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2017年12月08日
拓馬篇前記−美弥6
美弥たちは喫茶店での歓談を惜しみつつ、帰路をたどる。帰宅ルートはなるべく大通りを避けた。この土地は都会ではないので、通行人とあまりすれちがわない道は簡単に見つかった。美弥たち姉妹の警戒心がゆるむ。二人は道中、声のトーンを抑えながら雑談を交わした。
美弥はみちるがユニークな人物だと知っていたが、雇われ店員のマヨもまた愉快な人だった。マヨは美弥の印象に強く残っている。素朴ながらも個性的な女性は、律子らの想定にいなかった店の者だ。その人物が意外にもムードメーカーを担っている。心にささくれを持つ美弥たちにはマヨの存在が保湿剤のごとく癒しになった。
「あの人が才穎高校の卒業生かぁ……」
「ちょっと残念ね。美弥の同級生だったらよかったけれど」
「ああいうドジっ子が友だちじゃ、毎日が大変だと思う」
律子はマスク越しにふふっと笑う。
「そうね、きっと大変よ。でもさびしくはならなさそう」
いまの美弥たちに足りないものは陽気さだ。その成分がみちるの店にいることで補われた。律子は「またいっしょに行く?」と提案する。
「ほかのお客さんのいる時間にもおじゃましたいな」
「でも変装は? マスクをとったらバレちゃう」
入店時、二人は最初にマヨに出会った。マヨはマスク状態の律子を律子だと断定しなかった。しかしながら、彼女は前もって律子が来ることを知っていた口ぶりだった。それがマスクを外せば律子が有名人だと確信したのだ。マスクの擬態効果は大いにある。だが飲食をする場において、口の隠れるマスクを常用する客は不自然きわまりない。
「黒いサングラス……とか?」
「食事中もかけっぱなしじゃ『ヘンな人だ』って注目されない?」
日差しのない屋内でも四六時中、黒いレンズで目元を隠す人はいるだろう。そういった人はたいがい男性だ。それもいかつく、怖いイメージがある。柔弱な律子には不一致のアクセサリーだ。その違和感は他者の視線を集めてしまう。会った瞬間は律子だと思われなくとも、いずれ勘付かれる。美弥はそこが難点だと感じる。
「じっと見られたらきっとバレる」
「そうね……だけど準備中のときにばかり行くのは、仕事のジャマになるだろうし」
準備中は店内の清掃をしたり、次の営業時間のために料理の下ごしらえをしたりする時間だ。その作業時間に訪問することは、いたずらに相手方の仕事を増やす行為になる。
「うーん……いっぺんサングラスをかけてみて、それでバレないかためしてみる?」
当座はマスク以外の顔隠しを試験的に実施することに決めた。話題は変装道具に移る。
「サングラス、持ってたっけ?」
「夏場の外出用に持ってる」
「じゃ、あたらしいのは買わなくていいのね」
「うん……でも男性用だから、ちょっと合わないかも」
美弥は耳を疑った。男っ気のない律子が、男性向けの物を所有しているという。
「だれからもらったの?」
「え? ああ、エキストラの人……だったかな。通販で買ったんだけれどサイズが小さかったんだって。『律子さんなら顔ちっちゃいからかけられますよ!』とか言われて、もらっちゃった」
「下の名前でよばれてるの?」
「相手のほうが年上だったし……そんなもんじゃない?」
律子は淡泊に答える。美弥は自分の知らないところで姉に恋人ができているのではないかと疑ったが、どうもそうではないようだ。律子は妹の憶測を察し、その疑惑を笑い飛ばす。
「ふふ、恋人だったらちゃんと美弥に伝えるから。安心して」
「そう、よね。お母さんがよく言ってたもん。『律子は早く信頼できる男の人を見つけなさい』って……私も、そう思ってる。お姉ちゃんを守ってくれる、しっかりした人が──」
律子はその容姿ゆえにやましい心を持った異性をも惹きつけてしまう。早期に既婚者になってしまえば、悪い虫は寄りつきにくくなる。あわよくば夫の家族が、頼れる親類のいない姉妹の縁者になってくれる。これほど心強いことはないだろう。律子も同じ考えだと示すようにうなずく。
