

 チェドックの兄ちゃんのお勧めの町のわりには観光するところもあまりなく、一つの町に何日か滞在するようにしていたので、周辺の町に足を延ばすことになった。そこで問題になったのが交通の便の悪さで、スロバキアのどこに行くのでも一度ブラチスラバに戻る必要があるようだった。それは避けたいので、ホテルの人にどこかないかと聞いたら、近くは近くでもチェコの町を勧められた。何日か前に国境を越えてきたばかりで、ビザも一回しか入国できないタイプで、チェコからスロバキアに入ったときにはパスポートのチェックはなかったけれども大丈夫なのか。
 ホテルのおじさんは、自信を持ってパスポートのチェックなんかないから大丈夫だ。まだ一つの国のようなもんなんだからなどと言って、ブジェツラフとその近くのバルティツェだったかレドニツェだったかと、スカリツァから電車に乗って国境を越えてすぐのところにあるストラージュニツェを勧めてくれた。結局遠くまで出かけて帰ってこられなかったら困るということでストラージュニツェに向かったのだけど、切符は途中までしか買えなかったし、途中で降ろされるんじゃないかと電車に乗っている間は不安でしかたがなかった。検札に来た車掌さんもどうすればいいかわからないから放置するという感じだったかな。
 そのおかげで結局何とかなってしまったのだけど、お城の入場料金とか、お金はどうしたんだっただろうか。当時は紙幣はスロバキアではチェコスロバキア時代のものにシールを張ってスロバキアのお金として通用させていた。硬貨はどうだったかなあ。分離独立して半年ほど新しい硬貨への切り替えは始まっていたけど、古い硬貨も通用していただろうか。新紙幣、新硬貨への切り替えが決まっても、即日全てのお金が入れ替わるわけでもないし。

 上記の知人のブログの記事でスカリツァについて書かれているようなことは、何も知らんかった。片言以下の英語でそんな情報が手に入るわけがないのである。結局スカリツァで一番印象に残っているのは、街のレストランが営業しておらず(ほとんど見かけなかったようなきもする)、仕方なく利用したホテルのレストランで出てきたビールがチェコ、スロバキアで飲んだビールの中でダントツに美味しくなかったことだ。たぶん地元のビールだろうと思うのだが、現在まで生き残っていることはあるまい。

 それにしても、スカリツァがコメンスキーと関係のある町だったとは意外である。西スロバキアでコメンスキーゆかりの町とされるのが、トレンチーン?、トルナバ?、どっちも行ったぞ。プーホフは、存在すら知らなかったけど、自分が25年も前に滞在した西スロバキアの町の多くがコメンスキーと関係していることに驚いてしまう。旅行者向けの観光地なんてコメンスキーの時代から存在したところが大半だろうから、確率が高くなるのは当然か。言葉ができないと観光しても建物とか街とか見てすげえで終わってしまうんだよなあ。今ならもう少しあれこれ知ることができると思うけれども、スロバキア語のシャワーを浴びることになるかと思うと、再訪する気にはなかなかなれないのである。
2018年3月27日10時。





 国歌かな?

スロバキア(タトゥラの嵐)








2018年03月27日

スロバキアその後(三月廿四日)



 この前、スロバキアのフィツォ政権がジャーナリスト暗殺事件の責任を問われて、大統領をはじめとする国民の大半からの批判、抗議を受け、退陣を受け入れたことについては記した。今回は、その後の、と言ってもたいした情報があるわけではないのだけど、スロバキアの政界で起こった出来事を紹介する。
 フィツォ氏が、本人の意思に反して退陣することになった結果、後継者として首班指名を受けたのは同じスメル党のペテル・ペレグリニ氏だった。スロバキアの名字には詳しくないと言うか、チェコと違いがあるのか知らないのだけど、あまりスラブっぽさを感じさせないような気がする。「ペレグリーニ」と伸ばすと、イタリアとかスペインぽくない? このあたりはナポレオン戦争やらなんやらで、フランスやイタリア、スペインなどからつれてこられて帰れなくなった人たちも多いというから、そういう人たちの子孫なのかもしれない。名前は完全にスロバキアの名前だしね。

