2017年04月19日
プシェミスル家闕史七代−−適当チェコ史3(四月十六日)
伝説によればリブシェとプシェミスル・オラーチの結婚によって成立したプシェミスル家で、歴史的に実在が確認できる人物は、九世紀の半ばに生まれたボジボイ一世である。ボジボイはボヘミアの領主としては最初にキリスト教に帰依した人物で、妻のルドミラとともにモラビアに出かけてメトデイの弟子達の手でキリスト教に改宗したと言われる。当時ボヘミアが大モラバ国の支配下にあったことを考えれば、東フランク王国ではなく大モラバのキリスト教を選んだのは当然だったのだろう。
さて、チェコ最古の歴史書である『コスマスの年代記』によれば、プシェミスル・オラーチとボジボイの間に七人のプシェミスル家の君主がいたらしい。ただし、具体的な事績に関する記事がないため、現在では実在を疑う声が大きいようである。
その七人の名前は、ネザミスル、ムナタ、ボイェン、ブニスラフ、クシェソミスル、ネクラン、ホスティビートである。正直どれも聞いたことのない名前である。せいぜいネザミスルが、オロモウツからぶるのに鉄道で向かうときに必ず通るネザミスリツェという駅の名前を思い起こさせるぐらいだ。プシェミスルとネザミスルで何か関係がありそうには見えるけれども。
名前だけの存在ということで思い起こすのが、日本の皇統でも、初代の神武天皇の後、二代目から何人かは名前と系譜しか残っていないことだ。気になってちょっと調べてみたら、「闕史八代」と言って、二代目から九代目までの天皇をさすらしい。具体的には、綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇、孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇の八人である。『日本書紀』『古事記』にも名前と系譜以外の具体的な事績の記述がないため、実在を疑問視されているようだ。
この八人の天皇の実在、非実在についてはさまざまな説があるが、プシェミスル家の七人についても同様で、古代スラブ人のあがめていた神の名前だとする説もある。実在の根拠としては、十二世紀の初めに書かれた『コスマスの年代記』以下の年代記に記されていることだが、事績に関する記述がないらしいので、根拠としては弱いとしかいえない。
もう一つの証拠とされるものが南モラビアのズノイモにあるらしい。ズノイモのディエ川を見下ろす崖の上に立てられた城の敷地内に古いロトンダと呼ばれるタイプの円形の教会がある。その聖カテジナ教会の内壁に描かれたフレスコ画に、プシェミスル・オラーチなどと並んで年代記に事績の記されていない七人の姿も描き出されているというのだ。
ズノイモはプシェミスル家が、モラビア支配の拠点の一つにしていた町で、その城内の教会にプシェミスル家の君主たちの姿が描かれているのは、不思議はないのかもしれない。ただし、名前だけの七人ではなく別のプシェミスル家の人間を描いたものだという説もあるらしい。
結局、よくわからないという点では、日本の天皇の場合と大差ないようである。そうすると、チェコの場合にも、『古事記』『日本書紀』に八人の天皇が追加されたのと同じような事情があったのかもしれない。日本の場合には、考えられそうなのは、交流のあった朝鮮半島の王朝よりも、建国の時期を古く設定するためだろうか。
そう考えると、プシェミスル家の場合にも、前の支配者であった大モラバ国よりも、家の歴史を古くする必要があったのかもしれない。大モラバ国も、プシェミスル家も歴史に登場してくるのは、九世紀に入ってからで、大きな違いはないのだけど、大モラバ国にはモイミール一世以前の君主についての伝説も残っているようである。プシェミスル家の側としては、結果的にその領土の大半を受け継ぐことになった大モラバ国や、サーモの国よりも、起源を古くすることで、支配の正当性を訴えようとしたのだろうか。
伝説、歴史というものが、権力者の都合によって歪められるのは、何も日本だけではないのである。リブシェとプシェミスル・オラーチの結婚の物語も、後の権力者によって必要とされたものなのだろうが、その詳細を検討するのはやめておこう。
4月17日23時30分。
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