「みちるさんも『結婚したらいいんじゃないの』と言ってたね」
その意見はパパラッチ被害を未然に防ぐ解決策として提示された。オカマタレントであるみちるの実体験が裏にひそんでいるのかは知らないが、律子を支える人物がいてほしいのはたしかだ。
「お姉ちゃんは気になる人がいないの?」
「うん……だれを信用していいんだか、よくわからない。美弥が『いい』って言うような人がね……」
「べつに、私の好みに合わせなくていいのよ。お姉ちゃんの旦那さんだもん」
「美弥が信じられる人なら、安心なの。わたしは人を見る目がないから……」
律子の自己評価は正当だ。しかし美弥は姉の考えに不安を抱く。
(私の観察力だって、そこまで正確か……)
良い人だと姉に薦めた男性が、とんでもないダメ男だったとしたら。いうまでもなく姉は不幸になる。だがそれ以上に取り返しのつかない事態もありうる。
(ダメ男に引っ掛かったら別れればいい……でも、私が『ダメ』だと思った人が、ほかの女性と幸せな家庭を築けていたら……私は、きっと後悔する)
人それぞれに相性はある。律子とは歩調が合わない男性でも、律子と異なるタイプの女性と抜群によい関係を構築する可能性はあるだろう。だがその時になって、「あの人は姉以外の女性と結婚したからうまくいってる」と胸を張って言えるだろうか。その幸福な家庭に、そのまま律子をあてはめて「ほんとうならあそこに姉がいたのに」と思ってしまうのではなかろうか。
そもそも美弥は男嫌いである。きっと良い人なのだ、と思える相手であろうと、その人の良さに裏があるのでは、と心のどこかで疑ってしまう。律子のことをまことに想う男性が目の前に現れても、おそらく美弥は拒絶する。
「……私には、お姉ちゃんの結婚相手を決める力がないと思う」
「そう? 美弥の言うことはけっこう当たると思うけど」
「男性はてんでダメ。みーんな悪者に見えちゃうもん」
「それは、美弥だとそうなのよね……」
「うん、だから──」
「じゃあさきに美弥の男性不信を治しちゃいましょ」
「え?」
律子の問題を論じていたはずが、なぜか美弥が抱える問題解決に転じた。律子は「そんなにおどろくこと?」と不思議そうに小首をかしげる。
「そのほうがいいでしょ? わたしが美弥に『この人とお付き合いしてる』って恋人を会わせたときに、美弥がツンツンしちゃったら気まずいもの」
「あ、まあ……」
「まずは男の人と簡単なあいさつをすることから始めましょうよ。わたしか、みちるさんたちと一緒のときでいいから」
挨拶くらいはできる。だが精神的負担はある。その負担を感じにくくさせること。それが美弥に課されたトレーニングだ。美弥は律子の出すハードルの低さに安堵した。やれることから徐々に慣れていけばいいのだと思うと、途方もない嫌悪感は永遠に続くわけではない気がした。
新規努力目標を立てた美弥はアパートを目前にして足を止める。宿舎の敷地内への入り口付近に、男性が立っている。その男性は今日から入居するらしい、灰色髪のスーツ姿の人物だ。彼は塀の上に座る猫をなでていた。律子が「チャンスね」と美弥にささやく。
「同じアパートの人でしょ。話しかけていい相手よ」
「でも、あんな、髪を染めてる人……」
「猫をかわいがってるじゃない。こわくなさそうよ」
わたしも一緒だから、と律子が美弥の手を握る。美弥は観念した。第一、部屋にもどるには男性のそばを通らねばならない。声掛けを推奨されるべき状況だ。美弥は姉に手を引っ張られるかたちで前進した。
美弥はみちるがユニークな人物だと知っていたが、雇われ店員のマヨもまた愉快な人だった。マヨは美弥の印象に強く残っている。素朴ながらも個性的な女性は、律子らの想定にいなかった店の者だ。その人物が意外にもムードメーカーを担っている。心にささくれを持つ美弥たちにはマヨの存在が保湿剤のごとく癒しになった。
「あの人が才穎高校の卒業生かぁ……」
