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2016年07月13日

天元五年正月の実資(七月十日)



 『小右記』の天元五年正月の記事の復習が終わったので、それに基づいて実資がどんなことを書いているか、今後一月ごとにまとめてみる。これまでとは違って、書き下し文の引用もせずに、何をしたか、何が起こったかだけ簡単に説明していく。

 一日、つまり元旦には、関白太政大臣である藤原頼忠のところに、午の時だから、お昼ごろに出かけている。実資だけでなく四位、五位官人たちも集まって拝礼が行なわれた。その後、頼忠が参内するのにあわせて、おそらく実資も参内したのであろう。
 特筆すべきは、公卿たちの奏上で小朝拝の儀式が行なわれたことである。その開催が決まるまでの手続きについて、実資が前例を知らないのかと批判している。小朝拝の後に行なわれた節会、つまり酒宴の様子も詳しく記されている。

 二日は、まず左大臣のところや按察大納言のところを訪れた後、頼忠の邸宅での私的な宴会に参加している。皇太子の主催する東宮大饗については、開催されたことは知っているようだが、参入はしていない。その理由が内裏の物忌になっているのだが、物忌でも大饗は行なわれたのだろうか。
 三日は、まず実資が少将となっている右近衛府の大将藤原済時の邸宅での酒宴である。その後、一緒に左大臣源雅信のところに出向いて拝礼をしている。次に右大臣藤原兼家のところで酒宴である。そして内裏へ向かったあと、今度は自邸で蔵人所の人々を集めて宴会を行なっている。蔵人頭の行なうべきことだったのだろうか。その後また内裏で酒宴に参加しているし、左大臣の邸宅でも公卿が集まって酒宴があったというから、平安貴族の正月と言うのは、宴会ばかりなのである。

 四日になってようやく仕事らしい仕事、つまり天皇と太政大臣頼忠の間の叙位についての話し合いの仲介をしている。叙位は毎年ではなく、三年に二度行なうものらしい。しかも内裏の建設が終わって天皇が住み始めた翌年は必ず行うべきなのだという。その結果、五日、六日の物忌を経て、六日に叙位の議が行なわれることになり、実資も五日の晩は内裏に候宿して、六日は早朝から活動している。
 叙位の議では誰にどの位階を授けるかの話し合いが行なわれるのだが、藤原家九条流の道隆が四位下に叙されるのが実資は気に入らない。菅原輔正が四位下に叙されるのも、気に入らないが、遠国に赴任する特別扱いであろうと折り合いをつけている。この日の儀式は子の刻まで続いているので、早朝から働きづめだったということになる。もっとも、早朝という言葉で指される時間がいつなのかについては、検討の必要がありそうではあるが。

 七日は、白馬の節会だが、遅参や遅延、また一部の手続きに問題があったようである。天皇が清涼殿に戻ったのが丑の二点というから、六日の儀式よりも遅くまで節会の宴会が続いたということになる。だから八日の記事がないのは、六日、七日の夜更かしのせいで何もできなかったということかと想像してしまう。

 九日は、検非違使の奏や女叙位のことなどを、太政大臣、左大臣、そして天皇との間でやり取りしている。今夜も宿直である。
 十日は女叙位のついでに、位階を加えるべき人々についてのコメントが続く。さまざまな理由で、叙位に漏れた人々を、女叙位のついでに救済するシステムがあったようだ。外記の勘文に誤りがあって、叙位にもれたなんてのはかわいそうな話である。この日も丑の刻まで議論が続いている。十一日の記事から見ると、この日も内裏に候宿したようだ。

 十二日には、実資の妻(正室かどうかは不明)の兄弟である源惟章に男の子が生まれたことを知ったため、それを穢れとして二日の休暇を請うている。実際に生まれたのは七日なのだが、この手の穢れは、穢れの存在を知ったときから、穢れだというのが当時の認識のようである。

