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2017年08月23日

接頭辞の迷宮三(八月廿日)



 続いては、「do」を取り上げることにする。前置詞として使う場合には、「〜まで」という意味で、場所を表す場合にも、時間をあらわす場合にも使うことができる。行き先の場所を表す場合のややこしさについては以前書いたことがあるが、閉鎖的な空間の中に向かう場合に使うとチェコ人は言う。例外も多く納得できない部分もあるのだが、そういうものだということにしておく。
 それに対して、前置詞として使った場合には、「最後までする」という意味を付け加える。問題はこの最後までに微妙な意味の揺れがあるところである。

 昔、師匠とその旦那と一緒に話をしていたときに、旦那が、自分は家族と一緒にレストランに食事に行ってもビールしか頼まないという。その理由は、師匠と娘さんが頼んだものを食べきれないからだという。旦那は師匠と娘さんが残したものを、食べなければいけないので、自分の食べるものを注文できないのだと言っていた。師匠に言わせると度し難い酒飲みの言い訳の面もあるようだったけど、残されたものを食べるというところに、旦那は「dojíst」という動詞を使っていた。
 それから、スポーツの試合の中継の最後のほうで、「試合をおわらせようとしている」というような意味で、不完了態の「dohrávat」を使っていた。この二つの事例から、「do」を付けた場合は、最後までするは最後までするでも、途中まで進んだ状態から最後まで終わらせるという意味なのだろうと考えていた。
 だから「doběhnout」は、スタートのことは意識しないでゴールまで走りぬくことを表すときに使うし、「dopít」は飲み始めてある程度残っているビールを(ビールじゃなくてもいいけど)全部飲んでしまったら帰るとかいうときに使うし、「domluvit」は、自分が話している途中に割り込まれて、最後まで話させろというときに使う。いや少なくともそんなときに使ってきた。

 それが、これもスポーツの中継を見ていたときに、怪我で退場してしまった選手や、途中交代の選手に対して、「dohrát」の過去形を使っているのに気づいた。この選手にとって試合が終わってしまったという意味で、最後までプレーしたということなのだろう。つまり途中で、何らかの事情でやめてしまうときにも、使えるのだ。
 考えてみれば、明確に最後が決まっている動作というものはそれほど多くない。例えば文章を書いていて、これでお仕舞いというのを決めるのは書き手であって、そこに明確な基準はない。話し合いをするときにも、時間制限で終わることもあるけれども、延長されることもあるし、制限時間前に合意して話し合いが終わってしまうこともある。そういうところから、状況によって終了を余儀なくされるとか、自分の意志でここまでだと決めてしまうときにも使われるようになったのだろう。

 だから、同じ最後まで読むでも「přečíst」の場合には、本当に最後まで読む場合に使うけれども、「dočíst」は、読んでいる途中でこれ以上読んでも仕方がないと判断してやめるときにも使えるのだ。もちろん残りの部分を最後まで読んでしまうという場合にも使えるけれども。
 その辺の「do」のつく動詞の意味の微妙さが、チェコの人が日本語でしゃべっていて、「禁煙する」という意味で、「煙草を吸い終わる」と言うのにつながっているのだろう。確かに、禁煙も自分の意志でこれで煙草はおしまいだと決めることではあるのだけど、日本語の補助動詞の「終わる」とチェコ語の接頭辞の「do」の意味するところは完全には重ならないのだ。

 最初はよくわからなかった「dojít」の「なくなる」と言う意味での使い方も、体力や気力が尽きると、動けなくなって動作が強制的に終了されるというところから、派生した意味なのだろうと推測できるようになった。初めて、「došla mi síla」とか言われたときには、力尽きたということではなくて、自分のところに力が届いたと言いたいものだと思ったのだけど。

 ということで、この「do」のつく動詞は、文脈を見て解釈する必要があるので、結構厄介なのである。自分では「やめる」という意味ではこの手の動詞を使わないことにしているので、使うときにはいいんだけど、聞いてとっさに理解するのが大変なのである。
8月22日18時。





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