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2016年07月27日

第307回 トルコ帽






文●ツルシカズヒコ




 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九二〇(大正九)年四月一日、大杉の出獄歓迎会兼荒畑の大阪行き送別会が神田区錦町の松本亭で開かれた。

 百人余が出席したこの会で、大杉はトルコ帽姿で演壇に立ち獄中生活を語った。

 荒畑の大阪行きは、大阪で岩出金次郎が出している『日本労働新聞』の編集をするためだった。

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 四月二日、改造社が銀座のカフェ・パウリスタで賀川豊彦歓迎会を開催した(『日録・大杉栄伝』)。

『改造』に連載した賀川の社会小説「死線を越えて」の評判がよく、賀川の神戸からの上京を機に改造社が催したのである。

 有島武郎、北原白秋、広津和郎、森戸辰男、堺利彦、高畠素之などに混じり、大杉も出席した。

 大杉はこの日もトルコ帽をかぶっていた。

 賀川は初対面の大杉の印象を書いている。





 大杉君は……カラーもネクタイも無く白いハンカチを頸に巻いてカラーの代用にしてゐた。

 あの可愛い吃りの口付で『入獄者の手引を教へてやらねばならぬ。俺はそれを書く』と云うていた……。

 恰度そこに堺枯川君も、その他社会運動界の猛者連が沢山集つてゐたので、監獄生活に色々と花を咲かせた。

 大杉君は、出獄後女と食物を慎まねばならぬと云ひ、堺君は獄内で色情があまり猛烈に起らないと云ふことを話してゐた。

 大杉君は第一印象から「可愛い」人だと思った。

 快活で、明け放しで(自分の性欲生活までも少しも隠し立てしない)賢い人だと思つた。


(賀川豊彦「可愛い男 大杉栄」/『改造』1923年11月号_p110)





 四月三日、神田区美土代(みとしろ)町の東京基督教青年会館で、森戸事件の控訴支援、言論の自由擁護の演説会が開催された(『日録・大杉栄伝』)。

 午後六時開会。

 大杉は賀川豊彦の演説中にしきりに野次り、ついには登壇し例の「演説もらい」をやった。


 大杉氏が帽子にカーキ色雨外套のまま登壇、
 
 ポケツトから取り出した煙草に悠々点火しなどして会場の空気を一新させ

 先づ自由質問を許し聴衆の「自由とは」「絶対自由を主張するや」等の質問に対し、

 改良は各自の自発的ならざるべからずと力説し「衆合(がつ)すればその集合の中に改造を見出さなければならぬ」と論じ「我々の行動は最も正々と、最も大胆に、最も堂々と……」といふ時、

 出張中の錦町署長の「演説中止!」の声が響いて、聴衆総立ちとなつたが、無事降壇。


(『東京朝日新聞』1920年4月4日)





 賀川によれば、壇上で十数分も話した大杉は中止命令により降壇し弁士室に入って来た。


 大杉君は、フランスの議会の例を引いて、『演説も会話的でなくてはいかぬ、一人が一時間も、二時間も一本調子で喋るのは専制的だ、聴衆と講演者が合議的に話するのが真のデモクラチツクな遣り方だ』と教へてくれた。

 私はそれに感心した。

 たゞ、私は『それが小集会には適するが、大衆の場合には混乱に陥る恐れがある』と云ふた。

 大杉君は風習までにアナキズムを注入することに努力してゐるのだとはその時に私の感付いたことであつた。

 それで、大杉君の一派が裁判官の前で起立しないこと位はあたりまえだと知つたことであつた。


(賀川豊彦「可愛い男 大杉栄」/『改造』1923年11月号_p110)





 大杉が演壇に上がると、最初は彼らを罵っていた聴衆から猛烈な拍手が起こった。

 大杉は演壇の上と下の会話や討論を弁士として試みようとした。

 大杉の意図は、まさにそのときに実際問題になっている、会場の秩序そのものについて聴衆と話し合うことだった。


 しかし其の話し合はうと思つた事が、既にもう、皆んなの間に立派に了解されて了つてゐたのだ。

 新しい秩序の気分が全会場に漲ぎつてゐたのだ。

 僕はふだんの吃りも場馴れない臆病さも全く忘れて、酔つたやうないい気持になつて、聴衆の皆んなと会話した。

 討論した。

 僕はあんな気持のいい演説会は生れて始めてだつた。

 弁士と聴衆との対話は、極く少人数の会でなければ出来ないとか、十分に其の素養がなければ出来ないとか云ふ反対論は、これで全く事実の上で打ち毀されて了つた。

 僕等の謂はゆる弥次は、決して単なる打ち毀しの為めでもなければ、又単なる伝導の為めでもない。

 いつでも、又どこにでも、新しい生活、新しい秩序の一歩々々を築きあげて行く為めの実際運動なのだ。

 怒鳴る奴は怒鳴れ、吠える奴は吠えろ。

 音頭取りめらよ。

 犬めらよ。


(「新秩序の創造」/『労働運動』1920年6月・1次6号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第6巻』)



★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第6巻』(日本図書センター・1995年1月25日)






●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 11:53| 本文

2016年07月26日

第306回 自由母権






文●ツルシカズヒコ



 野枝は『解放』一九二〇(大正九)年四月号に「自由母権の方へ」を寄稿した。

「新しい時代において両性問題はどう変化していくのか?」というテーマで原稿を依頼されたようだ。

 野枝は冒頭で両性問題、つまり男女の問題について考えることに興味が持てなくなったと書いている。

 そしてこう言う。


 親密な男女間をつなぐ第一のものが、決して『性の差別』でなくて、人と人の間に生ずる最も深い感激をもつた『フレンドシップ』だと云ふ事を固く信ずるやうになりました。

 両性の結合を持続さすものは、決して……現在の所謂(いわゆる)恋愛ではなく、それは『性の差別』を超越した『フレンドシップ』だと思ひます。

 本当に深い理解から出た『フレンドシップ』によつてつながれた男と女とが更に深く愛し合ふと云ふのは一番自然なプロセスで……。


(「自由母権の方へ」/『解放』1920年4月号・第2巻第4号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p171)

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 前年、平塚らいてうや市川房枝らが新婦人協会を結成し、治安警察法第五条改正運動を始めるが、野枝はそういう視点で男女問題を考えることには興味がなくなっていた。

  野枝は大杉との生活の実体験に言及し、自分も世間並みの妻が良人(おっと)のを気づかうように絶えず大杉のことが気になるが、別々に生活していると大杉に対する気づかいは影をひそめてしまうと書いている。

 自分と大杉の関係は、お互いの生活を判然と区別して、お互いの理解にまかせ、必要に応じて接触するのが一番いい方法だと、野枝は考えていた。

 そして野枝は尊敬するエマ・ゴールドマンの両性問題、自由母権に対する意見を紹介している。

 野枝の訳著『婦人解放の悲劇』の「結婚と恋愛」からの引用である。

 以下、抜粋要約。





●男と女とは永久に他人でなければならないと、エドワアド・カアペンタアは云つている。それがなくてはどんな結合も失敗に終るのである。

●女には霊魂がない……のみならず、女に霊魂の分子が少い程妻としての価値が大きくなり、更に容易に良人に同化し得ると云ふのだ。長い間……結婚制度なるものを保存したのは此の男尊説に対する奴隷的黙従である。今や女は真に主人の恩恵から離れた存在物として自覚しはじめた。

●若し女が充分自由に生長し、国家若しくは教会の裁可なしに性の秘密を学ぶなら、彼女は全く『善良』な男の妻となるに不適当だとして罪を宣告されるだろう。男の『善良』と云ふのは空っぽな頭と金がたくさんにあると云ふにすぎない。結婚とは確かにこれなのだ。

●婦人の保護……結婚は真に彼女を保護しないばかりでなく、保護と云ふ思想其のものがすでに嫌悪すべきである。人生を侮辱蹂躙し、人間の威厳を貶(おと)すものである。それは資本制度と相似たものである。人間天賦の権利を剥奪し、その生長を防止し、肉体を毒し、人間を無知、貧窮、従属的ならしめ……。

●母たることが自由選択であり、恋愛と、歓喜と、熾烈な情熱の結果であるなら、結婚は無辜(むこ)の頭上に荊冠(けいかん)をおき、血文字で私生児と云ふ言葉を刻(きざ)まないであろうか?

