2017年12月02日
拓馬篇前記−美弥2
律子が座卓に空のカップを置く。彼女は美弥とは別種の負の感情をまとっていた。二次被害を受けた妹を、ひたすらにあわれんでいるのだ。律子はとりわけ美弥の刺々しさを気にしている。
「このへんの人たちは、わるい人じゃないと思うけれど……」
「ちょっと田舎だからってだけじゃ、安心できない」
「でも校長さんはあの姫若先生の旦那さんでしょ。変な人は住まわせないんじゃない?」
律子のいう姫若とは恋愛ものの漫画を専門に描く作家だ。彼女の作品を原作にしたテレビドラマに律子が主演をかざった。姫若のイメージする女性主人公と律子がマッチすることから、彼女は律子に一目置いている。
姫若は親切な女性だ。美弥の苦境を知るや、彼女の夫が経営する才穎高校に転入する選択肢を提示してくれた。
しかしながら律子関連の騒動を一時的なものだと思っていたのか、その申し出を受けると決めた時は「いいの?」と疑問形で答えたそうだ。姫若が即答しなかった原因は、美弥の所属する学校の格式の高さにあった。
美弥のいた高校は金持ちや良家の子たちが通う、お上品な学校であった。庶民派な才穎高校でいいのか、と他人が心配するのも一理あった。名誉に囚われる人間ならば屈辱的な転身になっただろう。
(そんなもの、なんの価値があるんだか)
美弥はそう思う人間だ。現実に、名声ある学校の職員は美弥を切り捨てた。
しょせんは学生寮があるから入った学校だった。名前だけの父親が選んだ、いわば児童養護施設だ。母が生きていればきっと門扉の在り処も知らないままだったろう。
美弥は母子家庭で育った。その母が亡くなってからは実の父親が親権を得た。父は戸籍上の親を名乗るだけ。美弥には無関心だ。彼の住居に美弥を入れようともせず、それゆえ美弥を寮へ押しこんだ。この男は律子さえいればよいと考えているのだ。
父は律子の実父であることを武器に、律子の稼ぎを分けてもらい、生活している。ハイエナか寄生虫か。美弥はそんなふうに父を侮蔑する。しかし人のよい律子は父を見捨てられなかった。美弥にはない、幼きころの父との思い出がそうさせるのかもしれない。だが律子の慕情を裏切るように、父は母以外の女性を愛している。おまけに彼女の分の生活費も律子にせびる。まったく馬鹿らしいことだ。
美弥は義母に会ったことはない。義母は定期的に律子に贈り物をするそうだ。自分たちの金づるにご機嫌取りをしているのだろう。その贈り物だって律子が働いた金で買っているものだ。律子が必要とするかどうかもわからないものにムダ金を使って──と、美弥は義母の行為も不愉快に感じている。だのに律子は届け物が手元にくれば毎度お礼の返事をするのだという。姉のこの律義さも、美弥には共感できなかった。
美弥は損な性格の姉に注意をうながす。
「いい人だから、わるいやつを悪者だと見抜けないことだってあるでしょ。お姉ちゃんがそうじゃないの」
「そう、ね……」
律子は落ちこむ。自身の人の見る目の無さを責められていると感じたのだ。美弥は姉を攻撃する意図はなかったので、あわてて訂正する。
「それがダメだって言うつもりはないの。『こいつは悪いやつだ』と決めつけないのは、お姉ちゃんのいいところだと思う」
律子の人柄のよさは関係者にも好感を持たれていた。そこに付け入る悪者こそを、美弥は敵視する。
「そういうお姉ちゃんを好きになって、守ろうとする人がいるんだもの。いいところはそのまましておいてよ」
「だけど、美弥がこんな目に遭っちゃって……」
「いまの環境はべつになんとも思ってない。私がイラついてるのは、雑誌に変なことを書いて得してる連中がいて、そいつらがなんの罰も受けてないせいなんだから」
まごうことなき本音だ。律子は妹の怒りの矛先が完全に自身にないことがわかり、ようやく微笑みを見せる。
「いいのよ、いま罰が下らなくたって。悪いことをしつづけていれば、いずれ痛い目を見るものよ」
「因果応報ってやつ?」
「そう。……ほっとけばいいの。わたしたちはもっと楽しいことを考えましょうよ」
「……そうね、イライラしてても気分がわるくなるだけだし」
「ねえ、喫茶店に行かない?」
律子は気分転換の提案をした。お茶は飲んだばかりで、現在は食事時でもない。美弥は姉の目当てが飲食でないことを察する。
「モデルさんがオーナーをやってるとこの?」
「うん。遊びにきてって言われてるの。今日はお店にいるんですって」
律子の知り合いには独自の店を経営する芸能人がいる。その人物とはモデルの仕事で接点があった仲だ。相手はモデルだと単純に言っても、かなり特殊な生い立ちをしているという。
「美弥はまだ会ってない?」
「うん……『なにかあったら頼って』とはお姉ちゃんが言ってくれたけど、ここに来てからなにも起きてないし、お店にも行ってない」
「じゃあ行ってみましょうよ。場所の確認もかねて」
