2018年03月29日
スロバキアの思い出−スカリツァ(三月廿六日)
チェコに住んで長いけれども、チェコに来て以来、スロバキアに出かけたことはほとんどない。以前書いた自転車でスロバキアに出かけた以外に行ったことがあったっけと考えて、ないことに気づいてしまった。チェコ国内では申請できないビザを申請したときには、チェコ語が通じるブラチスラバのチェコ大使館ではなく、知人の伝を頼ってウィーンで申請したし。
あのときは、日本の無犯罪証明書もウィーンの日本大使館で申請して失敗したのだった。日本の役所の縄張り意識の強さを忘れていたぜって、在留届を出していなかったのも問題だったし、外務省に文句を言う筋合いではない。一番の問題はチェコにすんでいながらプラハには行きたくないという理由でウィーンに行くことを選んだ自分なのだから。
そうすると、スロバキアをある程度観光したのはビロード革命の直後の1993年だけということになるのか。当時はスロバキアに入るのにスロバキアのビザがいるのか、チェコのビザがあればいいのか情報が錯綜していた。国営の旅行会社のチェドックでは、チェコのビザがあれば問題ないから行けと言われたけれども、心配なのでプラハの日本大使館に質問しに行った。はっきりしたことは答えてもらえなかったけれども、ビザは取ったほうがいいだろうと言われて、できたばかりのスロバキア大使館に出かけてビザを取ったのだった。
チェコに三ヶ月ほどいて、スロバキアのブラチスラバに向かい、滞在中にチェドックでどこかにガイドブックに載っていないような見所はないかと質問したら、窓口のお兄ちゃんが声を大にして勧めてくれたのが、西スロバキアのチェコとの国境近くの小さな町スカリツァだった。片言の英語での話しだったので、正確に理解できたわけではないだろうが、ロトンダという特別な教会があるんだと言っているのは理解できた。
それで、ブラチスラバからチェコの戻る方向の電車に乗ってスカリツァに向かったわけなのだけれども、件のロトンダ以外には何もないような町だった。スカリツァのロトンダの写真は、こちらのページの真ん中の記事をご覧になられたい。原っぱの真ん中に建っていたのは覚えているけれども、こんなに丘になっていたかなあ。一番上の写真の立派な協会も記憶にない。
チェドックの兄ちゃんのお勧めの町のわりには観光するところもあまりなく、一つの町に何日か滞在するようにしていたので、周辺の町に足を延ばすことになった。そこで問題になったのが交通の便の悪さで、スロバキアのどこに行くのでも一度ブラチスラバに戻る必要があるようだった。それは避けたいので、ホテルの人にどこかないかと聞いたら、近くは近くでもチェコの町を勧められた。何日か前に国境を越えてきたばかりで、ビザも一回しか入国できないタイプで、チェコからスロバキアに入ったときにはパスポートのチェックはなかったけれども大丈夫なのか。
ホテルのおじさんは、自信を持ってパスポートのチェックなんかないから大丈夫だ。まだ一つの国のようなもんなんだからなどと言って、ブジェツラフとその近くのバルティツェだったかレドニツェだったかと、スカリツァから電車に乗って国境を越えてすぐのところにあるストラージュニツェを勧めてくれた。結局遠くまで出かけて帰ってこられなかったら困るということでストラージュニツェに向かったのだけど、切符は途中までしか買えなかったし、途中で降ろされるんじゃないかと電車に乗っている間は不安でしかたがなかった。検札に来た車掌さんもどうすればいいかわからないから放置するという感じだったかな。
そのおかげで結局何とかなってしまったのだけど、お城の入場料金とか、お金はどうしたんだっただろうか。当時は紙幣はスロバキアではチェコスロバキア時代のものにシールを張ってスロバキアのお金として通用させていた。硬貨はどうだったかなあ。分離独立して半年ほど新しい硬貨への切り替えは始まっていたけど、古い硬貨も通用していただろうか。新紙幣、新硬貨への切り替えが決まっても、即日全てのお金が入れ替わるわけでもないし。
上記の知人のブログの記事でスカリツァについて書かれているようなことは、何も知らんかった。片言以下の英語でそんな情報が手に入るわけがないのである。結局スカリツァで一番印象に残っているのは、街のレストランが営業しておらず(ほとんど見かけなかったようなきもする)、仕方なく利用したホテルのレストランで出てきたビールがチェコ、スロバキアで飲んだビールの中でダントツに美味しくなかったことだ。たぶん地元のビールだろうと思うのだが、現在まで生き残っていることはあるまい。
それにしても、スカリツァがコメンスキーと関係のある町だったとは意外である。西スロバキアでコメンスキーゆかりの町とされるのが、トレンチーン?、トルナバ?、どっちも行ったぞ。プーホフは、存在すら知らなかったけど、自分が25年も前に滞在した西スロバキアの町の多くがコメンスキーと関係していることに驚いてしまう。旅行者向けの観光地なんてコメンスキーの時代から存在したところが大半だろうから、確率が高くなるのは当然か。言葉ができないと観光しても建物とか街とか見てすげえで終わってしまうんだよなあ。今ならもう少しあれこれ知ることができると思うけれども、スロバキア語のシャワーを浴びることになるかと思うと、再訪する気にはなかなかなれないのである。
2018年3月27日10時。
国歌かな?
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