●政府の擁護者は自由母権の到来を恐れている。政府の餌を奪われるのをわざわざ心配してあげているのである。もし婦人が子供の無差別な養育を拒むなら、誰が戦争をするのか? 誰が富を造り出すのか? 誰が巡査になり、官吏になるのか?

●種族! 種族! 大統領や資本家や牧師が叫ぶ。婦人が堕落して単なる機械になっても種族は保存されなければならない。

●婦人はもはや病弱不具な、そして貧乏と奴隷の軛(くびき)を打破する力も心も持たないようなみじめな人間の生産に与(あずか)ることは願わない。

●彼女は恋愛と自由選択によって生まれ、育てられる少数のよりよき子供を願望する。結婚が科するような強迫によってではないのだ。

●似非(えせ)道学者らは自由恋愛が婦人の胸中に呼び覚ました子供に対する深い義務の観念を学ばなければならない。

●子供と一緒に生長することが彼女の座右銘だ。かくしてのみ彼女は真の男と女との建設を助けることができるのを知っている。





 野枝がこのとき『解放』に寄稿した「自由母権の方へ」は、「戦後ウーマンリブの結婚制度否定を50年早く提起した」との指摘もあるようだが、たとえば以下のような野枝の思考がその理由なのだろう。


 よく、私共へ話をしに来る人々が、『あなた方の実現さしたいと云ふ社会はどんな社会ですか』と聞きます。

 そして、その説明を聞いた後で、『しかし斯う云ふ点は、どう処理なさいますか?』と、現在の制度が生み出した不合理から生じた現象をさも私共にとつての最大難関か何かのやうな問ひ方をします。

 私共の何んの為めに、現制度を呪ふのかまるで考へても見ない風で。

 そして、あくまで、現制度の感情から離れ得ないで。

 其処まで来ないうちには、非常に聡明な問ひ方をしてゐる人々が猶さうなのです。

 両性問題が新時代の下に、どう発展してゆくか、と云ふ事に対しては、私は矢張り、現在の制度の下に於ける普通の観念では、完全に考へる事は出来ないことゝ思ひます。

 ですから、たゞ此処では、非常に変つて来るに違ひないと云ふ事だけを先づ云つて置きたいと思ひます。


(「自由母権の方へ」/『解放』1920年4月号・第2巻第4号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p170)





 ちなみに、野枝が「自由母権の方へ」を『解放』に寄稿してからちょうど五十年後、一九七〇年三月に吉田喜重監督の映画『エロス+虐殺』が公開された。


『婦人解放の悲劇』は辻の力を借りて野枝が訳しているが、辻&野枝は原文をどんな感じで訳しているのか。

 たとえば、エドワード・カーペンターの下りの原文はこうである。


Edward Carpenter says that behind every marriage stands the life-long environment of the two sexes; an environment so different from each other that man and woman must remain strangers.

Separated by an insurmountable wall of superstition, custom, and habit, marriage has not the potentiality of developing knowledge of, and respect for, each other, without which every union is doomed to failure.


(「Marriage and Love 」/Emma Goldman『Anarchism and Other Essays』)





 この原文をざっくり直訳すると、こんな感じだろうか。


 エドワード・カーペンターはこう言っている。

 結婚の背後には両性の生涯の環境がある。

 その環境は互いに非常に異なったものなので、男女は他人であり続けなければならない。

 迷信や因習という克服出来ない壁によって(両性が)分断されたために、結婚は男女の理解を深めたり
互いに尊敬する可能性を持ちえなかったーーどんな男女の結合も失敗する運命なしには。






 辻&野枝はこう訳している。


 悉(あら)ゆる結婚の裏面には両性の一生の雰囲気がまつわつてゐる。

 その雰囲気は相互に異なつてゐるので、男と女とは永久に他人でなければならないとエドワード カアペンターは云つてゐる。

 迷信や風俗や習慣の超へ難い障壁によつて分離されてゐては結婚は相互に対する智識や尊敬を発達させる力を持つことは出来ない。

 それが無くてはどんな結合も失敗に終るのである。


(『婦人解放の悲劇』・東雲堂書店・一九一四年三月or四月/大杉栄との共著『二人の革命家』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)



エドワード・カーペンター



★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 19:49| 本文

2016年07月25日

第305回 出獄






文●ツルシカズヒコ



 一九二〇(大正九)年三月十五日、日本では株価が三分の一に大暴落し、欧州大戦後の戦後恐慌が始まった。

 三月二十三日、大杉が三ヶ月の刑期を終えて豊多摩監獄から出獄した。

『読売新聞』は「昨朝 大杉栄氏 出獄す」という見出しで、こう報じている。


 ……昨日朝七時、伊藤野枝氏を始め同士廿数名に迎へられ革命歌に擁せられて出獄せり。

 同氏は頤髭(あごひげ)蓬々(ぼうぼう)たれども極めて元気なりしと。


(『読売新聞』1920年3月24日)

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 大杉は『労働運動』に「出獄の辞」を書いている。


 さすがに別荘は別荘です。

 ほかではとても出来ないほんとうの保養をして来ました。

 最近十年間、毎年の冬の半ば以上は寝て暮らして来たのだが、あの通りの北極近いところで、死苦の寒気を嘗めながら、それをゆつくりと味つて、咳一つ、痰一つ、クシャミ一つ出さずに過ごして来ました。

 そして最近の僕にはまつたく不可能であつた、たつた一人きりの生活を楽しみながら、三ケ月間をただ瞑想と読書とに耽つて来ました。


(「出獄の辞」/『労働運動』1920年4月30日・第1次第5号/『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄全集 第14巻』)





 三月二十八日、大杉と野枝は、大杉が入獄中に働いてくれた『労働運動』関係者の慰労会を開いた。

 野枝によれば、招待した客は「内にいる四五人」と「他に雑誌の上に直接の援助を与えてくれた、二三の人達」である(「或る男の堕落」)。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、近藤憲二、和田久太郎、中村還一、久板卯之助、延島英一、服部浜次、吉川守圀、大石七分のようだ。

 前日、野枝は大杉と一緒に食材の買い出しに出かけた。

 食べ物に飢えた大杉の眼を引いたのは、走りものの野菜だった。

 ふたりは筍、さやえんどう、茄子、胡瓜、そんなものをかなり買い込んだ。

 大杉は、野枝が料理をするときはいつもそうするように、野菜物の下ごしらえの手伝いをしていた。





 そこに水沼辰夫吉田一(はじめ)を連れてやって来た。

 家が狭く食器類も少ないので、声をかけている招待客だけでも人数超過なのに、さらにふたりの客が増えたことは番狂わせだった。

 野枝はいろいろ思案しながら、そしてせっかくの慰労会に無遠慮な吉田に割り込まれるのは困ったことだと思いながら、手を動かしていた。

 するとまもなく、ふたりは帰って行った。

「帰りましたの?」

 台所に入って来た大杉を見上げながら、野枝が訪ねた。

「ああ、帰った。吉田の奴、水沼が帰ろうと言うと『三月だというのに筍の顔なんか見て帰れるかい。俺あ、ご馳走になって帰るんだ』と言ったから、今日は君は招待された客じゃないのだ。ご馳走することはできないから帰れって帰してやった」

「困った人ね」

 野枝はただそう言うよりほかなかった。

 そして、野枝は図々しい吉田がいなくて助かったという気がしたが、水沼にはなんとなくすまない気がした。

 ちなみに大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、野枝は炊事をしながらよく『ケンタッキーの我が家』(My Old Kentucky Home)を歌ったという。

 英語で歌っていたかもしれない。





 まもなく大杉一家は鎌倉に引っ越し、第二次『労働運動』を始めるころまでに、吉田は二、三度遊びに来たが、彼は大杉たちに反感を持ち煙たがるようになった。

 吉田は帰り際には大杉の財布をはたかせたり、着物まで質草に持って行くような真似もした。

 その後、吉田は大杉の悪口を猛烈に言うようになり、野枝たちもそのことは知っていた。

 吉田は雑誌を始めることを口実に、同志を通して金を要求してきたが、大杉は一切耳を傾けなかった。

 大杉が第二次『労働運動』を創刊してからは、吉田は明らかに大杉たちに敵意を示し始めた。

 雑誌を創刊した吉田は、大杉の予言どおり、真面目な運動から外れて金を集めるゴロツキになってしまった。





 彼がロシアへ立つ前に仲間の人々に対して働いた言語道断な悉(あら)ゆる振舞ひは、もう人間としての一切の信用を堕すに充分でした。

 しかし、彼れの持ち前の図々しさと己惚れは、まだ、彼れを其堕落の淵に目ざめさす事が出来ないのです。

 私は彼の目ざましかつた,初期の運動に対する熱心さや、彼の持つてゐる、そして今は全く隠されてゐるその熱情を想ふ度びに、彼れの為めに惜しまずにはゐられませんでした。

 が、邪道にそれた彼れの恐ろしい恥知らずな行為を、私は決して過失と見すごす事は出来ないのです。


(「或る男の堕落」/『女性改造』1923年11月号・第2巻第11号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)





