ファン
検索
<< 2021年05月 >>
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
ヨリちゃんさんの画像
ヨリちゃん
プロフィール

2021年05月10日

731部隊の元少年兵が激白 「残虐な人体実験が我々の日常だった」



 731部隊の元少年兵が激白 「残虐な人体実験が我々の日常だった」

 2つの「日常」が重なった 少年兵の記憶


 現代ビジネス編集部

 731部隊に居た10代の少年兵たち

 「任務が終わった夜に同期の友人と会うと、お互いの業務内容を話して居ました。『今日は人体解剖をした』『軍用犬に細菌兵器を運ばせる訓練をしている』ナンて人も居ましたね。未だ10代でしたけど、当然施設内で生物兵器を作って居る事も知ってましたよ」

 足った14歳で731部隊に入隊した元少年兵の須永鬼久太氏(92)はこう語る。関東軍防疫給水部本部・通称「731部隊」満州のハルビン市近郊に拠点を構え、表向きには兵士の感染症予防や安全な給水システムに関する研究を行って居た。しかし秘密裏に非人道的な人体実験を繰り返し、実戦での使用を目指して生物兵器を開発して居たとされる。


 4-17-10.jpg

    中国ハルビン市に残る、731部隊が使っていた施設[Photo by gettyimages]4-17-10

  4-17-11.jpg

    中国ハルビン市に残る、731部隊が使っていた施設[Photo by gettyimages]4-17-11

 14歳から17歳と云う多感な青春時代を、須永は「日本陸軍史上もっとも残虐」とされる部隊で過ごした。戦後75年が経ち、731部隊の実情を証言出来る元隊員は少ない。満州の地で、彼は一体何を見たのだろうか。節目の年に改めて話を聞いた。

 惨(むご)たらしい人体実験の実情

 731部隊の任務の一つが、敵兵を重篤(じゅうとく)な伝染病に感染させる「細菌爆弾」を製造することだった。部隊内で開発されていた「ペスト菌爆弾」は、病原菌を媒介するノミを爆発によってバラ撒き相手をペストに感染させる。
 長野県の高等小学校を卒業して731部隊へと入隊し、1年間の教育期間を終えた須永は、1943年頃からそのプロジェクト内の「焼成班」に所属して居た。

 「私の仕事は、ペスト菌爆弾の容器を焼き上げる事でした。少量の火薬でペスト爆弾が爆発した後、粉々に飛び散って中身の細菌が生きたままバラ撒かれる様に、陶器製の容器が使用されていました。細菌兵器を作って居る事に付いても説明を受けて居ましたよ」

 彼等が製造した爆弾の威力は、残虐な人体実験によって検証された。実験台として惨たらしく殺害されたのが、中国人やロシア人の捕虜達であった。彼等は「丸太」に等しい存在とされて居た為「マルタ」と呼ばれ、文字通りの非人道的な扱いを受けたとされる。

 「実験施設から屋外の実験場にマルタを連行して、抵抗出来無い様杭に括り付け、数メートル間隔で並べるんですよ。彼等の直ぐ近くで細菌爆弾を炸裂させ、強制的にペストに感染させた上で、身体がどの様に変化するのか経過を記録するんですね」

 4-17-12.jpg

     731部隊の人体実験で使われた器具[Photo by gettyimages]4-17-12

 このペスト菌爆弾の検証実験では、一度に10人以上の捕虜が実験台にされた。爆弾の感染力と効果範囲を測定する為、捕虜と爆発地点間の距離や火薬の量などを変化させて何度も何度も実験が行われ、その度に罪の無い捕虜達がペストに感染させられた。
 実験終了後、感染した捕虜が治療される筈も無く、全員が数週間以内に死亡した。しかし彼等は死んでも尚「実験台」として扱われて居る。爆弾の性能向上に繋げる為、死亡した感染者の遺体は解剖されて、臓器へのダメージを徹底的に調べられた。驚くべきことに、須永の様な10代の隊員達も、この事実を知りながら平然と軍隊生活を送っていた。

 2つの「日常」が重なり合う

 「部隊内で人体実験が行われて居る事は、焼成班に配属された頃から知って居ました。本部施設3階の窓から、中庭に居るマルタを見た事があります。何処の国の女性かは分かりませんが、遠目に女性のマルタを見たこともありました」

 初めて実験台である「マルタ」を見た時の記憶を、彼はこの様に振り返って居る。残虐な実験が基地内で行われ、しかも捕虜が実験台にされる事に対して、特段の驚きは無かったと云う。当時の心境を須永はこう話す。

