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2017年11月27日
拓馬篇前記−新人7
男は電話口で、自分が才穎高校の教員に相成ることを知った。また校長の厚意により、校長所有の宿舎に居を移すと決める。この決定は当初の未来予想になかったことだ。男は渡りに船の提案だと思った。高校の隣県にある繁沢の住宅から通うよりもずっと目的が果たしやすくなる。いまの居住地はとある厄介な人物に知られてしまい、いつ鉢合わせになるかと気が気でなかった。もちろん個人的に部屋を借りても良かったのだが、その人物の調査能力の前では時間稼ぎにもなるかどうか。その点、校長の管理する住宅は不動産屋ではおおっぴらに紹介されていないという。数ヶ月を乗りきる確率は、いくらか上がる。
(うまくいきすぎている……)
男はこうあるべきだと運命づけられていたのだろうか。すべては偶然の積み重ねで成り立っていた。
才穎高校の校長の欲する人員が自分に適合したこと、その校長は自身の上司のさらに上司と繋がりがあったこと、自身の上司からあらたな職種として教師を勧められたこと、その上司の身内に教師志望者がいたこと。これらはまったく男の予期しなかった一連の流れだ。そのいずれかが欠落していれば、男は才穎高校の職員になれなかった。
(私はどうあるのが、天の思し召しなんだろうか?)
男は神仏を信仰してはいないが、天命の存在は信じていた。生き物すべてに、あらかじめ定められた本分がある。それはこの国で育った恩師が言っていたことだ。
(ケイ……私は、天命に逆らわない)
務めを果たすのが是か、失敗するのが是か。こたび仕損じれば次はない。その時は、彼女に顔見せできるかもしれない。だがそうなれば自分に使命を課した主人には背くことになる。それもまた、男の本意ではない事態だ。男は自己判断では己の肯定すべき行ないがわからなかった。
入居日、男は持っていけるだけの勉強道具や衣類をトランクケースにまとめて出かける。繁沢の娘も同伴し、彼女に見送られて電車に乗った。男を兄のごとく慕う娘は、男との別居をさびしがった。だが「遊びに来てもいい」と男が言うと、いつもの明るい調子にもどってくれた。それでも去年までの快活ぶりは抑圧されているようだった。感情のかげりの原因は、男との別れが迫ることにあった。
(いいんだ。私の居場所は、シゲさんたちにない)
はじめから同じ道をたどれる同行者ではなかった。男の仲間はべつにいる。その仲間を尊重することは、自分だけができる役割だ。
(あるじが頼れる者は私しかいない)
厳密にはほかにも主人が使役する同胞はいる。だが、主人は男をもっとも厚遇していた。男が左手にはめた指輪がその証拠だ。白い宝石のついたこの指輪をもって、男はこれから為すことの正当性を見出した。
到着駅で羽田校長と合流する。徒歩のすえに着いた住居は三階建てだった。ロフト部屋があるため一階分の天井が普通の一階よりも高くなる。その影響で、外観は他の民家の倍以上抜きんでていた。
校長と男は淡いオレンジ色のブロック塀に囲まれた敷地内へ入る。男に用意した部屋は一階だという。大家である校長が部屋の鍵を開けようとして金属音を鳴らす。男はその後ろで待った。
男は周囲の景観を知りたいと思い、その意識は作業中の校長から外れた。すると人の肉声が耳に入る。声のする方向を見た。塀の奥に二人の女性の気配がする。
『同じアパートの人?』
『知らない。荷物を持ってるし今日から住むんじゃないの』
どちらも若い女性の声だ。二人は友人か姉妹だと男は予想を立てた。片方がこの宿舎を利用していると思われる。塀に身を潜める様子から推察するに、校長らを警戒していることがうかがい知れた。この宿舎に住み慣れた人ならば人目をはばからずに帰宅するところだ。
