2019年03月03日
弥生朔日異国にて連用形に思いを致すこと(三月朔日)
昨日の記事も、二月ではなく如月と書けばよかったと今更気づいてしまった。やはり異国の地では、「願はくは花の下にて」なんて感慨は抱きにくいものなのである。「如月の望月のころ」ったって寒いとしか思えなかったし、旧暦と新暦の違いを意識する機会もない。ではなんで今日は弥生を思い出したかというと、連用形について考えていて、岩波の『古語辞典』が連想されたからである。
大学で国文学、国語学を勉強した人なら、先生によっては高校の古文の授業で習って、普通の辞書が動詞を終止形で立項しているのに、岩波の『古語辞典』だけは連用形が使われている。大学の国語学の先生の話では、日本語の動詞が文章中に表れる場合、連用形の形を取ることが一番多いことから、文章中で目にした連用形でそのまま辞書が引けるように、編者の判断で連用形を見出しにしたらしい。編者は日本語タミル語同根説で有名な大野進である。
先生は古文では五段動詞と二段動詞の区別がつけやすくなるようにという目的もあったのではないかと推測していたけど、下二段はともかく、上二段動詞は五段動詞と連用形の形が同じになるからあまり意味がなさそうだと思ったのを覚えている。辞書引いてしまえばそこに活用の種類が書いてあるわけだし、文章中の変化形から終止形を作り出して辞書を引けるようになるのも古文の学習の目的の一つであることを考えると、余計な親切というか、何でこんな引きにくい辞書を作ったのかねえといいたくなる。
閑話休題。
昨日は連用形の名詞化についてよくわからんという話を書いたのだが、普通に使っていながらよくわからない連用形がもう一つあるのに気づいてしまった。移動を表す「行く」「来る」などの動詞とともに使う連用形がそれで、「食べに行く」「取りに帰る」などの「食べ」「取り」は、格助詞の「に」がついているわけである。
格助詞が原則として名詞、名詞に準ずる語につくことを考えると、この連用形の用法も、動詞が動詞のまま使われているのではなく、名詞化しかけたものとして使われているのではあるまいか。「食べに行く」の「食べ」が指しているのは、動詞「行く」の目的であって、別な言い方をすると「食べるために」となるのも、「食べ」が名詞性を帯びているという傍証になるだろうか。
ただ完全に名詞化しているといえないのは、「食べ」の前に文節をつけた場合に、「御飯を食べに行く」と本来の動詞が必要と知る助詞が必要になるからである。これは「かた」をつけて名詞化した「食べ方」の場合は、「御飯の食べ方」となって、「御飯を食べ方」とならないのとは対象的である。
それでもう一つの厄介ごとに気づいてしまった。「食べよう」の場合にはどっちだろう。「御飯をたべようがない」か、「御飯の食べようがない」か。考えているうちに、どちらでもいいような気がしてきた。となると「食べよう」も完全に名詞化しているとは言えないのだろうか。
そもそも、連用形というのは用言につながる、つまり次に来る用言を修飾する形である。同じ用言を修飾する言葉である副詞が、一部で文法のゴミ箱と呼ばれている(こんなことを言うの我々だけじゃないよね)ことを考えると、連用形の使い方が、いや使い方でなく文法的にどう説明sルカという部分が混乱を極めているのも致し方ないことなのだろうと思う。
先に規範となる文法があって、それの基づいて言葉が使われるようになったのではなく、使用されている言葉に基づいて抽出されたルールみたいなものが文法であることを考えると、論理的に説明しきれない部分が出てくるのは仕方がないことである。素人が考えたって結論は出ないのだけど、自分なりに考えるというのが、言葉の勉強では大切なのである。多分。
2019年3月2日23時35分。
タグ:文法
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