アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索
<< 2019年12月 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
ヨリちゃんさんの画像
ヨリちゃん
プロフィール

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2019年12月28日

「日本一有名な無職」の野望  





 




  「日本一有名な無職」の野望

             〜By 畠山理仁 2019年12月28日〜

      12-29-32.jpg

 〜北海道を皮切りに「れいわ新選組」の山本太郎代表の全国ツアーが始まった。無名の選挙候補者達の奮闘に光を当てた『黙殺』の著者、畠山理仁が取材を通して見た山本太郎を語る〜


         12-29-34.jpg

 「政権を狙う」「総理大臣を目指す」と公言する「れいわ新選組」代表の山本太郎は、9月後半の北海道を皮切りに遊説を開始。「3年から5年の内に、時空の歪みを利用して総理大臣に為りたい。それ迄日本と云う国が在ったらの話ですが(笑)」これは今年7月に行われた参議院議員選挙の最中「れいわ新選組(以下、れいわ)」の山本太郎代表が私に言った言葉だ。

 この参院選に比例区から出馬した山本は、全比例候補者155人中、最多と為る991,756票の個人名票を得た。党としての比例得票総数は228万票余り。得票率は4.55%を記録し、念願の「政党要件(※注)」を獲得した。しかし、れいわの獲得議席は2つ。優先的に当選する「特定枠」の重度身体障害者・舩後靖彦と木村英子を国会に押し上げたものの、3議席目を狙った山本自身は落選した。

 それでも私は「山本太郎は負けて居ない」と考える。理由は単純明快。4月に新党を立ち上げたばかりの山本に取って「政党要件」は確実に総理へ近づく一歩に為ったからだ。勿論、自身が落選し、日本一有名な無職に為った事は誤算だったろう。
 しかし、本気で総理を目指すなら、次の総選挙で当選し、衆議院議員に為るのが王道だ。その準備の為にも国会に縛られず、自由に動ける立場を得た事はプラスとも取れる。しかも、日本に9つしか無い公党の代表として大きな発言力も確保した。「国会の野良犬」を自称する山本に取って、これ程ハマる立場は無い。

 政党要件の有無は、選挙の結果に大きな影響をもたらす。参院選前のれいわは「諸派」扱いの政治団体だった為、テレビや新聞は選挙中にれいわの動きを報じ無かった。マルで「放送禁止物体」であるかの様に・・・
政党政治が基本の日本において、諸派のママ「時空の歪み」を生み出す事はホボ不可能だ。その意味で冒頭の山本の発言は、根拠無く広げた大風呂敷の域を出て居なかった。
 しかし、れいわが政党要件を獲得した事で状況は変わった。資金面では年間億単位の政党交付金が入り、政見放送も行なえる。既存メディアも無視出来ない。これ迄インターネットに頼らざるを得なかった情報発信が次回は大幅に強化される。山本が言う「時空の歪み」は、俄かに現実味を帯びて来た。







 山本の選挙戦略が成功した理由は、ネットでの盛り上がりを過信し無かった事にある。ネットは飽く迄も有権者を街に連れ出す手段。実際の勝負は地道な草の根運動だと考え、有権者をいかに巻き込むかに心を砕いた。
 先ずは4月の結党会見で「候補者を何人擁立するかは皆様の寄付額で決めます」と全国に呼び掛けた。ゲームの行方を有権者に委ねる遣り方は「AKB総選挙」にも似て居る。誰もが当事者として参加出来、経過を楽しみながら結果にも関与出来る仕組みだ。

 街頭演説会場には必ずボランティアの登録窓口と寄付窓口を設置した。政治への不満は持ちつつも、政治との接点を見付けられ無かった有権者達が列を為した。寄付の最低金額は10円。100万円を超える高額寄付者は少なかったが、寄付者は3万3千人を超え、参院選投票日には総額4億円を突破した。
 れいわのこうした戦略には、常に優秀なブレーンの存在が囁かれる。しかし、私がその点を尋ねると、山本は笑って否定した。「そんな人が居たら、是非紹介して欲しい! 候補者も全部自分で口説いて居ます(笑)」

 山本は今も全国で「街頭記者会見」を開き、聴衆との間で質疑応答を繰り返す。そして、必ず「アナタの力が必要です。アナタの力、貸して呉れませんか?」と呼び掛ける。街頭の熱狂を見て「山本はヒトラーの様な独裁者に為るのでは?」と危惧する声もあった。そう指摘すると、彼は真顔で答えた。
 「山本太郎に対する熱狂ナンて無いですよ。ヒトラーとも明らかに考え方が違う。誰もが死にたく為る世の中から、皆が生きて居たく為る世の中に変えたい。そんな、れいわの政策に対する熱狂だと思って居ます」








 山本は9月12日、共産党の志位和夫幹部会委員長と面談し、野党共闘に向けた話し合いのテーブルに着いた。翌13日には無所属の馬淵澄夫衆院議員率いる「一丸の会」で講演し、連携を図る意向を示した。国民民主党の玉木雄一郎代表も山本との会談に意欲を示して居る。
 しかし、野党共闘の鍵と為る立憲民主党との間には未だ距離がある。私は10月1日、新宿での街頭記者会見を終えた山本に聞いた。立民へのアプローチはどうするのかと。

 「私達からアプローチはナカナカ出来無い。野党第一党がイニシアチブを取りながら、と云うのが一番なのかなと思って居ます。私達は今、外堀から埋め様として居るので」そう言うと、山本は自身の言葉に爆笑した。「普通、言う? そう云う事(笑)」
 山本太郎が変えるのでは無い。民主主義の主人公は、飽く迄も「あなた」時空の歪みが生まれるかどうかは有権者次第である。


 ※注 「国会議員5人以上」若しくは「直近の衆院選または参院選で、選挙区か比例代表の得票率が2%以上」

            12-29-33.jpg

 Michiyoshi Hatakeyama 1973年愛知県生まれ 早稲田大学第一文学部在学中の1993年より雑誌を中心に取材・執筆活動を開始 無名の選挙候補者たちの奮闘に光を当てた2017年の著書『黙殺 報じられない"無頼系独立候補"たちの戦い』(集英社)で開高健ノンフィクション賞を受賞した

    Words 畠山理仁 Michiyoshi Hatakeyama      以上







大切なあの方への贈り物にはかねふくの辛子明太子!!

かねふくの辛子明太子は、博多工場

から美味しい暮れのご挨拶をお届け致します。

かねふくでは、ご自宅で食べるお得な切れ子から贈答用

の商品まで多数取り揃えて皆様のご来店をお待ちしています。






















政治家

黙殺された「日米開戦不可なり」電報30通 連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(4)


 連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(4)

 黙殺された「日米開戦不可なり」電報30通


                〜岡部 伸 2019.12.26〜


 小野寺信(まこと)少将(最終階級)は再びバルト海の畔の中立国、スウェーデンの駐在武官を命じられた。1941(昭和16)年1月 赴任したストックホルムで、ラトビアの首都リガ在勤時に親交を深めたポーランドやバルト三国の情報士官達は、正確無比な情報をもたらした。
 独ソ開戦を一早く伝え、ドイツ劣勢の特ダネを掴み「日米開戦不可なり」と繰り返し打電したが、ドイツを過大評価する大本営は黙殺し、日本は勝算無き無謀な戦端を開いた。

          12-28-7.jpg  中央に小野寺氏

 奇縁か幸運か、リガの絆がストックホルムで結実

 ヒトラーは、スターリンと独ソ不可侵条約を結び、1939年9月、ポーランドに侵攻し第二次大戦が勃発した。ソ連はバルト三国を編入。フィンランドからカレリア地方を奪取。ドイツ軍は翌40年4月、デンマーク、ノルウェーも占領下に置いた。
 更にフランス、ベルギー、オランダを降伏させ、バルカン諸国も制圧してロンドンを空襲し、英本土上陸作戦の機会を探った。同年9月27日、三国同盟に調印した日本は「バスに乗り遅れるな」と北部仏印に進駐、欧州でのドイツ優位に呼応する形で国策を決定しようとして居た。

 北欧の都に赴任した小野寺の最初の任務は、ドイツの英本土侵攻作戦の確認だった。「ドイツ軍は5、6月、英仏海峡を渡り進攻する。関連ニュースを報告せよ」

 情勢分析したが、英本土上陸作戦を裏書きする証拠は無かった。反対にドイツ軍が独ソ不可侵条約を破棄してソ連へ奇襲攻撃する準備して居るとの独自情報が集まった。情報を伝えたのはリガで知遇を得た他国の情報士官達だった。
 小野寺は回顧録で述べて居る。「リガ時代に結ばれた絆は、ストックホルムで、ドンなに役に立ったか判ら無い。(中略)奇縁と云おうか幸運と云おうか。この人達が確実な情報を提供して呉れたからコソ、中央に反抗しても、意見具申する事が出来たのだ」

 小野寺は戦後、米中央情報局(CIA)の前身、米戦略諜報部隊(SSU)の尋問で、情報活動が成功したのは、祖国を失い中立国スウェーデンに亡命した彼等に生活資金・生活物資を援助し、家族グルミで信頼関係を結び秘密情報を得たからだと答えて居る。機密費で彼等の生活の面倒を見た。
 小野寺は戦後、旧陸軍将校らの親睦組織の機関紙「偕行」1986年3月号「将軍は語る」で「機密費と言われる諜報費に一番お金を使った組でしょう」と回想して居る。連合側も小野寺が多くの小国の情報士官に資金援助して関係を築いた事を突き止め、米戦略情報局(OSS)は1945年7月28日付け作成の報告書で「小野寺は数千万クローネ(当時の1クローネは約1円に当たる為現在の貨幣価値にして数百億円)の活動資金を持ち、ドイツ降伏後も全欧州を把握するポストに留まる」と警戒した。

