2017年03月26日
摂関考2(三月廿三日)
承前
2康保四年冷泉天皇即位
康保四年は、村上天皇が譲位し、冷泉天皇が即位した年である。冷泉天皇は村上天皇と藤原師輔の娘である安子の間に生まれている。だから、右大臣の地位で没した師輔がこの時点で生きていれば、天皇の祖父で大臣ということになり、摂関の地位は師輔のものになったことは、間違いないだろう。そうなっていれば、娘を天皇の後宮に入れ、生まれてきた皇子が天皇として即位した後、祖父として摂関の地位について実権を握るという、一般に考えられている摂関政治の典型となったはずだが、師輔は、天徳四年に五十三歳で没しているため実現しなかった。
冷泉天皇の即位時点で左大臣は藤原北家の実頼、右大臣は醍醐源氏の源高明で、このとき藤原北家の嫡流で公卿の首座でもあった実頼が、関白の地位に就いたのは当然であった。藤原忠平死後の朝廷を二十年近くに亘って主導してきた左大臣を押しのけて、関白になるだけの力は前年に右大臣になったばかりの高明にはなかった。
藤原北家の中で、実頼よりも冷泉天皇に血縁的に近かった師輔の子供たちは、大臣の地位には届かず、長男の伊尹が参議から権中納言になったばかりで、次男兼通、三男兼家に至っては、いまだ公卿にもなっておらず、摂関の候補者にはなれなかった。藤原氏の候補が実頼しかいなかった以上、源氏を含め他氏が関白を輩出するなど不可能であったはずである。
関白太政大臣になった実頼のあと、左大臣には源高明が右大臣から移り、右大臣には、実頼、師輔兄弟の弟である藤原師尹が就任する。この人事が、すでに七十歳に近かった実頼の死後の権力を巡る争いである安和の変につながっていく。
3安和二年安和の変と円融天皇即位
安和二年、左大臣源高明が謀反の疑いをかけられて大臣を解任され、太宰権帥として九州に流された。これは、藤原氏が他氏の摂関の候補となりかねない人物を排斥するために仕掛けた陰謀だと考えられているが、首謀者としては、高明と直接摂関の地位を争うことになりそうだった右大臣藤原師尹、冷泉天皇の伯父にあたる血縁関係を生かして摂関の地位を狙っていた権大納言の伊尹の二人が候補となりそうである。
高明の失脚の結果、左大臣には藤原師尹、右大臣には藤原北家でも傍流の在衡が昇進している。その後冷泉天皇は、円融天皇に譲位する。円融天皇も藤原安子の子供なので、実頼、伊尹との血縁関係は冷泉天皇のときと変わらない。
ところで、右大臣となった藤原在衡はこのときすでに七十八歳という高齢であり、藤原伊尹にとっては大臣の地位は目の前であった。さらに、同年左大臣藤原師尹が五十歳の若さで病死し、翌年正月には、在衡が左大臣、伊尹が右大臣へと昇進する。在衡の出自と高齢、伊尹と天皇の血縁関係を考えると、この時点で伊尹が実頼没後に摂関となることが決まったと考えてよさそうだ。
4天禄元年実頼の死
安和の変の起こった翌天禄元年、摂政太政大臣藤原実頼が没する。実頼は安和二年の高明失脚の後冷泉天皇が退位し、円融天皇が十一歳で即位した際、摂政に就任している。天皇が代替わりしても摂関の地位は変わらなかったのである。
実頼の死後、高齢の左大臣藤原在衡ではなく、右大臣に就任したばかりの伊尹が四十七歳で摂政の地位に就いたのは前記のように当然であった。そして翌天禄二年には太政大臣になっている。ちなみに左大臣の在衡は実頼に遅れること五ヶ月ほど天禄元年十月に、七十九歳で没してしまう。
では、伊尹のライバルとなりかねない実頼の息子達はというと、長男敦敏は天暦元年に三十歳の若さで早世しており、次男頼忠はまだ中納言、三男斉敏は参議で、摂関の候補となれるような地位にはなかった。また、朱雀天皇と村上天皇の後宮に入内した実頼の娘二人が子供に恵まれることなくなくなったため、天皇との血縁関係は実頼のとき以上に薄くなっていた。
一方、伊尹の弟達は、師輔の次男の兼通が参議、三男の兼家が中納言と、実頼の息子達と同じ地位にあったが、弟兼家の方が官位が高いという逆転が起こっていた。この関係が伊尹没後の摂関の地位を巡る争いをややこしいものにしたのである。
5天禄三年伊尹の死
藤原伊尹は摂政在任二年ほど、四十九歳の若さで天禄三年十一月に亡くなってしまう。『公卿補任』によれば、この年二月に中納言に昇進したばかりだった藤原兼通四十八歳が、それまで存在しなかった内大臣になると同時に関白に就任したことになっている。ただ、大臣を経ずして摂関に昇った例がないことを考えると(道長の息子頼通でさえ内大臣任官後、十日ほど時間をおいて摂政になっている)、実際に関白の位に付いたのは、もう少し後、具体的には太政大臣に就任する天延二年あたりかとも考えられる。
兼通が中納言から大納言を経ずして内大臣の地位に就いた時点で、異例の昇進であり、前例を重視する貴族社会では強い非難の対象となったことは間違いない。その上で関白にも就任するというのは、無理がありすぎたのではないだろうか。
『大鏡』の記述によれば、このとき兼通が関白になれたのは、円融天皇の生母である藤原安子の生前に、「関白をば次第のままにさせたまへ」というような天皇に宛てた書き付けをもらっていたからだという。その書付を見て亡き母の書いたものであることを認めた天皇が、兼通の関白就任を決めたというのだが、これが藤原氏、特に師輔の子孫である九条流による摂関の地位の私物化の最初の一歩である。
このときの左右の大臣はどちらも前年の十一月に大納言から昇進したばかりで、大臣としての業績を残していなかったことがこの無理を可能にした事情の一つであろう。左大臣が、醍醐天皇の子である源兼明、円融天皇から見ると伯父に当たる人物である。右大臣は実頼の息子の頼忠、天皇との関係は実頼よりもさらに遠くなってしまう。
中納言になったばかりの兼通と、大納言になったばかりの兼家の兄弟が、天皇の伯父である立場から摂関争いをしているところに、血縁関係の薄い頼忠までが参戦した場合に、左大臣の源兼明が候補となってくることを嫌った頼忠が、兼通を支持した結果、大納言を経験しない内大臣が、後に関白になること前提で誕生したのではないだろうか。
貞元二年に左大臣だった源兼明が皇族に戻って親王になったのも、藤原氏によって摂関位をめぐってライバルとなる人物が排斥されたということになる。兼明を左大臣の地位から追うまでに、兼通の関白就任から四、五年という時間がかかっていることからも、兼通の関白は異例で、無理に無理を重ねた結果であることが想定される。また、大宰府に流された高明と、皇籍に復帰した兼明の処遇の違いから、親王摂政が想定されにくくなっていることを読み取ってもよさそうである。
3月24日22時。
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