(恥ずかしがり屋か、まだ入居して日の浅い人か……)
ここへくる道中、今年から宿舎を活用する女子生徒が話題にのぼった。その当人ではないかと男は思った。
『先生なのかしら』
『染髪OKだからって、あんなにやっちゃって』
『ちょっと怖そうね』
男の後ろ姿を一目見た女性たちが第一印象を話しあっている。フォーマルなスーツを着ていようと、この髪の色で人となりの想像をふくらませられるのだ。
(髪を染めても、いいんだったな)
この国のほぼすべてを占める黒髪に変えたなら、もっと普通な教員になれるのだろう。だが自分の姿をいじることは好きでない。できるかぎり、主人が自分だと認識できる部分は保持したかった。それが非合理的な愚行であっても。
ガチャっと開錠の音が鳴る。男の集中は姿の見えない女性たちから逸れた。校長が玄関の扉を開けて「さあ入って」と言い、男は新居に足を踏み入れた。わずかにワックスの香りがたちこめる。清掃済みの証である紙が下駄箱の上に置いてあった。
「この紙はもういらないから、捨てていいよ」
「はい。ゴミだしの時に捨てます」
校長はこまごまとした室内の説明をはじめた。玄関をあがってすぐの物置の場所、天井が低めな台所、その上に位置するロフト、ロフトへ上がる階段兼棚、天井の高い部屋を有効活用したロフトベッドなど、不動産の仲介人のごとき丁寧さで紹介する。
「あと、ここは一階だからねえ。二階の住民によっては物音がするらしいのだよ。だいたい天井に近いロフト部屋かロフトベッドにいる時に、上の階の人が騒がしくすると気になるんだとか。もしうるさかったら私に言ってくれたまえ。ちゃんと注意するから」
「この部屋の上はどなたがお住まいなのですか?」
「ああ、ここへ来る時に話した女子生徒だよ。あの子だったらそんなに騒ぐことはないと思うんだがね」
この場所の真上が例の女子の部屋。彼女と学外で接触するかはともかく、男は心に留め置いた。
「週末はお姉さんが会いにきているそうだよ。金土日あたりは、多少にぎやかしくなるかもしれんね」
「そうですか。では週末に起きる物音には苦情を出しません」
「やさしい男だね、きみは」
一通りの内装の紹介をすませると、校長は次に学校の話をする。
「授業の開始は四月の初旬をすぎたころだが、いまのうちに授業のカリキュラムの相談をしておきたいのだよ。来週の月曜から学校に来てもらえるかね?」
「はい。授業で教える範囲とその進行速度などは私もうかがいたいと思っていました」
「そうかそうか、真面目だねえ」
校長は満足げに笑む。
「あとはすこし気が早いが、始業式の時には新任者にステージに立ってもらうあいさつをよくやっているんだ。けれどきみの場合は一学期だけだから──」
「私は遠慮します。皆さんの貴重なお時間はとらせません」
「貴重かどうかはおいとくが、きみならそう言うと思っていたよ」
男はもう自身の性格が伝わっているのを意外だと感じる。
「目立ちたくないという気持ちが筒抜けになっていましたか」
「ああ、わかるよ。そのサングラスなんかは自分の目の色を気にするから着けてるんだろう? すまないがそれは式典の場には相応しくないなぁ」
「そうですね……」
「きみには式典の参加を無理強いしない。まあ興味があったらこっそりのぞいてくれたまえ。全校生徒が一か所に集まる日はすくないからね」
校長は学校のことは来週にまた話すと言い、帰っていった。男は居室のすみに置いたトランクケースを開ける。中の筆記用具を使い、校長が話した指示をメモ書きした。そして文具類はロフトベッド下の勉強机へ、替えのシャツはロフト下のクローゼットへと収納をはじめる。掃除の好きな男には、こういった整理の時間もささやかな楽しみだった。
(自分の役目など考えなくてもいいから、好きなのか……?)