「ちょっと残念ね。美弥の同級生だったらよかったけれど」
「ああいうドジっ子が友だちじゃ、毎日が大変だと思う」
律子はマスク越しにふふっと笑う。
「そうね、きっと大変よ。でもさびしくはならなさそう」
いまの美弥たちに足りないものは陽気さだ。その成分がみちるの店にいることで補われた。律子は「またいっしょに行く?」と提案する。
「ほかのお客さんのいる時間にもおじゃましたいな」
「でも変装は? マスクをとったらバレちゃう」
入店時、二人は最初にマヨに出会った。マヨはマスク状態の律子を律子だと断定しなかった。しかしながら、彼女は前もって律子が来ることを知っていた口ぶりだった。それがマスクを外せば律子が有名人だと確信したのだ。マスクの擬態効果は大いにある。だが飲食をする場において、口の隠れるマスクを常用する客は不自然きわまりない。
「黒いサングラス……とか?」
「食事中もかけっぱなしじゃ『ヘンな人だ』って注目されない?」
日差しのない屋内でも四六時中、黒いレンズで目元を隠す人はいるだろう。そういった人はたいがい男性だ。それもいかつく、怖いイメージがある。柔弱な律子には不一致のアクセサリーだ。その違和感は他者の視線を集めてしまう。会った瞬間は律子だと思われなくとも、いずれ勘付かれる。美弥はそこが難点だと感じる。
「じっと見られたらきっとバレる」
「そうね……だけど準備中のときにばかり行くのは、仕事のジャマになるだろうし」
準備中は店内の清掃をしたり、次の営業時間のために料理の下ごしらえをしたりする時間だ。その作業時間に訪問することは、いたずらに相手方の仕事を増やす行為になる。
「うーん……いっぺんサングラスをかけてみて、それでバレないかためしてみる?」
当座はマスク以外の顔隠しを試験的に実施することに決めた。話題は変装道具に移る。
「サングラス、持ってたっけ?」
「夏場の外出用に持ってる」
「じゃ、あたらしいのは買わなくていいのね」
「うん……でも男性用だから、ちょっと合わないかも」
美弥は耳を疑った。男っ気のない律子が、男性向けの物を所有しているという。
「だれからもらったの?」
「え? ああ、エキストラの人……だったかな。通販で買ったんだけれどサイズが小さかったんだって。『律子さんなら顔ちっちゃいからかけられますよ!』とか言われて、もらっちゃった」
「下の名前でよばれてるの?」
「相手のほうが年上だったし……そんなもんじゃない?」
律子は淡泊に答える。美弥は自分の知らないところで姉に恋人ができているのではないかと疑ったが、どうもそうではないようだ。律子は妹の憶測を察し、その疑惑を笑い飛ばす。
「ふふ、恋人だったらちゃんと美弥に伝えるから。安心して」
「そう、よね。お母さんがよく言ってたもん。『律子は早く信頼できる男の人を見つけなさい』って……私も、そう思ってる。お姉ちゃんを守ってくれる、しっかりした人が──」
律子はその容姿ゆえにやましい心を持った異性をも惹きつけてしまう。早期に既婚者になってしまえば、悪い虫は寄りつきにくくなる。あわよくば夫の家族が、頼れる親類のいない姉妹の縁者になってくれる。これほど心強いことはないだろう。律子も同じ考えだと示すようにうなずく。
「みちるさんも『結婚したらいいんじゃないの』と言ってたね」
その意見はパパラッチ被害を未然に防ぐ解決策として提示された。オカマタレントであるみちるの実体験が裏にひそんでいるのかは知らないが、律子を支える人物がいてほしいのはたしかだ。
「お姉ちゃんは気になる人がいないの?」
「うん……だれを信用していいんだか、よくわからない。美弥が『いい』って言うような人がね……」
「べつに、私の好みに合わせなくていいのよ。お姉ちゃんの旦那さんだもん」
「美弥が信じられる人なら、安心なの。わたしは人を見る目がないから……」
律子の自己評価は正当だ。しかし美弥は姉の考えに不安を抱く。
(私の観察力だって、そこまで正確か……)