 もともと、スメル党内でフィツォ氏の後継者と目されていたのは、ときに皇太子などと揶揄されることもあったロベルト・カリニャーク氏だった。これまでの三回のフィツォ内閣で毎回大臣を務め、今回の事件が起こるまでは内務大臣を務めていた。ただ、あれこれ黒い噂、疑惑の絶えない人で、事件が怒る前から、野党を中心にカリニャーク氏の辞任、もしくは解任を求める声は強かった。いや任命したことでフィツォ氏にたいする批判もあったはずである。それでも、これまでかばい続けてきたということは、フィツォ氏も同じ穴のムジナであったということだろうか。
 それが、今回の事件でも最初はかばう方向だったのが、予想以上に高まった批判に耐え切れなくなったフィツォ氏はカリニャーク氏を解任することを決めたものの、対応の遅さが更なる批判につながって、結局は「無能な野党に政権は渡せないから」とか何とかいう理由で、スメルの政治家を首相とする内閣を成立させることを条件に退陣したのである。

 次の首相に指名されたペレグリニ氏は、大臣や国会議長、副首相などのポストを歴任しており、スメル党の有力政治家ではあるようだが、フィツォ氏とどの程度近い関係にあるのかなどはよくわからない。カリニャーク氏のようにフィツォ氏にべったりの関係であれば、反フィツォであることを鮮明にしつつある大統領のキスカ氏が首班指名をするはずがないから、連立のパートナーとなっている政党と大統領を納得させられる程度にはフィツォ氏から距離を置いた政治家なのだろうと判断しておく。
 そのペレグリニ氏の一回目の組閣の試みは、大統領に拒否された。スロバキアもチェコと同じで、大統領の首班指名、組閣、大統領による任命、国会における信任という手順を踏むようだが、大統領に任命を拒否する権利があるのかというのが問題になった。もちろん、首相を代えての連立政権の継続に反対して解散総選挙を求める野党側は支持していたけれども、憲法上どうなのかというのは確認しておく必要があるだろう。報道を見る限りペレグリニ氏が権限を逸脱したと批判した以外はあまり問題になっていないようだ。こちらがスロバキア語が理解できないからわからないという可能性も高いけどさ。

 キスカ氏が最初の任命を拒否した理由の一つは、フィツォ内閣で適正な捜査を補償できるかどうか心配だとされた内務大臣の名前だった。ニュースを見ていて、内務大臣候補の名前とその素性を聞いて、うちのが思わず「ティ・ボレ」と漏らしてしまうぐらい、ある意味衝撃的な名前だった。ヨゼフ・ラーシュという名前は知らなくても、ヨジョなら知っている人がいるかもしれない。それも知らないならエラーンはどうだろう。スロバキアを代表するロック、ポップス系のバンドなんだけど。
 チェコのオリンピックよりはロックよりで、どちらかというとカバートとかルツィエに近いのかなあなんていう説明で理解してもらえるとは思えないし、書いている自分自身もエラーンの曲なんて断片的にしか聞いたことがないからこれでいいのかどうか不安ではあるのだけど、見た目としてはごついおっさん達で、ファンも女性よりは男性の方が多そうなバンドである。ヨジョ・ラーシュはそのエラーンの中心としてボーカルを務める人物である。

 残念ながら内務大臣の候補となったのは、ヨジョ本人ではなく、息子のヨゼフ・ラーシュ若だったのだけど、政治家になっていて大臣候補になるような息子がいるだなんて、チェコでも知られていなかったから、うちのにとっても大きな驚きだったのである。キスカ大統領がこの人の任命を拒否したのは、さすがにエラーンのボーカルの息子だからということはないだろうけれども、大統領とエラーンという組み合わせがそぐわないのも確かである。
 内務大臣を拒否されたペレグリニ氏は、非党員の専門家としてフィツォ政権では厚生大臣を務めていたドルツクル氏を選んだ。専門家というのは担当する省に関係する専門家ではなく、組織運営の専門家という意味だったようだ。他にも変更があったのかもしれないが、二回目の組閣は大統領に受け入れられ無事に任命まではたどり着いた。これから国会で信任を受けることになるのだが、どんな結果が出るだろうか。反政府デモはとりあえずブラチスラバでは中止になったけれども、他の地方都市では継続しているらしい、連立与党で過半数は確保しているようだが、チェコと同じで造反者が出ないとは言い切れない。