『女性改造』一九二三年十一月号は伊藤野枝追悼小特集を組み、野枝の「遺稿」として「或る男の堕落」を掲載している。

『定本 伊藤野枝全集 第一巻』解題、小松隆二『大正自由人物語』(p180)によれば、吉田が創刊したのは『労働者』(労働社・一九二一年四月創刊)。

 第二次『労働運動』はアナ・ボルの提携であり、インテリと非労働者中心だったが、それに批判的だった労働者が『労働者』に結集した。

 吉田は『労働者』の編集・発行・印刷人だった。

「ロシアへ立つ」た吉田は、一九二二(大正十一)年一月、モスクワで開催された極東諸民族大会に参加した。

 ちなみに、吉田は「第二次世界大戦後に安売り豆腐屋として知られ」(『大正自由人物語』)たという。

 労働社に関わった神近市子は「或る男の堕落」に対抗するかのように、『労働者』創刊の経緯を小説にした「未来をめぐる幻影」を『改造』(一九二四年一月号)に発表し、それは単行本『未来をめぐる幻影』(解放社・一九二八年十一月)に収録された。

「未来をめぐる幻影」に登場する人物は、すべて仮名である。

 渡辺政太郎(仮名/土屋,以下同)、大杉(有松)、泉(久板卯之介)、吉田一(内海)、村木(津上)、近藤栄蔵(伊丹)などが登場している。

 ロシアのボルシェビキから金をもらって帰国した大杉が、その金を使ってブルジョア的な生活をしているなど、大杉に対する神近の批判の視点で貫かれている。

 野枝らしき人物はまったく登場していない。

 神近はこの原稿を大杉と野枝が虐殺された直後に執筆しているはずだが、その筆致には大杉と野枝に対する哀惜の情はまったくない。




★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★小松隆二『大正自由人物語 望月桂とその周辺』(岩波書店・1988年8月24日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 11:03| 本文

第304回 ロシアの婦人運動






文●ツルシカズヒコ



 野枝は『改造』一九二〇(大正九)年三月号に「クロポトキンの自叙伝に現はれたるロシアの婦人運動」を書いた。

「クロポトキン思想批判」特集の中の一文であり、同特集には他に昇曙夢片上伸室伏高信井箆節三が執筆している。

 クロポトキン著、大杉栄訳『一革命家の思出』(春陽堂書店/一九二〇年五月)の第六節を中心にした紹介である。

 クロポトキンの回想記『一革命家の思出』は、野枝に深い感激を与えたが、特に一八六〇年代に起こったロシアの婦人たちの高等教育を受けるための大運動は、野枝に限りない羨望を感じさせた。

 それはアレキサンダー二世の治世下であった。

 アレキサンダー二世はパリで狙撃されて以来、若い知識階級を恐れ、彼らに弾圧を加えた。

 そんな中、婦人たちが「大学を婦人に解放せよ」という要求を掲げ、頑迷な政府と戦い、勝利を得たことに、野枝は感激したのである。

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 セント・ペテルスブルグは当時の婦人運動の中心地で、全国の若い婦人たちはこの運動に加わるために、ここに集まって来た。

 彼女たちは大学の講義を聴きたいと願ったが、「女学校を卒業したくらいでは、その資格がない」と政府にはねつけられた。

 すると彼女たちは、大学予備校を開校する許可を願い出た。

 政府は許可を与えることを拒んだ。

 そこで彼女たちはセント・ペテルスブルグのあちこちで、講習会などを始めた。

 大学教授たちは、彼女たちの運動に同情し喜んで講義を受け待った。

 こうして勉強しながら、女医学校や女子大を開こうという計画のために、学校や教育法についての討論会が開かれ、婦人たちが熱心に論じ合った。

 産婆学の講習会では、教授に迫って定められたよりはずっと詳細に各課目を講じさせた、

 その熱心さによって、老博士クウルベルが解剖研究室に入ることを許すと、彼女たちは一生懸命に勉強した。

 彼女たちの立派な成績により、この解剖学者は彼女たちの味方になった。

 日曜日の夜など、誰か教授がその研究室で勉強させてもいいと言えば、彼女たちはそこに押し寄せて熱心に夜遅くまで勉強した。

 彼女たちはついに文部省から、教育学講習会という名義で大学の予備校を開く許可を得た。

 こうして彼女たちは確実に一歩一歩、権利を拡張していった。





 ドイツのある大学のある教授が婦人に講義を解放しているという話を聞くと、すぐにその教授の講義を聴きに行った。

 彼女たちはハイデルベルヒで法律や歴史を、ベルリンで数学を勉強した。

 チューリッヒでは百人あまりの婦人が大学や百科工芸学校に通った。

 教授たちは彼女たちの優秀さに驚いた。

 クロポトキンも一八七二年にチューリッヒに行き、百科工芸学校に通っている若い婦人たちの数学の素養の高さに驚き、「長年の数学の素養があるかのように、造作もなく微分法を使って熱学の複雑な問題を解いていた」と書いている。

 ベルリン大学のワイエルストラス教授の下で数学を学んでいたロシア婦人のひとり、ソフィア・コワレフスキイはその才能の高さが評判になり、ストックホルムの大学の教授に招聘された。

 アレキサンダー二世は、眼鏡をかけて円いガリバルディをかぶった女に会うと、自分を撃ち殺そうしているニヒリストだと思って慄(ふる)えたという。

 女学生はアレキサンダー二世から革命家として憎まれ、国事警察に弾圧され、政府の命を受けた新聞に罵倒され讒訴(ざんそ)されたが、彼女たちはいくつかの教育機関を設けることに成功した。

 一八七二年には彼女たち自身の私立医科大学を開いた。

 婦人たちはすでにクリミア戦争の際には看護婦として働いていた。

 その後、小学校の教師として、農村の教育ある産婆として、医師の助手として働いた。

 一八七七年から始まった露土戦争では、看護婦として医師として貢献したので、アレキサンダー二世や軍司令官から賞賛され、婦人たちは自分たちの本当の権利を獲得したのだ。

 この運動の特徴のひとつは、姉と妹の間の世代の裂け目が少なかったことだ。

 姉世代は一切の政治運動とは没交渉だったが、その運動の本当の力が急進的あるいは革命団体に結びついた若い女たちのグループにあることを忘れるような過ちをしなかった。

 若い女学生たちが髪を短く切り、天鵞絨(ビロード)の「下袴の張り」を嫌い、ニヒリストとして行動する彼女たちと、姉世代の婦人たちは縁を切ることをしなかった。

 狂気のような迫害の時代には、非常に偉いことだった。





 ロシアの婦人運動はただこれのみでも充分に勝利を得たのだと思った野枝は、日本の「姉世代」の婦人を痛烈に批判している。


 それにくらべますと、現在日本の女子教育家とか……婦人界の全権を振つてゐるやうな顔をしておさまつてゐる多くの某々婦人や……お歴々の浅薄さ加減はどうでせう。

 若い女達の意見などは耳にもかけません。

 まして其の思想を理解したり尊敬する事はまるで知りません。

 変つた服装をするとか、他眼(ひとめ)にたちやすい髪でもすると即座にとがめる。

 若し政府に反抗するなどゝ云ふ事があれば、たちまちにして他人になる処ではなく前生からの仇敵の憎しみは必ず持ちます。

 より急進的な、燃ゆるような情熱の所有者である若い娘達と『一緒に仕事をする』などと云ふやうな事は日本の貧弱な知識階級の女達には、とても思ひも及ばない事だと云はなければなりません。

