2016年04月06日
映画「ビリギャル」についての感想…どこを切り取るか、だね。
先日、映画「僕だけがいない街」の感想を書いたので、
ついでに有村架純主演の映画「ビリギャル」についての感想も書いておこうかなと。
2015年公開、土井裕泰監督作。
原作は100万部以上売れた坪田信貴著、
「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」です。
映画のタイトルはこの原作の通称である「ビリギャル」。
なんとなく、ビリギャルって略し方だと、ただの駄目なギャルという要素しかないが、
もしかしたらこれが映画で言われていた、「どこを切り取るか」という事なのか!?
映画の前にまずこの原作について思うことは、
マーケティングというのかな、売り方が上手かったよね。
内容は読んでいないんだけど、タイトルの付け方とか、カバーのモデルの写真。
メディアの取り上げもあって、一時期凄い話題でした。
まあ自分は読んでないんですけど、そんな自分ですら映画化の前に知ってましたから。
まず内容どうこうの前に知ってもらう、というのがどれだけ大切なのかと。
もちろん、内容もきっと良い本なのでしょう。(適当)
さて、それでは映画「ビリギャル」ですが、
そんな訳で知名度もあった題材、そこに主演の有村架純のビジュアル。
映画公開の時もたびたび予告編が流れていたけど、
知ってる題材で魅力ある女優だったら、もともと興味はなくても観たくなってしまいますよね。
売り方、売り出し方がうまいなぁと。
この映画で有村架純はブレイクしたと思ってるけどあってるかな?
なんだろうね、彼女の特別べっぴんという訳でもないけど、
なんかこの子のことは応援したくなる…という感じ。
映画序盤の頃はおっぱいにしか目がいってなかったが、
中盤以降はおっぱいも見えないので顔を観るわけですが、
超絶かわいい…という訳ではなく、シーンによっては「あれ?」みたいな顔もあり。
最近は凄く人気の有村架純ですが、彼女は本当に絶妙なバランスで有村架純だなと。
いや、かわいいんだよ、かわいいんだけどそこまで言うほどでもないけどかわいい、という。
…絶妙だなぁ。
ストーリーは原作タイトルからも分かるとおり、
学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話。
…なのだが、ただただ大学に合格するだけの話ではなく、
主人公のさやかだけでなく、家族や友達、先生の成長話。
原作は読んでないので分からないですが、
映画では明らかに「受験(または大学合格)がメインではなく」、
「受験を通しての関係性の変化(成長)」の話でした。
まあ結構都合の良い展開とか、それは関係ないってのもあるけど、
いわゆる「こういう映画」としては問題なく観れるかなと。
なぜかと言うと、役者陣が思いのほか良くてちょっと途中で感動しちゃった。
やっぱり一番良い味を出していたのは母親役の吉田羊じゃないでしょうか。
あの人凄いよね、役によって全然印象違う。
今回は一見弱いけど強い芯のある母親、という役を見事に演じている。
あの映画終盤の田中哲司に始めて反抗するシーン、あの叩きかたとあのふっとばされかた。
もちろん、「3人の母親です」のセリフも、さすがです。
ただ吉田羊は凄いのだけど、主要人物の中で成長がないのがこの母親だけ。
最初から最後まで「子供を信じてる」なので、
(映画としては)完全に良い母親となっているのは人間味が薄い気もする。
旦那に反抗する(車のガラスを割る)シーンが成長というなら、
そもそも「息子を旦那に任せっきりにしていた」ことに対する自分の未熟さへの反省になるはず。
明らかに「旦那が悪い(旦那だけが悪い)」という描写になってる気がする。
あ、妹もあんまり変化がないか…まあ彼女は主要人物ではないか…。
せっかく嵐のテレビを変えられるシーンがあるんだから、
もうちょっと不満をぶつけたりしてほしいところだが、できた妹すぎ。
保険も解約されるは食器も洗わされるは…。
妹まで入れたら盛り込みすぎになるかもしれないけど、
あんまりさやかと妹との直接の会話がないから、
さやかは妹のことをどう思ってるのか、妹はさやかのことをどう思ってるのかわからない。
妹の保険を解約したいと母親と妹が話しているところを聞いてしまったのなら、
なにかさやかは妹に対して一言いうなり何か必要なのではないか?