掃除について思考をめぐらしてみる。この部屋には掃除道具がないことに気付いた。家具家電が備えついているとはいっても、雑事の道具までは付属しないのだ。男は荷物が整理できると日用品を求めて外出した。
(うまくいきすぎている……)
男はこうあるべきだと運命づけられていたのだろうか。すべては偶然の積み重ねで成り立っていた。
才穎高校の校長の欲する人員が自分に適合したこと、その校長は自身の上司のさらに上司と繋がりがあったこと、自身の上司からあらたな職種として教師を勧められたこと、その上司の身内に教師志望者がいたこと。これらはまったく男の予期しなかった一連の流れだ。そのいずれかが欠落していれば、男は才穎高校の職員になれなかった。
(私はどうあるのが、天の思し召しなんだろうか?)
男は神仏を信仰してはいないが、天命の存在は信じていた。生き物すべてに、あらかじめ定められた本分がある。それはこの国で育った恩師が言っていたことだ。
(ケイ……私は、天命に逆らわない)
務めを果たすのが是か、失敗するのが是か。こたび仕損じれば次はない。その時は、彼女に顔見せできるかもしれない。だがそうなれば自分に使命を課した主人には背くことになる。それもまた、男の本意ではない事態だ。男は自己判断では己の肯定すべき行ないがわからなかった。
入居日、男は持っていけるだけの勉強道具や衣類をトランクケースにまとめて出かける。繁沢の娘も同伴し、彼女に見送られて電車に乗った。男を兄のごとく慕う娘は、男との別居をさびしがった。だが「遊びに来てもいい」と男が言うと、いつもの明るい調子にもどってくれた。それでも去年までの快活ぶりは抑圧されているようだった。感情のかげりの原因は、男との別れが迫ることにあった。
(いいんだ。私の居場所は、シゲさんたちにない)
はじめから同じ道をたどれる同行者ではなかった。男の仲間はべつにいる。その仲間を尊重することは、自分だけができる役割だ。
(あるじが頼れる者は私しかいない)
厳密にはほかにも主人が使役する同胞はいる。だが、主人は男をもっとも厚遇していた。男が左手にはめた指輪がその証拠だ。白い宝石のついたこの指輪をもって、男はこれから為すことの正当性を見出した。
到着駅で羽田校長と合流する。徒歩のすえに着いた住居は三階建てだった。ロフト部屋があるため一階分の天井が普通の一階よりも高くなる。その影響で、外観は他の民家の倍以上抜きんでていた。
校長と男は淡いオレンジ色のブロック塀に囲まれた敷地内へ入る。男に用意した部屋は一階だという。大家である校長が部屋の鍵を開けようとして金属音を鳴らす。男はその後ろで待った。
男は周囲の景観を知りたいと思い、その意識は作業中の校長から外れた。すると人の肉声が耳に入る。声のする方向を見た。塀の奥に二人の女性の気配がする。
『同じアパートの人?』
『知らない。荷物を持ってるし今日から住むんじゃないの』
どちらも若い女性の声だ。二人は友人か姉妹だと男は予想を立てた。片方がこの宿舎を利用していると思われる。塀に身を潜める様子から推察するに、校長らを警戒していることがうかがい知れた。この宿舎に住み慣れた人ならば人目をはばからずに帰宅するところだ。
(恥ずかしがり屋か、まだ入居して日の浅い人か……)
ここへくる道中、今年から宿舎を活用する女子生徒が話題にのぼった。その当人ではないかと男は思った。
『先生なのかしら』
『染髪OKだからって、あんなにやっちゃって』
『ちょっと怖そうね』
