2018年10月16日
拓馬篇後記−5
拓馬は練習場内のマット敷き、神南が床の雑巾がけを分担する。神南の作業位置は練習場の中央。マット一枚が大きいせいでか、拓馬のマット敷き作業は拭き掃除に追いついてしまう。拓馬はマット敷きを一時中断する。
(ほかの作業は……)
依然として平積みされたマットは床の上にある。それらは神南の拭き掃除の邪魔になると予想し、敷いたマットの上へ移すことにした。
進捗の差を察した神南は手をとめる。
「マットを運んだら……ミットを拭く?」
「ここの棚にあるやつ全部ですか?」
「うん、まあ……やれるだけ」
すべてを使う事態は想像しにくいが、なんにしても備品が清潔でこまることはない。拓馬はバケツとミット拭き用の雑巾を調達する。敷いたマットに座り、地道にミットの拭き掃除をした。腰を据えた作業だ。こなすうちに気持ちに余裕が生まれる。
(いまのうちに聞けることを聞いておこうか)
大畑にたずねるには時間的にきびしそうだと思い、神南に話しかける。
「師範代がこの体験会をやろうとした理由、知ってますか?」
「親戚が居候するからお金を稼ぎたい、って……」
「その親戚の人が、夏休み中の指導員をやるんですよね。どういう人だか、知ってます? どうして遠くに行ってて、いまもどってくるのか、とか」
「ぜんぜん……教えてもらえない」
神南も質問は行なったらしい口ぶりだ。彼女は押しの強くない人なので、大畑への追究はひかえたようだ。
「神南さんにも隠してるってわけか。あんまり師範代らしくないな」
「他人に言えない事情があるんでしょ」
「はい。一部『どうしてかは聞くな』って言われちまったし」
釘を刺されたのは、居候がすぐに雇用されることはないという事情についてだった。居候は次週の体験会に空手の指導員として参加するというのだから、病気やケガなどの身体的問題は抱えていないはず。問題があるのは当人の内面か、希望する職種が狭き門であるなどのハードルの高さか。
「どういう人なんだか……」
「……いい指導員で、だれにも迷惑かけてないなら、どんな人だってかまわない」
神南の意見は拓馬の胸にのこった。平時では印象深く感じなかったであろう言葉だ。
(先生……)
拓馬はつい先日、身近にいた人物の重大な謎を知った。そのことが思いがけず連想する。
(あのレベルの他言無用な人はほかにいないだろうけど……しつこく知ろうとしちゃダメだな)
拓馬も訳あり人物の秘密を共有している。もしだれかがその秘密をあきらかにしようとしてきたなら、拓馬はきっと心おだやかでいられなくなる。距離を置きたいと思うはずだ。
「じゃあ、その人とは道場の中だけの付き合いにしておいたほうがよさそうですね」
「でも、拓馬くんなら教えてもらえるかもしれない」
「なんで?」
「あたしはずっと指導員でいるけど、あなたは体験会だけなんでしょ?」
道場にのこらない者になら言える──それはつまり、
「俺ならヤバイ事情を知っても後腐れがないってこと?」
「やばいかは知らないけど……まあそんな感じ」
ようは今後の業務に影響があるかないか、が大畑家の秘密を知れる要因だと神南は言いたいらしい。
「あとは師範代のお気に入り、ってことも」
「そんなに俺って気に入られてます?」
「……あたしはそう見える」
拓馬にその自覚はない。大畑が拓馬に特別目をかけるべき理由がないのだ。もし拓馬が門下生一の優秀な空手家であったならば話はわかるが、強い同年代はほかにもいた。
「どういったところを気に入るんです?」
「どうって……筋のいい子だし……」
「そんなの、ほかにもいるでしょう。神南さんだって──」
「あたしは男になれないからね」
男であることに価値がある、と聞くと、拓馬は背中に悪寒が走る。
「まさか本当に師範代にそのケが……!」
「いや、そうじゃなくて……」
神南が即否定した。そのおかげで拓馬が感じた身の危険はかなり軽減される。
「じゃ、ほかになにが?」
「いまは知らなくていいと思う」
「なんで?」
「あと十年くらいさきの話だもの」
十年。その年数と性別に関わる事柄とは、と拓馬は考えてみたが、練習場の戸が開けられて、思考が逸れる。
「トイレ掃除がおわったぞ! こっちはどうだ?」
大畑が入ってきた。彼は冷房の効いていない場所での作業をしていたせいか、シャツに汗じみが見える。指導員に快適な作業場をゆずるところに、彼のやさしさがあらわれている。