 「人体実験に使われるマルタは捕らえられたスパイで、死刑囚だと教育されて居ました。だから良心の呵責みたいな感情もありませんでしたね。14歳で入隊した当時の我々は、本心からお国の為だと思い、滅私奉公の積りで任務に当たって居ました。『この細菌爆弾が完成すれば戦局を変える事が出来る』と上官から言われて居ましたから」

 須永以外の少年兵たちも同様だ。前述の証言の通り「人体解剖を行った」「軍用犬に細菌爆弾を運ばせた」と云った会話は、部隊の少年兵達にとって有触れた世間話だった。基地内で非人道的な生物兵器が製造されて居る事は周知の事実であり、10代の少年兵達はその環境に慣れ切って居たのだ。その一方で彼等は普通の青年と同じ様な生活も楽しんでいた。

 「私たちの班はハルビン市街地に近い建物で生活して居た事もあり、他班に比べると自由度が高かったんじゃないですかね。休日は外出許可を得て、基地から市街地へ繰り出すこともありました。
 そうそう、ハルビンの市街地で生まれて初めて水餃子を食べたんです。餃子自体、当時の日本にはありませんでしたからね。『アソコの店の水餃子は美味いよな』なんて、仲間と言い合ったものです。映画館に行ったりもしましたね」


 4-17-13.jpg
 
       1943年ごろのハルビンの街並み[Photo by gettyimages]4-17-13

 しかし帰りに通る基地の入り口には「何人たりとも関東軍司令官の許可なくして構内に入った者は銃殺に処す」と書かれた警告文が張られている。「初めて見た時は、ものものしい場所に来てしまったと思った」と須永は話す。
 残虐な人体実験が当たり前の様に行われて居た基地の中と、美味しい水餃子や映画館がある外の世界。どちらも少年兵達に取っての「日常」だった。

 彼等少年兵の経験を学ぶ意味

 ソ連が国境を越えて満州に侵攻して来た1945年8月8日、須永が所属する少年隊は、機密保持の為施設内の研究室を破壊する様命じられた。その後工兵隊が本部の建物を爆破し証拠を隠滅した上で撤退した。
 須永が後で聞いた処によると、一部の少年兵は不必要に為った捕虜を直接「処分」させられたらしい。須永らが研究室を破壊している間、施設の一角からズッと黒い煙が上がって居た。少年兵達が捕虜を殺害し、死体にガソリンを掛けて燃やして居たのだった。

 その後、須永らは朝鮮を経て日本へと戻った。帰国直後に感じた恐怖についてこう振り返っている。

 「何とか内地に戻ったものの、我々の部隊に所属して居た者は『そのうちGHQに捕まって殺されるんじゃないか』と云う不安が強かったですね。731部隊で非人道的な人体実験を繰り返し細菌爆弾を開発して居た訳ですから。
 でもそのうち、石井四郎部隊長が、実験データと引き換えに隊員を免責する様アメリカと取引したと聞いて、安心しました。率直に、上手く遣って呉れたなと思いましたね」


 戦後暫く沈黙を貫いた須永は「部隊内で見聞きしたことは話しては為らぬと徹底的に教育されて居たから、終戦後も731部隊のことは家族にすら話さ無かった」と語る。しかし7〜8年前から取材に応じる様に為った。

 「731部隊のことが報道でこれだけ世に知られたので『もう全てオープンにしてしまった方が好いだろう』と生きて居る隊員達で話し合い、数年前からメディアに出る様に為ったのです。
 非人道的な実験によって細菌兵器を研究して居たのですから、今考えれば間違ったことだったと思いますよ。でも、当時はそれが当たり前でした」


 軍上層部からの教育や環境への適応の結果、彼等少年兵に取って非人道的な人体実験は「美味しい水餃子」と同じ「日常生活」と為った。異常な環境も戦時には「日常」と為り得る。戦後75年を迎えても尚、我々は須永の証言から引き出されたこの事実を見詰続けなければ為ら無い。

                     以上





















731部隊の「細菌兵器」が原因で 日本軍でも感染症が大流行していた…!




 731部隊の「細菌兵器」が原因で

 日本軍でも 感染症が大流行していた…!