部屋にこもっていてもやることはない。美弥は律子の要求を飲む。使った茶器を片付けてから二人で出かけた。
「このへんの人たちは、わるい人じゃないと思うけれど……」
「ちょっと田舎だからってだけじゃ、安心できない」
「でも校長さんはあの姫若先生の旦那さんでしょ。変な人は住まわせないんじゃない?」
律子のいう姫若とは恋愛ものの漫画を専門に描く作家だ。彼女の作品を原作にしたテレビドラマに律子が主演をかざった。姫若のイメージする女性主人公と律子がマッチすることから、彼女は律子に一目置いている。
姫若は親切な女性だ。美弥の苦境を知るや、彼女の夫が経営する才穎高校に転入する選択肢を提示してくれた。
しかしながら律子関連の騒動を一時的なものだと思っていたのか、その申し出を受けると決めた時は「いいの?」と疑問形で答えたそうだ。姫若が即答しなかった原因は、美弥の所属する学校の格式の高さにあった。
美弥のいた高校は金持ちや良家の子たちが通う、お上品な学校であった。庶民派な才穎高校でいいのか、と他人が心配するのも一理あった。名誉に囚われる人間ならば屈辱的な転身になっただろう。
(そんなもの、なんの価値があるんだか)
美弥はそう思う人間だ。現実に、名声ある学校の職員は美弥を切り捨てた。
しょせんは学生寮があるから入った学校だった。名前だけの父親が選んだ、いわば児童養護施設だ。母が生きていればきっと門扉の在り処も知らないままだったろう。
美弥は母子家庭で育った。その母が亡くなってからは実の父親が親権を得た。父は戸籍上の親を名乗るだけ。美弥には無関心だ。彼の住居に美弥を入れようともせず、それゆえ美弥を寮へ押しこんだ。この男は律子さえいればよいと考えているのだ。
父は律子の実父であることを武器に、律子の稼ぎを分けてもらい、生活している。ハイエナか寄生虫か。美弥はそんなふうに父を侮蔑する。しかし人のよい律子は父を見捨てられなかった。美弥にはない、幼きころの父との思い出がそうさせるのかもしれない。だが律子の慕情を裏切るように、父は母以外の女性を愛している。おまけに彼女の分の生活費も律子にせびる。まったく馬鹿らしいことだ。
美弥は義母に会ったことはない。義母は定期的に律子に贈り物をするそうだ。自分たちの金づるにご機嫌取りをしているのだろう。その贈り物だって律子が働いた金で買っているものだ。律子が必要とするかどうかもわからないものにムダ金を使って──と、美弥は義母の行為も不愉快に感じている。だのに律子は届け物が手元にくれば毎度お礼の返事をするのだという。姉のこの律義さも、美弥には共感できなかった。
美弥は損な性格の姉に注意をうながす。
「いい人だから、わるいやつを悪者だと見抜けないことだってあるでしょ。お姉ちゃんがそうじゃないの」
「そう、ね……」
律子は落ちこむ。自身の人の見る目の無さを責められていると感じたのだ。美弥は姉を攻撃する意図はなかったので、あわてて訂正する。
「それがダメだって言うつもりはないの。『こいつは悪いやつだ』と決めつけないのは、お姉ちゃんのいいところだと思う」
律子の人柄のよさは関係者にも好感を持たれていた。そこに付け入る悪者こそを、美弥は敵視する。
「そういうお姉ちゃんを好きになって、守ろうとする人がいるんだもの。いいところはそのまましておいてよ」
「だけど、美弥がこんな目に遭っちゃって……」
「いまの環境はべつになんとも思ってない。私がイラついてるのは、雑誌に変なことを書いて得してる連中がいて、そいつらがなんの罰も受けてないせいなんだから」
まごうことなき本音だ。律子は妹の怒りの矛先が完全に自身にないことがわかり、ようやく微笑みを見せる。
「いいのよ、いま罰が下らなくたって。悪いことをしつづけていれば、いずれ痛い目を見るものよ」
「因果応報ってやつ?」
「そう。……ほっとけばいいの。わたしたちはもっと楽しいことを考えましょうよ」
「……そうね、イライラしてても気分がわるくなるだけだし」
「ねえ、喫茶店に行かない?」
律子は気分転換の提案をした。お茶は飲んだばかりで、現在は食事時でもない。美弥は姉の目当てが飲食でないことを察する。
「モデルさんがオーナーをやってるとこの?」
「うん。遊びにきてって言われてるの。今日はお店にいるんですって」
律子の知り合いには独自の店を経営する芸能人がいる。その人物とはモデルの仕事で接点があった仲だ。相手はモデルだと単純に言っても、かなり特殊な生い立ちをしているという。
「美弥はまだ会ってない?」
「うん……『なにかあったら頼って』とはお姉ちゃんが言ってくれたけど、ここに来てからなにも起きてないし、お店にも行ってない」
「じゃあ行ってみましょうよ。場所の確認もかねて」
部屋にこもっていてもやることはない。美弥は律子の要求を飲む。使った茶器を片付けてから二人で出かけた。
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