大畑が手際よく清掃をこなしてきた一方で、練習場内の清掃は完了していない。大畑はまだ半分露出した床を見て「きれいに磨いているな!」とポジティブな感想をのべた。狭量な人であれば「まだおわっていないのか」と怒るか落胆しそうなものだ。この大畑はめったなことでは他人をわるく言わない。
「もうすぐ、床掃除がおわります」
神南は雑巾がけの速度を上げた。大畑が「あわてないで」と言う。
「丁寧にやってもらったほうが、ワシはうれしい。次にマットをはがすタイミングはいつになるか、わからないからな。いまのうちにきっちり掃除してくれ」
大畑が言うように、マットを撤去しての掃除は頻繁に行えない。平素は敷いたマットの上を拭くだけにとどまる。その清掃工程は拓馬が門下生時代に学んだことだ。
大畑は雑巾がけが九割がた終了しているのを確認し、練習場内をすすむ。
「おわったところからマットを敷いていこう」
「はい、おねがいします」
神南は大畑にさせない予定だった作業の分担を受け入れた。大畑の助力のおかげで事は順調にすすみ、ミット拭きも一通りやりおわる。
「よし、これで人を入れられるな! では体験会の流れをおさらいしよう!」
大畑が荷物置きの棚から紙を出してきた。紙は罫線が印刷されたルーズリーフ。手書きで今日の行事内容が書いてあった。
「神南さんはもう知ってるが、拓馬くんには教えてないんで、ちょっと一緒に聞いてくれるか」
「はい」
神南が返事をし、大畑のとなりへ移動する。拓馬も神南とは反対側の大畑のそばにいった。
「受付は妻と娘がやる。受付がすんだ人たちはこの練習場で待ってもらって──」
大畑の説明を聞くよりさきに、拓馬は明文化した日程を読解する。簡単に表現すると、拓馬が特別なにかをやらされる展開はない。大畑たちのやることを真似ていればよい。そのことを理解した拓馬は気持ちが楽になった。
説明がおわり、各自が着替えにとりかかる。汗だくな大畑は一度帰宅し、体を洗うのだという。彼だけは汗をかいても平気な環境にあった。それゆえ冷涼な場所での作業は拓馬たちに任せたようだ。
大畑の家は道場のすぐちかくある。帰宅ついでに受付役の妻子の支度具合も確認するのだろう。拓馬たち三人はそれぞれちがう更衣の場所へ向かった。
(ほかの作業は……)
依然として平積みされたマットは床の上にある。それらは神南の拭き掃除の邪魔になると予想し、敷いたマットの上へ移すことにした。
進捗の差を察した神南は手をとめる。
「マットを運んだら……ミットを拭く?」
「ここの棚にあるやつ全部ですか?」
「うん、まあ……やれるだけ」
すべてを使う事態は想像しにくいが、なんにしても備品が清潔でこまることはない。拓馬はバケツとミット拭き用の雑巾を調達する。敷いたマットに座り、地道にミットの拭き掃除をした。腰を据えた作業だ。こなすうちに気持ちに余裕が生まれる。
(いまのうちに聞けることを聞いておこうか)
大畑にたずねるには時間的にきびしそうだと思い、神南に話しかける。
「師範代がこの体験会をやろうとした理由、知ってますか?」
「親戚が居候するからお金を稼ぎたい、って……」
「その親戚の人が、夏休み中の指導員をやるんですよね。どういう人だか、知ってます? どうして遠くに行ってて、いまもどってくるのか、とか」
「ぜんぜん……教えてもらえない」
神南も質問は行なったらしい口ぶりだ。彼女は押しの強くない人なので、大畑への追究はひかえたようだ。
「神南さんにも隠してるってわけか。あんまり師範代らしくないな」
「他人に言えない事情があるんでしょ」
「はい。一部『どうしてかは聞くな』って言われちまったし」
釘を刺されたのは、居候がすぐに雇用されることはないという事情についてだった。居候は次週の体験会に空手の指導員として参加するというのだから、病気やケガなどの身体的問題は抱えていないはず。問題があるのは当人の内面か、希望する職種が狭き門であるなどのハードルの高さか。
「どういう人なんだか……」
「……いい指導員で、だれにも迷惑かけてないなら、どんな人だってかまわない」
神南の意見は拓馬の胸にのこった。平時では印象深く感じなかったであろう言葉だ。
(先生……)
拓馬はつい先日、身近にいた人物の重大な謎を知った。そのことが思いがけず連想する。
(あのレベルの他言無用な人はほかにいないだろうけど……しつこく知ろうとしちゃダメだな)