良い人だと姉に薦めた男性が、とんでもないダメ男だったとしたら。いうまでもなく姉は不幸になる。だがそれ以上に取り返しのつかない事態もありうる。
(ダメ男に引っ掛かったら別れればいい……でも、私が『ダメ』だと思った人が、ほかの女性と幸せな家庭を築けていたら……私は、きっと後悔する)
人それぞれに相性はある。律子とは歩調が合わない男性でも、律子と異なるタイプの女性と抜群によい関係を構築する可能性はあるだろう。だがその時になって、「あの人は姉以外の女性と結婚したからうまくいってる」と胸を張って言えるだろうか。その幸福な家庭に、そのまま律子をあてはめて「ほんとうならあそこに姉がいたのに」と思ってしまうのではなかろうか。
そもそも美弥は男嫌いである。きっと良い人なのだ、と思える相手であろうと、その人の良さに裏があるのでは、と心のどこかで疑ってしまう。律子のことをまことに想う男性が目の前に現れても、おそらく美弥は拒絶する。
「……私には、お姉ちゃんの結婚相手を決める力がないと思う」
「そう? 美弥の言うことはけっこう当たると思うけど」
「男性はてんでダメ。みーんな悪者に見えちゃうもん」
「それは、美弥だとそうなのよね……」
「うん、だから──」
「じゃあさきに美弥の男性不信を治しちゃいましょ」
「え?」
律子の問題を論じていたはずが、なぜか美弥が抱える問題解決に転じた。律子は「そんなにおどろくこと?」と不思議そうに小首をかしげる。
「そのほうがいいでしょ? わたしが美弥に『この人とお付き合いしてる』って恋人を会わせたときに、美弥がツンツンしちゃったら気まずいもの」
「あ、まあ……」
「まずは男の人と簡単なあいさつをすることから始めましょうよ。わたしか、みちるさんたちと一緒のときでいいから」
挨拶くらいはできる。だが精神的負担はある。その負担を感じにくくさせること。それが美弥に課されたトレーニングだ。美弥は律子の出すハードルの低さに安堵した。やれることから徐々に慣れていけばいいのだと思うと、途方もない嫌悪感は永遠に続くわけではない気がした。
新規努力目標を立てた美弥はアパートを目前にして足を止める。宿舎の敷地内への入り口付近に、男性が立っている。その男性は今日から入居するらしい、灰色髪のスーツ姿の人物だ。彼は塀の上に座る猫をなでていた。律子が「チャンスね」と美弥にささやく。
「同じアパートの人でしょ。話しかけていい相手よ」
「でも、あんな、髪を染めてる人……」
「猫をかわいがってるじゃない。こわくなさそうよ」
わたしも一緒だから、と律子が美弥の手を握る。美弥は観念した。第一、部屋にもどるには男性のそばを通らねばならない。声掛けを推奨されるべき状況だ。美弥は姉に手を引っ張られるかたちで前進した。
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2017年12月06日
拓馬篇前記−美弥5
美弥たちがいるテーブル席は四人掛けだった。それゆえ美弥と律子の席には引き続きみちるが座り、通路をはさんだ隣りのテーブルに店長とマヨが着席している。みなが一様にアイス付きのホットケーキをナイフとフォークでつついた。会話はもっぱらオーナーのみちるが仕切る。
「こういう身内だけのときはさ、マヨちゃんに作らせてもいいかもね」
美弥はその案を新人教育だと思った。仕事に不慣れな従業員に料理を作らせる。その成果物はたいてい完成度の低いものだ。端的に表現すれば、客に金銭を要求できない失敗作にあたる。それを店の関係者が始末する。無駄のない仕組みだ。美弥がみちるたちを頼る関係上、提供される料理は練習台のほうがこころよく享受できる。
美弥は自分たちを気遣うみちるたちになにもしてあげられない。そのことに心苦しさを感じていた。新人教育の協力という店の利益になる行為に関われるのなら、すこしは恩に報いられる。
(ホットケーキなら、まずくならないだろうし……)