 ロシアの……婦人達は、立派な彼女自身の見識を持つてゐました。

 彼女達は立派な独立した人格を持つてゐました。

 彼女達は大抵の国の女達がそれに禍(わざわい)されて容易に脱し得ない性の区別などは全(ま)るで念頭においてゐなかつた。

 彼女は何んの躊躇もなしに、人間としての同一目的の為めに、悉(ことごとく)この不正不義に向つて、男子と肩をすれ合はして戦ふ事を知つてゐた。

 彼女達は……人類の生活の正しい意義を見つめてゐました。

 彼女達が高等教育を受けたい、と云ふ望みも、たゞいゝ加減な自分一個の知識欲を満たす為めばかりではなかつたのです。

 ロシアの婦人達は他のどの国の女達よりも進んだ立派な人格と、確(し)つかりした正しい考へを持つてゐた。


(「クロポトキンの自叙伝に現はれたるロシアの婦人運動/『改造』1920年3月号・第2巻第3号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p166~167)





 一八七二年にチューリッヒに行ったクロポトキンは、そこに集うロシアの若い男女の学生の生活をこう書いている。

「百科工芸学校の近くの有名なオオベルシュトラアスはロシア町となって、そこでは主にロシア語が使われていた。学生たちは極くわずかなもので生活していた。特に女はそうだった。社会主義運動の最近の出来事や、最近に読んだ書物についての盛んな討論をしながら、茶とパンと牛乳と、それにアルコールランプの上で煮た薄い肉片。これが彼らのお決まりの食べ物だった。」

 プーシキンは詩の中で「どんな帽子でも十六の娘に似合わないということがあろうか」と言ったが、服を倹約していたチューリッヒのロシアの少女たちは、こう問いかけているようだった。

「どんな質素な着物でも、それを着る女が若くて利口で、そして元気に充ちていれば、その女を娘らしく見せないということがあろうか」

 そして、野枝はそのころロシアの若者の間に激しい勢いで広まった虚無党に触れ、ツルゲーネフの『父と子』の青年とその父のように、虚無党に関わった娘と両親の確執について書き、最後をこう結んだ。


 新旧思想の衝突は、何(ど)の国でも、何処の家庭でも同じやうな形式のものです。

 此の点でも私は同一団体の中に於いて、厳重に、急進的な若い人達と自分達の間に区別しながら、しかも其の若い人達を中心にしてそれを庇護し其の為めに確実な勝利を得る事に努めたロシア婦人の先覚者達のえらさを、此処に繰り返さずにはゐられないのである。

 今やロシアは、革命的の混乱状態にあります。

 しかし、やがて、其混乱が一とかたづきした暁には、新しいロシアは悉ゆる方面に渡つて世界人類の先覚者として輝き出すに違いないと思ふ。


(「クロポトキンの自叙伝に現はれたるロシアの婦人運動/『改造』1920年3月号・第2巻第3号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p169)



★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index






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2016年07月23日

第303回 豊多摩監獄(四)






文●ツルシカズヒコ




 豊多摩監獄に入獄中の大杉が野枝に手紙を書いたこの日、一九二〇(大正九)年二月二十九日、野枝も大杉に手紙を書いた。

 このころ野枝はツルゲーネフの『その前夜』『父と子』『ルージン』を読んでいた。

『その前夜』『ルージン』は田中潤訳、『父と子』は谷崎精二訳で新潮社から出ていた(いずれも重訳)。

 ロープシン の『蒼ざめたる馬』(青野季吉訳/冬夏社)も読んだ。

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 先達(せんだつて)はツルゲネエフのオン・ゼ・イヴ(※『その前夜』)を読みました。

 あなたはあれを読んだことがありますか。

 私はエレーナやインザロフに対して、特別に興味を引かれる何ものも見出しはしませんでしたけれど、ただ、病人のインザロフを守って祖国の難に行く途中のエレーナの気持にはひどく引きつけられました。

 そして又、インザロフを失つたエレーナの気持にも引かれました。

 続いて私はロオプシンと云ふ人の書いたごくつまらないものですが、その中でもあるテロリストのラヴアツフエアに強くつきあたりました。

 私達は生きてゐる間は、どんなに離れてゐても、お互ひの心の中に生きてゐ一つのもので結びつけられてゐますけれど、私達は何時の日死(しに)別れるかしれない、と考へる時に、私は心が冷たく凍るやうな気がします。

 私が先きに死ぬのだつたら、私は何んにも思ひません。

 きつと幸福に死ねるでせう。

 でも、残される事を考へると本当にいやです。

 そして私達の生活には何時そんな別離が来るかも知れないなどと考へます。

 馬鹿な話ですけど。

 小説はこんな妙な事を考へさせますからいけませんね。

 オン・ゼ・イヴにつづいてバザロフ(※『父と子』の主人公)やルーデインも読んで見ましたけれど、つまりませんね。

 何の感激も起りません。

 直ぐ物足りない気持がするだけです。

 私の感じは余りプロゼイツクになりすぎたのでせうか、それとも他の理由からでせうか。

 先達て春陽堂で今村さんに会ひましたら『先生が出てお出になつたら、ぜひ今度の獄中記を書いて頂くようにお願ひして下さい』なんて云つてゐました。

 そして今度それを増補してまた獄中記の版を重ねるのだからなどとも云つてゐました。

 今度は中野の巻がはいるのですね。

 堺さんも何時行けるのか分りませんね。旅券が下らないし……。

 マガラさんを連れて行くのですつて。


(「消息 伊藤」・【大正九年二月二十九日・豊多摩監獄へ】/『大杉栄全集 第四巻』/「書簡 大杉栄宛」一九二〇年二月二十九日)/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p160~161)


「中野の巻」は「新獄中記」(大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)として『新小説』(春陽堂書店)十月号に掲載された。

 堺は長女・真柄を連れて海外旅行を計画していたが、旅券が下りず中止になった。





 一月の末から労働運動社に寄食していた吉田一(はじめ)の無遠慮な振るまいが、家の中いっぱいに広がり、野枝の神経に障るようになるにはさしたる日数を要しなかった。

 野枝のこのときのストレスを書いたのが「或る男の堕落」である。

「或る男の堕落」は人名をイニシアルで表記した小説のスタイルで書かれているが、野枝の死後、『女性改造』1923年11月号(第2巻第11号)に)に遺稿として掲載された(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』に所収)。

 野枝はいつか吉田にリベンジしようと、密かに書き記していたのだろうか。





 吉田は何かいい本があったら読んでくれと、よく野枝に頼んだ。

 しかし、それは誰にも辛抱ができなかった。

 吉田は途中で何か感じたことがあると、書物のことは忘れて、三十分でも一時間でもひとりで、とんでもない感想をしゃべりまくるからだ。

 年若い延島英一が相手になったりすると、大激論になった。

 ともかく、吉田のおしゃべりが終わるのを待って、本の後を読み続けてやるという辛抱はできるものではなかった。

 野枝が体調を壊し、台所に立てないとき、吉田は露骨に野枝が嫌がるような、誰も喜ばないような食べ物を作って押しつけた。

 近所の安宿の泊客を連れて来て、ほどこしをしてやったりもした。

 汚い乞食のような人たちを狭い台所に集めて、犬にしかやれないようなものを食べさせ、吉田は胡座をかいて貧乏人の味方主義を「説いて」聞かすのだった。

 あまりにひどいものを食べさせ、ありがた迷惑なお説教を聞かせることを、野枝や同志たちが非難しても、彼は決して凹みはしなかった。





 二、三軒ある安宿に出かけて行っては、みんなにお世辞を言われていい気になっていた。

 安宿にいる人たちは、みんなもうよぼよぼの頼るところのない老人ばかりだった。

 苦しい経済状態の中、茶の間の茶箪笥の抽き出しに、いつも「あり金」が入れてあった。

 みんな必要な小遣いをそこから勝手に取ることにしていた。

 労働運動社の社員は、誰も一銭も無駄な金を持ち出す者はいなかった。

 何かと入り用な野枝は、小遣いとは別の財布を持っていた。

 それも野枝自身が書いた原稿料や印税の一部をあてて、ようやく足りている状態だった。





 吉田は野枝の財布から、小遣いを取るようになった。

 野枝は黙って渡した。

 吉田は原稿料や印税はなんの苦労もしないで得た金だから、強奪してもかまわないのだと言った。

 吉田の嫌がらせは、彼が元から持っていた大杉や野枝に対する僻(ひが)みの表れであると、野枝は見ていた。

 野枝に対する反感が露骨になってきたころから、吉田は同志にも無遠慮になった。

 延島と毎日のように激論をするようになった。

 大杉が出獄する日を待たずに、吉田は労働運動社から出て行った。



★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)



