2017年03月25日
摂関考1(三月廿二日)
歴史の専門家から見たらあちこち省略しすぎていて噴飯物だろうが、『公卿補任』をつらつら眺めていて摂政、関白の選択について気づいたことを、まとめたので、載せておく。無駄に長い時間がかかったので、掲載しないと元が取れないのである。
はじめに
平安時代のいわゆる摂関政治の時代、藤原氏が天皇との外戚関係を利用して摂政、関白の地位を歴任したと言われる。その一般的なイメージとしては、娘を天皇の後宮に入れ、生まれてきた皇子が天皇になったときに祖父として摂関の地位に着くというものであろう。しかし、現実には、祖父ではなく、天皇の生母の兄、伯父の立場で摂関の地位につくことが多いようだ。中には、天皇との伯父でも祖父でもない関係で摂関の地位についた人物もいる。今回、『公卿補任』の記述を元に、誰がどんな政治状況で、摂関として選ばれているかを、一般に摂関の常設が始まると言われる藤原実頼から、摂関政治の全盛期と言われる道長、頼通までを対象に検討した。
ただし、話が煩雑になるのを避けるために、藤氏長者、内覧などの地位がどのように動いたかについては、あえてふれない。また『大鏡』などに見られる藤原北家内部の劇的な権力争いの様子もあまり重視しない。とにかく摂関の地位に就いた人物の天皇との血縁、縁戚関係、就任前の地位、年齢を中心に検討した。
その結果いくつかの原則のようなものが見えてきた。まず、摂政、関白に就任する人物は、左大臣、右大臣、もしくは内大臣の地位についている。内大臣など、左大臣、右大臣が詰まっているときに、摂関候補を就任させるために作られた役職のようにさえ見える。また、摂政、関白に就任すると同時に、もしくは就任してしばらくしてから太政大臣に就任する例が多い。これは則闕の官とも言われる太政大臣にふさわしい人物こそが、摂関に就任すべきだという意識を反映しているのだろう。
天皇が譲位して上皇になった場合には、原則として摂政、関白も地位を失うのだが、新天皇の即位後、改めて摂関にが任命されることが多い。例外を除いて自ら辞任するか、死ぬかしない限り摂関の地位を失うことはなかったのである。
1天暦三年藤原忠平の死
摂政・関白の地位について考えるために、まず村上天皇の関白、太政大臣を務めた藤原忠平が没した時期の状況をまとめておく。天暦三年に齢七十歳で没した忠平は、先代の朱雀天皇の代にも摂政、次いで関白を務めており、天皇の代替わりがあっても、摂関が留任した最初の事例である。
忠平没後、村上天皇は、摂関を任命しなかった。これは父醍醐天皇に倣って天皇親政を志向したためと言われるが、状況を見ると後任の関白を選べなかったというのが正しそうである。そもそも摂関を置かないことが天皇親政であって摂関政治と大きな違いがあるという考え方が正しいとは思えない。摂関政治の代表とされる道長は、ほんの一年摂政の地位に就いただけで、それ以前は左大臣として政治を主導し、その後は息子頼通に摂関の地位を譲り後見役として実質的な権力を握ったのである。
このとき、忠平の後を次いで関白となる候補者は、長男実頼五十歳と次男師輔四十二歳の二人だった。実頼の方が八歳年長で、地位も左大臣と、右大臣の師輔よりも上にいた。だから年齢や地位から言うと、実頼が選ばれてしかるべきだったと言える。
村上天皇との血縁関係では、天皇の生母藤原穏子は基経の娘、忠平の妹であるので、実頼、師輔ともに甥にあたる。つまり兄弟と天皇は従兄弟なのである。姻戚関係では、皇太子時代の村上天皇の最初の后となったのが師輔の娘安子であった。実頼も娘述子を入内させるが、安子が男子三人、女子四人と合わせて七人の子供に恵まれたのに対して、述子に子供が生まれることはなかった。この点では、師輔の方が天皇との関係が近かったと言うことができよう。
この状況で、実頼と師輔のどちらかを選ぶとなると、藤原氏の中での対立が起こり、当時中納言だった源高明の影響力が必要以上に強まることが懸念されたことが想定される。高明は醍醐天皇の子供で、臣籍に下って源氏となった人物だから、血縁関係から言えば、母は違うとはいえ、村上天皇の兄にあたるのである。
平安初期に大量に出現した源氏に関しては、親王、皇子などの皇族が増えすぎた結果皇室財政が悪化したことに対する対策と、藤原氏に対抗できる勢力を作り出すことの二つが理由として挙げられるが、この天暦三年、忠平の死の時点の公卿の構成を見ると、関白太政大臣から参議まで合わせて十六人いる中の、七人が藤原北家、五人が源氏となっている。その五人の源氏の中でもっとも有能で期待を集めたのが、源高明だったのである。
当時は、まだ良房、基経、忠平と三人の藤原氏の摂関が存在しただけなので、摂関の地位が藤原氏のものであるという認識は形成されていなかったであろう。そうなると、藤原氏が分裂し、高明に他氏の貴族の支持が向かった場合に、皇籍に復帰して親王摂政が復活する可能性もなかったとは言えまい。高明自身も、おそらく将来の摂関の地位を狙って娘を村上天皇の皇子為平親王の后としている。だから、実頼と師輔は、摂関をおかないことで、藤原氏内部の対立を避けようとしたのではなかろうか。
以上が、忠平の死の時点で村上天皇が摂関を選べなかったと推測する事情である。その後、天徳四年に師輔が没したことで、藤原氏側の事情が変わり、唯一の候補者となった実頼が関白となっても問題のない状況となった後も、任命されなかったのは、良房の死後摂関を置かなかった清和天皇、基経の死後摂関を置かなかった宇多天皇の先例に倣ったものだろうか。
3月23日23時。
『国史大系』の『公卿補任』が出てこなかったので、電子書籍で「時雨亭文庫」というちょっと想像のできないものを載せておく。影印なのかなあ。『風土記』と『公卿補任』の組み合わせというのも、なかなか不思議である。3月24日追記。
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