 決め手はドイツの「棺桶準備」情報

 最も親密で最良の協力者と為ったのがエストニア陸軍参謀本部第二(情報)部長から参謀次長を務めたリカルト・マーシングだ。
 1940年ソ連に併合される直前、ストックホルム駐在武官に転じて、ドイツ陸軍等で諜報活動を行う部下を束ねて居た。スウェーデン軍部とも親しかった。イギリス対外情報部(MI6)のエージェントでもあったが、小野寺により精緻な情報を多く提供した。
 その事が判明してMI6は報酬支払いを中止したが、尋問調書によると、マーシングは、小野寺から謝礼として毎月、1000から1500クローネ(当時の為替レートで1クローネ約1円なので現在の価値で100から150万円)を日本敗戦迄受け取った。

 マーシング情報では「バトル・オブ・ブリテン」英独航空戦で惨敗したドイツは制空権を握れず、Uボートの撃沈が相次いだ大西洋でも制海権を握れず、英本土上陸作戦は不可能だった。
 寧ろ対ソ開戦の情報が多かった。マーシングの部下でドイツ軍に入ったヤコブセンは、小野寺に「ドイツの情報部に勤める部下が、連日ヒトラーの戦闘指令書を準備し、東プロシア(ソ連が占領して居た旧ポーランド領)に行って居る」と耳打ちした。

 決め手に為ったのは、ポーランドのインテリジェンス・オフィサー、ミハウ・リビコフスキの情報だった。ペーター・イワノフを名乗り、武官室に通訳官として勤務して居たリビコフスキに、ベルリンで暗躍する部下からドイツ軍の耳よりの情報が入った。

 「開戦に備え、ソ連国境に近いポーランド領内に集結し、棺桶を準備して居る」ドイツ軍は作戦開始の際、戦死者を弔う為事前に兵士の為棺桶を用意する。ソ連侵攻は決定的だった。マーシングとリビコフスキの情報が一致した事で小野寺は「バルバロッサ作戦」を確信したのだ。
 小野寺の最大の情報提供者で生涯の友と為るリビコフスキは、帝政ロシアの支配下にあったリトアニアで1900年に生まれ、18歳でポーランド軍に入隊。参謀本部第二部(情報部)でドイツ課長を務めたが、独ソの侵攻で祖国を失ってリガに逃れ日本の陸軍武官室に匿われた。

 リトアニア領事代理だった杉原千畝に満州国パスポートを発給して貰い、満州生まれの白系ロシア人として40年8月、ラトビアがソ連に併合され武官室が閉鎖されると、ストックホルムの陸軍武官室に移った。大戦前から日本陸軍とポーランド陸軍に諜報で協力関係があった為だ。日本が後に真珠湾を攻撃し、両国が、交戦国同士と為っても、リビコフスキは小野寺との協力関係を続けた。
 こうした中、松岡洋右外相が訪欧した。モスクワで日ソ中立条約を結ぶ直前の41年4月である。しかしヒトラーは、同盟国の外相にソ連侵攻を秘した。松岡等日本の中枢は希望的観測から、独ソ蜜月を背景に、ドイツが英国を屈服させ、米英を牽制する事で、泥沼の日中戦争を終息出来ると夢想して居た。

 在欧武官で唯一、独ソ戦勃発予言も

 そこで在欧武官会議がベルリンで開かれた。全員が英本土上陸を主張する中、一人小野寺だけが「ドイツはソ連に向かい、独ソ戦が必ずある」と主張。するとドイツの西郷従吾補佐官は「小野寺は英米の宣伝に惑わされて居る」と非難した。
 「英本土対岸の港を視察したが、上陸用舟艇が多数あり、上陸作戦用だった」からだ。しかし、それは同盟国も欺くカモフラージュで「偽情報による撹乱作戦」だった。

 「ソ連を攻撃するが、6週間位で終わるから日本の援助は必要としない」作戦開始直前の6月4日、ヒトラーが要約大島浩大使に打ち明けた。小野寺の情報は正しかった。しかし、イタリアがユーゴスラビアを攻め、ドイツが支援せざるを得無かった事が誤算と為って、作戦開始が2か月遅れた。奇襲こそ成功したが、退却しながら降伏しない赤軍の強さは想定外だった。
 スターリンが11月7日の革命記念日に、徹底抗戦を呼び掛けると、モスクワ近郊でソ連軍の反撃が始まり、補給が途絶えたドイツ軍の進撃が止まった。

 小野寺は、新聞や雑誌等から情報を得る「オシント」を活用、更にリビコフスキの情報を合わせて冬の戦いに弱いドイツが苦戦して居る実情を掴み、参謀本部に「絶対に日米開戦不可なり」と電報を30通打ち続けた。「ドイツ劣勢であり、ドイツの勝利を期待して米英相手に戦争を始めるのは絶望的」だったからだ。
 処が参謀本部は「ドイツのソ連制覇は確実」と一顧だにせず、電報は黙殺された。

 日本軍は南部仏印に進駐。ドイツに呼応した動きと捉えた米国が対日本の石油全面輸出禁止の制裁を取った為、日米対立が決定的と為った。日本は情報を軽視して、世界情勢を見渡す客観的視野を欠いて居た。そして太平洋戦争の悲劇に突き進んだ。



 補足WIKKより・・・小野寺信 1897年、岩手県胆沢郡前沢町(現在の奥州市)出身。町役場助役・小野寺熊彦の長男として生まれる。12歳の時に熊彦が病死し、本家筋の農家・小野寺三治の養子と為る。
 遠野中学校、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期 兵科・歩兵)を卒業し見習士官(陸軍歩兵曹長)同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第29連隊附となる。
 翌1920年大正11年に発生した尼港事件を受けてニコラエフスクを保障占領し、1921年(大正10年)第29連隊はアムール河口地帯守備の為に尼港に派遣される。小野寺も最初で最後の戦場での勤務を行い、現地でロシア語を習得する。1928年(昭和3年)12月 陸軍大学校(40期)を卒業し、歩兵第29連隊中隊長と為り、会津若松へ赴任する。

 当初はドイツ駐在を希望して外国駐在試験を受けて居たが、ロシア語の能力を見込まれて翌1930年(昭和5年)3月、陸軍歩兵学校教官として千葉に転任。上官の小畑敏四郎大佐に目を掛けられ、赤軍研究を集中的に行い、ロシア専門家としての道を歩み始める。
 1932年(昭和7年)3月、小畑の人事異動に従って陸大教官に転身。此処でも本来の講義と別に個人で赤軍研究を継続する。研究を経て、ロシア革命後に機械化を進めた赤軍に対する脅威を主張する様に為る。陸大在任半年で参謀本部第2部ロシア班に引き抜かれた。作戦課長として参謀本部に配属されて居た小畑の手引きで、1933年(昭和8年)5月 ハルピンへ赴任。
 語学研修の傍らで国境視察なども行い、赤軍の作戦等についてレポートをまとめている。帰国後の1934年(昭和9年)8月、陸軍歩兵少佐に進級。

 1935年(昭和10年)12月、ラトビア公使館附武官に発令され、翌1936年(昭和11年)1月、首都リガに着任。
 ラトビアを含むバルト三国は西欧の対ソ最前線であり、各国の諜報活動が盛んであった。小野寺が赴任した当時の日本公使館は補佐官も居ない小所帯であったが、バルト三国の重要性を認識した小野寺は本国に掛け合い、隣国のエストニア・リトアニア公使館附武官を兼務する様に為る。
 三国の参謀当局は地の利は有ったが資金面から諜報範囲が限られて居た為、日本側が必要な諜報活動費を援助した。又、当時ベルリンの駐独大使館には参謀本部直属の諜報工作組織(馬奈木敬信機関)があり、対ソ工作員を養成して居た。工作員はエストニアからペイプシ湖を通してソ連に送り込んで居た為、エストニアに掛け合って送り込む為の高速船の手配も行った。1937年(昭和12年)11月、陸軍歩兵中佐に昇進。

 1938年(昭和13年)6月、参謀本部ロシア課に復帰、直後に発生した張鼓峰事件の対処に当たった後、同年10月、中支那派遣軍司令部附として上海に派遣される。
 当時中国大陸で進行中であった日華事変の収束策として、参謀本部の支那課は汪兆銘政権の樹立による和平交渉を検討して居たが、ロシア課は対ソ防衛の為には事変を早期終結させるべきと考えて居り、小野寺は武漢に籠る蒋介石との直接の交渉を企図する。

 小野寺は市内のアスターハウスホテルに事務所を置き、自前の特務機関を構えた。メンバーには軍人は一人も含まれず、共産党転向者を中心に20人程採用した。
 1939年(昭和14年)5月、香港において板垣征四郎陸相と国民党の呉開先組織部副部長との直接会談を行う根回しを行うが、汪兆銘工作を進めて居た影佐禎昭の巻き返しに遭い通ら無かった。6月には本国へ戻された上で陸大教官に就任、事実上の左遷と為った。同年8月、陸軍歩兵大佐に進級した。

         12-28-7.jpg  中央に小野寺氏

       1942年12月、ドイツ陸軍上級大将(第21軍司令官ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト、左端)以下、独陸海空軍の将校らと写る小野寺(中央)

 1940年(昭和15年)11月 スウェーデン公使館附武官に発令され、翌41年1月 ストックホルムに着任、12月に太平洋戦争(大東亜戦争)を迎えた。
 諜報活動の他に、クリプトテクニク社(現・クリプトA.G.)から最新の暗号機械を買い着けたり、ピアノ線とボールベアリングを調達しドイツ経由で本国に送って居る。1943年(昭和18年)8月 陸軍少将に進む。この頃からSD国外諜報局長であるヴァルター・シェレンベルクと共に和平工作に従事する。

 小野寺の送った機密情報は「ブ情報」と呼ばれ、海外からの貴重な情報源と為った。「ブ情報」の「ブ」は、ミハウ・リビコフスキ(Michał Rybikowski)の上官ブジェスクフィンスキの頭文字である。大戦最末期にはヤルタ会談での密約に付き、ドイツ降伏から約3ヶ月後にはソ連が日ソ中立条約を破棄、対日参戦するとの最高機密情報を日本に打電して居る。陸軍中枢はその情報を信じずアメリカとの和平の仲介をソ連に期待し続けた。

 敗戦後の1946年(昭和21年)3月に日本に帰国復員したが、同年7月まで戦争犯罪人として巣鴨プリズンに拘留された。戦後は妻百合子と共に、主にスウェーデン語の翻訳業に従事する傍ら、スウェーデンの文化普及活動に努めた。
 最晩年に『NHK特集 日米開戦不可ナリ 〜ストックホルム・小野寺大佐発至急電〜』で取材インタビューが行われ、1985年(昭和60年)12月に放映された。この番組は第12回放送文化基金賞を受賞し、小野寺の大戦中の活動に照明が当てられた。

 エピソード 陸軍士官学校では、同期の成績上位5名に軍刀が下賜されて居た。小野寺は卒業試験はトップだったがその前の成績が10番以下で在ったのが響いて総合で6番と為り拝受を逃した。代わりに、旧主の南部利淳から刀を拝領して居り、この軍刀は後にストックホルム引き揚げの際に政府に寄贈した。
 著述の才能に恵まれて居て、対赤軍戦術を纏めた参考書は「赤本」と呼ばれて居た。参謀本部ロシア班に配属後、ロシア班として中華民国や米国も含めた研究書『隣邦軍事研究』を偕行社から出版すると青年将校の間でベストセラーに為る。収益でロシア班はタイピストを2人雇う事が出来たが、直属の上司(第二部長)であった永田鉄山大佐から「儲け過ぎだ」と叱責を受けたと云う。


                     以上






A8.netなら!
------------------------------------------------
◇スマートフォンやPCから簡単に広告が掲載可能

◇もちろん会員登録は無料。その後も費用はかかりません!

