2018年10月15日
拓馬篇後記−4
体験会の第一回めの日曜日。朝八時まえに拓馬は家を出た。目的地は大畑の道場。道場で着替える稽古着はコンパクトにたたんで黒帯でむすび、帯の部分を手にもった。
大畑が提示した集合時刻は八時半。このままいけば約束を交わした時間より早く到着する。早めに出かけたのは家にいてもおちつかなかったからだ。拓馬には二つの懸念事項がある。
(一時間で用意できるのか?)
八時半とは体験会を受講する人たちの受付開始から一時間さかのぼる時刻。つまり一時間で準備をしようというのだ。本当に一時間程度で準備が完了できるのか心配だった。大畑の作業速度は速いのだが、指導員の女性のほうはそうでもない。彼女は期限に間に合わせるために粗い職務をこなすのをよしとしない。決して仕事ができない人ではないものの、そのへんは少々融通がきかないのだ。
(あとなにをやりゃいいのか、ぜんぜん知らないんだよな……)
拓馬が道場を去ってから五年の月日が経つ。準備運動や基礎の型などはおぼえているが、他人に教えられるほど完璧である自信はない。復習もふくめて、具体的な職務をまえもって知っておきたかった。
ものの数分で道場に着く。その玄関前に屋根部分のみ天幕を張ったテントがあった。テントの中には机と椅子二人分が設置してある。ここで受付をするらしい。真夏で外にいるのはつらいだろうに、と拓馬は受付係の過酷な職務に思いをはせた。
「おお、拓馬くん!」
いきなり野太い声で話しかけられた。大畑だ。私服の男性が道場の玄関から扇風機をかかえてやってくる。
「くるのがすこし早いんじゃないか?」
「あ……準備が大変かと思って」
「やる気マンマンだな!」
上機嫌な大畑は扇風機をテントの下に設置した。受付係に風が当たるように向きを調整する。
「じゃあ道場に入って、神南(かんなみ)さんの手伝いをしてもらおう」
「はい」
拓馬は久々に道場の玄関をくぐった。玄関先にはコンセントの延長コードが足元に伸びている。コードを使って、屋外の扇風機に電力を供給するらしい。地区の納涼祭でもよく見かける手法だ。
(受付……道場の中じゃやれないのか?)
広い玄関を見て、拓馬は疑問に感じた。表にあった机と椅子をこの場に設置しても、人が行き来できる余裕はある。
(どんだけ人がくると思ってんだろ……)
下足箱は数に限界がある。もし客が大多数だったとき、玄関の床に靴がならぶことになる。足の踏み場もないほど靴がならんだとしたら、玄関内に設置した受付場は混雑する。その手際のわるさは客の心がはなれる一因にもなりうる。大勢が詰め寄せる場合において、受付場を外に用意するのは適切な対処だ。
(そんなに人がくるとは思えないけど……)
近隣にはほかに武道の習い事ができる施設がある。特別この道場をえらぶメリットはないように拓馬は感じた。過去に拓馬がこの道場へかよった動機は、たんに家から近かったというだけ。入門してみれば大畑の人のよさをありがたく感じられたが、外部の者がそんな長所を見抜けるだろうか。
(ま、言われたことをやっときゃいいか)
門下生があつまろうとあつまらなかろうと、拓馬には関係のないことだ。分不相応な心配をやめ、下足箱に靴を入れた。練習場へつづく引き戸を開ける。室内から冷気が吹いてきた。エアコンを稼働しているらしい。踏み入れた足の裏も、靴下越しにひんやりしていた。
(あれ? おかしいな……マットがこんなに冷えるわけ──)
床は全面、木製の板ばりだ。かつての記憶では床にジョイントマットが敷きつめてあったのだが。
(なくしたのかな……)
マットなしでの稽古ができないわけではない。だがマットは転倒時の怪我をふせぐための緩衝材だ。その有用さを考慮すると、一切合切を排除してしまうにはもったいない。