男の後ろ姿を一目見た女性たちが第一印象を話しあっている。フォーマルなスーツを着ていようと、この髪の色で人となりの想像をふくらませられるのだ。
(髪を染めても、いいんだったな)
この国のほぼすべてを占める黒髪に変えたなら、もっと普通な教員になれるのだろう。だが自分の姿をいじることは好きでない。できるかぎり、主人が自分だと認識できる部分は保持したかった。それが非合理的な愚行であっても。
ガチャっと開錠の音が鳴る。男の集中は姿の見えない女性たちから逸れた。校長が玄関の扉を開けて「さあ入って」と言い、男は新居に足を踏み入れた。わずかにワックスの香りがたちこめる。清掃済みの証である紙が下駄箱の上に置いてあった。
「この紙はもういらないから、捨てていいよ」
「はい。ゴミだしの時に捨てます」
校長はこまごまとした室内の説明をはじめた。玄関をあがってすぐの物置の場所、天井が低めな台所、その上に位置するロフト、ロフトへ上がる階段兼棚、天井の高い部屋を有効活用したロフトベッドなど、不動産の仲介人のごとき丁寧さで紹介する。
「あと、ここは一階だからねえ。二階の住民によっては物音がするらしいのだよ。だいたい天井に近いロフト部屋かロフトベッドにいる時に、上の階の人が騒がしくすると気になるんだとか。もしうるさかったら私に言ってくれたまえ。ちゃんと注意するから」
「この部屋の上はどなたがお住まいなのですか?」
「ああ、ここへ来る時に話した女子生徒だよ。あの子だったらそんなに騒ぐことはないと思うんだがね」
この場所の真上が例の女子の部屋。彼女と学外で接触するかはともかく、男は心に留め置いた。
「週末はお姉さんが会いにきているそうだよ。金土日あたりは、多少にぎやかしくなるかもしれんね」
「そうですか。では週末に起きる物音には苦情を出しません」
「やさしい男だね、きみは」
一通りの内装の紹介をすませると、校長は次に学校の話をする。
「授業の開始は四月の初旬をすぎたころだが、いまのうちに授業のカリキュラムの相談をしておきたいのだよ。来週の月曜から学校に来てもらえるかね?」
「はい。授業で教える範囲とその進行速度などは私もうかがいたいと思っていました」
「そうかそうか、真面目だねえ」
校長は満足げに笑む。
「あとはすこし気が早いが、始業式の時には新任者にステージに立ってもらうあいさつをよくやっているんだ。けれどきみの場合は一学期だけだから──」
「私は遠慮します。皆さんの貴重なお時間はとらせません」
「貴重かどうかはおいとくが、きみならそう言うと思っていたよ」
男はもう自身の性格が伝わっているのを意外だと感じる。
「目立ちたくないという気持ちが筒抜けになっていましたか」
「ああ、わかるよ。そのサングラスなんかは自分の目の色を気にするから着けてるんだろう? すまないがそれは式典の場には相応しくないなぁ」
「そうですね……」
「きみには式典の参加を無理強いしない。まあ興味があったらこっそりのぞいてくれたまえ。全校生徒が一か所に集まる日はすくないからね」
校長は学校のことは来週にまた話すと言い、帰っていった。男は居室のすみに置いたトランクケースを開ける。中の筆記用具を使い、校長が話した指示をメモ書きした。そして文具類はロフトベッド下の勉強机へ、替えのシャツはロフト下のクローゼットへと収納をはじめる。掃除の好きな男には、こういった整理の時間もささやかな楽しみだった。
(自分の役目など考えなくてもいいから、好きなのか……?)