◇欲しい商品がお得に購入できるセルフバックの利用ができる

◇有名ブランドから高額報酬がもらえる広告を掲載

-----------------------------------------------
アフィリエイトを始めるならA8.net(エーハチネット)
まずは登録→ https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=2ZEVX5+3ZHHKI+0K+ZUAMB





 




バックチャネルとして上海で和平工作 連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(3)



 連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(3)
 
 バックチャネルとして上海で和平工作


                〜 岡部 伸 2019.12.11〜


 「ロシアウオッチャー」揺籃(ようらん)の地、ラトビアの首都リガから陸軍参謀本部ロシア課に戻った小野寺信(まこと)は、息つく間も無く上海に派遣された。イタリアのナポリから乗った帰国船が日本に着いて僅か4カ月後の1938(昭和13)年10月、拡大する日中戦争を終結出来無いか。その糸口を探る為だった。

12-28-6.jpg

 ロシア課主導で蒋介石との直接交渉に挑む

 北京郊外で「盧溝橋事件」が発生したのは、1年3カ月前の1937年7月7日夜だった。日本軍は終結させ様と同年12月、国民政府の首都南京を陥落したが、蒋介石は中央政府を漢口から重慶へと移し、戦線は華中・華南まで拡がった。
 危惧したのは、ソ連による共産主義の拡大を懸念して居た参謀本部ロシア課だった。背後で米英が支援して居る中国との戦争の深みに嵌ると、北方の対ソ防衛作戦に支障を来すからだ。しかし、参謀本部の主流、支那課が秘かに進めて居たのが、国民党ナンバー2で和平派の汪精衛(汪兆銘)を擁立して親日政権を作る工作だった。

 中心人物は参謀本部謀略課課長だった影佐禎昭(かげさ・さだあき)第24代自由民主党総裁を務めた谷垣禎一の母方の祖父である。
 ロシア課は「傀儡(かいらい)政権では中国国民の信頼は得られ無い。根本解決には、重慶(国民党政府)の蒋介石との直接和平しか無い」と判断。若手の俊英・小野寺を南京に置いた支那派遣軍司令部付参謀に任じ「国民政府要路者ト東亜再建ニ関シ協議スルノ権限ヲ委任ス」との委任状を送り上海に派遣したのだった。

 外交官とは別に、インテリジェンス・オフィサー(情報士官)がバックチャンネルで、政府間の意思調整を行う事もある。近年では、リビアのカダフィ政権が米英と9カ月の秘密交渉の末、2003年12月、核兵器を含む大量破壊兵器開発の即時かつ無条件の廃棄を表明したが、最初に交渉ルートを切り開いたのはイギリス情報局秘密情報部(MI6)だった。
 外交関係が無く敵対する国や国交の無い国にもアプローチ出来る情報士官は、影の交渉役として適して居る。小野寺は、日中戦争でバックチャンネルとして蒋介石との直接和平工作と云うミッションを与えられたのだった。

 共産党転向者ら梁山泊の「小野寺機関」

 「小野寺機関」を設けたのが、日本軍が接収した「アスターハウスホテル」(浦江飯店)の一室だった。列強の陰謀が渦巻く「魔都」に建つ東洋一と言われた伝説のクラシックホテルである「アスターハウスホテル」は、南京条約締結から4年後の1846年、イギリス人のリチャードが創業した重厚なヴィクトリア朝バロック様式だ。モダンな都市文化が花開いた上海で最も格式が高かった。
 参謀本部はこのホテルに居宅と事務所を構え「小野寺機関」として活動させたのだから、小野寺に寄せる期待は少さくは無かった。

 そこに集まった約20人は、ソ連通の共産党転向者からユダヤ問題専門家・重慶情報提供者・台湾人迄多士多彩。軍人は一人も居なかった。人種、国籍、信条、思想を越えた梁山泊だった。近衛文麿首相の長男の文隆は東亜同文書院理事の肩書で参加。近衛文隆等を介して、日中ハーフの美貌の女スパイ、鄭蘋如・テンピンルーも出入りした。
 翻訳係として働いていた鄭蘋如は、中国国民党高官の父と日本人の母との間に生まれたが、中国人としての愛国意識に目覚め、重慶政府の特務機関「中統」(CC団)に属して居た。堪能な日本語と高度な知力、そして雑誌の表紙を飾る美貌を武器に、中国側のスパイとして「魔都」を跋扈(ばっこ)した。

 スパイとして活動したのは2年半に過ぎ無い。だが、その間、プリンス近衛や親日派の大物の抗日テロ弾圧組織「ジェスフィールド76号」のトップの丁黙邨と次々と恋愛関係に為った。プリンス近衛を本気で愛する様に為り、蔣介石と近衛文麿間の連絡ルートを作って日中和平を図ろうとした。
 しかし「中統」からの指令で丁黙邨を暗殺しようと試みたが失敗して「ジェスフィールド76号」に捕らえられ僅か25才で銃殺された。

 欧州で民族の興亡を垣間見た小野寺は、傀儡政権では立ち行かず、共産主義を浸透させるソ連のコミンテルンの野望を懸念して居た。そこで中国国民党の組織部副部長の呉開先と近衛文麿首相か板垣征四郎陸相を香港で面会させ、和平の突破口にする案を練った。
 小野寺には秘策があった。和平は天皇陛下の鶴の一声で一気に持ち込まねば成功しない。そこで、天皇に最も近い近衛文麿に直々に直接和平論を説明し同意を得ようと考え、文麿を説得する為、息子の文隆に親書を書かせた。

 1938年12月、汪兆銘が重慶を脱出すると小野寺は日本に帰国。文麿宛の親書を携えて東海道線で京都から帰京する文麿に車中で直談判したが、文麿は「軍が同意さえすれば」とだけ答え消極的だった。しかし、半年後の1939年5月、再び上京、板垣陸相・中島鉄蔵参謀次長と面会して、国民党が要求して居た板垣陸相の会談の了解を得た。
 処が、その後、影佐は東京で必死に巻き返した。同6月6日、閣議で正式に「汪兆銘擁立工作」を進める「対支処理要綱」が決定する。

 その結果、蒋介石政権との直接交渉は寸前で取り止めと為った。小野寺は、影佐に気合負けしたのだ。今日、親日傀儡政権よりも国民から支持された蒋介石との直接交渉が戦争終結に合理的な選択だった事は、歴史が示す処だ。しかし、影佐には陸軍上層部を説き伏せる政治力があった。
 1940年3月、南京に汪兆銘政権は誕生したものの、戦局打開も事態収拾も実現しなかった。傀儡政権を目指す一方で、蒋介石との直接和平を模索する二股工作は、中国に日本への不信感を増幅させ、日中戦争は更に泥沼化した。

 蒋介石から「和平信義」のカフスボタン

 小野寺は、事実上の左遷と為る三笠宮担当の陸軍大学校教官の辞令が下り、失意の内に帰国した。「小野寺機関」は解体と為り、直接和平工作は終わりを告げた。
 しかし、帰国する直前、蒋介石は部下を通じて小野寺に金製のカフスボタンを贈った。ボタンには蒋介石自筆の「和平信義」の文字が刻まれ「国と国の間は和平、人と人の間は信義」との言葉を小野寺に伝えた。蒋介石は小野寺を信頼して、和平実現へ一縷(いちる)の望みを抱いて居たのかも知れない。

 工作は成功しなかったが、蒋介石と心を通わせる事が出来た。上海でも多くの人と交流を深め、和平工作が出来たのは、小野寺の懐の深さからだろう。

 「自分の一生の内アレ程心血を注いで張り切って働いた事は無かった」(百合子夫人著『バルト海のほとりにて』)精魂傾けた中国での和平工作を小野寺は、晩年、こう回顧している。
 後にストックホルムで、ソ連参戦密約を知り、天皇陛下の鶴の一声による終戦工作を構想して奔走するが、上海での工作は、その予行演習に為ったに違い無い。


    「諜報の神様」小野寺信(4)へつづく













「バルトの真珠」で学んだインテリジェンスの極意 連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(2)



 
  連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(2)

 「バルトの真珠」で学んだインテリジェンスの極意


                〜岡部 伸 2019.11.27〜


 情報大国の英国から「枢軸国側諜報網の機関長」と警戒された小野寺信(まこと)少将(最終階級)彼が小国の情報士官から機密情報を得る事が出来たのは、誠実な人柄だけでは無かった。ロシア語とドイツ語で高度なコミュニケーションが取れる「世界標準」の語学力を習得して居たからだった。

