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2017年03月28日

摂関考4(三月廿五日)



承前
9永祚二年兼家の死
 頼忠の死からほぼ一年後永祚二年六月に、兼家は六十二歳で亡くなる。このとき、左大臣は源雅信、右大臣は藤原為光、内大臣は前年に就任したばかりの兼家の長男藤原道隆であった。このうち、雅信は、すでに七十一歳と高齢であり、摂関の候補にはふさわしくなかったのだろう。残った為光と道隆のうち、天皇の伯父であった道隆が摂政に就任した。このとき三十八歳というこれまでになく若い摂政の誕生であった。
 為光は花山天皇の女御となった娘に皇子が生まれて天皇になっていれば、祖父として摂関の地位につけたのかもしれないが、娘の死と花山天皇の出家で実現の可能性は失われたのであった。翌正暦二年に為光が太政大臣に就任しているのは、摂政道隆の年齢が太政大臣に就任するには若すぎたという事情もありそうである。さらに翌年の正暦三年に為光が四十八歳で亡くなった後、廿年以上にわたって太政大臣が欠けるのは、年齢、見識、地位などが太政大臣にふさわしい人物が藤原氏の中から現れてこなかったことを意味するのだろう。

10長徳元年道隆の死
 関白道隆が四十三歳で没した長徳元年は、公卿の死という意味では、前代未聞の年であった。道隆の後任の関白通兼、左大臣の源重信をはじめとして、大納言三人、中納言二人、合わせて八人の公卿が六月末までに没している。年初に二十三人いた大臣から参議までのうち、ほぼ三分の一が姿を消したことになる。
 まず、道隆が四月十日に没した際の状況を確認すると、左大臣は七十四歳と高齢の源重信、右大臣は道隆の弟通兼三十五歳、内大臣は道隆の息子の伊周で二十二歳の若さであった。通兼と伊周の一条天皇との血縁関係を見ると、通兼は伯父、伊周は従兄ということになる。一方で姻戚関係では、天皇の中宮の定子は伊周の妹であった。
 この状況で、道隆の後任として、通兼が選ばれたのは、年齢が大きかったとみる。道隆が亡くなった時点での公卿の平均年齢は、退官した者や非参議などを除いた大臣から参議までで四十五歳前後で、この時期の公卿への昇進年齢の平均でも四十歳を超えているのである。いくら藤原北家の嫡流だとはいえ、公卿の、ひいては貴族社会の頂点に公卿になって五年目でしかない二十二歳の若造を就けることには、大きな抵抗があったに違いない。

11長徳元年通兼の死
 兼通も、道隆の死後ほぼ一月、関白就任後七日で五月八日に没する。同日には左大臣の源重信も亡くなってしまい、大臣で生存しているのは内大臣の伊周だけという非常事態であった。『大鏡』などによれば、ここでも伊周と道長の熾烈な権力争いが起こったというのだが、ここでも若すぎる伊周を摂関の地位につけるのには、大半の貴族が反対したのではないだろうか。
 結局、藤原朝光(三月)、藤原斉時(四月)、藤原道頼(六月)の死後、唯一の経験のある大納言となっていた藤原道長が右大臣に就任し権力を握ることになる(藤原顕光は四月に権大納言になったばかりだった)。この道長の右大臣への昇進は、兼通の生前に決まっていたのではなかろうか。この年、道長は三十歳。これでも摂関の地位につくには若すぎたのであろう。翌年左大臣に移るものの、摂政にも関白にも、太政大臣にもなることなく、政権を運営していく。

 道長がこの時点で摂関の地位につかなかったことについて、摂関にならないほうが有利だったからだという説がある。それなりに説得力は持つが、この説の難点は、道長以前の父兼家、兄道隆などがみな摂関の地位についた理由、そして道長自身が息子の頼通に摂関の地位を譲っている理由が説明しきれないところにある。
 以後の例えば三条天皇即位時などの摂関につく可能性のあった機会はともかく、この時点では道長は摂関の地位につかなかったのではなく、つけなかったと考えたほうが自然である。天禄三年の兼通のときと同様に、大臣経験のない、しかも若い道長を摂関としていただくことに対して、貴族社会の中に大きな反発があったに違いない。その反発を抑えるために、摂関の地位につかないことを選べたのが道長で、何が何でも摂関になろうとしたのが、伊周だと考えると、このときの権力争いの経緯が理解しやすくなる。