掃除について思考をめぐらしてみる。この部屋には掃除道具がないことに気付いた。家具家電が備えついているとはいっても、雑事の道具までは付属しないのだ。男は荷物が整理できると日用品を求めて外出した。
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2017年11月26日
拓馬篇前記−校長8
面接終了後、校長はデイルへ合格の一報を知らせるのと同時にアパートの見学日候補を伝えた。直近の土曜日はどうか、と言うと彼はすぐに「わかりました」と答える。
「その日から入居してもよろしいでしょうか」
校長は自分が先日そう提案した身でいながら、即答できなかった。すでに彼にはアパートに住んでもらう心積もりだったし、彼が乗り気ならそれは良いことだ。しかし実態を一つも見せずにいきなり部屋に住め、というのは常識はずれのような気がした。そんな言葉がポンと出てしまったのは、その場の勢いによるものだ。前言を撤回したほうがよいと思えた。
校長は礼儀として「内装を見てから決めていいのだよ」とは言ってみた。すると彼は「校長が勧めてくださる住居なら心配はありません」と気のいい返事をする。なかなか人心をくすぐる言い方がわかっているようだ。そもそも数ヶ月の仮住まいなのだから、そこまで慎重に選ばなくてもよさそうなものである。校長は当初の提案を変更せずにおいた。
二人の待ち合わせはアパートから徒歩圏内の最寄駅にした。そこで校長は隣県から来るデイルを迎える。彼は事前に告げた時間通りに現れた。片手には黒いビジネス鞄を、反対の手にはキャスターのついたトランクケースを引くスーツ姿だ。まるきり出張に訪れたビジネスマンに見える。ただし目元にある黄色のサングラスと、ジャケットからのぞく黒に近い灰色のシャツは、一般的な会社員の風体とは程遠かった。これが彼の理想とする校内での格好なのだろう。
「私服でもよかったのだがね」
校長は青年の服装を雑談の起点としつつ、町中を歩いた。目指すは私財を投じて建設した宿舎だ。
「これが私の普段着です。荷物が減りますし問題ないかと思います」
校長はもったいないと感じる。この若者はモデル並みに見栄えしそうなのだが。
「うむむ、オシャレには興味ないのかね?」
「はい。ファッションセンスというものには縁がないので」
「それは意外だなぁ……」
「学ぶ必要のない知識だと割り切っていますから」
「むう、そのぐらいストイックでないと文武両道ではいられないか」
すべての分野で平均以上を保ちつつ、最高の仕事をこなすことは非現実的だ。とある一流のエンジニアは毎日同じ柄のシャツとズボンを着て生活するらしい。自分に合う服の色、流行、服の組み合わせなどの思考時間を惜しむからそうするのだ。節約した時間をも活用することで、さらなる仕事の成果をあげられるのだろう。ある面で優秀な成績を残すには、どこかでリソースを減らさねばならぬという一例だ。
デイルは一流の武芸者だと大力会長が絶賛した。デイルはさらに一定の知識や人格を求められる教師をやろうとしている。彼は二十代の若さながらも充分すぎるほどに能力を拡張してきた。これはあらゆるものを犠牲にして成り立つ境地だろう。その代償となる一般的、常識的な部分は欠けていても仕方がないのだ。
「その様子だと、きみは時間があれば体を鍛えたり勉強したりしてきたのかね」
「はい」
「修行僧みたいだねえ。あまり遊んでこなかったようだが……仕事には関係しない、楽しいと思うものはあるのかね?」
「楽しい……」
デイルは静かに視線をあげた。電信柱の上に羽を休める鳶(とんび)を真顔で見ている。
「動物は好きです。これは楽しいもののうちに入るでしょうか?」
求道者的な若者は存外かわいい趣味持ちだ。校長はギャップを感じる一方で安心する。
「ああ、入るとも。愛らしい動物とふれあうおかげで、毎日元気に働ける人もいるからね」
「校長は私の活力のもとをおたずねになったのですか」
デイルはほほえみながら校長の顔色をうかがった。校長は自分の質問が適切でなかったとかえりみる。
「そうだね、生きがいと言ったほうがわかりやすかったかな。これがあれば元気が出る、といったものを持つ人は強い。教師はパワフルな生徒たちにぶつかっていく仕事だからね。どんなにへこたれても立ちなおれる方法があると頼もしいのだよ」
