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2019年08月17日

チェコの君主たち2(八月十五日)



 ブラティスラフ1世の死後、成人してから君主の地位についたバーツラフは、チェコ史の専門家はともかく、我々一般のチェコ史に興味を持つ人間にとっては、謎の存在である。後にチェコの守護聖人になったほどの重要人物なのに、生没年がはっきりしない。それに政治的、もしくは宗教的な志向を、弟のボレスラフを筆頭とする国内勢力に嫌われて暗殺されたバーツラフが、守護聖人になった理由もよくわからない。素人の印象では、チェコの国家よりもキリスト教、いやカトリック側の必要から列聖され、後にカトリックの意向を越えて、チェコ全体の守護聖人になったようにも思える。列聖の歴史的な経緯を知らないから単なる思いつきに過ぎないけど。
 また、バーツラフに関しては、弟のボレスラフとは違って、ブラティスラフ1世の妃であるドラホミーラの子ではないという説もあるようだ。そうなると、ドラホミーラがルドミラとの権力争いに勝った後、バーツラフが君主になるのを認め、バーツラフの暗殺後チェコから姿を消したと言われる理由がわからなくなる。

 とまれ、907年に生まれただろうとされるバーツラフは、922年から925年の間に爵位を継いでチェコの君主となった。ブラティスラフ1世の死からバーツラフの即位までの間は、母親のドラホミーラが政を摂っていたようである。
 宗教の面では熱心なキリスト教信者で、政治的な面では東フランクの権力がバイエルンからザクセンに移ったのを見て取り、ザクセン公、後の東フランク王であるハインリヒに臣従することを決め、毎年平和税とも言われる貢納を行ったらしい。どうも、この二つが理由で、暗殺に至ったようだ。
 熱心なキリスト教徒、言い換えれば異教徒に非寛容なキリスト教の君主として、領域内のキリスト教化を推し進めたことが、当時まだ完全にキリスト教が浸透しきっていなかったボヘミア内の有力氏族たちに嫌われ、西からの軍事的な圧力を減らすためとはいえ、新興のザクセンに臣従して貢納することを嫌う勢力も存在したということだろう。

 バーツラフは、スタラー・ボレスラフで弟のボレスラフ、即位後のボレスラフ1世によって、9月28日に暗殺されるのだが、何年の出来事だったのかについても、929年と935年の二つの説がある。ボレスラフ1世の生まれが915年だとされていることを考えると、929年では若すぎるような気もする。ボレスラフ1世の青年を910年とする説もあるようだが、それなら、929年の暗殺でもよさそうである。ただし、バーツラフの統治期間が短すぎて、後に守護聖人とされるだけの印象をチェコ人に与えられなさそうだという嫌いは残る。
 スタラー・ボレスラフも、恐らく当時はまだムラダー・ボレスラフが建設される前のはずだから、単にボレスラフと呼ばれていたことだろう。そうなると、ボレスラフの領地の街だからボレスラフと名付けられたと考えてよさそうである。ならば、この時点では、街の名前としてもボレスラフも男性名詞だったのではないかと想像してしまう。それが女性名詞に変わったのは、どうしてなのだろう。

 それはともかく、929年か、935年に権力を掌握したボレスラフ1世を待っていたのは、兄のバーツラフが臣従したザクセン、ひいては東フランクとの戦いで、戦争が終わったのは950年のことだという。このとき、ボレスラフ1世は兄に倣って東フランク王のオットー1世の宗主権を認めざるを得なかったのである。
 その後、オットー1世のマジャール人の略奪のための西方侵攻を食い止めるための戦いに参加し、活躍したことで、後の神聖ローマ帝国につながる東フランク王国内での、プシェミスル家の地位を高めることに成功したと言われる。

 ボレスラフ1世の娘のうち、ドブラバは、歴史上実在が確認できる最初のポーランドの君主であるピアスト朝の創始者ミシュコ1世の妃となっている。これによって、チェコとポーランドの君主の間に血縁関係ができ、後のチェコの王位、ポーランドの王位をめぐる、ときに血まみれの争いの発端が築かれたことになる。政治的には正しい判断だったのだろうけど。
 もう一人の娘であるムラダは、プラハにボヘミアで最初の修道院を設立したことで知られる。ベネディクト会の女子修道院だったという。これもまた、西方のキリスト教世界におけるプシェミスル家の価値を高めることになっただろうが、同時に宗教と世俗権力の結びつきを強め、宗教の世俗化と腐敗の発端になったというと、強すぎる批判になるだろうか。

 さて、ボレスラフ1世が、972年に没した後、後を襲ったのは息子のボレスラフ2世だった。ボレスラフ2世は、プラハに司教座を設立することに成功する。この司教座は遠く離れたマインツの大司教座の下に置かれたから、これによってボヘミアのキリスト教は、東フランクのキリスト教からある程度独立したものとなったと考えてよさそうだ。
 また、支配領域を大きく広げることにも成功し、かつての大モラバの中心領域であったモラビア、スロバキア西部だけでなく、シレジアやポーランドのクラクフ地方、ガリツィアまでもがボヘミアの支配下に入ったとされる。

 国内では、東ボヘミアに大きな領地を有し、プシェミスル家と親戚関係にあり、唯一対抗できる存在だったとも言われるスラブニーク家を族滅して、ボヘミアの完全なる統一を達成した。995年の聖バーツラフの命日に居城に集まったスラブニーク家の人々を大人から子供まで皆殺しにし、虐殺を生き延びたのは、二人だけだったという。この二人に、ポーランドへの逃走を許したことが、後にプシェミスル朝に不幸をもたらすことになる。
 ただし、このスラブニーク家の虐殺に関しては、ボレスラフ2世がやったことではなく、スラブニーク家と対立していたブルシュ家が復讐のために行ったのだという説もあるようだ。

 ボレスラフ2世の死後、999年に跡を継いだのは、息子のボレスラフ3世だが、長くなったのでまた明日ではなく次回。

  プシェミスル家の君主A
   4代 バーツラフ(Václav)    922-925ごろ〜929か935年
   5代 ボレスラフ(Boleslav)1世 929か935〜972年
   6代 ボレスラフ(Boleslav)2世 972〜999年

 聖バーツラフから始まる2世代、3人の君主の時代は、日本で摂関政治が確立されて、摂関が常設に近くなる時代と重なる。『後撰和歌集』から、『拾遺和歌集』にかけての時代である。
2019年8月15日23時。










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