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2017年04月18日

大モラバ国−−適当チェコ史2(四月十五日)



 サーモの国が分裂して消えてから、200年ほどたった830年ごろに歴史に姿を現してくるのが大モラバ国である。こちらもチェコ語では「ジーシェ」が使われているが、実態が帝国と呼べるものではなかったことは言うまでもない。チェコの歴史において古代と呼べそうなプシェミスル朝以前の国家は「ジーシェ」と呼ぶ習慣でもあるのかと疑ってしまう。大モラバの君主は、誰が与えた爵位かはわからないけれども、代々チェコ語で「クニージェ」、おそらく侯爵と訳せる爵位を持っていたようだから、大モラバ侯国とでも称するのが正しいのかもしれないが、ややこしいので「大モラバ国」と呼ぶことにする。
 歴史的に存在の証明されている最初の大モラバ国の君主は、モイミール一世である。モイミール一世は、現在のスロバキアのニトラ周辺にあった侯爵領を領土に付け加えたと言われている。モイミールの国の中心はべレフラットにあったのだが、このベレフラットは現在のベレフラットとは違うらしい。有力な候補地は、ベレフラットとはモラバ川を挟んで反対側になるウヘルスケー・フラディシュテの近くが挙げられるが、スロバキアのブラチスラバに比定する考えもあるという。

 モイミールが846年に没した跡を襲ったのは、甥にあたるロスティスラフだった。もともとは東フランク王の庇護下にあったようだが、大モラバ国の君主になったとたんに手のひらを返し、フランクの影響を抑えることを考え始めたらしい。その一環として、本人も家族もすでにキリスト教に帰依していたにもかかわらず、ビザンツ帝国の皇帝に使節を送り、宣教師の派遣を願い出た。
 その願いに応えて大モラバにやってきたのが、ツィリルとメトデイの兄弟だった。二人はスラブ人の言語に堪能であったため、古代スラブ語で教会の典礼を行い、聖書の翻訳を行なった。これは、十六世紀のルターの宗教改革までラテン語以外の使用が許されなかった西方の教会と異なる、東方のビザンチン教会の寛容さを示しているのかもしれない。

 ロスティスラフの動きは、東フランクの気に入るはずはなく、東フランク王が大モラバ国に対して再び影響力を持つために選んだのが、ロスティスラフの甥でニトラの侯爵領に封じられていたスバトプルクだった。スバトプルクは大モラバ国最大の君主で、即位後、東フランクの影響から脱するとともに、支配領域を遊牧系のマジャール人の居住するパンノニア地方から、プシェミスル家が台頭しつつあったボヘミアにまで広げた。

 スバトプルクに関する伝説としては、日本の毛利元就の三本の矢と同じような話が残っている。死を前にして三人の息子を呼び寄せ、それぞれに三本の棒をまとめて持った場合には、どんなに力を入れても折れないことを確認させた上で、一本ずつ持たせて折らせ、三人で協力することの重要さを教え諭したというのである。
 ただし、歴史上実在が確認されているスバトプルクの息子は、父の後を次いで大モラバ国の君主となったモイミール二世と、ニトラの侯爵領に封じられたスバトプルク二世の二人しかいない。三人目の息子は、確認もできない伝説によれば、プレスラフという名前で、ブラチスラバを創設した人物だという。その場合、プレスラフの名前から、ブラチスラバのドイツ語名プレスブルクが誕生したと考えてもいいのだろうか。

 スバトプルクは894年に、モラビアではなくニトラ侯爵領内で亡くなり、近くの修道院に埋葬された。一説によれば死を前にして、出家してニトラの近くのゾボル山の麓の修道院に入りそこで亡くなったのだとも言う。とまれ息子のニトラ侯爵スバトプルク二世が、父の遺体を大モラバ国の中心であったベレフラットの一族の墓地に改葬したらしい。
 その改葬された場所が問題で、あれこれ説があるようである。一般にはベレフラットの比定地であるウヘルスケー・フラディシュテ近くのサディというところが挙げられるようだが、大モラバ国時代の城塞の跡が発掘されているミクルチツェではないかという説もある。

 モイミール二世の代になると、スバトプルクが獲得したボヘミアやパンノニアが大モラバ国の支配から離れ、一度は支配下に置いたマジャール人の侵攻を受けて大モラバ国は、907年に滅亡してしまうのであった。
 その後、ボヘミア地方を地盤とするプシェミスル家がモラビアにまで勢力を伸ばしてくるのだが、マジャール人の勢力範囲に入ったスロバキアが、ボヘミア、モラビアと再び一つの国を形成するのは、1918年のチェコスロバキア第一共和国の成立を待たねばならなかったのである。
4月15日23時。



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