12-28-5.jpg

 ドイツ語とロシア語で「世界標準」の語学力

 岩手県胆沢郡前沢町(現・奥州市)で生まれた小野寺は、1912(大正元)年、13歳で仙台陸軍幼年学校に入学する際、ドイツ語を選択し学んだ。「ドイツ語は幼年学校でも士官学校でも優等生であったので、行く行くは陸大を卒業してからドイツへ行って勉強したいと心に期して居たし、又自信もあった」(小野寺信回想録)からだ。

 ドイツ語を得意として居たが、ロシア語にも取り組む様に為った。転機はシベリア出兵だ。1921(大正10)年、ロシア極東ニコライエスクに派遣されると、旅団司令部のロシア人タイピスト姉妹、タチアーナ、クラ―ラから活きたロシア語を学んだ。語学の才もあったのだろう。僅か1年で新聞が読め、文章が書ける様に上達した。
 日露戦争から、脅威と為ったのはロシアで、ボルシェビキ革命で誕生したソ連も膨張政策を継続し、最大の仮想敵国と為った。陸軍ではロシア研究の俊英の育成が焦眉の急だった。小野寺は1925年に陸軍大学校に進む際、ドイツ語で受験。見事合格すると、ロシア語を第1語学として専攻し頭角を現した。

 陸大卒業後は、陸大教官に任用され、1933(昭和8)年5月、36歳で北満(現在の中国東北部)ハルビンに「短期留学」した。白系ロシア人家庭に1年間ホームステイしてロシア語を磨き上げたのだ。陸軍有数のロシア専門家と為った背景には、上司の小畑敏四郎大佐(当時)の引きがあった。小畑大佐は、当時、陸軍内で抗争した「皇道派」と「統制派」の派閥の内「皇道派」の旗頭だった。

 陸大在籍中の1927年、一戸(いちのへ)百合子と結婚した。百合子夫人は日露戦争の旅順攻略で勇名を馳せ、退役後は学習院院長・明治神宮宮司等を務めた一戸兵衛の孫。又父の寛は黒羽藩藩主、大関増徳(増式)の六男で、陸軍皇族付武官少佐を務め皇室との関係が深かった。この皇室に近い家柄は、小野寺が後にスウェーデン王室を通じた終戦打診工作に生きて来る事に為る。

 ソ連ウォッチャー揺籃(ようらん)の地に

 駐在武官として辞令を受けたのがラトビア公使館だった。二・二六事件が起きる1カ月前の1936年1月、バルト海の畔のリガ迄シベリア鉄道で赴いた。「バルト海の真珠」と称えられる港町リガは、古代から交通の要衝に当たり、ハンザ同盟の時代から欧米のソ連専門家が育つ揺籃の地だった。
 ソ連と国境を接し、バルト海東岸に南北に並ぶバルト三国は地政学上、ソ連初め欧州各国の趨勢を覗うには絶好だったからだ。

 ロシア革命(1917年)の後、世界最初に誕生した社会主義国のソ連を西側諸国はナカナカ承認し無かった(アメリカが承認したのは1933年)中国ウォッチャーが香港に集まった様に、ラトビアが第一次世界大戦後の1918年に独立して1940年に再びソ連に併合される迄、首都リガは欧米の外交官や情報士官の対ソ最前線拠点と為った。
 「ソ連封じ込め」政策を提言した米国の外交官、ジョージ・ケナンや『歴史とは何か』の著者で英国の歴史家、E・H・カーも居た。

 駐在して居たのは、アメリカ・ポーランド・チェコスロバキア・スウェーデン・エストニア・リトアニア・イギリスとソ連の武官だった。日露戦争で大国ロシアを破った日本は武官団の間でも一目置かれ、スターリニズムの「真実」を探ろうと、ラトビア初め各国武官と密接な関係を築いた。
 欧米の白人は、宗教や文化が近く片言で通じ合えるが、アジアの黄色人種である日本人が白人の輪に入る事は容易で無い。しかし、ロシア語とドイツ語が堪能な小野寺は、臆する事無く、家族グルミで肝胆相照(かんたんあいて)らした。

 百合子夫人は自著『バルト海のほとりにて』で語っている。「一番好意を寄せて呉れたのがポーランド武官ブルジェスクウィンスキー夫妻で、(中略)夫妻の好意が数年後に、信じ難い程の厚い信義に迄発展しようとは、当時は思いも寄ら無い事であった」
 この後、ストックホルム駐在武官に転進したフェリックス・ブルジェスクウィンスキー武官は、再会した小野寺との友情を大戦終了後迄続けた。気脈を通じたのは、プライベートでも交流を重ねたからだ。3歳でリガに渡った二女の節子さんは、子供の誕生日パーティーでブルジェスクウィンスキーの同じ年の長男から「人生で初めてプロポーズされた」事を覚えて居る。子供が近しく為ると親の距離も縮まった。

 日独でエストニア工作員をソ連に潜入させる

 親友と為った武官がもう1人居た。エストニアの武官、ウィルヘルム・サルセンだ。エストニアの情報が質量共に優れて居た為、南のリトアニアと北のエストニアとバルト三国全体を兼任する希望を参謀本部に上申すると、1936年12月許可された。エストニアからの情報でスターリンの大粛正に伴ってソ連軍が弱体化して居る事情が次々に判明した。

 情報収集には経費が掛かる。提供の見返りにエストニアに諜報費として年額5000ドル(当時の為替は1ドル4円で2万円。現在の貨幣価値は1500倍として3000万円程度)支払った。更に「可能性がある為らば広げて呉れ」と要請すると、エストニアは極東迄エージェントを配置した。
 その責任者がエストニア陸軍参謀本部第二部長(情報部長)のリカルト・マーシングだった。後に同参謀次長と為るマーシングは1940年、ソ連に併合されると亡命したスウェーデンでドイツ軍情報部に入るが、再会した小野寺の右腕として支えた。

 特筆すべき業績はエストニアとドイツと共同で行なった日独エ「対ソ」潜入工作だ。日本陸軍は、ベルリンに馬奈木敬信大佐(当時)を長とする参謀本部直轄の謀略組織「馬奈木機関」を設けた。「小野寺信回想録」によると、ドイツのアプヴェーア・独軍情報機関と共同で対ソ工作員や諜者を養成し、ソ連に潜入させて情報収集や暴動を起こし、扇動(せんどう)する計画を立て実行して居た。情報が漏洩して未遂に終わったが、スターリン暗殺計画も進めて居た。

 小野寺とマーシングは、エストニア情報部の工作員を「馬奈木機関」で養成。日本が1938年、ソ連と往復する為、国境にあるペイウス湖の高速船の購入資金1万6千マルクをエストニア軍に提供して高速船を購入し、ソ連に潜入させた。
 工作員の1人はソ連参謀本部に潜入し、1939年まで情報を提供する等、エストニア人の潜入は極東のハバロフスクや満州迄広がり、ロシア内(レニングラード・モスクワ・ボルガ・東シベリア)にスパイネットワークが出来たと云う。

 リガでの友情、ストックホルムで結実

 「馬奈木機関」とエストニア情報部は、@ウクライナで革命家に反体制運動を起こさせる Aグルジア(現ジョージア)等コーカサス地方で民族独立運動を支援して体制転覆工作・・・を試みた。
 「馬奈木機関」ではソ連から欧州各地に亡命したウクライナ人やグルジア人を工作員として養成、ペイウス湖から工作員を潜入させた。小野寺もテロ用爆弾をベルリンからエストニア迄鉄道で運んで居る。

 但し、大量の工作員をソ連に潜入させる事に成功したが、戦後、小野寺は家族に「成果があったかどうかは判ら無い」と述べて居る様に、ソ連の防諜に阻まれ、テロや暴動等攪乱する結果は残せて居ない様だ。しかし、多民族国家ソ連の弱い脇腹に、3国合同で工作を仕掛けた事は注目して好いだろう。
 1938(昭和13)年3月、参謀本部員兼大本営参謀の辞令が出た。リガでの2年間、ポーランドやバルト三国の情報士官達と緊密な信頼関係を結んだ事は小野寺の自信と財産に為った。リガで学んだインテリジェンスの極意は諜報活動の基盤と為り、後にストックホルムで結実する。

 リガで友情を育んだマーシング等は、再会した小野寺を「諜報の神様」と慕い、次々に機密情報をもたらしたのだった。


   「諜報の神様」小野寺信(3)へつづく














連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(1)



 連合軍を震撼させた 「諜報の神様」小野寺信(1)
 
 誠実な人柄で情(なさけ)の繋がり


              岡部 伸  歴史 2019.11.13


 〜情報大国イギリスが「傑出した情報士官(インテリジェンスオフィサー)」と認めたストックホルム駐在陸軍武官の小野寺信(まこと)少将。ナチス・ドイツのソ連侵攻を見抜き、ソ連が対日参戦する「ヤルタ密約」を掴んで終戦工作に関わった小野寺の足跡を連載で辿る〜


12-28-4.jpg

 「世界標準」インテリジェンス・オフィサー

 「日本のストックホルム駐在陸軍武官が『ソ連の対日参戦』の情報を掴み、日本の敗戦を認識して、スウェーデン王室筋に日本と連合国の仲介をお願いした」

 終戦3か月前の1945年5月、英国政府は、英連邦の主要国である自治領だった、カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ共和国に、この最高機密情報を打電した。この終戦打診工作を行なった人物こそ小野寺である。

 小野寺は、ポーランドやバルト三国から協力を得て、連合国の機密情報を次々と掴み「枢軸国側諜報網の機関長」と恐れられた。
 ポーランドを初め全欧に築いた情報ネットワークに法王庁(バチカン)も関与し、一端には「命のビザ」を出して6000人のユダヤ人を救った外交官、杉原千畝も居た。同盟国ドイツも、ドイツ保安警察(SIPO)が1941年7月作成した報告書で「日本の『東』部門・・・対ソ諜報の長は、ストックホルムの小野寺で、補助役がケーニヒスベルク(現ロシア・カリーニングラード)領事の杉原千畝」と分析して居た。

