2016年09月26日
Moto GP(九月廿三日)
あれ、いつの間に名前が変わったのだろう。昔はWGPと呼ばれていたような気がするのだけど、ワールドカップだったか、世界選手権だったか確認しようとあれこれ見ていたら、いつの間にかMoto GPに名前が変わっていた。あれ、本来のカテゴリーGP500、GP250、GP125が、GP1、GP2、GP3なんてのに名前が変更されていたここともあったんだっけか。環境保護の観点から、使用エンジンも、かつてのツーストロークから、フォーストロークに変わったなんて話もあったかな。F1もそうだけど、ある意味走る環境破壊であるこの手のレースに関して、環境に配慮するなんてのは偽善でしかない。参戦している自動車会社や、バイク会社としては、社会に対する言い訳として必要なのだろうか。
さて、90年代、最盛期のF1人気に背を向けて、ラリーとバイクの世界選手権を追いかけていた。ラリーは高斎正の小説『ランサーがモンテを目指す時』を読んだ影響で、バイクのほうは森雅裕の『マン島物語』と『サーキット・メモリー』に触発されたものである。自分でもとは考えなかったのは、そっち方面の才能がまったくなかったからだ。運転していてミスして自分ひとりで死ぬだけならともかく、周囲の人まで巻き込むに決まっているのだから、手は出せない。
追いかけていたとは言っても、テレビで中継があるわけでもなく、いやそもそもテレビを持っていなかったな、現在のようにインターネットでリアルタイムで経過を確認できるわけでもなく、新聞や雑誌で結果を確認し、レースレポートを読んでいっぱしのファンのような気分になっていたのだ。ついつい買ってしまっていたスポーツ雑誌のナンバーでも、WGPの特集をやることがあったんじゃなかったかな。F1の次に来るものを探していたのだろうし。
確か1991年だった。鈴鹿での日本GPの125クラスで、ワイルドカードで出場した上田昇選手が優勝して、そのままシーズンフル参戦することになった。同時に、坂田和人選手、若井伸之選手も参戦したので、WGPに参戦する日本人の数が一気に増えて、注目度も上がった。以前から125クラスにはプライベートで参戦しているチームがあったし、250でもメーカーの支援を受けて参戦している選手はいたが、知る人ぞ知るという存在に終わっていたようだ。
そして、93年には、250クラスにヤマハとホンダの支援を受けた原田哲也選手と岡田忠之選手が参戦するなど、WGPに参戦する日本人選手の数は増え続け、一時はイタリアと並んで最多数を占めていたこともあったはずだ。
この93年は、原田選手がフル参戦一年目で総合優勝を飾るという歴史的な年なのだが、一番印象に残っているのは、スペインGPでの若井選手の死だ。生まれて初めて日本を離れようという頃、「東京中日スポーツ」で予選中の事故で亡くなったということを知って、日本人選手はみんな応援していたけれども、91年にデビューした上田、坂田、若井の三選手には特に思い入れがあっただけに、衝撃は大きかった。翌日には、そのレースで125で坂田選手が、250で原田選手が優勝したということを知って、別の意味で衝撃を受けるのだけど。あれは電車の中で読みながら涙が出そうだった。
そしてもう一つ、はるばるやってきたチェコはオロモウツに滞在していたとき、レストランで夕食をとっていたら、日本人だと気づいたのか、いきなり「ハラダ」と声を掛けられたことがある。最初はわけがわからず、えっという顔をしてしまったのだが、その男が、もう一度「ハラダ」と言って、バイクのアクセルを回すしぐさをしたので、ロードレースの原田選手のことを言っているのだと理解できた。レストランを出て行く後姿を見ると革の服を着ていたので、バイク乗りだったのかも知れない。
そのせいで、旅行中に行なわれたレースの結果が知りたくなって、翌日雑誌が売られているお店を探して、WGPの結果が載っていそうな雑誌を買ってしまうのであった。たしか「エンジンの世界(svět motorů)」という月刊誌で、自動車関係が中心だったけど、バイクのレースの結果も載っていた。どのレースの結果が載っていたのかは覚えていないが、まったく理解のできないチェコ語で書かれた雑誌の中に、Haradaなどの日本語の名前を見つけることができたのは、旅に疲れ始めていた身には、大きな喜びだった。日本にいるとき以上に、外国で活躍している日本人の存在を意識して応援するようになっていた。
2000年代に入って、チェコに来るまでは、WGPを結果だけは追いかけていたし、一時テレビが家にあった時期はテレビ東京の深夜の放送で見ていたこともある。あの頃は、各クラスに日本人選手が複数いて、500クラスを除けば優勝争いをするのが当然だったのに、久しぶりに覗いたWGP改め、Moto GPのエントリーリストに日本選手の名前は三つしかなかった。救いはMoto2で中上貴晶選手が一勝していることか。
モータースポーツの場合には、選手の能力だけでなく、メーカーの販売戦略や、スポンサーの意向も参戦できるかどうかの決定に大きな意味を持つから、かつての日本人選手が国内選手権の空洞化が危惧されるほどに次々に参戦するなんてことは起こらないだろうけれども、年に一度ぐらいは、チェコでも報道されるような活躍をしてほしいものだ。残念ながら、中上選手の優勝はチェコのニュースで見た記憶はない。だからもう一回ぐらい優勝してくれないものだろうか。
9月24日23時30分。
片山選手や平選手がWGPに参戦していたころは、まだ何の情報も入ってこない田舎住まいだったので、名前をちらっと聞いたことがある程度に過ぎなかった。9月25日追記。
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