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2019年10月02日

チェコの君主たち7(九月卅日)



 予定以上に間が開いてしまったが、久しぶりにチェコの歴史の復習をしよう。前回の最後のほうに出てきたプシェミスル・オタカル1世が今回の主役である。この人物、自ら獲得したチェコ、正確にはボヘミアの王位を世襲化することに成功するなど、チェコの歴史において、もっとも重要な君主の一人なのだが、名前の書き方がよくわからない。チェコ語版のウィキペディアでは、「Přemysl Otakar I.」となっているが、参考書の子供向けの歴史の本では、「Přemysl I. Otakar」の順番になっている。
 恐らくこれは、生まれたときの名前はプシェミスルで、後にオタカルという名前が追加されたという事情を反映しているのだろう。でもどちらが正しいのだろうか。日本語だとプシェミスル1世オタカルという表記はあまりにもなじまないが、オタカルをあだ名みたいなものだと考えると、赤髭王フリードリヒ1世なんてのもあるし、オタカル・プシェミスル1世とするのも可能になりそうである。

 それはともかく、プシェミスル1世が最初に君主の地位についたのは、従兄弟のバーツラフを追い落とすことに成功した1192年の初めの事だった。その際、プラハ司教で従兄弟にあたるインドジフ・ブジェティスラフと神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世の支援を得たのだが、プシェミスルは反皇帝の陰謀に参加してしまう。反乱は失敗に終わり、皇帝は1193年にプシェミスルを君主の地位から追い落し、プラハ司教のインドジフ・ブジェティスラフを位に就けた。
 インドジフ・ブジェティスラフはこれによって、世俗の君主の地位と、チェコの教会の頂点であるプラハ司教の地位とを一身に集めることになった。ただし、この君主の交代は簡単に済んだのではなく、両陣営の間に戦闘が行われたようである。忠誠を誓っていたチェコの世俗諸侯に裏切られたプシェミスルは国外に逃亡することになる。

 しかし、早くも1197年には、皇帝ハインリヒ6世の気が変わり、再びプシェミスルをチェコの君主の座につけようとした。しかし、一度プシェミスルを裏切った諸侯は、プシェミスルの復帰を望まず、インドジフ・ブジェティスラフが同年没した後、プシェミスルの弟のブラディスラフ・インドジフを君主に迎えることにした。プシェミスル1世は君主の座を手に入れるために、再び戦わなければならなかったのである。ただし、プシェミスル家には珍しくこの兄弟の対立は、最終的には戦闘ではなく話し合いで解決した。

 ブラディスラフ・インドジフが君主の座に就いたのは1197年の6月のことで、インドジフ・ブジェティスラフの譲りを受けてプシェミスルが復位したのが12月のことだという。ブラディスラフ・インドジフの在位は半年と短かったわけだが、その間に重要なことを一つだけなしとげている。それはプラハの司教に忠誠を誓わせたことで、これによってプラハの司教座は神聖ローマ帝国の支配下から脱することになった。
 退位したインドジフ・ブジェティスラフは、かつて務めていたモラビア辺境伯の地位を得て、モラビアに向かい、ズノイモを拠点にして没した1222年までモラビアを統治したとされる。ただし当初はブルノとオロモウツに封じられたプシェミスル家の一族が存在したため、その統治領域はズノイモ周辺に限られたとも言う。

 君主の座に復帰したプシェミスル・オタカル1世は、1197年のハインリヒ6世の没後、長く続いた神聖ローマ帝国の政治的な不安定さを、自らの地位の向上のために利用した。ホーエンシュタウフェン家のシュバーベンのフィリップとべルフ家のブラウンシュバイクのオットー4世の間で起こったドイツ王位、ひいては神聖ローマ皇帝位をめぐる争いに於いて、まず1198年にフィリップを支援した返礼として、王位を獲得した。そしてその5年後には、オットー4世もその王位を認めることになる。ただしこの時点では、これまでと同様に一代限りの個人に与えられた王位だった。
 プシェミスルは、ローマ教皇との関係も重視し、プラハの司教座を大司教座に昇格させる交渉を持った。このときは認められなかったのだが、当時の教皇イノケンティウス3世は、この件を拒否した代償として、プシェミスルが獲得したボヘミア王の地位の世襲化を認めたと言われている。そして、このボヘミア王の地位を確定させたのが、オットー4世の次の神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世が、1212年にプシェミスルに与えたとされる、いわゆる「シチリアの金印勅書」である。