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第302回 豊多摩監獄(三)






文●ツルシカズヒコ



 一九二〇(大正九)年二月八日、野枝は大杉に手紙を書いた。


 いやなものが降り出して来ました。

 監獄はさぞ冷えるでせう。

 和田さんは先月末大阪に帰りましたが、どうも例の病気がよくないので弱つてゐます。

 あの飛びまわりやさんが、歩く事がまるで出来ないのですから。

 久板さんは相変らずコツ/\歩いてゐます。

 皆んなまだウチにゐます。

 もう半分すみましたね。

 ずいぶん辛いでせうね。

 奥山(医師)さんが本当に心配してゐらつしやいます。

 私は、本当に、私達がどんな接触を一番してゐるかと云ふ事を今度、つく/″\感じました。

 もう長い間、私は友達と云ふものを持ちません。

 そしてまた欲しいとも思ひません。

 まるで孤独と云ふものを感じた事はありません。

 けれど今度あなたが御留守になつてから、私は本当に、ひとりだと云ふ事にしみ/″\思ひあたりました。

 あなたは、私にとつては一番大きな友達なのだと云ふ事を、本当に思ひあたりました。

 大勢と一緒にゐましても、私は私の感じた事、考へた事の何一つ話す事が出来ません。

 ……私は全くひとりで考へてゐるよりは他はないのです。
 
 私には今、それが一番さびしく思はれます。

 私はぢつとして家の中に引込んでゐると、本当にコンベンシヨナルな家庭の女になり切つてしまひます。

 あなたのする事、考える事が、一々気になります。

 外へ出かけても食事時には帰つて来て欲しいし、出先も一々知りたい。

 家で仕事をしてゐらつしやる時だつて、あんまり仕事に熱中して食事時もろく/\相手になつて貰へなければ、私は不平なんです。

 つまり自分が家庭のコンベンシヨナルな夫婦になりたがるように、あなたにもやつぱりいい家庭の旦那様になつて欲しいのです。

 ……あなたに対する此の要求が、私達の生活には無理である事をよく知つてゐます。

 別にゐて、私が私自身の生活を静かに送つてゐる時、私はあなたの生活をさう一から十まで気にしないで済みます。

 あなたの生活と自身の生活を判然と区別する事が出来ます。

 私達は出来るだけ別にゐる方がいいのです。

 けれど……たつた一カ月半別れてゐて、それで私はろくな話し相手もなく寂しがつてゐます。

 此の意気地なしを笑つて下さい。

 少し肩がいたくなりましたから今夜はこれで止します。

(二月八日)


(「消息 伊藤」・【大正九年二月二十九日・豊多摩監獄へ】/『大杉栄全集 第四巻』/「書簡 大杉栄宛」一九二〇年二月二十九日/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p159~160)

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 二月十日、野枝は豊多摩監獄に行き大杉と面会した。

 野枝は門の控所で待っている間に、面会に来ていたおかみさんの話をしみじみと聞いたと、大杉宛ての手紙に書いている。


『私共では日曜が二十三すぎると出て来ますので、私はコヨリをこしらえて日曜が来る毎に一本づづそれを抜きます。そしてその数はもう数えなくてもよく分つてゐるくせに、しよつちう数へずにはゐられませんですのよ』

 本当にそれは誰にでも彼処に来てゐる人には同意の出来る話です。


(「消息 伊藤」・【大正九年二月二十九日・豊多摩監獄へ】/『大杉栄全集 第四巻』/「書簡 大杉栄宛」一九二〇年二月二十九日/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p161)






 二月二十九日、大杉は野枝に手紙を書いた。

 この年の二月は晴れた日が二、三日しかなく、「毎年こんなに降つただろうか、と思はれるほど雪が降った」と、大杉はまず雪のことを書いている。

「監獄の寒さと云ふのも、こんど始めて本当に味つたやうな気がする」というから、厳冬だったようだ。

 ちなみに、1920年2月の日平均気温は2.6度である。


 四五日前の大雪で、ことしの雪じまひかと喜んでゐたら、又降り出した。

 けふは手紙を書く筈なのに……手がかぢかんでとても書けまいと悲観してゐた。

 しかし有難い事には急に晴れた。

 そして今、豚の御馳走で昼飯をすまして、頭から背中まで一ぱいに陽を浴びながら、いい気持になつて此の手紙を書く。


(『大杉栄全集 第四巻』・「獄中消息 豊多摩から」・【伊藤野枝宛・大正九年二月二十九日】/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)





 風もひどかったという。


 又、実によく風が吹いた。

 殆ど毎日と云つてもいい位に、午後の二時頃になつて、向側の監房のガラス戸がガタ/\云ひ出す。

 ……芝居と牢屋とでのほかに余り覚えのない、あのヒユウーと云ふあらしの聲が来る。

 本当にからだがすくむ恐ろしい聲だ。


(『大杉栄全集 第四巻』・「獄中消息 豊多摩から」・【伊藤野枝宛・大正九年二月二十九日】/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)





 寒さも、大晦日から二月初旬まで続いた軽い下痢も屈伸法で克服した。

 屈伸法が効かないのは霜焼けだった。


 随分注意して予防してゐたんだが、とうたうやられた。

 そして、一月の末から左の方の小指と薬指がくづれた。

 小指はもう治りかけてゐるが、薬指は出るまでに治りきるかどうか。

 この創が寒さに痛むのは丁度やけどのあの痛みと同じだ。

 一日のうちのふところ手をして本を読んでゐる間と寝床に入つてゐる間とのほかは、絶えずピリピリだ。

 天気のせいもあつたが、此の霜やけのお蔭で、本月はまだ一度も運動にそとへ出ない。

 菜の畑のまはりの一丁程の間をまはるんだが、僕は毎日それを駈つこでやつた。

 始めは五分位で弱つたが、終ひには二十分位は続いた。

 朝早く此の運動場に出て、一面に霜に蔽はれながら猶青々と生長して行く、四五寸位の小さな菜に、僕は非常な親しみと励みとをを感じてゐたのだが、もうきつと余程大きくなつたに違ひない。


(『大杉栄全集 第四巻』・「獄中消息 豊多摩から」・【伊藤野枝宛・大正九年二月二十九日】/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)





 一月は社のことや家のことをいろいろ思い出し考えもしたが、二月になってからは社や家がどうなっているのかまるで見当がつかなくなった。

 終日考えているのは食べ物のことばかりだった。


 が、何んのかんのと云ふうちに、あすからはいよ/\放免の月だ。

 寒いも暑いも彼岸までと云ふが、そのお中日の翌日、二十二日は放免だ。

 魔子、赤ん坊、達者か。

 うちのみんなに宜しく。


(『大杉栄全集 第四巻』・「獄中消息 豊多摩から」・【伊藤野枝宛・大正九年二月二十九日】/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)




★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』(海燕書房・1974年)

★『大杉栄全集 第13巻』(日本図書センター・1995年1月25日)




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2016年07月21日

第301回 下婢






文●ツルシカズヒコ

 野枝は『労働運動』一九二〇年二月号(一次四号)に、「堺利彦論」の前編、および八面(婦人欄)に「争議二件」「閑却されたる下婢(かひ)」「友愛会婦人部独立」「消息其他」を書いた。

「争議二件」は富士瓦斯(がす)紡績押上工場の争議、相州平塚町の相模紡績の争議の短信である。

 相模紡績について野枝は「女工虐待では有名な」と書いている。

「閑却されたる下婢(かひ)」の冒頭で、野枝はこう書いている。


 婦人の労働問題は、最近大分議論されるやうになったが、其の中心になつてゐるのは、何んと云つても工場労働者たる婦人に限られたやうになってゐる。

 ……此の工場労働者と同様に、或る意味ではもつとも惨めな、そして、我国の婦人労働者の数の第一位を占めてゐる、下婢がまるで問題にされてないのは、奇妙な事だと云へる。


(「閑却されたる下婢」/『労働運動』1920年2月1日・第1次第4号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p144)