 現代ビジネス 4/17(土) 8:01配信


          4-17-6.jpg

               写真 現代ビジネス 4-17-6

 残虐な人体実験を繰り返した事で知られる、日本軍の関東軍防疫給水部本部「731部隊」として有名なこの部隊は、国際法に違反する「細菌兵器」の研究開発を目的として居た。その一部は日中戦争の戦場で実際に使用されたが、実は敵軍だけで無く日本兵にも被害が及んだと云う・・・知られざる中国大陸の実情を、新刊『後期日中戦争』から一部編集の上紹介する。

 兵士を苦しめたコレラ菌


      4-17-7.jpg
 
                Photo by iStock 4-17-7

 酷暑に苦しめられて居た第三師団通信隊では、新たな事態が起きて居た。休息中、歌の上手な近藤君が陽気に「誰か故郷を想わざる」を美声で唱う。突然、近藤君の顔色が変わり、皆が心配して聞くと「下痢また下痢でズボンを履く暇も無い」と云う。
 早速、軍医に診せるとコレラと診断、直ぐ入院させる事に為った。私達は、近藤君がそんな恐ろしい病気に罹って居るとも知らず一緒に食事をして居たのだ。私が近くの民家へ馬糧を探しに行った時、下半身糞だらけの住民がアチコチに寝て居たが、ヤッパリこれが感染したらしい。(「コレラ騒ぎ」『第三師団通信隊誌』所収)  

 コレラとは、コレラ菌に汚染された水や食物を摂取する事で起きる経口感染症のひとつである。1日以内の潜伏期間を経て、下痢を主症状に発症する。重度の場合、大量の排泄による脱水症状・意識の消失・低カリウム血症による痙攣等を起こし、最悪死に至る。 (「コレラとは」「NIID 国立感染症研究所」)
 同隊の前野高広によると「浙贛作戦(せちかんさくせん)に出発前、三種混合の予防接種と種痘を受けた。今度の作戦地は悪疫(あくえき)の流行地とか、厳に注意すべしと云う事だった。注射馴れのした私達兵隊も、この時は未だ一度も経験したことの無い極めて強烈なもので半日の練兵休が与えられた。私は少し発熱した。(三種混合は、コレラ・ペスト・パラチフスだったと思う)」(「雨と兵隊」『第三師団通信隊誌』所収)
 
 コレラの被害は、予防接種を受けられる日本兵は未だしも、戦火により予防接種処か罹患後の治療も真面に受けられ無い現地住民にも容赦無く及んだ。例えば、在杭州日本領事館の田中繁三領事によると、浙贛作戦(せちかんさくせん)期間中の7月26日、杭州北東の浙江省嘉興県(現嘉興市)でコレラを発症した住民が死亡。  
 その後、直ぐ様感染者が400人に達し、その内四分の一の100人が命を落とす。調査の結果、原因は汚染されたクリークの水を飲んだ為であった。(「コレラ発生状況ニ関スル件」「伝染病報告雑纂 中国ノ部(満蒙ヲ除ク)第八巻」)

 日本軍機がペスト菌をばら撒いた


      4-17-8.jpg

          Photo by iStock 画像はイメージです 4-17-8

 コレラ以外に、浙江省ではペストも蔓延して居た。ペストはペスト菌によって発症する感染症で、主に保菌主である齧歯類(げっしるい)動物(どうぶつ)の血を吸った蚤によって伝播する。人がペストを発症すると、リンパ節の腫脹・発熱・頭痛・悪寒・倦怠感等全身性の症状が起こる。
 酷い場合は、敗血症や重篤な肺炎を引き起こす(「ペストとは」「NIID 国立感染症研究所」)浙江省では、浙贛作戦が始まる以前の1941年12月に、顧第三戦区司令長官の命を受けて、浙江省政府が各県にペスト拡大防止の対策を緊急に講じるよう通達を発して居た。(浙江省衛生処代電 衛三方字四二九号『中国側史料 中国侵略と七三一部隊の細菌戦』)

 何故、浙江省ではこの時伝染病が流行して居たのか。1941年3月5日、国民政府行政院衛生署は浙江省衛生処長に電文を送り「本署は数回に渉って、敵機が浙江省に襲来し顆粒状物体を散布し、その物体を検査に出しました処ペスト桿菌であったと云う事に関しての報告を受けとりました」(衛生署快郵代電 衛字三〇三〇七号、同右) と、日本軍機によって、ペスト菌が上空から浙江省にバラ撒かれた事を報告している。

