2017年11月27日
拓馬篇前記−新人7
男は電話口で、自分が才穎高校の教員に相成ることを知った。また校長の厚意により、校長所有の宿舎に居を移すと決める。この決定は当初の未来予想になかったことだ。男は渡りに船の提案だと思った。高校の隣県にある繁沢の住宅から通うよりもずっと目的が果たしやすくなる。いまの居住地はとある厄介な人物に知られてしまい、いつ鉢合わせになるかと気が気でなかった。もちろん個人的に部屋を借りても良かったのだが、その人物の調査能力の前では時間稼ぎにもなるかどうか。その点、校長の管理する住宅は不動産屋ではおおっぴらに紹介されていないという。数ヶ月を乗りきる確率は、いくらか上がる。
(うまくいきすぎている……)
男はこうあるべきだと運命づけられていたのだろうか。すべては偶然の積み重ねで成り立っていた。
才穎高校の校長の欲する人員が自分に適合したこと、その校長は自身の上司のさらに上司と繋がりがあったこと、自身の上司からあらたな職種として教師を勧められたこと、その上司の身内に教師志望者がいたこと。これらはまったく男の予期しなかった一連の流れだ。そのいずれかが欠落していれば、男は才穎高校の職員になれなかった。
(私はどうあるのが、天の思し召しなんだろうか?)
男は神仏を信仰してはいないが、天命の存在は信じていた。生き物すべてに、あらかじめ定められた本分がある。それはこの国で育った恩師が言っていたことだ。
(ケイ……私は、天命に逆らわない)
務めを果たすのが是か、失敗するのが是か。こたび仕損じれば次はない。その時は、彼女に顔見せできるかもしれない。だがそうなれば自分に使命を課した主人には背くことになる。それもまた、男の本意ではない事態だ。男は自己判断では己の肯定すべき行ないがわからなかった。
入居日、男は持っていけるだけの勉強道具や衣類をトランクケースにまとめて出かける。繁沢の娘も同伴し、彼女に見送られて電車に乗った。男を兄のごとく慕う娘は、男との別居をさびしがった。だが「遊びに来てもいい」と男が言うと、いつもの明るい調子にもどってくれた。それでも去年までの快活ぶりは抑圧されているようだった。感情のかげりの原因は、男との別れが迫ることにあった。
(いいんだ。私の居場所は、シゲさんたちにない)
はじめから同じ道をたどれる同行者ではなかった。男の仲間はべつにいる。その仲間を尊重することは、自分だけができる役割だ。
(あるじが頼れる者は私しかいない)
厳密にはほかにも主人が使役する同胞はいる。だが、主人は男をもっとも厚遇していた。男が左手にはめた指輪がその証拠だ。白い宝石のついたこの指輪をもって、男はこれから為すことの正当性を見出した。
到着駅で羽田校長と合流する。徒歩のすえに着いた住居は三階建てだった。ロフト部屋があるため一階分の天井が普通の一階よりも高くなる。その影響で、外観は他の民家の倍以上抜きんでていた。
校長と男は淡いオレンジ色のブロック塀に囲まれた敷地内へ入る。男に用意した部屋は一階だという。大家である校長が部屋の鍵を開けようとして金属音を鳴らす。男はその後ろで待った。
男は周囲の景観を知りたいと思い、その意識は作業中の校長から外れた。すると人の肉声が耳に入る。声のする方向を見た。塀の奥に二人の女性の気配がする。
『同じアパートの人?』
『知らない。荷物を持ってるし今日から住むんじゃないの』
どちらも若い女性の声だ。二人は友人か姉妹だと男は予想を立てた。片方がこの宿舎を利用していると思われる。塀に身を潜める様子から推察するに、校長らを警戒していることがうかがい知れた。この宿舎に住み慣れた人ならば人目をはばからずに帰宅するところだ。
(恥ずかしがり屋か、まだ入居して日の浅い人か……)
ここへくる道中、今年から宿舎を活用する女子生徒が話題にのぼった。その当人ではないかと男は思った。
『先生なのかしら』
『染髪OKだからって、あんなにやっちゃって』
『ちょっと怖そうね』
男の後ろ姿を一目見た女性たちが第一印象を話しあっている。フォーマルなスーツを着ていようと、この髪の色で人となりの想像をふくらませられるのだ。
(髪を染めても、いいんだったな)
この国のほぼすべてを占める黒髪に変えたなら、もっと普通な教員になれるのだろう。だが自分の姿をいじることは好きでない。できるかぎり、主人が自分だと認識できる部分は保持したかった。それが非合理的な愚行であっても。
ガチャっと開錠の音が鳴る。男の集中は姿の見えない女性たちから逸れた。校長が玄関の扉を開けて「さあ入って」と言い、男は新居に足を踏み入れた。わずかにワックスの香りがたちこめる。清掃済みの証である紙が下駄箱の上に置いてあった。
「この紙はもういらないから、捨てていいよ」
「はい。ゴミだしの時に捨てます」
校長はこまごまとした室内の説明をはじめた。玄関をあがってすぐの物置の場所、天井が低めな台所、その上に位置するロフト、ロフトへ上がる階段兼棚、天井の高い部屋を有効活用したロフトベッドなど、不動産の仲介人のごとき丁寧さで紹介する。