いや、無償の行為が愛なのか…うーん、まあ特別そこが問題でもないけど。
伊藤淳史演じる塾講師の坪田も良かったと思う。
ただ、途中で坪田のぶち当たる壁、「さやかが塾に来なくなる」に対し、
彼は結局「何もしていない」のはいかがなものか。
中盤の「さやかの挫折」に対してはクララと名づけた卵を使ったり、
たびたびさやかを励まして問題を解決してきたのに、
「なら辞めれば!」と言ってしまって彼女が来なくなったことに対して、
居酒屋で酒を飲みながら「自分の行動に恥じてます」とか言ってるだけ。
これじゃあ、「すでに金はもらってるから来なくなっても別にいっか」と思ってると言われても仕方なくね?
前に安田顕に所詮金でしょみたいなこと言われてたじゃん、
ここは「俺は違う」ということを証明するために、なにかアクションするべきじゃないのかね。
とりあえず、さやかが思い直してくれたからいいものの…ね。
田中哲司と大内田悠平の話は良かった。
父親の夢を背負わされた息子、その挫折、その結末も含め。
確かに学校からしてみたら野球推薦で入れた学生が野球辞めたらなんだよってことになるけどね。
このテーマはこれだけでも1本の話ができそうなものだから、
まあいい感じのサイドストーリーとしてはまってるんじゃないでしょうか。
前述もしたけど、さやかの挫折の時の弟の挫折がタイミング良すぎるきもするけど、まあまあ。
なんかここまで書いて、割とディスってる部分もあるけど、結構楽しめたんですよ、本当に。
ほんとそれは分かりやすいストーリーと役者の演技かなって。
ただね。
映画の中の言葉でいう「反対の意見も考えて」ではないけど、
この映画を手放しに良い映画だった、と言えない点について書こうかと。
まず、多くの人が思ったんじゃないかと思うのが、
塾で頑張って学校で寝てて大学に行くという流れ。
これで良いと言ってしまうなら、本当に高校は大学へ行くためだけの、
つまりは「高卒」というものが欲しいためだけの場所になってしまう。
母親と担任教師のやりとりも、「せめて卒業は」とか「大学に行けなくなってしまう」とか。
「高卒」を得るため、それだけのための場所だとほとんど言っている。
そして、あの子はいつ寝れば良いんですか、学校しかない、とか…びっくり発言ですよね。
安田顕も鼻で笑っていたけど、これに関しては「それで良いの?」と思ってしまう。
母親のゴリ押しで結局授業中に公認で寝ている訳だけど、
こんなの許したら他の生徒が寝だしても止めれなくなるじゃないか。
そもそも、高校は大学に行くためだけの場所という事で良いのか?
そんな学生を高校は卒業させて良いのか!?
