2016年01月31日
クロムニェジーシュ(一月廿八日)
オロモウツが、丘の上に建ち教会が多いことからハナー地方のローマと呼ばれているように、このクロムニェジーシュは、ハナー地方のパリと呼ばれているらしい。その理由は、何だったんだろう。昔読むか聞くかした記憶はあるのだが、思い出すことができない。
クロムニェジーシュは、ハナー地方の四大都市(そんな大そうなもんでもないのだけれども)を結んで形作られた縦長のひし形の下の頂点に当たる町である。そのひし形の上の頂点はオロモウツで、左右にプロスチェヨフ、プシェロフが配される形になる。オロモウツからの連絡はあまりよくなく、電車でうまく時間が合えば、フリーンという町での乗り換え一回で一時間弱で着くのだが、合わないと二回乗り換えが必要になることもある。バスは直通のバスはあるが本数が少なく、時間も一時間半ぐらいかかってしまう。
この町は、オロモウツの大司教の離宮として建てられた城館と、その城下庭園、旧市街を挟んで反対側にある花の庭園が世界遺産に登録されたことで有名になり、観光客も増えているようだ。他にも大司教の造幣局、大司教のワイン醸造所とか、大司教座関係の歴史的記念物が多く、その数は大司教座の置かれているオロモウツをしのぐかもしれない。世界遺産に登録された記念物も、オロモウツの聖三位一体の碑のほうが明らかにしょぼいし。
世界遺産以前は、ミロシュ・フォルマンのアマデウスの撮影が、この町の城館で行われたことで有名だった。このアメリカに亡命したチェコ人であるフォルマンが、1980年代半ばにチェコ国内で映画の撮影をすることができたという事実は、大きな謎である。国内的には、1968年のプラハの春以後のいわゆる正常化の時代で、国際的にはソ連のアフガン侵攻、アメリカのグラナダ侵攻で東西陣営が相互にオリンピックをボイコットし合うという冷戦が比較的激化していた時代である。
チェコ語の師匠の話では、歌手や俳優などが亡命した場合には、出演したテレビ番組や映画などは封印され放送も上映もされなくなり、あたかも最初から存在しなかったかのように扱われていたと言う話なので、フォルマンもチェコで撮影した映画は封印されていたはずである。誰がなんと言おうとチェコ映画の最高傑作である「トルハーク」という映画は、知らない、見たことがないというチェコ人が多いのだが、これも重要な役を演じているバルデマール・マトゥシュカが亡命してしまい封印されていたからだと考えられるぐらいなのだ。
カメラマンが当時のことを回想して、撮影スタッフの一挙手一投足を秘密警察が監視していて、誰とどこで会うかなどに気を使う必要があって大変だったとかいうようなことを語っていたが、それ以前の、どのような事情でフォルマンがチェコでの撮影を選び、どのように交渉して実現したのかという部分が気になるのである。西ドイツのテレビ局のお金でチェコでドラマが撮影されたり、チェコでは発禁になるような本でもスロバキアでは発行できたり、この時代のチェコスロバキア共産党政権の政策と言うのは一筋縄ではいかないのである。
私が初めてクロムニェジーシュを訪れたのは、今から二十年以上も前、チェコとスロバキアが分離したばかりのころのことだった。チェコ国内を旅行中にオロモウツという町を発見して、荷物を抱えて移動してばかりという生活に疲れていたこともあって、オロモウツを拠点にあちこち足を延ばし、たまには一日中どこにも行かない日も作るという生活に切り替えていた時期がある。その時、ホテルの人などから、ここに行けと薦められて、行ったのがボウゾフ、ヤボジチコ、ヘルフシュティーンなどの観光地なのだが、中でも一番、強引ともいえる方法で薦められたのがクロムニェジーシュだった。
電車の乗り換えとかややこしいから、外国人が一人で行くのは大変だろうと言われて、たまたまクロムニェジーシュ在住で、夜勤明けで午前中に家に帰るアルバイトの大学生の女の子が連れて行ってくれることになった。途中でもあれこれクロムニェジーシュについて説明してくれたのを覚えているけれども、不思議なのは、あの頃はチェコ語は片言もできず、英語は片言以下だったのに、どうしてこんな話ができたのだろうかということだ。
恐らくこのような体験が、多くの人が考える、外国に行けば外国語ができるようになるという幻想の根拠になっているのだろう。しかし、確信を込めて断言しておく。この数か月間の旅行の間、何とかかんとか英語でしゃべれた私の英語力が向上した事実はどこにもない。そして、簡単な数字やあいさつなど多少覚えて帰ったチェコ語が、その後のチェコ語学習に格別に役に立ったということもない。せいぜい忌避感を感じずに済んだというぐらいで、覚えるべき文法や語彙は一から覚えなければならなかったのだから。
もちろん、クロムニェジーシュでは、大司教の城館の見学にでかけたが、ガイドがチェコ語で話す内容はもちろん、入り口で貸してもらえたガイドの話を英語に訳したファイルも、ほとんど何も理解できずに、あれを見てもこれを見ても、ただすげーと思うだけに終わった。その後、チェコ語をまじめに勉強していたころには、毎年のようにこの城館に出かけ、回数を重ねるごとに、少しずつ理解できることが増え、チェコ語もだいぶ上達したなあと一人悦に入っていたのである。これは単に繰り返し聞いたからというわけではなく、日々の学習の成果で、貧しかった語彙が豊かになり、使われる文法事項にもその場で気づけるようになったおかげだと確信している。日々の努力というものは、すべからく甲斐あるべきものである。
1月29日13時30分
この本で、モラバにも来たのだろうか。チェヒ(ボヘミア)より、モラバのほうがいいと思うんだけど。クロムニェジーシュは一見の価値はあるし。1月30日追記。
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