2017年06月30日
永観二年十二月の実資〈上旬〉(六月廿七日)
久しぶりの『小右記』の内容紹介である。久しぶりすぎて加減がわからなくなっている。
一日はまず、院を出て内裏に向かい、十一月廿七日に馬を牽かなかった三人についての話である。廿九日にそのうちの一人の藤原宣孝から聞いた話を天皇に奏上し、そのついでに残りの二人藤原斉信と源時叙の弁護をしている。曰く、まだ昇殿を許されておらず、特に職掌もない上に、若いから失敗したのも仕方がないとか何とか。最近は馬を牽くこともなかったなんて書いてあるから、花山天皇の代になって馬関係の行事が増えて、もしくは復活して、作法を知らない貴族も増えていたのかもしれない。
結局、若い二人には特に処罰はなく、父親を含めて譴責されただけのようであるが、宣孝は罷免されたのかな。斉信は為光の子だから愚行を繰り返しても不思議はないと思うのは、先入観が過ぎるだろうか。
夜になって円融上皇から召し出されて院に向かっている。犬が死んだ穢れは院での出来事で、その後の讃岐講師について奏上しているのと関係があるのだろうか。その場合、穢れのある院に向かった実資も穢れていてもおかしくないのだけど、その記述はない。穢れというのも難しいものである。その前に候宿すとあるので、内裏に戻っていることになる。ということは穢れは実資には及ばなかったということか。
二日は内裏を退出して円融上皇のもとに立ち寄っている。夕方には頼忠の元に出向いて深夜まで滞在している。
三日の記事には、外記の安倍董永から聞いた話として、花山天皇の祖母に当たる恵子女王に年爵の権利が与えられるという宣旨が出たことが語られる。その後、左大臣源雅信のところに出向いて、清談したというのだけど、高尚なテーマでのお話って何なのだろうか。こちらでも恵子女王に対する年爵の話が出ているが、同時に花山天皇の生母、つまり恵子女王と藤原伊尹の娘である懐子に皇太后が追贈されれるという宣旨が出たことも聞いている。花山天皇が自分の関係者に、あれこれ優遇を始めたと考えていいのだろうか。
四日は、内裏に参上した後、呼び出されて頼忠の元に向かう。花山天皇から頼忠の三女ィ子の元に手紙が届いているけれども、これは十五日にィ子が入内するための準備の一環であろうか。娘の入内の準備が進んでいることの喜びからか、頼忠邸では酒宴が行われている。
また頼忠は、左大将の藤原朝光のもとに馬を二匹贈っているが、これは朝光の娘姚子が着裳の儀式を迎えるお祝いのためであろう。姚子もィ子同様入内して女御となる。
五日は、内裏に出向いた後、夕方になって左大将朝光のもとに向かう。前日頼忠がお祝いを贈った姚子の着裳の儀式が閑院で行われたのである。実資は前日に手紙で来るように言われたようである。儀式が終わる前に退出して内裏に戻っている。姚子は着裳の儀式が終わると、そのまま入内して麗景殿に入っている。
花山天皇は、姚子の着裳の儀式に藤原元命を使者として派遣している。これは天皇が自ら入内を求めたことを示すのだろうか。また、この日は、花山天皇の同母の姉である冷泉天皇皇女宗子内親王が内裏から退出している。
六日は、伝聞で前日の着裳の儀式に、右大臣の藤原兼家が出向いたことが記される。実資が退出した後のことだろうか。実資は、大臣が、地位が下である大納言のところに出向くなんて前例がないと批判している。その後、頼忠のところに出向いた際には、頼忠も兼家の行為を批判していたことが記される。
実資が、頼忠に呼ばれた理由は、河内国に置かれた摂関家領(つまりこのときは頼忠の所領)であった楠葉牧についての天皇への奏上であった。これもややこしくてよくわからない話である。
七日は、雨の中内裏に参上し、昨日頼忠に言われた楠葉牧についてのことを奏上している。国司があれこれ言うので、再度検非違使を遣わすという内容のようである。よくわからないのが、天皇の返事で、遣わせというのか、遣わすなというのか。遣わせと言うことだと思うのだけれども、「専不遣」をどう読めばそうなるのかわからん。その後、頼忠のところに行って天皇の意向を伝えている。
麗景殿に入った姚子のもとに、使者として蔵人の藤原道兼が遣わされている。これは天皇が入内したばかりの女御に対して送った使者である。
八日は参内して内の御書所の人事に関して定めている。過去の例をあれこれ挙げて、人選しているのだが、この時代の文章生、文章得業生なんかの実態がわかると面白いのだろうけどね。名前が挙がっている中では大外記の慶滋保胤が一番の有名人かな。『池亭記』なんてものをものしているし。
その後、円融上皇の許に向かう。臨時の仁王経の読経が始まっている。また中宮大夫が藤原済時が中宮で行われる秋季御読経に奉仕する僧などを決めている。本来八月に行うものを、十二月に行うのは、あれこれ事情があって順延したということだろうか。宮中以外で行うのは、少し遅れて行うのが例とはいえね。花山天皇が即位したとはいえ、この時点での中宮は円融天皇の中宮だった藤原遵子である。
また円融院のもとには、左大臣源雅信や左大将藤原朝光らが集まって、院の収入源としての勅旨田や封戸などについて定めている。
九日には、大事な客が二、三人来たとあるけれども、誰なのだろう。名前を書けないような相手なのだろうか。夕方僧の清範と共に堀河の辺りに出かけているが、誰をおとなったものであろうか。
十日、内裏に参上すると、楠葉牧に派遣されていた検非違使が帰ってきて日記を進上した。検非違使の別当である源重光が花山天皇に奏覧したところ、お前らで決めよとか何とか言われたようである。
八日の日に大納言藤原為光のところで発生した犬の死の穢れが内裏にまで及んだことが発覚する。いい加減な為光のことだから細かいことを気にせず穢れを祓いもしないまま参内したということなのだろう。札を立てたのは、穢れがあるということか。もしくは穢れあるものの参内を禁ずということか。
この日は毎年十二月九日に占い。十日に奏上する御体の御卜の奏上が行われている。花山天皇即位後初めての奏上である。どんなことが書かれていたのだろうか。
6月28日23時。
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