仏教では私たちの行いを善と悪と分けています。
善悪どちらでもない行いもあります。
これ仏教で無記業と言います。
記別できない。
善悪、分けることができない。
どちらとも言えない、そういう業があります。
これ無記業と言います。
具体的には天気を疑うとか目をぱちぱちするとか。
歩くとか座るとか。
無記業ですから力が弱い。
直接、悪果をもたらすことはない。
でも、くそーっと思って、石を蹴ると悪果が来ますよ。
仏教で行住坐臥と言われますが、起居動作も、直接善悪とは関係ありません。
また技術でも必ずしも、勉強そのものは善悪はない。
悪に使えば悪になりますから。
オウムのようにああいう優れた連中が毒薬を作ったら
せっかく学んだことが恐ろしい結果になります。
善悪どちらでもないというのも仏教ならではです。
プラスでもマイナスでもない。
参考までにいっておくとゼロという概念は印度から生まれたといわれますね。
仏教から生まれたという人がいる。
阿頼耶識そのものは善でも悪でもない。
だから悪業も善業も納まる。
もしも阿頼耶識が元々悪ならば善業は納まらない、阿頼耶識が元々善ならば悪業は納まらない。
だから白紙に例えられる。
プラスでもマイナスでもない。
だから私たちでも助かる。
仏教は性善説でも性悪説でもない。
だから私達のようなものでも強い縁によって救われる。
今は煩悩によって悪の塊で悪を作りつづけていますが、
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