むろん「仕事が生きがい」という人もいるがね、と校長は年若い人からは同意を得にくい例も出した。デイルはさびしそうに笑う。
「私は『仕事がいきがい』だと言えそうにありませんね……」
「それは教師を長く続けられないからかね?」
「はい。一学期を終えて、この国を発ったら……むかしの稼業にもどるつもりです」
「どんな仕事なのか聞いてもいいかな?」
デイルは校長の見たことのない険しさをただよわせる。見る人によっては不機嫌とは捉えられない程度の変化だ。校長は彼の不興を買ってしまったのだと焦る。
「ムリに言わなくていい。国がちがえば説明しにくい仕事もあるだろう」
「はい……表現がむずかしいです。この仕事は私の身体能力をフルに活用する、とだけ言えます」
若者の機嫌が元通りになった。校長はほっとする。
(ふう、気まずいままでアパートの紹介はしづらいからねえ)
校長はデイルの詮索はやめた。まだ二回しか顔を合わせていない相手だ。つっこんだことを聞きすぎたのかもしれない。校長は方向性を変え、彼の拒む理由のないアパートについて紹介をはじめる。
「これから見せる住居はね、ロフト部屋があるのだよ。物を置くスペースは多いほどいいだろうと思って設計したんだ。長く教師をやればいろいろ入り用になるからね」
「才穎高校の教員のために建てたのですか?」
「ああ、社宅みたいなものだ。だけど生徒も希望すれば住める」
「自宅から通えない生徒が利用するのですね」
「そのとおり。来年度からも一人、生徒が入居する。この子は複雑な事情を持った女子生徒でね……」
「身内のパパラッチ被害のせいで転入する生徒、ですか?」
校長からは彼に伝えていない情報だ。校長の知らぬ間にデイルに知らせた人物がいるらしい。あまり口外できる内容ではないので、知っている教師はごく一部。彼と単独で接触した既知の者というと、教頭か。
「おや、もう知っていたのかね」
「はい、面接の日に教頭先生からそうお聞きしました。私が採用されれば、その生徒の面倒も看てほしいと。この指示は校長のお考えなのでしょうか?」
「いや、私は決定事項だとは考えていないよ。きみに看てくれたらうれしいとは思うが、いかんせん、男嫌いな女の子のようでね」
転入のいきさつを知れば無理もない拒絶だった。無辜の子どもとその姉妹が、心無い男性の飯の種になっているという。その男性には、女子生徒の父親も含んでいた。ただし父親は今回の事件と直接の関係はない。困っている娘への援助を一切しないという他人同然の人物らしい。
「教頭は女性だからなんとも感じなかったんだろうねえ。だけど私たち男の身ではどう接していいものか」
「その生徒と男性職員が関わることは避けたいのですね」
「そうなのだよ。よかれと思って接することも彼女の負担になってしまう。だから彼女の担任を女性にしようかと迷っているところだ」
「迷う? なぜですか」
デイルは「女性一択だ」と思っているようだ。校長もほかのクラス構成を考えなければ彼と同じ考えでいただろう。
「生徒同士の関わりを考慮すると、担任は男性だと決めたクラスに彼女を入れたいと思うのだよ」
「そのクラスの生徒は優しい子が多いと?」
「まあそういうことだ。ハートの熱い子が多くて……その中に、きみに監督してほしい子がいるんだが」
「わかりました。ではまとめて見守ることにします」
嫌な顔をせずにデイルは引き受けた。追加の依頼であっても気前よく承知してくれるのを、校長はすまなく思う。
「いろいろと難題を押しつけてしまってわるいね。就業時間外の行動が多くなってしまうだろうに、手当てを出してあげられないのが心苦しい」
「いえ、もとより一部の生徒の見守りは承知していますので」
「そこでだ、特別にきみの家賃はタダにしたい──」
「そういった配慮は生徒にしてあげてください。彼らは一人暮らしをするだけでも大変でしょうから」
校長は家賃の全額免除を断られるとは思っていなかった。おまけにその免除はより弱き者にせよ、と勧めるとは。無欲な生き仏を前にして、校長は頭の下がる思いがこみあげる。
(こんなに殊勝な若者がいるものだなぁ!)