 十三日からは、弓をいる行事である射礼に関係する儀式がつづく。練習だとも言われる荒手結、真手結、そして射礼そのものの関係がいまひとつわからない。何年分も読み込んでいけば多少はわかるようになるのだろうか。それとも『西宮記』あたりの儀式書を読む必要があるのかな。実資の『小野宮年中行事』では、ほとんど何もわからなかった。
 十四日と十五日は、所労があって参内しなかったのに、十五日には何度も呼ばれて結局夜になって参内して、天皇の物忌に参加している。兵部省と近衛府の手結であれこれ問題が起こって、結局深夜を過ぎてから行われたようだ。

 十六日は、踏歌の節会なのだけど、この日も公卿の怠慢で、あれこれ問題が起こっている。このころの公卿ってあんまり真面目ではなかったようだ。誰か行くだろうから、自分は行かなくてもいいやってな感覚だったのだろうか。呼び出されてくるぐらいなら、最初から来いと実資なら言いそうである。

 十七日の射礼は、担当者もちゃんと出てきて問題なく終わったようである。だた、衛門府の厨町で死体が発見されるという穢れが発生している。問題はその厨町で調えた食事が、衛門府の本陣に届けられてそれを食べた人たちが多数いることであった。一応、死体発見の時間と食事が厨町を出た時間を確認して、食事は穢れていないという解釈でけりをつけている。

 十八日には射礼に出られなかった人々を対象にした射遺の儀式が行なわれる予定であったが、近衛の大将が二人ともでてこないという問題が起こる。二人とも穢れが理由になっているが、左大将のほうが軽い穢れなので、召したところ、今度は病気だといって出てこない。大将が一人も参内せず、雨も降っていることから、結局翌日に延期になってしまう。
 実資は毎月十八日には、清水寺に詣でることを習慣としている。これは祖父であり養父でもあった藤原実頼の命日であるためであろう。ただし今月は穢れのために中止している。

 十九日になって、衛門府の厨町死人の穢れが本陣にまで及んでいることが報告される。その結果、太政大臣の決定でいくつかの対策が取られることになる。しかし、穢れに触れたものは陣に参ってはいけないというのは、常識であったろうに、今更通達しなければいけないと言うところに、官人の質の低下が表れているのだろうか。
 この日は賭弓である。前日延期された射遺も行なわれたのだろうが特に記述はない。問題はまた近衛府の大将が出てこないことで、左大将が病気を言い立てるので、廿日まで休暇となっていた右大将が呼び出されることになる。賭弓の儀式自体でも不備が有ったようで、実資だけでなく、左近中将である藤原公季あたりも不満をいだいていたようである。賭弓はよくわからんけど、左側が勝ったようである。

 廿日、廿一日は、左大臣源雅信の孫が十九日元服したという話以外はとくに大事なことは起こっていない。廿二日になると、除目の話が始まる。まずは日程からだが、いろいろな理由で二月六日に行なうのがよさそうだという。この日の記事で興味深いのは頼忠が、密かに天皇に書を奉っていることだ。読んだら破って捨ててくれと奏上している当たり、中身が気になってしかたがない。この後の展開を考えると、頼忠の娘遵子の中宮立后についての話だろうか。
 また、最近、宮中に穢れが多いので、二月に予定されているいくつかの祭について、中止、もしくは延期することを外記に検討させている。

 廿三日の記事では、室町にでかけたという部分が目を引く。実資の邸宅として知られているのは、実頼から伝領した小野宮第であるが、この天元五年当時はまだ二条第に居住していたのである。室町は室町小路に面していた小野宮第のことであろう。

 廿五日からは、天皇の物忌の中、除目の準備が始まる。廿六日に除目についての話し合いが始まるが、太政大臣の頼忠は物忌や所労があって、参内するのは、廿八日になってからである。ただこの日は、右大臣藤原兼家の娘で円融院の女御であった藤原超子が急死したため、兼家が参内しない。

 廿九日から雪が降り始め、卅日は、飛雪というから吹雪にでも襲われたのだろうか。公卿が参内しても、風雪のために会議もできなかったようである。積雪五寸許りというのは、十五センチほど積もったということか。積雪の記事はあまり記憶にないので、これが多いのか少ないのかよくわからない。これも今後の課題である。
7月11日17時。
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