2020年01月03日
ハベル大統領就任(十二月卅一日)
1989年、今から卅前の年末、いわゆるビロード革命の進行中だったチェコスロバキアは年末年始のお祭り騒ぎどころではなかったようだ。11月17日の国際学生の日に、学生たちの反政府デモによって始まったビロード革命は、ハベルを中心とした市民フォーラムの結成によって、デモだけではなく、共産党政権との直接交渉という形でも進んでいた。
その交渉の成果の一つが、翌1990年に連邦議会の総選挙を行うというものだったが、これは何十年かぶりに共産党以外の政党も候補者を立てられる自由選挙として行われることになっていた。当然その選挙で共産党以外の党、市民フォーラムが勝ち、共産党から政権を奪うことが予想されていた。しかし市民フォーラムなどの革命派はそれだけに満足せず、選挙の前、年が変わる前に新たな大統領を選出することを求めた。
話し合いが長引いたのか、順調に進んだのかまでは知らないが、当時の憲法に基づいて大統領の選挙が連邦議会で行われたのは、12月29日のことだった。選挙とはいっても事前にハベルが選出されることが話し合いで決まっているという茶番だったのだが、民主主義的な手続き、もしくは政権交代の儀式として必要なものだったのだろう。ハベル大統領は、選挙当日は朝から自宅で就任演説の最後の推敲に頭を悩ませていたらしい。
プラハ城で行われた連邦議会の恐らく臨時集会で議長を務めたのは、1968年のプラハの春を主導して失脚していたアレクサンデル・ドゥプチェク。ビロード革命で表舞台に再登場したこの人が、連邦議会の議員に選出されていたとも思えないので、どういう事情で議長を務めていたのかは不明だが、革命のドサクサ紛れだったから、どうとでも口実は付けられたのだろう。敗戦直後の日本も同じような感じだったというし。
ちなみに、このドゥプチェクは、自分が大統領になる気満々でスロバキアから出てきたものの、市民フォーラムなど革命派の大統領候補選出に際してハベル大統領に負け、連邦議会の議長の座で満足せざるを得なかったという話である。日本で読んだプラハの春にまつわるドゥプチェク関係の記述から受けた印象と違って、かなりの野心家でプライドの高い人物だったようだ。単なる善良な人が共産党内の権力闘争を勝ち抜いて第一書記なんかになれるわけはないわな。
問題なく大統領に選出され、就任演説をこなしたハベル大統領が向かったのは教会。ここで当時のプラハの大司教の主催する就任のミサに参加している。キリスト教の復権というのも共産党体制の終焉を象徴するものとして受け止められたのだろうが、政教分離云々なんて野暮なことを言う人はいなかったようだ。この程度のことは、キリスト教が社会に染み付いているヨーロッパでは、政教分離の対象にはならないのである。
その後軍隊の閲兵式に望むのだが、ここでハベル大統領にまつわる最大の伝説の一つである短いズボン事件が起こっている。事件というほどのこともないのだけど、整列する軍隊の前を歩くハベル大統領のズボンが妙に短かったことに気付いた人がいて、あれこれ憶測されたのである。この話はハベル大統領がなくなるまで、いや亡くなってからもことあるたびに蒸し返され、冗談のネタにされている。
ハベル大統領はこの件について触れられるのを嫌がっていて、閲兵式の前にズボンを引きずりあげすぎただけで、短かったわけではないと説明していたらしい。その真偽も、チェコの人たちがどこまでその話を信じているのかも知らないが、ハベル大統領をしのぶイベントなんかだと意図的に短いズボンを履いたり、必要以上に引きずり上げて履いたりしている人がいる。
ハベル大統領は、1990年1月1日にテレビで放送された恒例の大統領の新年の挨拶で、それまでの共産党の大統領たちが、あれこれ作られた数字を挙げて我が国は年々発展しつつあると語っていたのに対して、「我が国は発展していない」と語り、「自分は皆さんにうそをつくために大統領に選ばれたわけではない」と続けた。異例の内容だったわけだけれども、こんなことを就任直後に言えてしまうところが、ハベル大統領のハベル大統領たる所以だったのだろう。
また新年早々、政治犯を中心として刑務所に収監されていた多くの人たちに恩赦を与えている。これについては賛否両論いろいろあって、何年か後にバーツラフ・クラウス氏は、数が多すぎて社会に混乱を与えたと批判していた。そのクラウス氏も大統領退任直前に大量の恩赦を与えて批判されていたし、原則として恩赦は与えないと言っていたゼマン大統領も数は少ないけれども、問題のある人に恩赦を与えているから、大統領というのは恩赦を与えると批判されるものなのかもしれない。
ハベル大統領はその後2月のアメリカ訪問の際に議会で、われわれを支援しようと考えているのなら、崩壊の危機に瀕しているソ連を支援してやってくれという内容の演説を行って喝采を浴びた。就任直後のハベル大統領は、どこにいっても伝説的な存在だったのだ。だから、1990年の総選挙までいう短い最初の任期を終えて、改選後の連邦議会で再度大統領に選出されたのも、チェコスロバキアが分離したあと二期大統領を続けたのも当然のことだったのだ。
一説によると、本人はそこまで長く政治の世界にいるつもりはなかったらしいけど、チェコ人がハベル大統領を必要としたのである。
2020年1月1日16時。
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