 チェコと同様、スロバキアも政府があるのかないのかよくわからない状態がしばらく続くことになる。
2018年3月25日19時。





KIWISTAR ステッカー - Slovakia スロバキア - 5つのサイズの国の旗バンパーステッカーで利用可能








2018年03月18日

スロバキアの政党2野党(三月十五日)



 昨日に続いてスロバキアの政党である。野党第一党は2016年の総選挙で議席を21獲得した「自由と連帯」党である。略称がSaS。スロバキアの政党は妙に略称に凝るなあ。まあさすがに「a」を省いてSSを略称にはできんか。ちなみに、スロバキア語では「Sloboda a Solidarita」だか、チェコ語では「Sloboda」が「Svoboda」になる。似ていると言えば似ているけれども、見ただけ、聞いただけで気づけるかというと、外国人には無理だな。
 この党も、2009年に設立された比較的新しい党である。設立直後の2010年の選挙では22議席を獲得しているが、スロバキア初の女性首相イベタ・ラディチョバー氏の内閣が倒れた後、2012年の選挙では大きく議席を減らしている。これはラディチョバー内閣の信任案への反対に賛成できなかった一部の国会議員が脱党したことが原因のようである。ラディチョバー氏もなあ、期待は大きかったのだけど……。

 野党第二党はスロバキア語で「OBYČAJNÍ ĽUDIA a nezávislé osobnosti」党。強いて訳すとすれば、「一般人と独立した個人」党。何ともコメントしにくい名前である。略称は「OĽaNO」で、「オリャノ」と読むのだろうか。政党として設立されたのは2011年のことで、ラディチョバー内閣への対応をめぐってSaSと袂を分かった四人の国会議員が設立したもののようである。2016年の選挙での議席数は19。
 その四人の国会議員はもともとSaSの党員ではなく、市民団体として存在した「OBYČAJNÍ ĽUDIA」が、SaSの候補者名簿に記載される形で選挙に立候補し当選したというから、最初から分裂含みだったということか。この党員以外の考えの近い専門家を自党の候補者名簿に載せて、票を集めるというやり方はチェコでも使われているし、選挙の制度としては問題ないのだろうけれども、選挙後に候補者として立ててくれた政党を離脱するのは問題ないのだろうか。日本でもそうだけれども、比例代表で選ばれた議員が党を離脱したり、別の党に移籍したりするのを見ると釈然としないものを感じる。

 三つ目の野党は、極右の民族主義政党とみなされている「我らがスロバキア」人民党、である。同じ名称の党が存在したのか何なのか、党の正式名称には前に設立者のコトレバ氏の名前が入るようである。スロバキア語で「Kotleba – Ľudová strana Naše Slovensko」。設立されたのは2010年だが、2010年と2012年の二回の総選挙では議席を獲得することができず、難民危機を経た2016年の選挙で、いきなり14の議席を獲得している。さすがにSNS以上に極右のこの党とはフィツォ氏も手を結べなかったようで、連立には参加していない。
 この党の前身にあたるコトレバ氏が設立した急進派の民族主義的な政党があったようだが、裁判所の命令で解党を余儀なくされている。チェコのこちらもしばしば裁判所から解党命令を受けている極右の労働者党と協力関係にある。チェコの労働者党はオカムラ党の台頭で支持基盤を失ったところがあるから、国会に議席を得るための5パーセントの壁を越えることはなさそうだが、スロバキアのコトレバ党は、現在のスロバキアの政情、EUの状況を見るにつけ、与党になることはなさそうだが、国会には議席を確保し続けそうである。極右の政党は、知名度の高い個人を表に出したほうが支持を集めやすいのかね。