ほんの数ヶ月しかいられないのを惜しく感じた。だが正直にそう言っては彼を苦しめるだけだ。校長は当たり障りのない、アパートの設備について話していく。そうして社宅兼学生寮のアパートに到着した。
「その日から入居してもよろしいでしょうか」
校長は自分が先日そう提案した身でいながら、即答できなかった。すでに彼にはアパートに住んでもらう心積もりだったし、彼が乗り気ならそれは良いことだ。しかし実態を一つも見せずにいきなり部屋に住め、というのは常識はずれのような気がした。そんな言葉がポンと出てしまったのは、その場の勢いによるものだ。前言を撤回したほうがよいと思えた。
校長は礼儀として「内装を見てから決めていいのだよ」とは言ってみた。すると彼は「校長が勧めてくださる住居なら心配はありません」と気のいい返事をする。なかなか人心をくすぐる言い方がわかっているようだ。そもそも数ヶ月の仮住まいなのだから、そこまで慎重に選ばなくてもよさそうなものである。校長は当初の提案を変更せずにおいた。
二人の待ち合わせはアパートから徒歩圏内の最寄駅にした。そこで校長は隣県から来るデイルを迎える。彼は事前に告げた時間通りに現れた。片手には黒いビジネス鞄を、反対の手にはキャスターのついたトランクケースを引くスーツ姿だ。まるきり出張に訪れたビジネスマンに見える。ただし目元にある黄色のサングラスと、ジャケットからのぞく黒に近い灰色のシャツは、一般的な会社員の風体とは程遠かった。これが彼の理想とする校内での格好なのだろう。
「私服でもよかったのだがね」
校長は青年の服装を雑談の起点としつつ、町中を歩いた。目指すは私財を投じて建設した宿舎だ。
「これが私の普段着です。荷物が減りますし問題ないかと思います」
校長はもったいないと感じる。この若者はモデル並みに見栄えしそうなのだが。
「うむむ、オシャレには興味ないのかね?」
「はい。ファッションセンスというものには縁がないので」
「それは意外だなぁ……」
「学ぶ必要のない知識だと割り切っていますから」
「むう、そのぐらいストイックでないと文武両道ではいられないか」
すべての分野で平均以上を保ちつつ、最高の仕事をこなすことは非現実的だ。とある一流のエンジニアは毎日同じ柄のシャツとズボンを着て生活するらしい。自分に合う服の色、流行、服の組み合わせなどの思考時間を惜しむからそうするのだ。節約した時間をも活用することで、さらなる仕事の成果をあげられるのだろう。ある面で優秀な成績を残すには、どこかでリソースを減らさねばならぬという一例だ。
デイルは一流の武芸者だと大力会長が絶賛した。デイルはさらに一定の知識や人格を求められる教師をやろうとしている。彼は二十代の若さながらも充分すぎるほどに能力を拡張してきた。これはあらゆるものを犠牲にして成り立つ境地だろう。その代償となる一般的、常識的な部分は欠けていても仕方がないのだ。
「その様子だと、きみは時間があれば体を鍛えたり勉強したりしてきたのかね」
「はい」
「修行僧みたいだねえ。あまり遊んでこなかったようだが……仕事には関係しない、楽しいと思うものはあるのかね?」
「楽しい……」
デイルは静かに視線をあげた。電信柱の上に羽を休める鳶(とんび)を真顔で見ている。
「動物は好きです。これは楽しいもののうちに入るでしょうか?」
求道者的な若者は存外かわいい趣味持ちだ。校長はギャップを感じる一方で安心する。
「ああ、入るとも。愛らしい動物とふれあうおかげで、毎日元気に働ける人もいるからね」
「校長は私の活力のもとをおたずねになったのですか」
デイルはほほえみながら校長の顔色をうかがった。校長は自分の質問が適切でなかったとかえりみる。
「そうだね、生きがいと言ったほうがわかりやすかったかな。これがあれば元気が出る、といったものを持つ人は強い。教師はパワフルな生徒たちにぶつかっていく仕事だからね。どんなにへこたれても立ちなおれる方法があると頼もしいのだよ」
むろん「仕事が生きがい」という人もいるがね、と校長は年若い人からは同意を得にくい例も出した。デイルはさびしそうに笑う。
「私は『仕事がいきがい』だと言えそうにありませんね……」