「あと、ここは一階だからねえ。二階の住民によっては物音がするらしいのだよ。だいたい天井に近いロフト部屋かロフトベッドにいる時に、上の階の人が騒がしくすると気になるんだとか。もしうるさかったら私に言ってくれたまえ。ちゃんと注意するから」
「この部屋の上はどなたがお住まいなのですか?」
「ああ、ここへ来る時に話した女子生徒だよ。あの子だったらそんなに騒ぐことはないと思うんだがね」
この場所の真上が例の女子の部屋。彼女と学外で接触するかはともかく、男は心に留め置いた。
「週末はお姉さんが会いにきているそうだよ。金土日あたりは、多少にぎやかしくなるかもしれんね」
「そうですか。では週末に起きる物音には苦情を出しません」
「やさしい男だね、きみは」
一通りの内装の紹介をすませると、校長は次に学校の話をする。
「授業の開始は四月の初旬をすぎたころだが、いまのうちに授業のカリキュラムの相談をしておきたいのだよ。来週の月曜から学校に来てもらえるかね?」
「はい。授業で教える範囲とその進行速度などは私もうかがいたいと思っていました」
「そうかそうか、真面目だねえ」
校長は満足げに笑む。
「あとはすこし気が早いが、始業式の時には新任者にステージに立ってもらうあいさつをよくやっているんだ。けれどきみの場合は一学期だけだから──」
「私は遠慮します。皆さんの貴重なお時間はとらせません」
「貴重かどうかはおいとくが、きみならそう言うと思っていたよ」
男はもう自身の性格が伝わっているのを意外だと感じる。
「目立ちたくないという気持ちが筒抜けになっていましたか」
「ああ、わかるよ。そのサングラスなんかは自分の目の色を気にするから着けてるんだろう? すまないがそれは式典の場には相応しくないなぁ」
「そうですね……」
「きみには式典の参加を無理強いしない。まあ興味があったらこっそりのぞいてくれたまえ。全校生徒が一か所に集まる日はすくないからね」
校長は学校のことは来週にまた話すと言い、帰っていった。男は居室のすみに置いたトランクケースを開ける。中の筆記用具を使い、校長が話した指示をメモ書きした。そして文具類はロフトベッド下の勉強机へ、替えのシャツはロフト下のクローゼットへと収納をはじめる。掃除の好きな男には、こういった整理の時間もささやかな楽しみだった。
(自分の役目など考えなくてもいいから、好きなのか……?)
掃除について思考をめぐらしてみる。この部屋には掃除道具がないことに気付いた。家具家電が備えついているとはいっても、雑事の道具までは付属しないのだ。男は荷物が整理できると日用品を求めて外出した。
(うまくいきすぎている……)
男はこうあるべきだと運命づけられていたのだろうか。すべては偶然の積み重ねで成り立っていた。
才穎高校の校長の欲する人員が自分に適合したこと、その校長は自身の上司のさらに上司と繋がりがあったこと、自身の上司からあらたな職種として教師を勧められたこと、その上司の身内に教師志望者がいたこと。これらはまったく男の予期しなかった一連の流れだ。そのいずれかが欠落していれば、男は才穎高校の職員になれなかった。
(私はどうあるのが、天の思し召しなんだろうか?)
男は神仏を信仰してはいないが、天命の存在は信じていた。生き物すべてに、あらかじめ定められた本分がある。それはこの国で育った恩師が言っていたことだ。
(ケイ……私は、天命に逆らわない)
務めを果たすのが是か、失敗するのが是か。こたび仕損じれば次はない。その時は、彼女に顔見せできるかもしれない。だがそうなれば自分に使命を課した主人には背くことになる。それもまた、男の本意ではない事態だ。男は自己判断では己の肯定すべき行ないがわからなかった。
入居日、男は持っていけるだけの勉強道具や衣類をトランクケースにまとめて出かける。繁沢の娘も同伴し、彼女に見送られて電車に乗った。男を兄のごとく慕う娘は、男との別居をさびしがった。だが「遊びに来てもいい」と男が言うと、いつもの明るい調子にもどってくれた。それでも去年までの快活ぶりは抑圧されているようだった。感情のかげりの原因は、男との別れが迫ることにあった。
(いいんだ。私の居場所は、シゲさんたちにない)
はじめから同じ道をたどれる同行者ではなかった。男の仲間はべつにいる。その仲間を尊重することは、自分だけができる役割だ。
(あるじが頼れる者は私しかいない)
厳密にはほかにも主人が使役する同胞はいる。だが、主人は男をもっとも厚遇していた。男が左手にはめた指輪がその証拠だ。白い宝石のついたこの指輪をもって、男はこれから為すことの正当性を見出した。
到着駅で羽田校長と合流する。徒歩のすえに着いた住居は三階建てだった。ロフト部屋があるため一階分の天井が普通の一階よりも高くなる。その影響で、外観は他の民家の倍以上抜きんでていた。