 四つ目は、「SME RODINA - Boris Kollár」党。後半は創立者の名前だろうから、党名としては前半を使うことになる。ということで、あえて訳せば、「我ら家族」党である。設立されたのは2011年で、当時はスロバキア市民党という名称だったようだ。ボリス・コラール氏は、政治の世界に入るまでは実業家だったというから、設立年といい、党首の経歴といいチェコのバビシュ氏のANOと重なるのだが、国会に議席を獲得できたのは2016年の総選挙が初めてのことで議席数は11である。
 主義主張はよくわからないけれども、チェコ語のウィキペディアには、ポピュリズムとしか書いてない。現在の政党はどれもこれも、大なり小なりポピュリズム的であるけれども、この「SME RODINA」党は目に余るということだろうか。名称だけ見ると保守的な伝統的な家族主義を主張する政党のようにも見えるけど。

 以上がスロバキアの一院制の国会に議席を持っている党だが、最近のニュースの報道を見ていると当選後に離脱して無所属になっている議員も数人いるようである。
 意外なのは、チェコよりもキリスト教の信仰の強いスロバキアで、キリスト教系の政党が議席を獲得できていないことである。革命直後の1990年から存在するキリスト教民主党は2016年の選挙で議席を失っているが、獲得したのは4.9パーセントで、わずか0.1パーセントの差で、5パーセントを越えることができなかった。議席を確保するための最低の得票率が5パーセントというのは高すぎで、死票が多くなると思うのだが、これを下げるとただでさえ小党乱立で混乱の多い政局がさらに不安定になるだろうから、この規定は変えないほうがよさそうである。隣国のオーストリアにも同様の規定があって、こちらの境界線は4パーセントだという。

 チェコ以上に既存の、ビロード革命で誕生した政党の衰退が進んでいるのがスロバキアだと言えそうである。チェコの既存の政党も、これまでのやり方を反省しないと、共産党を除いてスロバキア同様全滅ということになりかねないと思うのだけど、それはそれで悪いことではないのかもしれない。
2018年3月16日20時。








2018年03月17日

スロバキアの政党1(三月十四日)



 先日、スロバキアの若手のジャーナリストのヤーン・クツィアク氏が、殺し屋に殺害されたと見られる事件で、フィツォ首相の政権が激しい非難と抗議にさらされているという話を書いたのだが、その後のスロバキアの政局についての報道を見るにつけ、自分がほとんどスロバキアの政治状況を知らないことに気づいてしまった。首相のフィツォ氏の政党がスメル(方向)党で、チェコの社会民主党に対応するものだというのは知っていたし、フィツォ氏の政府が連立政権だというのも知っていた。しかし、ニュースで連立政権に参加している他の政党の名前を聞いても、野党の名前を聞いても全くピンと来ない。スロバキアの政党の名称はチェコ以上に混沌としているのである。

 ということで、ちょっとばかりスロバキアの政党について調べてみようと考えたのである。スロバキアはチェコと違って国会は一院制で議院総数は150人、そのうちの約3分の1、49議席を占めているのがフィツォ氏のスメル党で、他の三つの小政党と組んで連立与党となっているらしい。スメル党は2016年の春に行われた総選挙までは過半数の83議席を確保していたようだから、第一党になったとはいえ、チェコと同様、社会民主主義を主張する政党は凋落傾向にあると考えていいのだろうか。
 この党が設立されたのは90年代の終わりのことで、所属していた左派民主党に不満を抱いたフィツォ氏を中心とするグループが脱党して設立したものである。2002年の総選挙で議席を獲得して以来支持を増やし、2012年の選挙では過半数の議席を獲得し、ヨーロッパのこの辺りでは珍しい単独与党のフィツォ内閣を成立させたのだが、2016年の総選挙では結党直後の2002年を除けば最低の結果に終わり、連立を組んで内閣を成立させることを余儀なくされ、政権は不安定で運営には苦労しているようである。2014年の大統領選挙に立候補したフィツォ氏が一回目の投票では一位になっていながら、決戦投票で財界出身のキスカ氏に敗れた辺りから支持の低下が始まっていたようである。