それにしても安田顕は良い先生だよね。
生徒のためにかは分からないけど、わざわざ塾まで行って話しをしたり、
夜遅くまで母親と話をして寝るのを公認してあげたり、
ましてや全裸になって写真に写ってくれたり。
感謝した方がいいよ、ほんと…いまどきこんな先生いないから。
あと、慶應大学に行ったことないけど、
「ここの学生は自信に溢れてる」、みたいなセリフがあるけど、
これはたぶんどこの学食行ってもあんな感じだと思う。
大学生ってまあ楽しく見えるものでさ。
映画終盤、さやかは「大人は見かけだけで判断するから嫌い」みたいな手紙を坪田に書いているが、
わりと母親が目の前で見かけだけで判断しようとしてる点についてはさやかは何を思うのか。
実際、「見た目でクズと判断されてた訳じゃない」とさやかは最後まで気づかない。
ギャルだから担任からクズと言われていたのではなく、
授業も真面目に受けない、高校生なのに朝方までクラブで遊んでいる。
そういう行動からクズだといわれていたのであって。
もちろん、そんな子でも可能性があったり、心優しい面があったりするから、
その一面を見てクズと決め付ける指導者がクズだというメッセージも分かるが、
そもそも見た目がギャルでも勉強できて優秀な学生は先生も何も言わないと思うが…。
ギャルだからダメと見られていたという考えそのものが、見た目で決め付けているのでは。
ここは「あの頃は目標も希望もなく毎日退屈だった、唯一友達と遊ぶのが楽しみだった」みたいな事にしたらどうか。
…まあ、いっか。
あ、コーヒーでおなか壊すくだりは余分だったかなあ。
あの描写だと実力では受かってたみたいな感じになってるし。
得意分野の配点が多く有力だった文学部は実力でだめだったけど、
記念受験でたまたま受けた総合政策学部の試験で、
苦手な論文だけど坪田とのやりとりで話していたことを思い出しながら書いたら合格した、
という方が劇的な展開だったようにも思う。
…ていうね。
まあ結構駄目なところがあるんだけど、
「この映画を良かった」と言ってる人の気持ちも分からなくない。
大まかな展開と役者力で観れる映画にはなっている。
映画「ビリギャル」良かったよ〜と言っている人にわざわざ、
これどうなの!?と言う事もしない。
いわゆる「こういう映画」に対してこんなけつっこむ自分もいかがなものかとも思う。
ただ、自分としてはいろいろ書いた駄目な点、どうかなと思う点はあるよ…と。
結果、本当に「どこを切り取るか」だと思う。
だから映画の中の展開での「良いこと」を切り取るなら、
「これは良い映画」という事にもなるのだろうかなと。
もちろん、反対意見もあるわいな…。
ついでに有村架純主演の映画「ビリギャル」についての感想も書いておこうかなと。
2015年公開、土井裕泰監督作。
原作は100万部以上売れた坪田信貴著、
「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」です。
映画のタイトルはこの原作の通称である「ビリギャル」。
なんとなく、ビリギャルって略し方だと、ただの駄目なギャルという要素しかないが、
もしかしたらこれが映画で言われていた、「どこを切り取るか」という事なのか!?
映画の前にまずこの原作について思うことは、
マーケティングというのかな、売り方が上手かったよね。
内容は読んでいないんだけど、タイトルの付け方とか、カバーのモデルの写真。
メディアの取り上げもあって、一時期凄い話題でした。
まあ自分は読んでないんですけど、そんな自分ですら映画化の前に知ってましたから。
まず内容どうこうの前に知ってもらう、というのがどれだけ大切なのかと。
もちろん、内容もきっと良い本なのでしょう。(適当)
さて、それでは映画「ビリギャル」ですが、
そんな訳で知名度もあった題材、そこに主演の有村架純のビジュアル。
映画公開の時もたびたび予告編が流れていたけど、
知ってる題材で魅力ある女優だったら、もともと興味はなくても観たくなってしまいますよね。
売り方、売り出し方がうまいなぁと。
この映画で有村架純はブレイクしたと思ってるけどあってるかな?