12長和五、六年道長から頼通へ
 翌長徳二年に左大臣になった道長は、ほぼ二十年にわたって左大臣の地位にとどまり、摂関に進もうとしなかった。長和五年になって後一条天皇の即位とともに、初めて道長は摂政の地位につくが、翌長和六年には辞任してしまう。これは、息子の頼通に譲るために一度摂政の地位について見せたものと考えられる。このとき、頼通は二十六歳、大納言になって五年目、直前に内大臣に就任したばかりであった。長徳元年当時の伊周よりは年長であるが、道長よりは年下である。
 頼通との血縁関係で言えば、三条天皇は従兄にあたる。道長としては、頼通が伯父となる後一条天皇の即位を待って、摂政の地位を譲ることを選んだと考えられる。
 このとき若すぎる上に、大臣としての実績もない頼通が摂政につくことができたのは、一つは道長という後見役がいたからだろうが、もう一つ、道長が廿年にわたって摂関の地位を遠慮してきたことも考えていいのではないだろうか。それによって貴族社会に貸しを作ったと考えるのである。

 その結果、これまで摂政、関白が亡くなってから後継となる人物を選んでいたために、前任者の死後に少なからぬ混乱が起こっていたのを、生前に後継者に摂関の地位を譲ることで、後継者争いが起こらなかった。後継者頼通は実権を持つ前任者道長の庇護の下で摂関の地位につくことになったので、横からくちばしを挟めなかったのである。
 この道長、頼通の時代を通じて、摂関位をめぐる藤原氏内部の争いが起こりにくくなったというのも、一般の貴族たちにとってはありがたかったはずである。道長というと、強引な手法で政治運営をしていたというイメージがあるが、個々の場合の貴族や天皇に対する対応はともかく、貴族社会全体に対する配慮を忘れなかったからこそ、生前に息子に摂関を継がせるというこれまで誰も達成できなかったことが可能になったのであろう。

まとめ
 摂関政治と不可分のように語られる天皇との直接的な外戚関係は、摂関の地位につくために絶対に必要なものではない。摂関の地位に就くために必要だったのは、新しい摂関が任命されるときに、大臣の地位についていることである。その時に若すぎたり年寄り過ぎないことも大切である。
 天皇との外戚関係、娘や姉妹が皇后となり、孫や甥が皇太子、その後天皇となるのは、むしろ自らの、また子供たち、孫たちの出世を早め、大臣の地位に近づけるのに大いに役に立った。同時に、他氏や、同じ藤原氏でも他家、同じ藤原北家でも他流の人々、つまりは摂関位を争うことになるライバルの急速な出世を妨げることにもつながったのである。

 藤原実頼に始まる小野宮流は、長寿によって得た摂関の地位を、孫が生まれないことによって失ったと言ってもいい。逆に実頼の弟師輔に始まる九条流は、短命ゆえに失いかけた摂関の地位を、子供と孫の数の多さで取り戻した。ときに強引過ぎる手法で摂関の地位を確保しようとした九条流に対して、時期が巡ってくるのをじっくり待った小野宮流という区別もできる。
 そして、摂関政治の完成者となった道長は、九条流の出でありながら、小野宮的に待つことができた。それが、道長が摂政に就いたのは一年ほどでありながら、長期に亘って権力を握ることができた所以なのだろう。その意味でも道長は摂関政治の完成者なのである。

 道長が、息子の頼通に受け継がせることで、一つの完成形を見た藤原北家による摂関政治は、すでに頼通の代には衰退に向かい次なる混乱の院政へつながっていくのであるが、そこまでは本稿の対象とはしない。

3月26日20時。



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