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 当時、下婢払底の声が盛んになっていた。

 農村子女が職を得る道のひとつとして開けていたのが下女奉公だったが、工場労働の方が割りがよく自由もあったので、下婢志願者が減少していたのである。

 下婢が売り手市場になったことにより、各家庭の主婦たちの下婢の増長に対する嘆声が聞かれるような風潮になっていた。

 前年の十月、森戸辰男が「日本に於ける女子職業問題」というリポートを発表していたが、その第二章第三節「二、婢」のデータを野枝は紹介している。

 それによれば、当時、全国には七十万から百万の下婢が存在していた。

 一九一六(大正五)年の全国の都市の下婢の平均賃金は、賄い付きで月三円十七銭。

 賃金のみならず、下婢の食住がいかに劣悪であるか、「二十四時間労働」を強いられ、いかに雇用者の隷属下にあるかーー。

 野枝は森戸がリポートしたデータを元に訴えている。

 森戸は東大経済学部の紀要『経済学研究』創刊号(一九二〇年一月)に発表した「クロポトキンの社会思想の研究」が危険思想とされ、一月十四日に東京帝国大学経済学部助教授の職を休職になっていた。

 いわゆる森戸事件で、森戸は十月、大審院で禁錮三ヶ月、罰金七十円に処せられた。





「友愛会婦人部独立」によれば、友愛会婦人部の会員は約二千二百名、うち富士瓦斯紡績押上工場の女工が千八百名である。

 婦人部の独立は友愛会会長・鈴木文治の専制を打破するための動きであったが、結局、実現はしなかった。

 一方、平塚らいてうは前年ごろから、友愛会婦人部の常任書記を辞したばかりの市川房枝を誘い、新団体の結成準備に取りかかり、新婦人協会を結成した。

 東京モスリン吾妻工場を解雇された山内みなも新婦人協会に所属することになるが、野枝は「某婦人協会」(新婦人協会のこと)を結成したらいてうらを「不徹底な知識階級の婦人達」と批判している。

 前年の十月二十九日、ワシントンで開催された第一回国際労働会議に参加した日本の代表団は、一月十三日に帰国した。

「消息其他」では婦人顧問として参加した田中孝子、田中に随行した尾形節子(鐘紡の女工)に言及、田中を批判している。

 なお、野枝が担当している婦人欄に、山川菊栄が「米国の婦人労働者」を寄稿している。

 この号から久板卯之助がスタッフに加わった。





 野枝は『ニコニコ』二月号に「悪戯」、『解放』二月号に「ある女の裁判」を寄稿している。

「悪戯」は安藤花子という筆名を使用している。

「ある女の裁判」解題によれば、「とんだ木賃宿」事件が起きたのは二年前の三月だったが、このとき区裁判所で過ごした四、五時間の見聞を創作にしたのが「ある女の裁判」である。

 大杉が日ごろ裁判の傍聴を勧めていたので、野枝はある裁判を傍聴したようだ。

 被告は貧しい暮らしをしている屑屋の女房である。

 被告はある男と不貞の関係になったが、その男は泥棒で盗品を彼女が預かったために起訴された。

 野枝は傍聴した理由をこう書いている。


 ……被告人は女でした。

 けれども……それが女だつたからと云ふ興味だけで聞いたのではありません。

 また女だつたから特に面白いと云ふ種類のものでもありませんでした。

 私はその裁判される事柄それ自身よりは『裁判』と云ふものに興味を感じたのでした。


(「ある女の裁判」/『解放』1920年2月号・第2巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p)





 今回の入獄に際し、大杉は三ヶ月間、三畳ほどの独房生活をしながら世界中を遊び廻るのも面白かろうと、エリゼ・ルクリュ『新万国地理』第七巻「東部亜細亜」、ダーウィン『一博物学者の世界周遊』、ウォレス『島の生物、動植物の世界的分布』などの書籍を丸善で購入した。

 偶然に出逢ったファーブル『昆虫の生活』(仏語の原書)なども含めて、二十冊ばかりの本を抱えて豊多摩監獄に入獄した。

 そして、入獄後すぐに丸善の新着本の中にあったファーブルの英訳書が五冊差し入れになった。


 ーー『昆虫の生活』は『昆虫記』十巻の中からの抜粋で、フアブルが最も苦心して研究したいろんな糞虫の生活が其の大部分を占めてゐた。

 ーー糞虫と云ふのは、一種の甲虫で、牛の糞や羊の糞などを食つてゐるところから出た俗称だ。

 糞虫が、そう云つた糞を丸めて握り拳大の団子を造つて、それを土の中の自分の巣に持ち運ぶ、其の運びかたの奇怪さ!

 又、一昼夜もかかつてその団子を貪り食つて、食ふ尻から尻へとそれを糞にして出して行く、其の徹底的糞虫さ加減!

 そして又、やはり其の団子で、自分が死んだあとでの卵の餌食を造つて置く、其の造りかたの巧妙さ!

 それにフアブルの観察や実験の仕方の実に手に入つたうまさ!

 描写の詳密さ!

 文章の簡素雄渾さ!

 読み始めると、とても面白くて、世界漫遊どころではない。


(アンリイ・ファブル『昆虫記』「訳者の序」/『大杉栄全集 第九巻』/『大杉栄全集 第14巻』)


 そして、差し入れてもらった英訳本『蟋蟀の生活』『糞虫』『左官蜂』『本能の不可思議』などを読み耽った。

エリゼ・ルクリュ



★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『大杉栄全集 第九巻』(大杉栄全集刊行会・1926年3月20日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)





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第300回 教誨師






文●ツルシカズヒコ



 一九二〇(大正九)年一月二十二日、前年夏に豊多摩監獄に下獄した吉田一が出獄した。

 行く先のない吉田は労働運動社に寄食することになった。

 おしゃべりな吉田が獄中で唯一おしゃべりができるのが、教誨師の訪問を受けるときだった。

「だけんど、俺がたったひとつ困ったことがあったんだ」

 吉田は博学な教誨師を無学な自分が論破した話を野枝にした。

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 あるとき教誨師が吉田に言ったという。

「おまえは、誰も彼も平等で、他人の命令なんかで人間が動いちゃいけないと言ったな。命令する奴なんぞあるのが間違いだと言ったなあ。だがね、たとえば、人間の体といういうものは、頭だの体だの手だの足だの、また体の中にはいろいろな機関が入っている。そのいろいろな部分がどうして働いていくかといえば、脳の中に中枢というものがあって、その命令で動いているんだ。この世の中だって、やっぱりそれと同じだよ。命令中枢がなくちゃ動かないんだ」

 吉田は体のことなど知らないので、返事に詰まってしまった。

「どうだ、それに違いないだろう」

 吉田は口惜しかったが、黙っていた。

「よく考えてみろ、おまえのいうことは間違っている」

 そう言って教誨師は行ってしまった。

 口惜しくてたまらなかった吉田は、半日、夜まで考え続けた。





 そして次に教誨師が来たときに言ってやった。

「うんと歩いてくたびれ切ったときにゃ、いくら歩こうと思ったって足が前に出やしねえ。手が痛いときに働かそうと思ったって動かねえや。口まで食ったって胃袋が戻しちまうぜ。それでもなんでもかんでも頭の言う通りになるのかね。それからまたよしんば、方々での言うことを聞いて働くにしたところでだね、その命令を聞く奴がいなきゃどうするんだい? 足があっての、手があっての、なあ、働くものがあっての中枢とかいうもんじゃないか。中枢とかいう奴の己一人の力じゃないじゃねえか。ならどこもここも五分五分じゃねえか。俺は間違っちゃいねえと思う」

 すると今度は教誨師が黙ってしまい、それ以降、吉田には何も言わなくなった。

 吉田はいつも夢中で話すときに誰に向かってそうするように、野枝にぞんざいな言葉で話した。

「感心ね。よくでもそんな理屈が考え出せてね」

 野枝が言うと、吉田はいかにも得意気にしゃべった。

「そりゃもう口惜しいから一生懸命さ。どうです、間違っちゃいないでしょう」

 吉田が労働運動社に寄食するようになったことについて、野枝はかなり心配していたが、意外にも彼はやるべきことはやるようだった。

 労働運動社の炊事は朝晩、交代でやることになっていたが、吉田は毎朝の炊事を引き受けた。

 監獄で習慣づけられたとおりに、雑巾などを握って台所なども、案外きれいに片づけた。





 二月一日、『労働運動』二月号・一次四号を発行、その経過を野枝が手紙で大杉に報告している。

 宛先は「豊多摩郡野方村 豊多摩監獄」。


 雑誌はまた昨日禁止になりました。

 一昨夜十二時すぎに、和田さんが電車もないのに納本にゆき、昨日の朝近藤さんが行つて見ると、ボルガ団の記事がいけないと云ふので、皆んなで一段ばかり削る事になりました。