拓馬も訳あり人物の秘密を共有している。もしだれかがその秘密をあきらかにしようとしてきたなら、拓馬はきっと心おだやかでいられなくなる。距離を置きたいと思うはずだ。
「じゃあ、その人とは道場の中だけの付き合いにしておいたほうがよさそうですね」
「でも、拓馬くんなら教えてもらえるかもしれない」
「なんで?」
「あたしはずっと指導員でいるけど、あなたは体験会だけなんでしょ?」
道場にのこらない者になら言える──それはつまり、
「俺ならヤバイ事情を知っても後腐れがないってこと?」
「やばいかは知らないけど……まあそんな感じ」
ようは今後の業務に影響があるかないか、が大畑家の秘密を知れる要因だと神南は言いたいらしい。
「あとは師範代のお気に入り、ってことも」
「そんなに俺って気に入られてます?」
「……あたしはそう見える」
拓馬にその自覚はない。大畑が拓馬に特別目をかけるべき理由がないのだ。もし拓馬が門下生一の優秀な空手家であったならば話はわかるが、強い同年代はほかにもいた。
「どういったところを気に入るんです?」
「どうって……筋のいい子だし……」
「そんなの、ほかにもいるでしょう。神南さんだって──」
「あたしは男になれないからね」
男であることに価値がある、と聞くと、拓馬は背中に悪寒が走る。
「まさか本当に師範代にそのケが……!」
「いや、そうじゃなくて……」
神南が即否定した。そのおかげで拓馬が感じた身の危険はかなり軽減される。
「じゃ、ほかになにが?」
「いまは知らなくていいと思う」
「なんで?」
「あと十年くらいさきの話だもの」
十年。その年数と性別に関わる事柄とは、と拓馬は考えてみたが、練習場の戸が開けられて、思考が逸れる。
「トイレ掃除がおわったぞ! こっちはどうだ?」
大畑が入ってきた。彼は冷房の効いていない場所での作業をしていたせいか、シャツに汗じみが見える。指導員に快適な作業場をゆずるところに、彼のやさしさがあらわれている。
大畑が手際よく清掃をこなしてきた一方で、練習場内の清掃は完了していない。大畑はまだ半分露出した床を見て「きれいに磨いているな!」とポジティブな感想をのべた。狭量な人であれば「まだおわっていないのか」と怒るか落胆しそうなものだ。この大畑はめったなことでは他人をわるく言わない。
「もうすぐ、床掃除がおわります」
神南は雑巾がけの速度を上げた。大畑が「あわてないで」と言う。
「丁寧にやってもらったほうが、ワシはうれしい。次にマットをはがすタイミングはいつになるか、わからないからな。いまのうちにきっちり掃除してくれ」
大畑が言うように、マットを撤去しての掃除は頻繁に行えない。平素は敷いたマットの上を拭くだけにとどまる。その清掃工程は拓馬が門下生時代に学んだことだ。
大畑は雑巾がけが九割がた終了しているのを確認し、練習場内をすすむ。
「おわったところからマットを敷いていこう」
「はい、おねがいします」
神南は大畑にさせない予定だった作業の分担を受け入れた。大畑の助力のおかげで事は順調にすすみ、ミット拭きも一通りやりおわる。
「よし、これで人を入れられるな! では体験会の流れをおさらいしよう!」
大畑が荷物置きの棚から紙を出してきた。紙は罫線が印刷されたルーズリーフ。手書きで今日の行事内容が書いてあった。
「神南さんはもう知ってるが、拓馬くんには教えてないんで、ちょっと一緒に聞いてくれるか」
「はい」
神南が返事をし、大畑のとなりへ移動する。拓馬も神南とは反対側の大畑のそばにいった。
「受付は妻と娘がやる。受付がすんだ人たちはこの練習場で待ってもらって──」
大畑の説明を聞くよりさきに、拓馬は明文化した日程を読解する。簡単に表現すると、拓馬が特別なにかをやらされる展開はない。大畑たちのやることを真似ていればよい。そのことを理解した拓馬は気持ちが楽になった。
説明がおわり、各自が着替えにとりかかる。汗だくな大畑は一度帰宅し、体を洗うのだという。彼だけは汗をかいても平気な環境にあった。それゆえ冷涼な場所での作業は拓馬たちに任せたようだ。
大畑の家は道場のすぐちかくある。帰宅ついでに受付役の妻子の支度具合も確認するのだろう。拓馬たち三人はそれぞれちがう更衣の場所へ向かった。
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