なんだろうね、彼女の特別べっぴんという訳でもないけど、
なんかこの子のことは応援したくなる…という感じ。
映画序盤の頃はおっぱいにしか目がいってなかったが、
中盤以降はおっぱいも見えないので顔を観るわけですが、
超絶かわいい…という訳ではなく、シーンによっては「あれ?」みたいな顔もあり。
最近は凄く人気の有村架純ですが、彼女は本当に絶妙なバランスで有村架純だなと。
いや、かわいいんだよ、かわいいんだけどそこまで言うほどでもないけどかわいい、という。
…絶妙だなぁ。
ストーリーは原作タイトルからも分かるとおり、
学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話。
…なのだが、ただただ大学に合格するだけの話ではなく、
主人公のさやかだけでなく、家族や友達、先生の成長話。
原作は読んでないので分からないですが、
映画では明らかに「受験(または大学合格)がメインではなく」、
「受験を通しての関係性の変化(成長)」の話でした。
まあ結構都合の良い展開とか、それは関係ないってのもあるけど、
いわゆる「こういう映画」としては問題なく観れるかなと。
なぜかと言うと、役者陣が思いのほか良くてちょっと途中で感動しちゃった。
やっぱり一番良い味を出していたのは母親役の吉田羊じゃないでしょうか。
あの人凄いよね、役によって全然印象違う。
今回は一見弱いけど強い芯のある母親、という役を見事に演じている。
あの映画終盤の田中哲司に始めて反抗するシーン、あの叩きかたとあのふっとばされかた。
もちろん、「3人の母親です」のセリフも、さすがです。
ただ吉田羊は凄いのだけど、主要人物の中で成長がないのがこの母親だけ。
最初から最後まで「子供を信じてる」なので、
(映画としては)完全に良い母親となっているのは人間味が薄い気もする。
旦那に反抗する(車のガラスを割る)シーンが成長というなら、
そもそも「息子を旦那に任せっきりにしていた」ことに対する自分の未熟さへの反省になるはず。
明らかに「旦那が悪い(旦那だけが悪い)」という描写になってる気がする。
あ、妹もあんまり変化がないか…まあ彼女は主要人物ではないか…。
せっかく嵐のテレビを変えられるシーンがあるんだから、
もうちょっと不満をぶつけたりしてほしいところだが、できた妹すぎ。
保険も解約されるは食器も洗わされるは…。
妹まで入れたら盛り込みすぎになるかもしれないけど、
あんまりさやかと妹との直接の会話がないから、
さやかは妹のことをどう思ってるのか、妹はさやかのことをどう思ってるのかわからない。
妹の保険を解約したいと母親と妹が話しているところを聞いてしまったのなら、
なにかさやかは妹に対して一言いうなり何か必要なのではないか?
いや、無償の行為が愛なのか…うーん、まあ特別そこが問題でもないけど。
伊藤淳史演じる塾講師の坪田も良かったと思う。
ただ、途中で坪田のぶち当たる壁、「さやかが塾に来なくなる」に対し、
彼は結局「何もしていない」のはいかがなものか。
中盤の「さやかの挫折」に対してはクララと名づけた卵を使ったり、
たびたびさやかを励まして問題を解決してきたのに、
「なら辞めれば!」と言ってしまって彼女が来なくなったことに対して、
居酒屋で酒を飲みながら「自分の行動に恥じてます」とか言ってるだけ。
これじゃあ、「すでに金はもらってるから来なくなっても別にいっか」と思ってると言われても仕方なくね?