 この工合だと初版禁止改訂再版が毎号つきものになりさうだと皆んなで話してゐます(二十九日)。

 二十九日の夜と云つても、もう三十日の午前三時頃、漸く雑誌を渡辺まで運び込んださうです。

 それから折つて三十日の四時の急行で和田さんは大阪に帰へりました。

 そしてその晩ひと晩ぎりで後を折つて三十一日に配本を終りました。

 近藤さんは風邪で苦しがりながらあちこちと本当に大変でした。

 皆んな、大変な努力でした。


(「消息 伊藤」・【大正九年一月三十一日・豊多摩監獄へ】/『大杉栄全集 第四巻』/

「書簡 大杉栄宛」一九二〇年一月三十一日/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p131~132)





『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題によれば、「ボルガ団」とは同志社大学の東忠継(ただつぐ)、京都大学の高山義三などの学生に、奥村電機の新谷与一郎らの若い労働者が加わった労学会と言うべき京都の団体。

「渡辺」は故渡辺政太郎の妻・若林八代宅(小石川区指ヶ谷町九二番地)で、北風会の会場である八代宅は『労働運動』の発行所でもあった。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、『労働運動』同号より久板がスタッフに加わり、新たに神戸支局(主任・安谷寛一)を開設した。



★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)




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2016年07月19日

第299回 山川菊栄論






文●ツルシカズヒコ



 野枝は『解放』一月号(一九二〇年一月号・第二巻第一号)に「山川菊栄論」を書いた。

「新時代の新人物月旦」欄の一文で、他に黒田礼二「森戸辰男論」、新明正道島田清次郎論」が掲載された。

 野枝は前振りとしてこんなことを書いている。以下、『定本 伊藤野枝全集 第三巻』の要約。

●社会問題がやかましく議論される昨今だが、社会問題に関する婦人界の知識が隔絶されている中で、山川菊栄氏のような評論家を得たことは一般婦人にとって幸いである。

●与謝野晶子氏、平塚明子(はるこ)氏は婦人評論家として押しも押されぬ存在であるが、社会問題に対する見識と態度においては、菊栄氏におよぶべくもない。

●労働問題に対する三氏の見解や態度は、三氏の色を明確にするものだと思う。

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 そしてまず与謝野晶子の「総論」を書いた。

●『太陽』において、早くから実際生活に対する不平をよく並べて、初老くらいの年輩の人々から注目されているのが与謝野氏である。

●しかし、そもそも氏は評論家ではない。どこまでも芸術家らしい人である。

●氏は目新しい理論などにすぐに眩惑され、批評をすることができない。

●氏の知識には統一がないから、バラバラの知識が氏の感情をいろいろに豹変させる。

●非常に正しいことを言っていると感じることもあるが、とんでもないことを得々と語っている場合も多い。

●そういう根本問題に、氏は少しも気づいていない。だから評論家として立つ資格がないのである。




 
 続いて平塚明子の「総論」。

●与謝野氏に比べると平塚氏は評論家としてずっと聡明だ。

●与謝野氏は極めて不用意に大まかな感想や議論を無造作にするが、平塚氏はひとつの理論を受け容れるにしても、隅から隅まで吟味した後でなければ、軽はずみなことは口にしない。だから、平塚氏は評論家として申し分ないのである。

●平塚氏はエレン・ケイの導きによって、ようやく抽象論から実際的な社会問題に取り組むようになった。

●しかし、ケイの導きから一歩も出ていないのも事実であり、それが評論の領域を極めて不自由にしてしまっている。





 さらに山川菊栄の「総論」。

●氏は早くから社会問題に注意を怠らず、それに対する知識を養ってきた。

●その透明な頭脳をある理論の追究に向けるとき、氏の冷たい鋭さが一貫していささかの妥協もゆるさない。

●自分を繕おうとする臆病な批評家たちなど真似のできない、氏独自の強味と鋭さがある。それが論敵に向けられたとき、その鋭峰はいささかの躊躇もなく敵の虚をつき、同時にまた持論の防備の手を拡げていく。

●これは与謝野、平塚両氏にとうてい見ることのできない強味であり、両氏よりはるかに多くの社会に対する知識や理解を有しいているから可能なのだ。

●しかし、「事象の陰翳(いんえい)」に対しては、平塚氏の方がすぐれている。平塚氏は微細な注意を払い理解を持とうと努める。

●「事象の陰翳(いんえい)」に対して、山川氏は時としてまったく寸毫も仮借しない。特に少しでも氏に侮蔑を持たれた場合には、特にこの寛大は求められない。





 次に野枝は三氏と労働問題について論じている。

 まず、与謝野晶子と労働問題。

●氏は労働問題についてはまったく差し出口を許されない人である。

●氏は柔らかい着物を着、暖かな寝床に寝て滋味をとりながら、ただその支払いに必要なお金が時々不足するから自分を貧民扱いにする人である。

●不潔な長屋に住み、不味いものを食べ、過労と睡眠不足との身を細らしながら、十二時間も十四時間も働かされて掠奪され踏みにじられている労働者をとらえて、自分たちよりはるかに幸福な人たちだなどと、とんでもないことを言う人だ。





 平塚明子と労働問題。

●氏も最近かなり労働問題に興味を持ち出したきたようである。

●現在の女工の実際生活を見た人ならば、誰だって黙っていられるはずがないが、しかし、氏もまたそれを支配している大きな社会背景を理解していない。

●氏が現在、婦人労働者に対してやろうとしている第一のことは、彼女たちに教育をつけることらしい。

●しかし、彼女たちの悲惨は誰がどう救うのか? 資本家はどうすればいいのか? 労働者はまず何をなすべきか? 自分たちと労働者の溝をどうするのか? 平塚氏に聞いてみたいものだ。

●母性保護、健康というようなことをしきりに言っている氏の考えは、女工に対する同情の域を出ていないと思う。

●同情が無駄なこととは言わないが、資本家の不当な力というようなことにはまるで理解がない。

●氏は私に向かって言ったことがある。「あなたは工場で働くものでなくては労働者ではないと思っている」と。

●しかし、工場労働者ほど横暴に資本家の専制王国の牢獄にあるものが存在するだろうか。

●氏はまだ本当に社会的な諸組織の絶大な力を理解していない。





 山川菊栄と労働問題。

●与謝野、平塚の二氏に比べて、山川氏がこの問題に対して明確な理解を持っていることは万人の認めることだ。

●しかし、氏には知識階級者としての自尊の影が、労働者の上に射していることがある。

●氏は知識階級者の助け、啓蒙なくして労働者は完成されないと言う。

●氏がそうだとは言わないが、習得した知識を特権でもかざすように労働者に見せびらかすことは、彼らの感情を踏みつけ反感を買うだけである。

●氏は労働者の知識階級に対する反感を狭量として非難した。かりに知識階級が労働者よりすぐれたものであるなら、だからこそ労働者に対する寛大さが必要なのではないだろうか。

●氏は労働者をよく知り偏見もないが、氏は文筆のみの運動者であり、彼らの中に伍する機会がないために、自分の生活と労働運動を一になしえないのである。





 野枝は最後に山川菊栄は「日本の労働者の上に、太陽のように輝くであろう」と書いた。

●氏は硬い人だ、円味のない人だ、女らしい潤いのない人だという批評をよく聞く。

●しかし、私の知る菊栄氏は、優しい人、女らしい人、愛嬌にとんだ人、気持ちのいい話をする人だ。

●ずいぶん厳しい皮肉も言うが、しかしまた、なかなかうまいしゃれなども言う人であり、よく声をたてて笑う人だ。

●氏は現在の日本婦人がいかに男性に侮辱されているかということを、寸時も忘れることができない人だ。

●現在の日本婦人は古い因習に自由に息つくことも許されない。その因習に反抗した勇敢な婦人たちが、文学に心酔し、そのセンチメンタリズムに溺れ、安価な恋にだらしなく堕落し、再び因習に陥っていく事実がそこらじゅうに転がっている。

●氏のような透明な理性を持っている人には見ていられないのだ。侮蔑と反感でいっぱいになるのだ。女をそんなものと初めから決めてかかる男を、憎まずにはいられないのだ。だから氏はたいていの男性に強い武装をもって向かう。

