安心というのは信心のことで、親鸞聖人と異なる信心を
異安心といいます。
現代にも存在します。
たとえば、いつどこで救われられたか、を強調します。
これは親鸞聖人も蓮如上人もいわれていないことです。
箝口令が敷かれているかのようにどこにも言われていません。
そして、異安心の人は、自分は救われたと言っているが布教はしません。
親鸞聖人も蓮如上人も救われたと言われていて、恩徳讃の気持ちで布教されています。
もちろん布教していないから、救われてないとはいえません。
三業で他力信心ははからうことはできません。
それも異安心です。
そこにいたら異安心ともいえません。
誘った人は異安心でも、真実にあえるということはあります。
救われたらどうなるかというのはありますが、
こうなっているから救われているというのはありません。
三業で信心をはからおうとしているのは自力の信心てす。
予測されることはあっても断定はできません。
こう言っているから信心決定していないともいえません。
親鸞聖人の教えの理解が浅いだけかも知れませんし、
親鸞聖人の教えを理解していても、ウソを言うこともできますから、
分かりません。
しかしながら、他力の信心を獲ていない人は、みんな自力の信心なので、
共鳴しやすいのです。
すぐに洗脳されてしまいます。
そして、他力の信心からあっという間に離れて行きます。
そしてお世話になったら感謝すべきでしょうに、
他力の信心の人を怨み呪い、批判し始めます。
恐ろしいのは自力の信心です。
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