アフィリエイト広告を利用しています
ファン
<< 2023年02月 >>
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        
最新記事
カテゴリアーカイブ
コーヒー(150)
手作り品(76)
(109)
大相撲(48)
健康(45)
社会(308)
生業(133)
お菓子(10)
生活(190)
宗教(12)
美術(8)
物理(4)
スポーツ(76)
哲学(54)
テレビ(67)
世界(58)
心理(19)
政治(190)
メディア(130)
経済(179)
日別アーカイブ

広告

posted by fanblog

2014年06月26日

スンニ派とシーア派

いまイラクで戦闘が激しくなっている。

そこでよく耳にするのが
スンニ派とシーア派の対立という言葉。

スンニ派もシーア派も
教義は全く変わらないイスラム教であって
何をもってスンニ・シーアと分けるのかといえば
信者本人の意向のみである。

本人が自分はシーア派だなあ、と思えばシーア派、
スンニだと思えばスンニ派になる。

だから同じ家族の中でも
スンニ・シーアが同居している家族もある。

そもそもスンニ派・シーア派が何故生まれたかといえば
イスラム教創始者のムハンマドが亡くなったあと、
カリフという統治者が設定された。
その4代目を決める際に
ムハンマドの娘婿のアリーにするか
名門の出のムアーウィヤにするかでもめた。
結局アリーが4代目のカリフになったのだが
それ以後も対立は続いた。

アリーが暗殺された際に
アリーの系統を支持した人たちがシーア派となり
ムアーウィヤを支持した人たちはスンニ派となった。

アリーの子であるフサインが
ムアーウィヤの子であるヤズィードに
カルバラーの戦いで殺害されたため
両派閥が決定的に分裂してしまった。
と同時に
戦いに敗れたシーア派は政治的立場を失い、
スンニ派はウマイヤ朝として勢力を拡大していった。

アリーの義父(従兄弟でもあるが)のムハンマドと
ムアーウィヤの父アブー・スフヤーンは対立した間柄であり、
(ムハンマドのメッカ制圧後にアブー・スフヤーンはイスラムに改宗)
親子孫3代に渡る確執の末にスンニ派とシーア派は生まれた。

カルバラーの戦いが西暦680年。
日本では大海人皇子と大友皇子が争った壬申の乱の8年後になる。
そんな大昔の出来事が現代にまで尾を引いている。

尾を引いているとはいえ、
そうやって宗派間の対立に仕立てているのは
欧米各国であり戦闘当事者である。
イラクの一般的な避難民たちは
インタビューで口をそろえてそう言っている。

それはそうだろうと思う。
両派の遺恨ははるか昔のことである。
マリキ首相がシーア派を優遇しているというのも
身内を優遇しているに過ぎず、
身内から派生した優遇の範囲は
当然シーア派中心となる。
フセイン時代は逆にスンニ派が優遇されていたのだから
その落差が激しいものだったことは容易に想像できる。
スンニ派が反発するのも当然だろう。

派閥の利用は政治抗争の常套手段で
ルワンダのツチ族フツ族間抗争にも見られる。
ツチとフツに分けたのは
植民地化していたベルギー人などの欧米人で
本人たちは普通に隣人として平和に暮らしていた。

だから我々は
スンニやシーアといった記号を
そのまま受け止めるべきではない。
そこにはその記号を利用して
物事を有利に運ぼうとしている勢力があることを
知っておかなければいけない。





posted by 黒豚猫 at 17:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教
この記事へのコメント
コメントを書く

お名前:

メールアドレス:


ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/2533051
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
検索
最新コメント
タグクラウド
プロフィール
黒豚猫さんの画像
黒豚猫
プロフィール
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。