前に安田顕に所詮金でしょみたいなこと言われてたじゃん、
ここは「俺は違う」ということを証明するために、なにかアクションするべきじゃないのかね。
とりあえず、さやかが思い直してくれたからいいものの…ね。
田中哲司と大内田悠平の話は良かった。
父親の夢を背負わされた息子、その挫折、その結末も含め。
確かに学校からしてみたら野球推薦で入れた学生が野球辞めたらなんだよってことになるけどね。
このテーマはこれだけでも1本の話ができそうなものだから、
まあいい感じのサイドストーリーとしてはまってるんじゃないでしょうか。
前述もしたけど、さやかの挫折の時の弟の挫折がタイミング良すぎるきもするけど、まあまあ。
なんかここまで書いて、割とディスってる部分もあるけど、結構楽しめたんですよ、本当に。
ほんとそれは分かりやすいストーリーと役者の演技かなって。
ただね。
映画の中の言葉でいう「反対の意見も考えて」ではないけど、
この映画を手放しに良い映画だった、と言えない点について書こうかと。
まず、多くの人が思ったんじゃないかと思うのが、
塾で頑張って学校で寝てて大学に行くという流れ。
これで良いと言ってしまうなら、本当に高校は大学へ行くためだけの、
つまりは「高卒」というものが欲しいためだけの場所になってしまう。
母親と担任教師のやりとりも、「せめて卒業は」とか「大学に行けなくなってしまう」とか。
「高卒」を得るため、それだけのための場所だとほとんど言っている。
そして、あの子はいつ寝れば良いんですか、学校しかない、とか…びっくり発言ですよね。
安田顕も鼻で笑っていたけど、これに関しては「それで良いの?」と思ってしまう。
母親のゴリ押しで結局授業中に公認で寝ている訳だけど、
こんなの許したら他の生徒が寝だしても止めれなくなるじゃないか。
そもそも、高校は大学に行くためだけの場所という事で良いのか?
そんな学生を高校は卒業させて良いのか!?
それにしても安田顕は良い先生だよね。
生徒のためにかは分からないけど、わざわざ塾まで行って話しをしたり、
夜遅くまで母親と話をして寝るのを公認してあげたり、
ましてや全裸になって写真に写ってくれたり。
感謝した方がいいよ、ほんと…いまどきこんな先生いないから。
あと、慶應大学に行ったことないけど、
「ここの学生は自信に溢れてる」、みたいなセリフがあるけど、
これはたぶんどこの学食行ってもあんな感じだと思う。
大学生ってまあ楽しく見えるものでさ。
映画終盤、さやかは「大人は見かけだけで判断するから嫌い」みたいな手紙を坪田に書いているが、
わりと母親が目の前で見かけだけで判断しようとしてる点についてはさやかは何を思うのか。
実際、「見た目でクズと判断されてた訳じゃない」とさやかは最後まで気づかない。
ギャルだから担任からクズと言われていたのではなく、
授業も真面目に受けない、高校生なのに朝方までクラブで遊んでいる。
そういう行動からクズだといわれていたのであって。
もちろん、そんな子でも可能性があったり、心優しい面があったりするから、
その一面を見てクズと決め付ける指導者がクズだというメッセージも分かるが、
そもそも見た目がギャルでも勉強できて優秀な学生は先生も何も言わないと思うが…。
ギャルだからダメと見られていたという考えそのものが、見た目で決め付けているのでは。
ここは「あの頃は目標も希望もなく毎日退屈だった、唯一友達と遊ぶのが楽しみだった」みたいな事にしたらどうか。
…まあ、いっか。
あ、コーヒーでおなか壊すくだりは余分だったかなあ。
あの描写だと実力では受かってたみたいな感じになってるし。
得意分野の配点が多く有力だった文学部は実力でだめだったけど、
記念受験でたまたま受けた総合政策学部の試験で、
苦手な論文だけど坪田とのやりとりで話していたことを思い出しながら書いたら合格した、
という方が劇的な展開だったようにも思う。
…ていうね。
まあ結構駄目なところがあるんだけど、
「この映画を良かった」と言ってる人の気持ちも分からなくない。
大まかな展開と役者力で観れる映画にはなっている。
映画「ビリギャル」良かったよ〜と言っている人にわざわざ、
これどうなの!?と言う事もしない。
いわゆる「こういう映画」に対してこんなけつっこむ自分もいかがなものかとも思う。
ただ、自分としてはいろいろ書いた駄目な点、どうかなと思う点はあるよ…と。
結果、本当に「どこを切り取るか」だと思う。
だから映画の中の展開での「良いこと」を切り取るなら、
「これは良い映画」という事にもなるのだろうかなと。
もちろん、反対意見もあるわいな…。
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
この記事へのコメント
コメントを書く