 この時期の神聖ローマ帝国とローマ教皇の関係は、錯綜を極めそれだけでも理解不能なのだが、そこにチェコの君主の地位、侯爵位、王位、王位の世襲化なんて話が入ってくるとわけがわからなくなる。とまれ、教皇イノケンティウス3世は、フリップとオットー4世の対立では、まずフィリップを支持し、邪魔になると暗殺してオットー支持に鞍替えし、オットーが言うことを聞かなくなると、フィリップの甥のフリードリヒ2世を担いで神聖ローマ皇帝の地位に就けたようだ。プシェミスルもそれをなぞるような動き方をしており、それがボヘミア王位の世襲化につながったのかもしれない。
 キリスト教関係では、プラハの司教のオンドジェイと長年にわたって争うことになった。教会を王権の下につけようとしたプシェミスルの考えは実現せず、プラハ司教を世俗諸侯と同じように扱うことを認めさせられた。ただ、オンドジェイは交渉の過程でプシェミスルを恐れるようになり。イタリアに出た後、二度とチェコに戻ってこなかったらしい。

 またチェコの君主の地位の継承に関して、以前、ブジェティスラフ1世が定め、しばしば継承権争いの原因になってきた、プシェミスル家で最年長の男子が後を継ぐというルールを廃止し、君主の長男があとを継ぐという形に変更した。以後継承権を巡る一族内の争いは無くなったと言えれば最高なのだけど、どうだろう。今後に注目である。

 さて、プシェミスル・オタカル1世という名前だが、チェコではプシェミスルと呼ばれる。それに対して、日本語も含めて外国語ではオタカルと呼ばれることが多い。これはプシェミスル家の人間がプシェミスルという名前をつけるのはおかしいという考えに基づくのだろうか。ただチェコの場合には、パベル・パベルのように名字と名前が同じというのは、ありえないことではない。
 チェコでプシェミスルが優先されるのは、上にも書いたがオタカルが後で与えられた名前だという伝説があるからである。それによると、オットー4世が、それまでの協力に対して感謝の意味も込めて自らの名前、チェコ語ではオタにちなんで与えたのがオタカルという名前だという。これは昔師匠から聞いた話だけど、今ではチェコ語でオタカル1世と言われても誰のことか理解できない自信はある。

 プシェミスル1世は1230年になくなるが、この時点で上の二人の息子が亡くなっていたため、三番目の息子のバーツラフが王位につくことになる。子供向けの本には、プシェミスルが権力を獲得し、維持するために使った手段の中には、あまり宜しくないものもあるけれども、重要なのはその結果、チェコの国が世襲の王国となり、神聖ローマ帝国内で強固な地位を作り上げたことだと書かれていた。具体的にどんなひどいことをしたのだろうか。


 プシェミスル家の君主F
   24代 プシェミスル・オタカル(Přemysl Otakar)1世
                      1192〜117393
   25代 インドジフ・ブジェティスラフ(Jindřich Břetislav)
                      1193〜1197年
   26代 ブラディスラフ・インドジフ(Vladislav Jindřich) 
                      1197年
   ―― プシェミスル・オタカル(Přemysl Otakar)1世 
                      1197〜1230年

日本では鎌倉時代の初め、源氏三代が絶え10年ほどまでが、プシェミスル・オタカル1世の時代である。
2019年9月30日25時。







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何卒宜しくお願い致します。
※既に返信頂いた方・ライター登録頂いた方がおりましたらご放念ください。申し訳ありません。
Posted by スカウトチーム at 2019年10月02日 15:01
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