2017年11月30日
拓馬篇前記−美弥1
「あ、部屋に入ったみたい」
美弥は自分の仮宿をかこむブロック塀に身を潜めている。自分が現在住むアパートには、さきほどまでいた人影があった。顔だけを出してみるとその姿が消えている。
「いまのうちに行こう」
美弥は同じく隠れていた姉の律子に呼びかける。律子は鍔のある帽子を被り、風邪予防の白いマスクをした状態だ。「うん」と小声で答えたあと、美弥たちは二階の自室へ向かった。
数分前に美弥がアパートへもどろうとした際、大家かつ学長の中年と見たことのない人物が建物の前にいた。美弥が注目したのは後者だ。灰色の短髪をもつ、背の高い男性。顔は見えなかった。だが老人ではなさそうな、背すじのまっすぐとしたグレーのスーツ姿だ。美弥がパッと見たところ、男性の染めているらしい頭髪が悪印象だった。
美弥は不審な男性が派手好みの不良ではないかと邪推する。姉を連れている状態では、そんなあやしげな人と関わり合いを持ちたくなかった。そのため自室への到着を一時遅らせる。律子も人目を避けたい立ち場ゆえに、妹の対処に同調した。
律子はここへ来るまでに一時間あまり電車に揺られてきた。昨日の仕事が夜遅くまで長引き、一晩寝てから美弥に会いに来た。仕事疲れも残る律子は温かい飲み物を飲みたがる。そこで、部屋に着いた姉妹は一服することにした。まずは台所にいく。市販のティーパックを陶器のカップに入れ、電気ポットのお湯を注ぐ。二人分の茶ができたら居間の座卓を囲んだ。
美弥は湯気のたつ茶を口にふくむ。熱い茶をのどに通すと、体の内側から温まっていく。この時の美弥は自分のすさんだ気持ちが多少うるおう感覚がした。
律子も茶を飲むと「ふう」とリラックスした声を出す。だが憂い顔だ。
「さっきの男の人……この下の部屋に住むんじゃない?」
「まあ、位置的にそうかも」
「あんまり物音を立てると怒られるかしら」
「そんなのことまで考えていたら、なにもできなくなるでしょ」
美弥は姉の気にしいぶりにやきもきする。
「ふつうにしていればいいの。それで文句を言ってくる人なんか、『自分で家を建ててそこに住め』って言い返してやるわ」
美弥がいつになく強気な発言をする。さきほどの男性がクレーマーだとわかる手がかりはないが、いまの美弥にはだれもが敵になりうる認識があった。
美弥の荒々しさは生来のものではない。新年が明けてから芽生え、常駐する感情だ。事の発端は姉の女優業にある。
律子は幼い時分から役者としてスクリーンの舞台に出ていた。美しさゆえに成人後もその人気は衰えず、芸能界に所属する。そのプライベートを知りたがるやからも、自然と増えた。
今年のはじめ、律子はふとしたきっかけで同業の異性と食事をすることになった。相手は一度は時代の寵児となった人物だそうだ。しかし不祥事をやらかしてしまい「干された」人間でもあった。現在は律子ほど華々しい仕事が来ない、落ちぶれた俳優に成り下がっている。そのことで、律子に仕事の相談をしたかったらしい。彼は律子とは一回り歳の離れた既婚者だ。幼い子どももいる。律子は彼の家族を不憫に思い、彼らの暮らしが上向くのなら、という一心で同行した。恋愛感情など露にもない。
だがその俳優とのゴシップ記事がでっち上げられた。店へ向かう最中の二人を撮られたのだ。それを不倫だなんだとやじられた。ただ男女が町中で歩いただけで、よくもまあこじつけられるものだ。
あろうことか、俳優はこの騒動をチャンスにしてふたたび表舞台に映った。記者による隠し撮りのタイミングの良さもあり、彼らはグルだったのではないか。そう美弥は疑ったし、そのように律子を弁護する者もいた。だがその抗弁がさらに騒ぎを悪化させた。
律子のことを根掘り葉掘り知りたがる人々がいる。その層へ売りつける目的の記事を書く連中もいる。無駄に行動力のある記者たちが、真実をさぐりに美弥の身辺までやってきた。
律子と美弥は名乗る名字が異なる。家族だとは傍目にわからないはずなのだが、どういうわけだか連中は美弥の学生寮に押しかけてきた。美弥は身内に芸能人がいることを秘匿していたため、学校側はこの異常事態に大いにおどろいた。そして美弥をうとんじた。
美弥は学校関係者の薄情さに失望した。美弥は被害者なのに、罪人であるかのように彼らは切り捨てた。その対応を憎く感じたが、教師陣が冷酷だったわけではないのかもしれない。寮にいる生徒が騒ぎ、その保護者が過剰に反応した影響だったとも、美弥は推測している。だがあそこの教員たちが美弥を守ってくれなかったことは事実だ。美弥は学校から追い出されるかたちで、この宿舎へ移住することとなった。
美弥の環境の変化は、一言で言ってしまえば姉のとばっちりによるものだ。しかし美弥は姉の非を追及する気がない。律子は善意をほどこしただけなのだ。それを悪意で返した相手が究極の悪である。そうとわかっているから、やり場のない怒りをためこんでいる。諸悪の根源にあたる落ちぶれ男が目の前にいたのなら、その俳優崩れ顔を何発でも叩いてやりたいくらいだ。美弥はかつてない攻撃性を秘めながら日常を過ごしていた。