 小野寺が成功したのは、ポーランド、エストニア、フィンランド、ハンガリー等小国の情報士官等と友好関係を築けた為だ。これ等の小国はソ連に侵略された共通項があり、祖国再興を夢み乍ら小野寺を「諜報の神様」と慕い、日本と密接な関係を構築した。
 日本では、インテリジェンスと云えば謀略や破壊工作等、市民の秘密を暴く、何処か後ろメタい「人を騙して情報を掠める」イメージがある。しかし、回想録で「情報活動で最も重要な要素の一つは、誠実な人間関係で結ばれた仲間と助力者」と語った小野寺は逆だった。他国の情報士官と信頼関係を結んだ誠実な人柄が、類い希な成果を生んだのだ。

 新聞等公開情報を分析するオシント(オープン・ソース・インテリジェンス)は勿論、人間的信頼関係を構築して協力者から情報を捕るヒューミント(ヒューマン・インテリジェンス)で成功した。リガ(バルト三国のラトビアの首都)、上海、ストックホルムで「人種、国籍、年齢、思想、信条」を超えて多くの人と誠実な「情」(なさけ)の繋がりを築いたと云える。

 ソ連の対日参戦密約を掴む

 欧州駐在陸軍武官で唯一人、ドイツが英国本土では無くソ連に侵攻すると説き、ドイツの対ソ戦の劣勢を一早く掴んだ。更に最も価値が有った情報は、1945年2月、ソ連のスターリン首相がクリミアのヤルタでルーズベルト米大統領・チャーチル英首相と決めた対日参戦密約だ。
 日本が最後の拠り所と望みを掛けたソ連が背信する密約は、日本の敗戦を決定付けるもので、北方領土問題の原点に為る最高機密だった。

 会談直後に小野寺は、ロンドンの亡命ポーランド政府陸軍情報部からヤルタ密約を得て参謀本部に打電するが、活かされ無かった。ソ連仲介和平に奔走する日本の中枢に握り潰されてしまった為だ。しかし、ロンドンの英国立公文書館に所蔵されるガイ・リッデル英情報局保安部(MI5)副長官日記には、小野寺が英米を震撼させた情報士官として記されて居る。リッデル副長官は45年7月2日付けでこう記した。

 「ストックホルムで暗躍したドイツのカール・ハインツ・クレーマーがドイツ降伏後、2カ月して、秘密情報の交換の為日本の陸軍武官、オノデラと取り引きをして居た事を認めた。オノデラ情報は、イギリス軍の配備やフランス陸軍・空軍の配置、イギリスの航空機産業、極東の英米空挺部隊の配置、ソ連の暗号表、アメリカにおける原材料の所在地等に関する戦略的かつ戦術的なものだった。オノデラ情報は、クレーマー情報よりも価値があると考え、ドイツが気前好く報酬を支払った」

 クレーマーは小野寺が戦後、家族に「ドイツ随一の情報家」と回想した法学博士のインテリジェンス・オフィサーで、英米情報のスペシャリストだった。MI5は、安全を脅かす危険人物を調査してファイル(KV2)にマトメ、クレーマーに対して14冊も作った。だが、リッデル副長官は、クレーマーより小野寺情報の方が「価値があった」と評した。
 リッデル日記に登場する日本の陸軍武官は小野寺だけだ。又小野寺のファイル(KV2/243)は有るが、対ソ諜報第一人者としてベルリンで大戦初期に暗躍した陸軍中野学校初代校長の秋草俊や、スイスで終戦工作を行為った岡本清福中将等他の日本武官のファイルは無い。
 英国立公文書所蔵公文書はインテリジェンス大国が小野寺を「国際基準」で第一級の情報士官と認めて徹底マークした事を物語って居る。

 終戦工作を英国が自治領と共有

 情報収集だけでは無かった。終戦工作に関し小野寺は表の外交で解決出来無い為「バックチャンネル」(裏ルート)として携わった。ラトビア勤務後、単身乗り込んだ上海で、日中戦争に終止符を打つ為、蒋介石との直接交渉の可能性を探った。
 大戦ではドイツが無条件降伏する2カ月前の45年3月、リッベントロップ独外相からベルリンに呼ばれて、ストックホルムでの独ソ和平仲介の要請を受けた。降伏直前にも親衛隊情報部のシェレンベルク国外諜報局長からの依頼で、スウェーデン王室を通じて連合軍との和平を探った。

 ドイツ降伏後の同年5月には、ストックホルムで、スウェーデン王室を通じた連合国と日本の和平仲介を打診した。英国立公文書館所蔵の英外交電報によると、小野寺の終戦工作に付いて、サンフランシスコ会議(国連の設立を決めた連合国の会議)途中に米国務省から知らされたハリファックス駐米英国大使が、同月19日に英外務省に緊急電で伝えた。英政府は「日本が初めて降伏の意志を示した」と判断したのだ。

 そして、冒頭に記した様に、小野寺がストックホルムにおいて、ドイツ敗戦から3カ月後にソ連が対日参戦すると云う「ヤルタ密約」を掴み、和平仲介打診に乗り出した工作を、英国は「最高機密」と判断。英連邦の自治領だったカナダやオーストラリア等と情報共有したのである。
 その際に、ハリファクス大使は「オーソライズされた陸軍武官は天皇の代理と為るので、スウェーデン国王グスタフ五世は興味を持たれ、何事かアレンジされた」と1回限りの暗号で打電した。

 英国立公文書所蔵の秘密文書によると、英国が小野寺工作を評価した背景には、1945年2月に3巨頭がヤルタで署名した「極東密約」に付いて、英国がコピー15部を作成してジョージ国王初め戦時内閣の閣僚等中枢が情報共有して居た事実がある。
 米国では、ルーズベルト米大統領が密約文書をホワイトハウスの金庫に封印し、トルーマン次期大統領でさえ、同年7月ポツダム会議に出発まで知らされ無かった。

 参謀本部の作戦課が小野寺電報を握り潰した日本は、和平仲介への淡い幻想を抱き、ソ連に擦り寄って居た。これに対し、北欧の中立国、スウェーデンで正鵠を得た情報を元に、ソ連では無く米英との和平に乗り出した小野寺を、英国はキラリと光る枢軸側の情報士官と評価したのだ。
 チャーチルは、スターリンの野望を砕くべく米国等アングロサクソン諸国と連携し、ソ連の極東支配阻止に動き出すのである。


 岡部 伸 OKABE Noburu 経歴・執筆一覧を見る 1981年立教大学社会学部卒業後、産経新聞社に入社。社会部記者として警視庁・国税庁など担当後米デューク大学・コロンビア大学東アジア研究所に留学 外信部を経てモスクワ支局長・東京本社編集局編集委員 2015年12月から19年4月までロンドン支局長を務める 現在 同社論説委員 著書に『消えたヤルタ密約緊急電』(新潮選書/第22回山本七平賞)『「諜報の神様」と呼ばれた男』(PHP研究所)『イギリス解体、EU崩落、ロシア台頭』『イギリスの失敗』(PHP新書)など













何故「資本主義」は輝きを失ってしまったのか




 何故「資本主義」は輝きを失ってしまったのか

              〜東洋経済オンライン 12/27(金) 6:10配信〜

         12-28-20.jpg

 ノーベル経済学賞受賞経済学者のポール・クルーグマンも スティグリッツを「途轍も無く偉大な経済学者」と賞賛して居る(撮影 尾形文繁)

 私達は、過つて無い程格差が拡大した世界に暮らして居る。極一部の富裕層が富を独占し、政治を牛耳って居る。中流の暮らしは崩壊しツツ有り、人々は怒りを感じ将来に対する不安に苛(さいな)まれて居る。では、どうしてこんな事に為ってしまったのか? そして、この進路はどうすれば変えられるのか?
 ノーベル経済学賞受賞者のジョセフ・E・スティグリッツは、経済を強化し乍らその利益を公平に分配する事は可能だと云う。今回『スティグリッツ PROGRESSIVE CAPITALISM』から、現代社会が直面する課題とその解決策に対するスティグリッツの考え方を、一部抜粋してお届けする。


           12-28-3.jpg

 高校の同窓会で思い知らされた格差の存在
 
 私は、ミシガン湖の南岸にあるインディアナ州ゲイリーで生まれ育った。その頃は、資本主義の黄金時代だった。但し、黄金時代だと気付いたのは後に為ってからだ。当時は、左程黄金時代には見え無かった。酷いひと種差別があり格差があり、労働争議があり、時折不況が有ったからだ。同級生の生活にも街の様子にも、その影響がハッキリと表れて居た。
 ゲイリーは、アメリカの工業化と脱工業化の歴史をそのママ辿った。1906年に、当時世界最大の総合製鉄会社USスチールの工場の敷地として建設され、同社の創業者兼会長だったエルバート・H・ゲイリーに因んで名付けられた。何処から何処までも、この会社の城下町だった。

 私は2015年、高校の55回目の同窓会に出席する為この街に帰った。ドナルド・トランプが現在の様に、この世界を牛耳る前の事だ。その頃にはもう、ピリピリした雰囲気が街を覆って居たが、それも無理は無い。ゲイリーは、脱工業化への道を真っ直ぐ突き進んで居た。
 人口は子供の頃の半分に為り、スッカリ疲弊して居た。マルで紛争地帯や黙示録後の世界を描いた映画のロケ地の様だ。同級生の中には、教師に為った者も居れば、医師や弁護士に為った者も、事務員に為った者も居た。

            12-29-7.jpg

 だがこの同窓会で最も痛ましいと感じたのは、高校を卒業したら地元の工場に就職したいと思って居たのに、それが適わ無かった同級生達の物語だ。一時的に訪れた不況の所為で工場に就職出来なかった彼等は、軍に入り、その後警察官に為る道を選んだ。その中には、既に亡く為った人も居れば、障害を負った人も居る。私はその時、この国での寿命や健康に格差が有る事を思い知らされた。
 ヤガテ、2人の同級生の間で喧嘩が起きた。障害者給付金を頼りに生活して居る元警察官が、口汚く政府を批判すると、年金や給付金を支給して居るのはその政府だと元教師が指摘したのだ。

 現在、アメリカ等の先進国で事態が好い方向へ進んで居ないと云うが、それ処では無い。世界中に不満が蔓延して居る。過去四半世紀にアメリカを支配して居た経済学や政治科学の考え方によれば、こんな風には為ら無い筈だった。1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊すると、フランシス・フクヤマは「歴史の終わり」を宣言した。
 遂に民主主義と資本主義が勝利を収め、これからは経済が過つて無い程の速さで成長を遂げ、豊かさが全世界に広がるだろうと考えられた。アメリカはその先頭に立って居る筈だった。