拓馬はどこかにマットが置いてないかさがした。すると床を拭く私服の人物を発見した。横幅のある体型からは性別が判別しづらい。だがその人物は女性だと拓馬は知っていた。彼女のことを大畑は神南とよび、ヤマダはルミさんとよぶ。拓馬は無難に名字でよびかける。
「神南さん、おはようございます」
短いポニーテールがゆれた。胴囲のある女性が拓馬を見上げる。
「おはよう……もう手伝いにきたの?」
神南は室内の壁掛け時計をちらっと見た。約束の八時半まで二十分弱の猶予がある。
「着替えてからでもいいんだけど……どうする?」
「どうすっかな……神南さんが着替えてない理由を聞いてもいいですか」
「あたしは……体験会のまえに道着をよごしたら、みっともないと思ったから」
「じゃ、俺も掃除がおわったら着替えます」
拓馬は荷物置き用の木製の棚に自身の空手着を入れた。棚の横には打撃練習用のミットを収納する棚があり、大小さまざまなミットが置いてあった。いくつか新調したようで、見たことのない色や形のものもある。
「やること……」
神南は拓馬への作業指示を考えている。
「マットを敷く?」
神南は練習場の出入口付近の壁を指差した。そこに平積みしたオレンジ色のマットが積み重なっている。
「奥から水拭きと乾拭きをしてる。拭きおわったところにマットを敷いてくれる?」
雑巾を二刀流であつかっていた神南は次に練習場の奥へ指をうごかした。拓馬は指示を実行するまえに、ひとつ気になったことを質問をする。
「このマットはもう洗ってあるんですか?」
「師範代は『きれいにした』って言ってる」
「じゃ、このまんま敷いていきます」
拓馬は一メートル四方のマットを数枚かかえた。練習場最奥の壁側から一枚ずつ設置していく。手持ちのマットを床に置きおえたあとは、マット同士のギザギザした部分を丁寧にくっつけた。やった経験のある作業だ。しばらく距離を置いていた事柄に直面する実感が、このときになってようやく湧き上がった。
大畑が提示した集合時刻は八時半。このままいけば約束を交わした時間より早く到着する。早めに出かけたのは家にいてもおちつかなかったからだ。拓馬には二つの懸念事項がある。
(一時間で用意できるのか?)
八時半とは体験会を受講する人たちの受付開始から一時間さかのぼる時刻。つまり一時間で準備をしようというのだ。本当に一時間程度で準備が完了できるのか心配だった。大畑の作業速度は速いのだが、指導員の女性のほうはそうでもない。彼女は期限に間に合わせるために粗い職務をこなすのをよしとしない。決して仕事ができない人ではないものの、そのへんは少々融通がきかないのだ。
(あとなにをやりゃいいのか、ぜんぜん知らないんだよな……)
拓馬が道場を去ってから五年の月日が経つ。準備運動や基礎の型などはおぼえているが、他人に教えられるほど完璧である自信はない。復習もふくめて、具体的な職務をまえもって知っておきたかった。
ものの数分で道場に着く。その玄関前に屋根部分のみ天幕を張ったテントがあった。テントの中には机と椅子二人分が設置してある。ここで受付をするらしい。真夏で外にいるのはつらいだろうに、と拓馬は受付係の過酷な職務に思いをはせた。
「おお、拓馬くん!」
いきなり野太い声で話しかけられた。大畑だ。私服の男性が道場の玄関から扇風機をかかえてやってくる。
「くるのがすこし早いんじゃないか?」
「あ……準備が大変かと思って」
「やる気マンマンだな!」
上機嫌な大畑は扇風機をテントの下に設置した。受付係に風が当たるように向きを調整する。
「じゃあ道場に入って、神南(かんなみ)さんの手伝いをしてもらおう」
「はい」
拓馬は久々に道場の玄関をくぐった。玄関先にはコンセントの延長コードが足元に伸びている。コードを使って、屋外の扇風機に電力を供給するらしい。地区の納涼祭でもよく見かける手法だ。
(受付……道場の中じゃやれないのか?)