ホットケーキは既製品の粉に牛乳と卵を混ぜ合わせ、フライパンで焼く料理。むずかしいのは焼き加減の調整だ。焦げついたり崩れたりしたものは売り物にならない。しかし味は同じはずだ。美弥と律子は料理の見た目にこだわらない性分なので、みちるの提案はちょうどよいと思った。
調理練習をする対象が「大丈夫ですかねー」と他人事のように不安がる。
「あたしは料理がてんでダメなんですけど。捨てちゃうのもったいないでしょ?」
「レシピの分量と調理時間を守れば食べられる味にはなるわよ」
「分量と時間……」
「料理のヘタクソな人はね、いきなりオリジナルで作ろうとするからマズイもんを作っちゃうのよ。はじめはちゃんとレシピ通りにやりなさい。個性を出すのはそのあと!」
「はーい……」
マヨはしぶしぶ了承した。ぱくっとホットケーキの切れ端を食べると、パッと顔を輝かせる。
「あ、練習で作ったものは自分で食べていいんですか?」
「ほかの店員やリっちゃんたちに出さないんだったら、そうなるわね」
「へへー、それならがんばれそうです!」
食い意地のはったやる気の出し方だ。みちるが笑いながら呆れる。
「さっすが、店の残りもの目当てに働きにきた女ね」
マヨは「弟が言ったんですよー」と動機を家族になすりつける。
「『タダのパンを食いたけりゃその店の店員になれ』ってね」
「マヨちゃんのほしいパンを探しにキリちゃんが非番の日も店にきてたんだもの。そりゃ自分でやれ、とも言われるわ」
「ねらってたものが家に届いたその日に言うんですよ。言うの遅くないですか?」
「でもマヨちゃんはウチにきてるじゃない」
「そうですけど……ほかにも気になるものがあったので」
「だったらパン屋でバイトしたらいいじゃない。ウチはパン屋の売れ残りをモーニングメニューに出してるんだから」
マヨは目を細め、ほほえむ。
「そこに気付けなかったんですよねー」
美弥と律子はぷっと吹き出した。単純な道理を見極められなかったと申告する潔さが、一種のコントのように感じたのだ。黙っていた店長がやんわり指摘する。
「たぶん、弟さんがすすめた勤務先もパン屋のことだったと思いますよ」
「ええ? 言葉が足りないんだから、あいつ……」
マヨは冗談だか本気だかわからぬ苛立ちを表に出した。店長はおだやかに苦笑いをする。
「どのみち料理の不得意な人はちょっと……お運びとか掃除専門の人を雇う余裕はないですから」
店長の婉曲的な否定に対して、みちるも「まあそうよね」と同調する。
「店長の実家は喫茶店じゃないんだもの、みんなが調理を担当できなきゃ手が回らないでしょうね」
「そうなんです。レジ業務だけの人も、いまのところいないですし」
「じゃあマヨちゃんはウチで働くしかないわね」
みちるたち店主は現状を肯定した。マヨは「はい」と粛々と返事する。
「まっとうに料理ができるようになるまで、店にいさせてください」
「フツーは家で練習するもんだと思うけどね」
冷静なツッコミを受けたマヨは不平不満を表情に浮かべる。
「お母さんがいやがるんですよ。あたしが台所に立ったらメチャクチャになるって。弟にはそんなこと言わないし、むしろ家事をさせたがるのに」
「あら、弟ちゃんは信頼されてるのね」
「そうなんですよ。なんでもソツなくこなすやつで……」
「ウチもその子のほうを雇えばよかったかしら」
みちるの冗談めいたいじわる発言が出た。マヨが口をとがらせる。
「向こうが願い下げしてきますよ。オーナーみたいなややこしー人間はニガテですもん」
マヨも負けじとみちるに攻勢をかける。その口論は気心の知れた者同士のじゃれあいだ。美弥と律子は彼女らの言い合いに耳を傾けながら、すこしぬるくなったミルクティーを飲んだ。
「こういう身内だけのときはさ、マヨちゃんに作らせてもいいかもね」
美弥はその案を新人教育だと思った。仕事に不慣れな従業員に料理を作らせる。その成果物はたいてい完成度の低いものだ。端的に表現すれば、客に金銭を要求できない失敗作にあたる。それを店の関係者が始末する。無駄のない仕組みだ。美弥がみちるたちを頼る関係上、提供される料理は練習台のほうがこころよく享受できる。