 だが2018年に為る頃には、この高邁な理想も地に落ちて砕け散ってしまった様だ。2008年の金融危機により、資本主義が過つて思われて居た程完全では無い事が明らかに為った。資本主義は効率的でも無ければ、安定して居る訳でも無かった。
 その後の相次ぐ調査により、過去四半世紀の成長の恩恵を主に受けて居たのは、最上層に居る人達だと云う事が判った。市場に任せておけば製品やサービスの生産を効率的に管理出来ると云う思想が、これ迄深い影響を及ぼして来た。それが資本主義の理論的基盤とされて来た。

 だが2世紀に渉る研究の結果、私達は要約、アダム・スミスの言う「見えざる手」が何故見え無いのかを理解した。そんなものは存在し無いからだ。「市場に任せる」と云うスローガンは最早意味を成さ無い。過つて右派はこう考えた。市場を再編し、それに伴い政治も変えて行か無ければ為ら無い。
 こうしてレーガン政権時代から、最上層の人々に有利な市場の再編が始まった。だがソコには、大きな過ちが4つあった。

 第1に、格差の拡大が多大な影響を及ぼす事を理解して居なかった。
 第2に、長期的な思考の重要性を認識して居なかった。
 第3に、共同行動の必要性に気付か無かった。公正で持続可能な成長を実現するには、政府がそれを推進して行か無ければ為ら無い。
 そして第4に、これが何よりも重要な点だが、イノベーション経済を推進し乍ら、知識の重要性やテクノロジーの基盤と為る基礎研究の重要性を十分に理解して居なかった。詰まり、過去二百数十年に渉り資本主義の成功を支えて来た重要な要素を軽視した・・・その結果、当然予想すべきだった事が起きた。成長の鈍化と格差の拡大である。








 国の富を生み出す3つの要因

 本書の目的は、何よりも先ず、国富を真に生み出すものが何かを示し、経済を強化し乍らその利益を公平に分配して行くにはどうすれば好いかを明らかにする事にある。成長を万人に行き渡らせる為には先ず、国の富を真に生み出すものが何かを理解し無ければ為ら無い。富を真に生み出すものとは、
 第1に、国民の生産力・創造力・活力
 第2に、過去2世紀半の間に見られた様な科学やテクノロジーの進歩
 そして第3に、その同じ期間に見られた様な、経済・政治・社会組織の発展である。

 経済・政治・社会組織の発展には、法の支配・規律正しい競争市場・抑制と均衡により制御され「真実を語る」機関・・・を幅広く備えた民主主義体制の確立が含まれる。これ等の発展が、過去2世紀に渉り生活水準の大幅な向上を支えて来た。
 だが、40年程前から憂慮すべき2つの変化が見られる様に為った。成長の鈍化大多数の国民の所得の停滞又は減少である。それと共に、最上層に居る極少数の国民と残りの大多数の国民との間に巨大な溝が生まれた。

 このママ進路を変更し無ければ何も変わら無い。経済や政治や社会は益々機能不全に陥って行く。これ迄数世紀に渉り進歩を支えて来た科学や機関や制度、取り分け真実を語り評価する機関への攻撃が続けば、成長は更に鈍化し、格差は更に拡大するばかりだろう。

 中流階級の生活を提供する経済の実現

 此処で、希望に満ちた一言を加えて置こう。豊かさの共有を推進出来る簡単な改革案がある。政治的には必ずしも簡単では無いかも知れ無いが、経済学的には簡単な改革案である。私達は、広く共有されて居る基本的な価値観・・・銀行家が示して来た様な貪欲や不誠実では無く、経済・政治・宗教の指導者が好く口にする様なモッと高い価値観と一致する経済を生み出せる。
 その様な経済は、私達個人や社会を望ましいものに変えて呉れるに違い無い。それは、大多数の市民が望み乍らも、手の届か無いものに為ってしまって居た「中流階級」の生活を市民に提供する、より人間味の有る経済である。

 言う迄も無く経済は、目的達成の為の手段であって目的そのものでは無い。第2次世界大戦後の数年間にはアメリカ人の生まれ乍らの権利だと思われて居た中流階級の生活は、今や大半のアメリカ人に取って手の届か無いものに為ってしまった。
 だがこの国は、当時より遥かに豊かに為って居る。大半の市民にその生活を提供するだけの力は十分にある。本書ではその方法を提示して行きたい。

 適切に設計され、十分に規制された市場と、政府や市民社会の様々な機関とが力を合わせるしか、新たな世界を切り開く方法は無い。過去の失敗は、未来のプロローグと為る。テクノロジーの進歩を適切に管理出来無ければ、アメリカはディストピアへと突き進んで行く。
 格差は一層拡大し、政治は更に分断され、市民や社会は理想と掛け離れたものに為るだろう。自らの首を絞める資本主義を救う時間は未だ有る。


        12-29-8.jpg

     ジョセフ・E・スティグリッツ ノーベル経済学賞受賞経済学者   以上






有機・低農薬野菜宅配のらでぃっしゅぼーや。素材本来の味を食卓に。










「極右と言われたのが、今は左翼と言われる」「支持層のフォロワーに為るなら政治家を遣る必要は無い」ポスト安倍を見据える石破茂氏に聞く





 




  「極右と言われたのが、今は左翼と言われる」「支持層のフォロワーに為るなら政治家を遣る必要は無い」
 
  ポスト安倍を見据える石破茂氏に聞く


             〜AbemaTIMES 12/27(金) 17:10配信〜


       12-28-10.jpg

                   石破茂氏

 安倍4選も囁かれる中、ANN等の世論調査で安倍総理や小泉進次郎氏を押し退け、ポスト安倍レースのトップに躍り出たのは石破茂元幹事長だった。
 石破氏に批判的な論調の産経新聞の調査でも、僅差ながらトップに立って居り、AbemaTV『AbemaPrime』が街で聞いた処「悪いイメージは余り無い。考えは確りして居るのかなと云うイメージがある」(20代男性)「矢張りベテランだ。何と無く信念が有りそうな感じ」(80代女性)と、矢張り名前が上がったのが石破氏だった。


       12-28-11.jpg

                  足立氏

 テレビ朝日政治部長の足立直紀氏は「正論で理想が大きく、時に自民党の政策からも外れる様な事を仰る事がある。それが正に石破さんらしさで、党の議員や支持者が付いて行け無いと云う時すらある。しかしANNの調査で25%と云う結果を占めて居た様に、ポスト安倍と言われて居る人達の中で見ると矢張り石破さん好いんじゃないと云う事だろう」と話す。番組では石破氏に生出演して貰い、視聴者から寄せられた質問も交え話を聞いた。

 「左翼と呼ばれる。世の中の座標軸が凄く動いて居る」

 ・・・閣僚や党役員では無い今、どの様な時間の使い方をして居るのか。

 石破 今年の後半は、韓国の歴史や文化等を一生懸命勉強して居る。その国との外交をキチンと遣ろうと思えば、相手の事をチャンと知ら無ければいけ無い。如何にして韓国と適切な関係を保って行くかと云うのは日本の外交に取って死活的に重要な問題だ。
 それは今迄もそうだったしこれからもそうだ。それは好き嫌いの問題では無い。朝鮮半島外交を間違う時に日本は必ず国家を誤る。シンガポールもインドネシアもフィリピンに付いてもそうだ。コンナ事も知ら無かった、アンナ事も知ら無かったと云う事が沢山ある。
 或いは、何故日本が戦争に為ったか、何故、辞められ無かったか。一通りは知って居た積りだったが、それも知ら無い事が一杯ある。矢張り閣僚や党の役員であったりすると24時間365日、その事に全エネルギーを費やしてしまう。今は、こんなに自分はものを知ら無かったんだと云う事に気付かされる、本当に有り難い機会だ。

 ・・・そんな中、正に追い風が吹いて居るのでは無いだろうか。

 石破 期待は低いよりも高い方が好い。只、自民党総裁選の投票権が有るのは自民党員と自民党の国会議員だけだ。だから国民の支持が厚くても、それは自民党内の支持とは違う。そこは勘違いし無い様にし無いといけ無いし、1年の内でも追い風の時もあれば向かい風の時もある。
 しかし、その追い風が100mだろうが、逆風が100mだろうが、私は言う事を変えて来なかった。特にココ10年位、周りは凄く変わって居るが、私は殆ど変わって居ないと思う。私が防衛庁長官に為ったのは今から17年前だが、当時は極右の防衛庁長官と言われた。それが今は左翼だから(笑)世の中の座標軸が凄く動いて居ると云う事だと思う。

 ・・・親しみ易いと云うイメージに付いては。

 石破 政治家が偉いと思った事は無いからかも知れない。後は、学校を出てから、足った4年間だけだが、民間の経験をしたのは有り難かった。窓口に出た日に、お釣りを余計に渡して担当をクビに為って、後外回り等をズッと遣っていたが(笑)








 ・・・支持して居る人々は、具体的に何を期待して居ると思うか。

 石破 安倍総理は本当に全身全霊で遣っていらっしゃるとは思うが、国民に正面から向き合って呉れよ、と云う処が有るのではないか。確かに正面から向き合えばハレーションも起きるし、批判を真正面に受ける事もある。
 だから安倍総理みたいに上手く交わすと云うのも、或る意味では政治家としての資質かも知れないし、アノスタイルで7年間、最長の政権を維持して居る。それは凄い事だ。しかし、私はそう云う事が出来無い。為りもしないでそんな事を言うのは僭越かも知れないが、私は総理に為っても短いかも知れない。だが正面から国民に向き合わ無い事には、この国は変わら無いと思って居る。

