2019年03月02日
二月の晦に異国の地にて日本語に思いをいたすこと(二月廿八日)
日本から来た日本語を専門とする先生とお酒を飲みに行ったら、何故か日本語文法の話になった。日本語文法はともかく、国語文法であれば高校大学でみっちり勉強したし、その結果文法オタクの気があるので何とか話についていけたのだけど、日本語の文法というのは、論理的に説明しようとするとややこしいものである。
話は動詞の連用形についてで、連用形に「かた」を付けて方法を表す用法は、どう理解するのがいいのだろうかということだった。例えば「食べ方」なんてのは、全体として名詞扱いになるのは問題ない。では「食べ」の部分は、動詞の連用形として取るのがいいのか、連用形がすでに名詞化したものとして取るのがいいのか、悩ましいところである。
本来名詞であるはずの「かた」に連用形が接続するのは、言ってみれば連用形という名称に対する裏切りである。「食べるかた」のように連体形に接続していれば問題はないのだが、「食べるかた」なんて言わないし、古文であれば「食べむかた」と意志の助動詞「む」を挟むことになりそうだ。いや、連体形を使うなら、素直に「食べる方法」と言えばいいのだが、「食べる方法」と「食べ方」では微妙に違うような気もする。
動詞の連帯家による名詞化は、「光る」から「光」、「話す」から「話」のように、完全に名詞化していて、完全に別な言葉だと認識されて書く際にも連用形の活用語尾を送らないようなものもあれば、「香る」からの「香り」、「臭う」からの「臭い」のように、完全に名詞化しているけど、送り仮名を送るものもあるし、「座りが悪い」の「座り」、「電池の持ちが悪い」の「持ち」などのように使用できる場合が限定的なものもある。それだけでなく、「花を見る」から「花見」、「朝寝る」から「朝寝」のような、単独では名詞として使えない「見」「寝」が前の名詞とともに名詞化する場合もある。何なんだろう。
それはともかく、動詞の連用形に本来名詞であるものが接続して、全体として名詞化するものは他にもある。最初に思い浮かんだのか、「かた」と同様に「方法」を意味する「よう」である。「飲みよう」とか「出よう」とかあるわけだが、本来の昔の用法はともかく、現在では「かた」とはある程度使い分けがなされているような印象がある。
動詞の連用形に「かた」を付けた名詞のほうがより多くの場面で使われているのだが、特に「よう」との比較で言うなら、「かた」は良し悪しなどを評価する際に使われ、「よう」はあるなしを言うの使われる傾向がある。「あの人の食べ方はよくない/きたない」に対して、「こんなの食べようがない」となるのである。いや「よう」を使うと原則として「あるない」と一緒にしか使わないと言ってもいい。もちろん「食べようが悪い」という表現が間違っているとは言わない。ただ現代の日本語と考えると、ちょっと古語的な古臭いイメージを伴うのは否定できないだろう。
そしてよくよく考えてみれば、日本語の名詞の中で形式名詞として使われるものの多くは、動詞の連用形に接続して新たな名詞を作り出せるのである。「こと」であれば「しごと」が一番だろうけど、これは完全に名詞化していて、動詞の連用形に「こと」がついたものとは意識されていないだろう。他にも「賭ける」から「賭け事」、「習う」から「習い事」なんてのが存在する。
他にも「もの」も「食べる」→「食べ物」、「貰う」→「貰い物」なんて具合だし、「ところ」だって、「死ぬ」→「死にどころ」、「頑張る」→「頑張りどころ」となる。「とき」の「書き入れどき」や「売りどき」、「ひと」の「詠みびと」なんかの存在を考えたら、連用形に形式名詞を付けて名詞化するのは日本語では一般的な用法であると言えそうである。
形式名詞に限らず、「挟み虫」「出水」「入り口」なんて普通名詞に連用形がついているものもある。そして、清音で始まる名詞が連用形に付く場合にも、連濁を起していることを考えると、連用形は動詞ではなく名詞として意識されていると考えたほうがいいのだろうか。
連用形の話はもう少し続く。
2019年3月1日24時。
タグ:文法
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