校長と男は淡いオレンジ色のブロック塀に囲まれた敷地内へ入る。男に用意した部屋は一階だという。大家である校長が部屋の鍵を開けようとして金属音を鳴らす。男はその後ろで待った。
男は周囲の景観を知りたいと思い、その意識は作業中の校長から外れた。すると人の肉声が耳に入る。声のする方向を見た。塀の奥に二人の女性の気配がする。
『同じアパートの人?』
『知らない。荷物を持ってるし今日から住むんじゃないの』
どちらも若い女性の声だ。二人は友人か姉妹だと男は予想を立てた。片方がこの宿舎を利用していると思われる。塀に身を潜める様子から推察するに、校長らを警戒していることがうかがい知れた。この宿舎に住み慣れた人ならば人目をはばからずに帰宅するところだ。
(恥ずかしがり屋か、まだ入居して日の浅い人か……)
ここへくる道中、今年から宿舎を活用する女子生徒が話題にのぼった。その当人ではないかと男は思った。
『先生なのかしら』
『染髪OKだからって、あんなにやっちゃって』
『ちょっと怖そうね』
男の後ろ姿を一目見た女性たちが第一印象を話しあっている。フォーマルなスーツを着ていようと、この髪の色で人となりの想像をふくらませられるのだ。
(髪を染めても、いいんだったな)
この国のほぼすべてを占める黒髪に変えたなら、もっと普通な教員になれるのだろう。だが自分の姿をいじることは好きでない。できるかぎり、主人が自分だと認識できる部分は保持したかった。それが非合理的な愚行であっても。
ガチャっと開錠の音が鳴る。男の集中は姿の見えない女性たちから逸れた。校長が玄関の扉を開けて「さあ入って」と言い、男は新居に足を踏み入れた。わずかにワックスの香りがたちこめる。清掃済みの証である紙が下駄箱の上に置いてあった。
「この紙はもういらないから、捨てていいよ」
「はい。ゴミだしの時に捨てます」
校長はこまごまとした室内の説明をはじめた。玄関をあがってすぐの物置の場所、天井が低めな台所、その上に位置するロフト、ロフトへ上がる階段兼棚、天井の高い部屋を有効活用したロフトベッドなど、不動産の仲介人のごとき丁寧さで紹介する。
「あと、ここは一階だからねえ。二階の住民によっては物音がするらしいのだよ。だいたい天井に近いロフト部屋かロフトベッドにいる時に、上の階の人が騒がしくすると気になるんだとか。もしうるさかったら私に言ってくれたまえ。ちゃんと注意するから」
「この部屋の上はどなたがお住まいなのですか?」
「ああ、ここへ来る時に話した女子生徒だよ。あの子だったらそんなに騒ぐことはないと思うんだがね」
この場所の真上が例の女子の部屋。彼女と学外で接触するかはともかく、男は心に留め置いた。
「週末はお姉さんが会いにきているそうだよ。金土日あたりは、多少にぎやかしくなるかもしれんね」
「そうですか。では週末に起きる物音には苦情を出しません」
「やさしい男だね、きみは」
一通りの内装の紹介をすませると、校長は次に学校の話をする。
「授業の開始は四月の初旬をすぎたころだが、いまのうちに授業のカリキュラムの相談をしておきたいのだよ。来週の月曜から学校に来てもらえるかね?」
「はい。授業で教える範囲とその進行速度などは私もうかがいたいと思っていました」
「そうかそうか、真面目だねえ」
校長は満足げに笑む。
「あとはすこし気が早いが、始業式の時には新任者にステージに立ってもらうあいさつをよくやっているんだ。けれどきみの場合は一学期だけだから──」
「私は遠慮します。皆さんの貴重なお時間はとらせません」
「貴重かどうかはおいとくが、きみならそう言うと思っていたよ」
男はもう自身の性格が伝わっているのを意外だと感じる。
「目立ちたくないという気持ちが筒抜けになっていましたか」
「ああ、わかるよ。そのサングラスなんかは自分の目の色を気にするから着けてるんだろう? すまないがそれは式典の場には相応しくないなぁ」
「そうですね……」
「きみには式典の参加を無理強いしない。まあ興味があったらこっそりのぞいてくれたまえ。全校生徒が一か所に集まる日はすくないからね」
校長は学校のことは来週にまた話すと言い、帰っていった。男は居室のすみに置いたトランクケースを開ける。中の筆記用具を使い、校長が話した指示をメモ書きした。そして文具類はロフトベッド下の勉強机へ、替えのシャツはロフト下のクローゼットへと収納をはじめる。掃除の好きな男には、こういった整理の時間もささやかな楽しみだった。
(自分の役目など考えなくてもいいから、好きなのか……?)
掃除について思考をめぐらしてみる。この部屋には掃除道具がないことに気付いた。家具家電が備えついているとはいっても、雑事の道具までは付属しないのだ。男は荷物が整理できると日用品を求めて外出した。
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