 ・・・党内での支持に付いては

 石破 私は選挙応援には、それコソ不眠不休で誰よりも行って居ると思う。しかし今の議員さん達は、選挙応援には余り価値を感じ無いらしく、自分が望む職に着けて呉れると云う事の方が大事らしい。
 その点では、私は内閣や党で権力を持って居る訳では無いし、貴方を大臣にして挙げるよと言ったって何の説得力も無い。そこは難しいのかも知れない。だが、共に日本を語ろうよ。共に自民党を語ろうよ。共に次の時代を語ろうよ・・・と云う人はキッと居る筈だ。そう云う人達を一生懸命見付けていか無ければいけ無い。同志達に言わせると、もうあの人と話してもしょうが無いよね・・・と言うのが石破さんの一番いけ無い処だと好く批判される。それはその通りだ。

 「安倍政権の緩み」は我々の責任でもある

 ・・・そんな石破さんに付いて、安倍総理は決して嫌いでは無いが、言う事を聞か無い存在の様に感じて居るのではないか。

 石破氏 政治家だから、それは譲れ無いものがある。何でも譲って居たら、もう政治家では無い。安倍さんも譲れ無いものを持って居るし、私も譲れ無いものを持って居る。そう云う事ではないか。
 政治家同士と云うのは、一生の大親友である必要は無い。価値観が違った為らば、矢張りそれは立場を異にしないと可笑しい。そうで無ければ自分を偽る事に為る。安倍さんと云う人は凄く魅力的な人だと思うし、本当に自分の為に遣って呉れる人を、アレ程大事にする人は居ない。だが、考え方が違うので有れば、別に大事にして貰わ無くても、政治家の生き方として好いのではないか。

 憲法観、日本国憲法第9条に付いての考え方も可成り違う。安部総理が仰るのは、自衛隊は憲法違反だと云って居る学者が居ますよと云う事。学問の自由だから色んな意見があるだろう。でも、それを紹介して居る教科書が有るのは許せ無い。自衛官たちアンナに一生懸命に遣って居るのに、憲法違反と言って居る学者が居たり、それを紹介する教科書があったりするのも許せ無い。だから憲法改正だと云う考え方だ。
 勿論自衛官達は一生懸命遣って居る。只、防衛庁長官や防衛大臣を遣った私としては、自衛隊を単に憲法に書き込むだけでは無く、最強の実力集団である以上、司法・立法・行政によるキチンとしたコントロールが無いと可笑しいよね、外の勢力に対して対抗する組織だから、国際法に従って遣らないと可笑しいよねと、と云う立場だ。

 ・・・長期政権による副作用の様なものが出て居るのではないか。

 石破 小泉さんの政権も長かった。或いは先日お亡くなりに為った中曽根さんの政権も長かった。私は中曽根さんが総理だった昭和61年に初当選したが、アノ政権は最後までピリピリして居た。小泉政権も最後迄ピリピリして居た。緊張感があった。
 少なくとも私が知って居る中曽根政権や小泉政権では、緩みや驕り等と言われる事は無かった。只、それは安倍政権を作った我々の責任でもある。だから私は関係ないですよみたいなことを言う積りは無い。

 ・・・では、自分が総理に為ったら「桜を見る会」は辞めるのか。

 石破 辞めない。「桜を見る会」の本来の目的は、勲章を貰って皇居に呼ばれる事は無いが、保護司さんや人権擁護委員さんや農業委員さん等、本当に地域で一隅を照らして居る人、一生懸命頑張って居る人達に、内閣総理大臣として皆さん本当に有難うと云う機会だ。それを何故辞めなければいけ無いのか。

           12-29-5.jpg

                    福田康夫総理 

 ・・・情報公開や公文書の管理の問題に付いては。

 石破氏 私は福田康夫総理に防衛大臣としてお仕えしたが、福田総理の公文書に対する姿勢は徹底して居て、公文書管理担当の大臣を置き、公文書管理の法律もお作りに為った。国民の税金を使って行政が遣る事に付いては、可能な限り納税者に情報が公開され無ければいけ無いのだと云う、福田総理の使命感や責任感があったと思う。
 私はそれを間近で見て居て、そう云うものなのだと思った。「桜を見る会」も、安倍さんが個人的に遣って居る訳でも、自民党総裁として遣って居る訳でも無く、内閣総理大臣として、国民の税金で遣って居る。だからその事に対する情報は可能な限り納税者に公開され無ければいけ無い。それは当たり前の事だ。

 ・・・しかし、そうした声が党内からは聞こえて来ない様に感じる。

 石破 それは我々自民党員の責任だ。期数が上だろうが下だろうが、役職に着いて居様が居まいが徹底的に議論する。そして決まったらば従うと云う、それが自民党だ。
 だから私達が若い頃は侃々諤々(けんけんがくがく)、皆言いたい事を言って居た。それが言う事を言わせ無い、或いは言った事を完全に無視する様に為った時に、自民党は可笑しく為る。国会議員を34年遣って来て、そうだと思う。
 政治改革の時もそうだった。小選挙区制には色々な評価があるが、若い議員達は小選挙区制にすべきだと懸命に主張し、結果として握り潰した。そして宮澤内閣は選挙で負けてしまった。自民党の良さが失われた時、自民党そのものが危機に瀕すると思う。

 ・・・一方で、野党も支持を集められて居ない。

 石破 小泉内閣や福田内閣・麻生内閣で閣僚を遣って居る頃の民主党には本当に迫力があった。前原さんや枝野さんの様な論客が居て、予算委員会の中で2時間に渉って、1人で徹底して議論をして来た。誤魔化そうと思っても誤魔化せ無い真剣勝負だった。
 閣僚席に座って居て、時計を見ながら何で時間ってコンナに遅く流れるんだろうと思った事を好く覚えて居る。だが今、野党の質問を見て居ると、例えば5人で30分ずつ出て来る。そしてモッと追及したいんですけど、時間が有りませんので次の質問に移ります・・と言われてしまう。チットモ怖く無い。何故こんな事に為ってしまったのだろうと思う。









 「日本の価値観を根底から変える」

            12-29-6.jpg

 ・・小泉進次郎環境相に付いてはどう見て居るのか。もし総裁選に立ったとしたら?

 石破 彼は私が幹事長の時の青年局長、私が大臣の時の政務官だ。野党時代、そして又政権を奪還した後も一緒に仕事をして来た。本当に日本の為に、大事に使って行かなければいけ無い人だと思う。彼が総裁選に出ると云う状況は非常に考え難いし、私と小泉さんの国家観と自民党観が、そんなにズレて居るとも思わ無い。
 憲法や安全保障に付いて徹底的に議論した事がある訳では無いので、ソコが違うのであれば、どんなに親しくても対立せざるを得ない。当然、日本の為に対決する事はあるだろう。

 ・・・では、総裁選に出馬するとしたら、何を旗印にするのか。

 石破 日本の価値観を根底から変える事だ。江戸時代は「天下泰平」兎に角安定が価値観だった。処が黒船が来て、このママでは西洋列強の植民地に為ってしまうぞと云う事で、安定から強さ「富国強兵」に為って行く。
 それが太平洋戦争の敗戦で徹底的に打ち砕かれ、今度は豊かさ「高度経済成長」に為る。今、それ等に代わる価値観を見付けていか無いと、この国はいかんのでは無いだろうか。

 等々赤ちゃんの出生数が90万人を切った。予想よりも早かった。首都一極集中、詰まり男女が最も結婚する東京で赤ちゃんが最も生まれ無い。ドイツではベルリン一極集中か、イタリアはローマ一極集中か、フランスはパリ一極集中か・・・違う。地方が豊かで活気がある。
 だからヨーロッパの国は人口が減ら無い。21世紀は世界の人口が2倍に為るのに、これからの80年で日本の人口は半分に為る。国の作り方、国家の有り方を根底から変え無いとこの国は持た無い。それには矢張り多様性だ。東京に行って成功する事が価値観で、同じものを安く沢山、大勢の人に作ると云うモデルだった。本当は農業も漁業も林業も、物凄い力があるのに、それを最大限に生かし伸ばして来なかったのではないか。

 ・・・安倍政権も少子高齢化や一極集中を避け様と旗を振って来ては居る。しかし、地方創生も含めて、上手く行って居ない。

 石破 このママ行ったら国が無く為るよ、と云う切迫感・危機感だと思う。自民党は一極集中を打破し様よと云うのは昔から言って来た。田中角栄総理の時にも「列島改造」があった。しかし、現状を打破し無いとこの国が無く為っちゃうよと云う危機感は、高校生だった私には余り感じられ無かった。
 大平総理の時に田園都市構想、竹下総理の時に故郷創生があったが、これ等が失敗したら国が無く為ると云う程の危機感は無かったと思う。しかし、今は局面が違いますよと云う、その危機感をモッと強く打ち出さないといかんと思って居る。

 ・・・豊かな暮らしの割には、将来を不安視して居る子供は多い気がする。結婚したり、子供を産んだりと云う事に対する不安が勝ってしまう。

 石破 経済が伸びて人口が増えて居る時は、辛い事・嫌な事を先送りしても何とか為った。人口の増加と経済成長がそれを予定調和的に何とかして呉れた。だが、人口が物凄く減る時代、そして経済がそんなに伸び無い時代は、先送りすればする程、次の時代に掛かる負担はドンドン重く為って来る。それを政治家が言わ無いでどうするのか。

 ・・・一方で、自民党の支持層は、又儲けさせてよ、又バブル呼び起こしてよ、と云う人が多い気がする。そう云う支持層の気持ちも変えて行くと云う事か。

 石破 次を見せ無いと、政治家ナンか遣っちゃいかん。単なる支持層のフォロワーに為るなら政治家を遣る必要は無い。それは世論調査機関が遣れば好い。有権者の方々は毎日忙しい。我々は政治を遣って居るのだから色んな情報を知って居る。それを国民にキチンと開示するのが、我々の責任ではないか。
 有権者がこう思って居るからそれに従いますよ。皆さん方が思う様な社会を作りますよ・・・と云うのは、この時代の政治家として遣ってはいけ無いと思う。

