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2019年07月11日

チェコの貴族3カウニッツ家(七月九日)



 まず、ジャパンナレッジの『日本大百科全書』から「カウニッツ」の項を引用する。意外なことに『日本大百科全書』以外では立項されていなかった。

オーストリアの政治家。1740年からのオーストリア継承戦争中に外交官、1748年アーヘン平和会議では全権となる。その経験から、プロイセンを抑えるためにイギリス・オランダ依存をやめ、ロシアに加えて、15世紀以来伝統的に敵対関係にあったフランスとの同盟を考えた(外交革命)。1749年マリア・テレジアの承認を得て1750年自らパリ大使となった。1753年にウィーンに戻り宰相となったが、この外交革命は1756年ベルサイユ条約として結実、七年戦争に対処した。シュレージエンの奪回はならなかったが、その後も反プロイセン外交を貫き、内政でもマリア・テレジア、ヨーゼフ2世の啓蒙(けいもう)的諸改革を支え産業育成など国力の充実に努め、音楽、芸術を保護してウィーンの文化を高めた。しかしフランス革命の勃発(ぼっぱつ)に直面して反プロイセン政策が不可能になると、レオポルト2世の死後、1792年宰相を辞し、引退した。
"カウニッツ", 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2019-07-10)


 この内容に取り立て文句はないのだけど、「オーストリアの政治家」に関しては、マリア・テレジアの治世下のオーストリアに、現在のチェコ、つまりボヘミア、モラビア、シレジアの一部が含まれていることは指摘しておきたい。このカウニッツ家は、現在のオーストリアの領域ではなく、モラビアの領域で生まれた貴族家なのである。
 名前もドイツ語で、「Wenzel Anton, Fürst von Kaunitz-Rietberg」と書かれているが、チェコでは名前は「バーツラフ・アントニーン」になる。爵位はもともとは伯爵だったようだが、後に侯爵に昇っている。姓は「ス・コウニッツ」が本来のもので、「z Rietbergu(読み方がわからん)」は、父親のマクシミリアンが妻の父、つまりバーツラフの祖父の死後、その領地と爵位を受け継いだことによるらしい。

 では、「ス・コウニッツ」の由来となった名字の地がどこかというと、ブルノの南西20kmほどのところにあるドルニー・コウニツェである。 十三世紀の前半には、ドルニー・コウニツェに城を築いて本拠地にしていた。その後、1509年にスラフコフを購入してからは、本拠地をスラフコフに移し、居城の改築に手をつけたというから、ナポレオンがアウステルリッツの三帝会戦に際して、滞在したスラフコフの城館はコウニッツ家の手によるものだったのである。ドルニー・コウニツェの城は比較的早い時期に手放され、同地の修道院の所領となったようである。

 コウニッツェ=カウニッツ家は戦いよりも買収によって所領を拡大し、ブルノの近くのジュダーニツェや東モラビアのウヘルスキー・ブロトなどを所領に加えている。ボヘミアにも所領を得ており、16世紀の半ばには、モラビア流とボヘミア流の二つに分かれている。
 カウニッツ家全体を通じて、最も重要で有名な人物は、マリア・テレジアに仕えたモラビア流のバーツラフ・アントニーンであることは間違いないが、一体にモラビア流の人々は家業でもあるかのように、外交官としてヨーロッパ各地で活躍した。しかし、1848年にはアロイス・バーツラフの死によって男系で断絶してしまう。そして財産の多くは分家であるボヘミア流のカウニッツ家によって相続されたという。

 ボヘミアのカウニッツ家のほうは、貴族の反乱に参加したせいで、当初は、所領を没収されるなど苦労していたようだが、三十年戦争の皇帝軍の英雄であるワレンシュタイン将軍の娘と縁を結んだことで状況が変わったらしい。チェコ流のカウニッツ家の、つまりはカウニッツ家最後の人物は、第一次世界大戦直前の1913年に亡くなったバーツラフ・ス・コウニッツである。
 婚姻によって作曲家のアントニーン・ドボジャークと親戚になったバーツラフは、妻の妹夫妻、つまりドボジャーク夫妻を、所領のあったプシーブラムの近くの城にしばしば招待し歓待していた。また、後継者がいないことを知っていたため、ブルノにあったコウニッツェ宮殿を工業学校に寄付したり、後にコウニッツェ寮と名づけられた学生寮の建設を援助したりして、モラビアの高等教育の発展に大きく貢献したのだという。

 オロモウツからドルニー・コウニツェまでは、バスでも電車でも二回乗換えが必要らしい。もう一つの本拠地のスラフコフも近いわりには行きにくいし、カウニッツ家の所領があったところで、一番行きやすいのはウヘルスキー・ブロトということになりそうである。コメンスキーとも縁がある町だし、まだ行ったことないし、この夏足を伸ばしてみようか。
 さて、これで、メッテルニヒについて書いたときからの宿題をやっと終わらせることができた。次はジェロティーン家についてである。
2019年7月10日22時30分。

参考:JUŘÍK, Pavel, Encyklopedie šlechtických rodů,2014, Praha.








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