 連立与党の二つ目は、スロバキア国民党であるが、民族党と訳してもいいかもしれない。チェコ語の「národní」は、名詞「národ」からできた言葉だが、民族と訳したほうがいい場合と、国民と訳したほうがいい場合があって、しばしば悩まされる。プラハの劇場は国民劇場と訳することが多いが、博物館は国民博物館、民族博物館よりは国立博物館のほうがいいだろうし、銀行もチェコ中央銀行と訳すのが穏当だろう。チェコ語ではどれも「národní」という形容詞が使われているである。
 とまれ、このスロバキア国民党は、ビロード革命直後から存在する政党で、民族主義的な傾向を帯びた右翼の政党のようである。以前選挙の際に、ロマ人に対する差別を助長するようなキャンペーンを行って批判されたこともあるという。これまで何度か連立与党として政権に関わっているが、同時に当選者を出すための5パーセントの壁を越えられずに議席を失ったこともあるという選挙結果が安定しない党である。2016年の選挙での獲得議席は19。
 略称のSNSは、世の中にSNSというものがはびこり始める前から使っていたものであろうか。SNSの隆盛がこの党の党勢に影響を与えていたりはしないかなんて馬鹿なことを考えてしまう。どちらかと言えば左寄りのスメル党と極右に近いとみなされるSNSが組んでいるのは、チェコでバビシュ氏のANOとオカムラ党が組むのに近いのかもしれない。スロバキアにはさらに右を行くコトレバ党があるからそこまでではないか。

 三つ目は「MOST-HÍD」党で、議席数は11。スロバキア南部を中心に居住するハンガリー系住民の利害を代表する党のようである。党名も「MOST」がスロバキア語で、「HÍD」がハンガリー語なのだろう。直訳すれば橋だが、スロバキア人とハンガリー人の間の懸け橋になろうという意志を党名にしたと考えておく。設立は2009年と、比較的新しく、結党直後の2010年の選挙以来毎回議席を獲得している。
 EUの初期の加盟国を中心に世界中で、スロバキアの右傾化、極右のスロバキア民族主義の台頭が批判されて久しいが、批判する連中はスロバキアにハンガリー系の住民が中心となって組織した政党が存在し、連立政権に参加し、今回のクツィアク氏の事件後の政局でも重要な役割を果たしていることをどのように評価するのだろうか。少数民族とはいえ民族主義的だから極右だとか言い出すのかなあ。何もわかっていないまま批判するやつらが多いからなあ。仮にスロバキアに本当の極右ハンガリー民族主義があるとすれば、それはハンガリー系住民の居住地域のハンガリーへの併合を主張するはずである。
 実はスロバキアには、ハンガリー・コミュニティ党とでも訳せるより強くハンガリー系住民の利益を主張する党が存在して、この「MOST-HÍD」党はそこから穏健派が分かれたものらしい。ハンガリー・コミュニティ党は分裂後の2010年からは国会に議席を確保できていないから、スロバキアのハンガリー系の住民は穏健派が多いと考えてもいいのだろうか。

 最後に与党として挙げられるのは「#SIEŤ」党。前についているものを無視すれば、網とかネットという意味の言葉なのだが、ネット上での活動を中心にしているのか、スロバキアに網をかけて分裂を防ごうというのかよくわからない。現在はこの党出身の大臣はいないようだから連立与党から脱退した可能性もある。こちらは2014年の大統領選挙に立候補して僅差の三位で決選投票に進出できなかったラドスラフ・プロハースカ氏が設立した政党である。

 ちょっと調べてみたけどよくわからんというのが結論である。フィツォ首相は今回の政治危機に関して、連立が解消されて野党が政権を担うことになったら大変なことになるとして、自らが退陣し、連立を維持したままで新しい内閣を組織することを提案したらしい。意外や意外、この人、こういう譲歩はしない人だと思っていた。それはともかく、今回の件でスロバキアの政治情勢がかなり長期にわたって不安定になることは間違いない。せっかくなので次回は野党について書いてみる。
2018年3月15日23時








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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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