 ・・・若い世代の政治参加に付いては。

 石破 若い人が投票に行くだけで日本は変わる。入れたい人が居ない、入れたい党が無いとも言われる。だったら行って白票を入れれば好い。だからそう簡単には出来ないが、投票は義務化すべきだと思って居る。
 この国をどうするかと云う事に対して意思を表示出来ない人は、本当に主権者だろうか。この国の将来に責任を持ちませんと云うのは、私は国民として言うべきだとは思わ無い。その意味で投票は国民の権利だが、義務でもあると思う。そして投票する時に、自分が総理大臣だったらどうするかと云う事を考えるのが主権者だ。民主主義と云うのはそれ程厳しいものだ。

 ・・・2020年はどの様な1年にするのか。

  石破 国は変えられると云う意識を国民一人一人に持って貰う年にしたい。どうせ変わら無い、私が行ったって変わら無い・・・それは民主主義の破壊だ。平成の30年と云うのは、ヒョットしたら民主主義が物凄く変質した時代かも知れない。金利が付か無いと云う事で、間違い無く消費者が変質した時代だ。
 だが、今為らば取り返せる。国は変えられるんだと云う、そう云う思いを主権者に持って貰う。そう云う1年にしたい。


       AbemaTV 『AbemaPrime』より    以上









 【管理人のひとこと】

 石破氏の言葉は、耳には何か何か重そうに入る様で居ても、中身は青年の様な正義感と信念を感じさせる魅力も持っていられる様だ。党内での人気が無い・・・との事は、他人に余り興味が無いのか、それとも我が道を行くのに一生懸命で、周りに気が回らないからなのか。仕事を世話したり金を工面したりする・・・所謂面倒見の好い人では無いのだろう。
 それは好い、もうその様な人情で動かす様な「昔の政治」を続けていたら、今の様なグダグダした政権が続いてしまい、何時まで経っても日本の政治は進歩しない。

 しかし、自民党内の反安部がマトマラず石破氏の総裁選が危うく為った場合、首班指名の際、維新・公明を除くオール野党と石破派とで過半数が取れ無いだろうか。万が一、総裁選で敗れても次の道は、野党でお膳立て出来れば、反自民・反安部の与野党連立政権も視野に入れても好いのでは無かろうか。
 最も「身内と喧嘩し裏切る様な事して迄して総理には為りたいとは思わ無い」と逃げられる事も考えられるが・・・しかし、山本太郎氏の言葉を借りれば「国が国民が壊れてしまう、悠長な時間は残されて無い」のだが。










伊藤詩織さん暴露 安倍官邸の「山口敬之」ご指名派遣 又もベッタリ具合が露わに



 


 


 伊藤詩織さん暴露 安倍官邸の「山口敬之」ご指名派遣 

 又もベッタリ具合が露わに


              〜デイリー新潮 12/27(金) 8:00配信〜


         
       12-28-1.jpg

                   山口敬之氏

 2019年12月19日、勝訴判決を受け、外国特派員協会で行なわれた記者会見で、伊藤詩織さん(30)は、次の様な新事実を明らかにした。

 〈安部首相は2015年4月、笹川平和財団の為に米国で講演を行ないました。その見返りに、山口敬之氏を米国のイースト・ウェスト・センターに派遣して欲しいと云う要請が官邸より笹川平和財団にありました〉

 

 聊(いささ)か旧聞に属するが、話は2015年10月に遡(さかのぼ)る。人類みな兄弟を標榜した笹川良一(1899〜1995)の三男・笹川陽平(80)が名誉会長として率いる『笹川平和財団』財団の関係者によると・・・
 「当時、日米交流事業を担当して居た或る職員が、上司からこう言い渡されたそうです。この人物のビザの取得に付いて手伝って欲しい、上で話は着いて居る、と」・・・この人物コソ、山口敬之元TBSワシントン支局長(53)なのだ。

 時系列的に振り返って置くと、準強姦逮捕状が出される事件が発生したのは2015年4月。その直前の3月、山口記者は支局長として暖めて居た企画「韓国軍にベトナム人慰安婦が居た」に付いて、その報道をTBS上層部から却下された。その為、これを週刊文春に持ち込んで記事化して居た。そして、その件に付いて、週刊新潮では過去に検証記事を掲載して居る(リンクを参照)ゴク簡単に言うと以下の通りだ。

(1)山口氏は自分で公文書を見付けたと言って居るが、実際はそうでは無い。
(2)公文書は慰安所の存在を全く断定して居ない。
(3)証言者の発言を捏造、歪曲、無視して居る。
(4)その様な虚報を用い、駐米公使と謀って外交に利用しようとし失敗した。

 
 山口氏はこの寄稿により、TBSから「ワシントン支局長として出社に及ばず」の命令を受けて居た。帰国した折に、準強姦逮捕状が出されると云う悲劇が起こったのだった。笹川平和財団が手伝ったのはビザの取得だけでは無かった。条件はこんな具合だ・・・
 〈山口氏の為に、アメリカのシンクタンク「イースト・ウェスト・センター」のフェローの職が2年間用意され、そこで山口氏は、安倍首相の外交アプローチやベトナム戦争に付いて研究する。付いては、笹川平和財団が山口氏分の1000万円の研究者費・生活費を負担する〉

 安倍晋三首相(65)とベッタリ故に、外交アプローチを研究するのは理解出来る。他方、スンナリと頷き難いのは、その為のビザ取得や費用を笹川平和財団が負担すると云う点だ。勿論笹川陽平氏は、安倍首相と浅からぬ間柄だ。

       12-28-2.jpg

                安倍晋三首相と笹川陽平氏

 とは云え、先に触れた職員も我々と同じ様な疑問を抱いて居た。だから、山口氏が渡米するに当たり、必要なビザの手続きに関連した書類等を作成した後「何故、コノ人物こと山口氏を、センターのフェローに推薦する事に為ったのか?」と上司に確認したのだった。
 その際に上司は、こう答えたと云う。 「2015年4月にSPFUSA・国際笹川平和財団米国で、首相がスピーチして呉れた。その見返りで、官邸から山口氏の職の斡旋を依頼された」
 
 事実、安倍首相は2015年4月に訪米して居る。当時、韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領による「日本の慰安婦問題」への追及は激しさを増して居り、それに抗する為には、日本のブレ無い姿勢をアピールする事が大事だったのだ。
 しかし、その時、山口氏は背伸びして事柄を創作してしまった。TBS局内で報道出来る代物では無いと退けられても、山口氏は諦めず本当に記事にしてしまう。そして先に触れた様に、山口氏は駐米公使とも謀(はか)って、米政府高官の会見で山口レポートに付いて自ら質問して居る。

 記者会見の場を借りて「韓国軍にベトナム人慰安婦が居た」と云うストーリーを国際的に既成事実化しようとしたのである。問題があるのは日本だけでは無いと云う訳だ。最も、質問を受けた高官の反応は寂しいものだったが・・・

 山口氏に400万円超の経費

 外務省関係者に聞くと 「官邸としては、国際世論形成の為、リスクを犯して記事を発表して呉れた山口氏に『借り』があったのでしょう。一方で安倍首相は、4月の訪米に際して笹川平和財団米国でスピーチし、これで笹川平和財団に『貸し』が出来た。
 そこで、山口氏に『借り』のある官邸が『貸し』の有る笹川さんにフェローの件を依頼した、と云うスキームだったと考えられる訳です」


 山口氏に対し、代理人弁護士と本人のメールを通じて取材を申し込んだが、回答は無かった。一方、笹川平和財団は以下の様に回答した。

 「笹川平和財団では、日米に関する情報発信の強化に向け、日米双方のオピニオンリーダー交流促進を行って居ます。山口氏はその事業の一環としてフェローに選ばれ派遣されました。
 笹川平和財団が山口氏のフェロー推薦を官邸から依頼を受けた事はありません。笹川平和財団は、山口氏をEast West Centerに紹介した時点、及びフェローを継続されて居る間も、伊藤詩織氏に関わる事案を一切、承知して居りませんでした。
 笹川平和財団は、East West Centerに対しDesk Fee(フェロー受け入れの諸経費)として42,675米ドルを支払いましたが、山口氏個人に対する支払いは一切有りません。山口氏の研究テーマは、日本政府の対米外交戦略・ベトナム戦争及びベトナム戦争直後の歴史です。East West Centerより山口氏が不在である事が多いと連絡を受け、山口氏に確認した処、自己都合によりフェローを辞退するとの連絡がありました」

 
 詩織さんによると 「イースト・ウェスト・センターの職員に取材した処、職員は、山口氏はセンターに全く顔を出さ無かったので、フェローの契約を1年足らずで打ち切った、と証言して呉れました。又、この10年間で笹川平和財団からフェローの推薦を受けたのは初めてだ、とも明かして呉れました」
 
 何処の世界でも10年に1人等と形容される人は際立った存在に他為らず、超が着く特別扱いである事は論を俟た無い。又笹川平和財団は「山口氏個人には滞在費用を支払って居ない」と言うが、42,675米ドル、日本円で約466万円に及ぶ多額の経費を山口氏の為に捻出した事は認めて居る。
 しかし、詩織さんの取材で明らかに為ったように、山口氏は「センターに全く顔を出さ無かった」のだ。何故笹川平和財団は、そんな山口氏を特例的にセンターに推薦してしまったのか。

  「財団と官邸とのヤリトリは、笹川陽平さん自らが担当していました。その山口さんのケースも、直接、笹川会長が官邸とヤリトリした可能性が高い」(前出・財団関係者)

 官邸の番犬として権勢を振るい続ける警視庁刑事部長(当時)によって握り潰された逮捕状と同じく、安倍官邸の影が見え隠れするのである。


      週刊新潮WEB取材班 2019年12月27日 掲載 新潮社   以上








 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┏┫    あなたの火災保険、リスクやニーズに最適ですか?    ┣┓
┃┗┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳┛┃
┗━┛                            ┗━┛

火災保険を選ぶ時、不動産会社や銀行から勧められた保険会社以外の保険を
きちんと比較しましたか?

火災保険も比較する時代です。不要な補償の保険料を支払っていたり、
本当に重要な補償が外れていたりするケースが多数あります。

     ▼ ▼ ▼ まずは見積もり依頼 ▼ ▼ ▼
    10社以上の保険会社からあなたに最適なプランをご提案
https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=35D45B+6S3QSY+36QK+NWZDF



×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。