広い玄関を見て、拓馬は疑問に感じた。表にあった机と椅子をこの場に設置しても、人が行き来できる余裕はある。
(どんだけ人がくると思ってんだろ……)
下足箱は数に限界がある。もし客が大多数だったとき、玄関の床に靴がならぶことになる。足の踏み場もないほど靴がならんだとしたら、玄関内に設置した受付場は混雑する。その手際のわるさは客の心がはなれる一因にもなりうる。大勢が詰め寄せる場合において、受付場を外に用意するのは適切な対処だ。
(そんなに人がくるとは思えないけど……)
近隣にはほかに武道の習い事ができる施設がある。特別この道場をえらぶメリットはないように拓馬は感じた。過去に拓馬がこの道場へかよった動機は、たんに家から近かったというだけ。入門してみれば大畑の人のよさをありがたく感じられたが、外部の者がそんな長所を見抜けるだろうか。
(ま、言われたことをやっときゃいいか)
門下生があつまろうとあつまらなかろうと、拓馬には関係のないことだ。分不相応な心配をやめ、下足箱に靴を入れた。練習場へつづく引き戸を開ける。室内から冷気が吹いてきた。エアコンを稼働しているらしい。踏み入れた足の裏も、靴下越しにひんやりしていた。
(あれ? おかしいな……マットがこんなに冷えるわけ──)
床は全面、木製の板ばりだ。かつての記憶では床にジョイントマットが敷きつめてあったのだが。
(なくしたのかな……)
マットなしでの稽古ができないわけではない。だがマットは転倒時の怪我をふせぐための緩衝材だ。その有用さを考慮すると、一切合切を排除してしまうにはもったいない。
拓馬はどこかにマットが置いてないかさがした。すると床を拭く私服の人物を発見した。横幅のある体型からは性別が判別しづらい。だがその人物は女性だと拓馬は知っていた。彼女のことを大畑は神南とよび、ヤマダはルミさんとよぶ。拓馬は無難に名字でよびかける。
「神南さん、おはようございます」
短いポニーテールがゆれた。胴囲のある女性が拓馬を見上げる。
「おはよう……もう手伝いにきたの?」
神南は室内の壁掛け時計をちらっと見た。約束の八時半まで二十分弱の猶予がある。
「着替えてからでもいいんだけど……どうする?」
「どうすっかな……神南さんが着替えてない理由を聞いてもいいですか」
「あたしは……体験会のまえに道着をよごしたら、みっともないと思ったから」
「じゃ、俺も掃除がおわったら着替えます」
拓馬は荷物置き用の木製の棚に自身の空手着を入れた。棚の横には打撃練習用のミットを収納する棚があり、大小さまざまなミットが置いてあった。いくつか新調したようで、見たことのない色や形のものもある。
「やること……」
神南は拓馬への作業指示を考えている。
「マットを敷く?」
神南は練習場の出入口付近の壁を指差した。そこに平積みしたオレンジ色のマットが積み重なっている。
「奥から水拭きと乾拭きをしてる。拭きおわったところにマットを敷いてくれる?」
雑巾を二刀流であつかっていた神南は次に練習場の奥へ指をうごかした。拓馬は指示を実行するまえに、ひとつ気になったことを質問をする。
「このマットはもう洗ってあるんですか?」
「師範代は『きれいにした』って言ってる」
「じゃ、このまんま敷いていきます」
拓馬は一メートル四方のマットを数枚かかえた。練習場最奥の壁側から一枚ずつ設置していく。手持ちのマットを床に置きおえたあとは、マット同士のギザギザした部分を丁寧にくっつけた。やった経験のある作業だ。しばらく距離を置いていた事柄に直面する実感が、このときになってようやく湧き上がった。
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