●健康が回復したら、氏は労働者の中に飛びこんでいく人だと思う。そうなれば氏は日本の労働者の上に、太陽のように輝くであろう。




★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 17:50| 本文

第298回 豊多摩監獄(二)






文●ツルシカズヒコ



『労働運動』一次三号が発行されたのは、一九二〇(大正九)年一月一日だった。

 同号の「御断はり」(『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄全集 第14巻』)によれば、十二月に出すべきものが一月になったのは、印刷所の都合がつかなかったからで、信友会のストの影響も発行を遅らせることになった。

 結局、十二月号を休刊にして一月号を出すことになり、頁数は八頁増の二十頁にした。

 同号には「又当分例の別荘へ行つて来ます」という大杉の「入獄の辞」(『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄全集 第14巻』)も掲載されている。

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 野枝は同号に「婦人労働者の罷工」「罷工婦人等と語る」「消息其他」を書いている。

「婦人労働者の罷工」では、博文館印刷所、日本書籍、東京書籍の罷工、および信友会を中心とする活版工の八時間制要求の同盟罷工に、婦人労働者が含まれていることに注目している。

「罷工婦人等と語る」は『新公論』一九一九年十二月号に寄稿した「婦人労働者の現在」とほぼ同様の内容だが、この取材について、野枝はこう記している。


 ……今号で婦人活版工諸氏が今回の罷工によつて示された態度について紹介する事が出来たのは非常な光栄だと思ひます。

 此の頃では世間の風潮につれて、婦人界でも労働問題が彼是(あれこれ)議論されるようになり、私共が思ひもよらない方面の婦人雑誌でさへ盛んに書き立てるやうになつたのです、処がその総てが、一様に今回の婦人活版工の罷工に対して何んの態度も表明せずに、世間同様に黙殺し去つた不誠実さは私の憤懣に堪へないものであります。


(「消息其他」/『労働運動』1920年1月1日・第1次第3号/學藝書林『伊藤野枝全集 下巻』に初収録/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p121)





「消息其他」には、他にこんな記述もある。


■山川菊栄氏は現在では一番有力な婦人労働者の味方ですが、つい先達まで読売新聞の婦人附録の寄稿家でした。

 が、氏の寄稿されたものが少しも発表されないでので聞いて見ると氏が婦人労働問題ばかり書き送られるので新聞社では、自分の方には労働問題は不向きだから、大学解放問題でも書いて欲しいと云つて今迄氏の書かれたものを発表しないのださうです。

 氏は早速寄稿を拒絶されました。

■友愛会婦人部の記者市川房枝氏が入社後一ケ月で辞職されました。委(くは)しい事は婦人画報新年号で発表されるとの事です。


(「消息其他」/『労働運動』1920年1月1日・第1次第3号/學藝書林『伊藤野枝全集 下巻』に初収録/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p121)


 市川房枝は、前年十一月十四日、政府代表夫人顧問・田中孝子の随員に山内みなを推したことが、友愛会内部で問題となり、責任をとって婦人部書記を辞任、友愛会も退会した。





 一月、大杉は豊多摩監獄から野枝に手紙を書いた。


 此の五日から漸く寒気凛烈。

 そろ/\監獄気分になつて来た。

 例の通り終日慄えて、歯をガタガタ云はせながら、それでもまだ風一つひかない。

 朝晩の冷水摩擦と、暇さえあればの屈伸法とで奮闘してゐる。


(『労働運動』1920年2月号・1次4号・「豊多摩監獄から」/『大杉栄全集 第四巻』・「獄中消息 豊多摩から」・【伊藤野枝宛・大正九年一月十一日】/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』/『大杉栄全集 第13巻』)


 檻房は見晴らしもちょっといい南向きの二階で、天気がよければ一日中、陽が入り、毎日二時間の日向ぼっこもできた。


 この、日向ぼつこで、どれだけ助かるか知れない。

 此の監獄の造りは、今まで居た何処のと一寸違ふが、西洋の本ではお馴染の、あのベルクマンの本の中にある絵、その儘のものだ。

 まだ新しいのできれいで気持ちがいい。


(『労働運動』1920年2月号・1次4号・「豊多摩監獄から」/『大杉栄全集 第四巻』・「獄中消息 豊多摩から」・【伊藤野枝宛・大正九年一月十一日】/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』/『大杉栄全集 第13巻』)





『中野のまちと刑務所』によれば、豊多摩郡野方村新井・沼袋の丘陵地に、豊多摩監獄の新獄舎が完成したのは一九一五(大正四)年。


 敷地は市谷の3倍、収容人員は4倍。

 近代的な総レンガ造り、周囲約1q。

 その高塀もすべて赤レンガ。

 男子受刑者を拘禁するのを目的に建てられたものであった。

 近隣はまだ人家もまばらで、緑の田園の中に真新しい赤レンガの獄舎が、崇高なたたずまいをみせていた。

 その建築群は、やさしくおだやかで、内実にみちており、若き設計者後藤慶二はまたたく間に天才建築家として注目を浴びる。


(『中野のまちと刑務所』_p10)

 なお、豊多摩監獄は1922(大正11)年に豊多摩刑務所に名を改める。

 大杉が収監されたのは十字舎房の二階である。

 大杉の獄中での作業は煙草と一緒にもらう小さなマツチの箱張りだった。


 ……本所の東栄社と云ふ、丁度オヤヂと僕の合名会社のやうな名のだ《僕のオヤヂは大杉東と云つた》。

 一日に九百個ばかり造らなければならぬのだが、未だその三分の一も出来ない。

 それでも、今日までで、二千近くは造つたらう。

 一寸オツな仕事だ。

 若し諸君がマヅイ出来のを見つけたら、それは僕の作だと思つてくれ。


(『労働運動』1920年2月号・1次4号・「豊多摩監獄から」/『大杉栄全集 第四巻』・「獄中消息 豊多摩から」・【伊藤野枝宛・大正九年一月十一日】/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』/『大杉栄全集 第13巻』)


 朝七時に起きて、午前午後三時間半ずつ仕事をして、夜業が三時間半、寝るのは九時。

 前年に差し入れられた本は年内に読んでしまい、新しい本の差し入れを催促している。

 
 ……此の正月の休みは字引を読んでくらした。

 何分もう幾度も監獄へお伴して来てゐる字引なので、何処を開けて見ても一向珍らしくない。

 あとを早く。


(『労働運動』1920年2月号・1次4号・「豊多摩監獄から」/『大杉栄全集 第四巻』・「獄中消息 豊多摩から」・【伊藤野枝宛・大正九年一月十一日】/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』/『大杉栄全集 第13巻』)





 大杉は二女の誕生を看守長からの伝言で知った。


 馬鹿に早かつたもんだね。

 僕がはいつた翌日とは驚いたね。

 母子共に無事だと云ふことだが、其後はいかが。

 早く無事な顔を見たいから、そとでが出来るやうになつたら、すぐ面会に来てくれ。

 子供の名は、どうもいいのが浮んで来ない。

 これは一任しよう。


(『労働運動』1920年2月号・1次4号・「豊多摩監獄から」/『大杉栄全集 第四巻』・「獄中消息 豊多摩から」・【伊藤野枝宛・大正九年一月十一日】/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』/『大杉栄全集 第13巻』)


 野枝はエマ・ゴールドマンにちなんでエマと名づけた。

 大杉は魔子や雑誌についても言及している。





 魔子はパパちやんを探さないか。

 尤もあいつはいろんな伯父さんがよく出て来たりゐなくなつたりするのに馴れてゐるから、左程でもないかも知れんが。

 いいおみやを持つて帰るからと、さう云つて置いてくれ。

 雑誌(労働運動)はいかがか。

 新年号は無事だつたかな。

 とにかくもうかれこれ、二月号の編輯になるね。

 けふは日曜、午後から仕事が休みなので、此の手紙書きで暮した。

 何分筆がいいので、書くのに骨が折れてね。

 さよなら。


(『労働運動』1920年2月号・1次4号・「豊多摩監獄から」/『大杉栄全集 第四巻』・「獄中消息 豊多摩から」・【伊藤野枝宛・大正九年一月十一日】/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』/『大杉栄全集 第13巻』)



旧中野刑務所



★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★『大杉栄全集 第13巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★『中野のまちと刑務所 中野刑務所発祥から水と緑の公園まで』(學藝書林・1984年3月31日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




posted by kazuhikotsurushi2 at 14:46| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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