美弥は自分たちを気遣うみちるたちになにもしてあげられない。そのことに心苦しさを感じていた。新人教育の協力という店の利益になる行為に関われるのなら、すこしは恩に報いられる。
(ホットケーキなら、まずくならないだろうし……)
ホットケーキは既製品の粉に牛乳と卵を混ぜ合わせ、フライパンで焼く料理。むずかしいのは焼き加減の調整だ。焦げついたり崩れたりしたものは売り物にならない。しかし味は同じはずだ。美弥と律子は料理の見た目にこだわらない性分なので、みちるの提案はちょうどよいと思った。
調理練習をする対象が「大丈夫ですかねー」と他人事のように不安がる。
「あたしは料理がてんでダメなんですけど。捨てちゃうのもったいないでしょ?」
「レシピの分量と調理時間を守れば食べられる味にはなるわよ」
「分量と時間……」
「料理のヘタクソな人はね、いきなりオリジナルで作ろうとするからマズイもんを作っちゃうのよ。はじめはちゃんとレシピ通りにやりなさい。個性を出すのはそのあと!」
「はーい……」
マヨはしぶしぶ了承した。ぱくっとホットケーキの切れ端を食べると、パッと顔を輝かせる。
「あ、練習で作ったものは自分で食べていいんですか?」
「ほかの店員やリっちゃんたちに出さないんだったら、そうなるわね」
「へへー、それならがんばれそうです!」
食い意地のはったやる気の出し方だ。みちるが笑いながら呆れる。
「さっすが、店の残りもの目当てに働きにきた女ね」
マヨは「弟が言ったんですよー」と動機を家族になすりつける。
「『タダのパンを食いたけりゃその店の店員になれ』ってね」
「マヨちゃんのほしいパンを探しにキリちゃんが非番の日も店にきてたんだもの。そりゃ自分でやれ、とも言われるわ」
「ねらってたものが家に届いたその日に言うんですよ。言うの遅くないですか?」
「でもマヨちゃんはウチにきてるじゃない」
「そうですけど……ほかにも気になるものがあったので」
「だったらパン屋でバイトしたらいいじゃない。ウチはパン屋の売れ残りをモーニングメニューに出してるんだから」
マヨは目を細め、ほほえむ。
「そこに気付けなかったんですよねー」
美弥と律子はぷっと吹き出した。単純な道理を見極められなかったと申告する潔さが、一種のコントのように感じたのだ。黙っていた店長がやんわり指摘する。
「たぶん、弟さんがすすめた勤務先もパン屋のことだったと思いますよ」
「ええ? 言葉が足りないんだから、あいつ……」
マヨは冗談だか本気だかわからぬ苛立ちを表に出した。店長はおだやかに苦笑いをする。
「どのみち料理の不得意な人はちょっと……お運びとか掃除専門の人を雇う余裕はないですから」
店長の婉曲的な否定に対して、みちるも「まあそうよね」と同調する。
「店長の実家は喫茶店じゃないんだもの、みんなが調理を担当できなきゃ手が回らないでしょうね」
「そうなんです。レジ業務だけの人も、いまのところいないですし」
「じゃあマヨちゃんはウチで働くしかないわね」
みちるたち店主は現状を肯定した。マヨは「はい」と粛々と返事する。
「まっとうに料理ができるようになるまで、店にいさせてください」
「フツーは家で練習するもんだと思うけどね」
冷静なツッコミを受けたマヨは不平不満を表情に浮かべる。
「お母さんがいやがるんですよ。あたしが台所に立ったらメチャクチャになるって。弟にはそんなこと言わないし、むしろ家事をさせたがるのに」
「あら、弟ちゃんは信頼されてるのね」
「そうなんですよ。なんでもソツなくこなすやつで……」
「ウチもその子のほうを雇えばよかったかしら」
みちるの冗談めいたいじわる発言が出た。マヨが口をとがらせる。
「向こうが願い下げしてきますよ。オーナーみたいなややこしー人間はニガテですもん」
マヨも負けじとみちるに攻勢をかける。その口論は気心の知れた者同士のじゃれあいだ。美弥と律子は彼女らの言い合いに耳を傾けながら、すこしぬるくなったミルクティーを飲んだ。
タグ:美弥