「それは教師を長く続けられないからかね?」
「はい。一学期を終えて、この国を発ったら……むかしの稼業にもどるつもりです」
「どんな仕事なのか聞いてもいいかな?」
デイルは校長の見たことのない険しさをただよわせる。見る人によっては不機嫌とは捉えられない程度の変化だ。校長は彼の不興を買ってしまったのだと焦る。
「ムリに言わなくていい。国がちがえば説明しにくい仕事もあるだろう」
「はい……表現がむずかしいです。この仕事は私の身体能力をフルに活用する、とだけ言えます」
若者の機嫌が元通りになった。校長はほっとする。
(ふう、気まずいままでアパートの紹介はしづらいからねえ)
校長はデイルの詮索はやめた。まだ二回しか顔を合わせていない相手だ。つっこんだことを聞きすぎたのかもしれない。校長は方向性を変え、彼の拒む理由のないアパートについて紹介をはじめる。
「これから見せる住居はね、ロフト部屋があるのだよ。物を置くスペースは多いほどいいだろうと思って設計したんだ。長く教師をやればいろいろ入り用になるからね」
「才穎高校の教員のために建てたのですか?」
「ああ、社宅みたいなものだ。だけど生徒も希望すれば住める」
「自宅から通えない生徒が利用するのですね」
「そのとおり。来年度からも一人、生徒が入居する。この子は複雑な事情を持った女子生徒でね……」
「身内のパパラッチ被害のせいで転入する生徒、ですか?」
校長からは彼に伝えていない情報だ。校長の知らぬ間にデイルに知らせた人物がいるらしい。あまり口外できる内容ではないので、知っている教師はごく一部。彼と単独で接触した既知の者というと、教頭か。
「おや、もう知っていたのかね」
「はい、面接の日に教頭先生からそうお聞きしました。私が採用されれば、その生徒の面倒も看てほしいと。この指示は校長のお考えなのでしょうか?」
「いや、私は決定事項だとは考えていないよ。きみに看てくれたらうれしいとは思うが、いかんせん、男嫌いな女の子のようでね」
転入のいきさつを知れば無理もない拒絶だった。無辜の子どもとその姉妹が、心無い男性の飯の種になっているという。その男性には、女子生徒の父親も含んでいた。ただし父親は今回の事件と直接の関係はない。困っている娘への援助を一切しないという他人同然の人物らしい。
「教頭は女性だからなんとも感じなかったんだろうねえ。だけど私たち男の身ではどう接していいものか」
「その生徒と男性職員が関わることは避けたいのですね」
「そうなのだよ。よかれと思って接することも彼女の負担になってしまう。だから彼女の担任を女性にしようかと迷っているところだ」
「迷う? なぜですか」
デイルは「女性一択だ」と思っているようだ。校長もほかのクラス構成を考えなければ彼と同じ考えでいただろう。
「生徒同士の関わりを考慮すると、担任は男性だと決めたクラスに彼女を入れたいと思うのだよ」
「そのクラスの生徒は優しい子が多いと?」
「まあそういうことだ。ハートの熱い子が多くて……その中に、きみに監督してほしい子がいるんだが」
「わかりました。ではまとめて見守ることにします」
嫌な顔をせずにデイルは引き受けた。追加の依頼であっても気前よく承知してくれるのを、校長はすまなく思う。
「いろいろと難題を押しつけてしまってわるいね。就業時間外の行動が多くなってしまうだろうに、手当てを出してあげられないのが心苦しい」
「いえ、もとより一部の生徒の見守りは承知していますので」
「そこでだ、特別にきみの家賃はタダにしたい──」
「そういった配慮は生徒にしてあげてください。彼らは一人暮らしをするだけでも大変でしょうから」
校長は家賃の全額免除を断られるとは思っていなかった。おまけにその免除はより弱き者にせよ、と勧めるとは。無欲な生き仏を前にして、校長は頭の下がる思いがこみあげる。
(こんなに殊勝な若者がいるものだなぁ!)
ほんの数ヶ月しかいられないのを惜しく感じた。だが正直にそう言っては彼を苦しめるだけだ。校長は当たり障りのない、アパートの設備について話していく。そうして社宅兼学生寮のアパートに到着した。
タグ:羽田校長