美弥は自分の仮宿をかこむブロック塀に身を潜めている。自分が現在住むアパートには、さきほどまでいた人影があった。顔だけを出してみるとその姿が消えている。
「いまのうちに行こう」
美弥は同じく隠れていた姉の律子に呼びかける。律子は鍔のある帽子を被り、風邪予防の白いマスクをした状態だ。「うん」と小声で答えたあと、美弥たちは二階の自室へ向かった。
数分前に美弥がアパートへもどろうとした際、大家かつ学長の中年と見たことのない人物が建物の前にいた。美弥が注目したのは後者だ。灰色の短髪をもつ、背の高い男性。顔は見えなかった。だが老人ではなさそうな、背すじのまっすぐとしたグレーのスーツ姿だ。美弥がパッと見たところ、男性の染めているらしい頭髪が悪印象だった。
美弥は不審な男性が派手好みの不良ではないかと邪推する。姉を連れている状態では、そんなあやしげな人と関わり合いを持ちたくなかった。そのため自室への到着を一時遅らせる。律子も人目を避けたい立ち場ゆえに、妹の対処に同調した。
律子はここへ来るまでに一時間あまり電車に揺られてきた。昨日の仕事が夜遅くまで長引き、一晩寝てから美弥に会いに来た。仕事疲れも残る律子は温かい飲み物を飲みたがる。そこで、部屋に着いた姉妹は一服することにした。まずは台所にいく。市販のティーパックを陶器のカップに入れ、電気ポットのお湯を注ぐ。二人分の茶ができたら居間の座卓を囲んだ。
美弥は湯気のたつ茶を口にふくむ。熱い茶をのどに通すと、体の内側から温まっていく。この時の美弥は自分のすさんだ気持ちが多少うるおう感覚がした。
律子も茶を飲むと「ふう」とリラックスした声を出す。だが憂い顔だ。
「さっきの男の人……この下の部屋に住むんじゃない?」
「まあ、位置的にそうかも」
「あんまり物音を立てると怒られるかしら」
「そんなのことまで考えていたら、なにもできなくなるでしょ」
美弥は姉の気にしいぶりにやきもきする。
「ふつうにしていればいいの。それで文句を言ってくる人なんか、『自分で家を建ててそこに住め』って言い返してやるわ」
美弥がいつになく強気な発言をする。さきほどの男性がクレーマーだとわかる手がかりはないが、いまの美弥にはだれもが敵になりうる認識があった。
美弥の荒々しさは生来のものではない。新年が明けてから芽生え、常駐する感情だ。事の発端は姉の女優業にある。
律子は幼い時分から役者としてスクリーンの舞台に出ていた。美しさゆえに成人後もその人気は衰えず、芸能界に所属する。そのプライベートを知りたがるやからも、自然と増えた。
今年のはじめ、律子はふとしたきっかけで同業の異性と食事をすることになった。相手は一度は時代の寵児となった人物だそうだ。しかし不祥事をやらかしてしまい「干された」人間でもあった。現在は律子ほど華々しい仕事が来ない、落ちぶれた俳優に成り下がっている。そのことで、律子に仕事の相談をしたかったらしい。彼は律子とは一回り歳の離れた既婚者だ。幼い子どももいる。律子は彼の家族を不憫に思い、彼らの暮らしが上向くのなら、という一心で同行した。恋愛感情など露にもない。
だがその俳優とのゴシップ記事がでっち上げられた。店へ向かう最中の二人を撮られたのだ。それを不倫だなんだとやじられた。ただ男女が町中で歩いただけで、よくもまあこじつけられるものだ。
あろうことか、俳優はこの騒動をチャンスにしてふたたび表舞台に映った。記者による隠し撮りのタイミングの良さもあり、彼らはグルだったのではないか。そう美弥は疑ったし、そのように律子を弁護する者もいた。だがその抗弁がさらに騒ぎを悪化させた。
律子のことを根掘り葉掘り知りたがる人々がいる。その層へ売りつける目的の記事を書く連中もいる。無駄に行動力のある記者たちが、真実をさぐりに美弥の身辺までやってきた。
律子と美弥は名乗る名字が異なる。家族だとは傍目にわからないはずなのだが、どういうわけだか連中は美弥の学生寮に押しかけてきた。美弥は身内に芸能人がいることを秘匿していたため、学校側はこの異常事態に大いにおどろいた。そして美弥をうとんじた。
美弥は学校関係者の薄情さに失望した。美弥は被害者なのに、罪人であるかのように彼らは切り捨てた。その対応を憎く感じたが、教師陣が冷酷だったわけではないのかもしれない。寮にいる生徒が騒ぎ、その保護者が過剰に反応した影響だったとも、美弥は推測している。だがあそこの教員たちが美弥を守ってくれなかったことは事実だ。美弥は学校から追い出されるかたちで、この宿舎へ移住することとなった。
美弥の環境の変化は、一言で言ってしまえば姉のとばっちりによるものだ。しかし美弥は姉の非を追及する気がない。律子は善意をほどこしただけなのだ。それを悪意で返した相手が究極の悪である。そうとわかっているから、やり場のない怒りをためこんでいる。諸悪の根源にあたる落ちぶれ男が目の前にいたのなら、その俳優崩れ顔を何発でも叩いてやりたいくらいだ。美弥はかつてない攻撃性を秘めながら日常を過ごしていた。
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