 七三一部隊と細菌戦の関係に付いては、経済学者の松村高夫の研究(「731部隊と細菌戦」『三田学会雑誌』第91巻第2号)に詳しい。それによると、1940年、哈爾(ハルピン)郊外の平房(現哈爾濱市平房区)に細菌培養と製造の為の施設が完成。その施設では、各課に分かれて、チフス・コレラ・赤痢・ペスト・結核・炭疽・天然痘など細菌の研究が行われた。
 
 この時、日本軍は中国軍との激しい戦いで、兵器の消耗が深刻化して居り、比較的安価に生産出来、かつ、投下しても容易に隠蔽出来る細菌兵器に着目して居た。そして、中国本土で細菌戦を実施する時の実行部隊として、支那派遣軍に所属する北京の北支那方面軍・南京の中支那派遣軍・広州の南支那方面軍に夫々防疫給水部が設立される。

 ペスト菌弾の恐ろしい「威力」


     4-17-9.jpg

    中国ハルビン市に残る、731部隊が使っていた施設[Photo by gettyimages]4-17-9

 七三一部隊が最も実戦に有効であると見做(みな)した細菌兵器がペスト菌弾である。当時世界の生物学界では、ペスト菌を空中から投下しても地上に届く前に死滅してしまう事が常識とされて居た。しかし七三一部隊はこの常識を打ち破り、ペスト菌に感染させた蚤を穀物に混ぜて飛行機から投下する事で、ペスト菌を地上にばら撒くと云う方法を考案したのだ。

 何故、蚤と穀物を混ぜたのか。それは、ペスト菌を保有した蚤が、地上に落ちた穀物を食べに群がったネズミに寄生し、更に、そのネズミを媒介に蚤が人間に伝わり、ペスト菌に感染させるからだ。(『日本陸軍のアジア空襲』) 細菌製造能力は、1ヶ月の間に最大 ペスト菌300キログラム・チフス菌800〜900キログラム・炭疽菌500〜700キログラム・コレラ菌1トンであった。  

 七三一部隊は、1939年5月に満蒙国境で起きたノモンハン事件で、事件発生現場付近の川に腸チフス菌を投入する事に成功すると、1940年以降、中国本土で本格的に細菌戦を実行したのだ。
 細菌がバラ撒かれた場所の中には、浙贛作戦の主戦場であった浙江省も含まれた。尚、1907年10月、第2回万国平和会議で改正成立した「陸戦の法規慣例に関する条約」通称ハーグ陸戦条約では、毒又は毒を施した兵器・不必要な苦痛を与える兵器や投射物・その他物質の使用を禁じている。  

 又、1925年に成立したジュネーヴ議定書では、窒息性ガスと毒性ガス・並びにこれに類する細菌学的手段の戦争での使用を禁止して居た。日本は前者を署名・批准(後者は署名のみ)して居り、これに照らした場合、戦場への細菌散布は条約違反でありかつ戦争犯罪でもあった。  
 
 細菌がバラ撒かれた戦場はどう為ったのか。日本軍の戦争犯罪について数多く研究した森正孝(「七三一部隊と細菌戦」『日本軍の細菌戦・毒ガス戦』所収) によると、1940年8月5日、哈爾濱から派遣された細菌戦専門の奈良部隊(部隊名は七三一部隊の飯田奈良一庶務課主任の名前が由来)が、中支那派遣軍の防疫給水部・通称栄一六四四部隊と合流し翌6日杭州へ到着した。
 そして、攻撃目標を浙江省の寧波・衢州・金華・玉山・温州・台州・麗水とし、10月7日迄に計6回の細菌戦を行ったと云う。この攻撃で使用された細菌は、コレラ・チフス・ペストで、特にペストは衢州で翌1941年迄流行し、274人の死者を出している。

 この他、寧波や金華・義烏等でもペストの感染が広がった。即ち、浙贛作戦で日本軍を苦しめた細菌は、ソモソモ日本軍が撒いたものであり、予防接種を受け無ければ戦場で細菌に感染する恐れがあると云う「日本兵のこの“苦しみ”は自業自得であった」(同上)  

 大本営は、自らが広めた細菌で作戦部隊に被害が及んだ事を憂慮し、これ迄の細菌戦の方法を見直す事を決める。そして、議論の結果、作戦部隊が占領地から退く時に、無住地帯と為った場所に細菌を散布し、そこに戻って来た現地住民や中国兵に感染させる作戦に変更した。

 広中 一成 近現代史研究者



 〜管理人のひとこと〜

 戦争とは、普通に人間を狂気にさせる。それは「我が国の為、戦争に勝利する為」との美名のもとに、全ての行為が正しい事として認められてしまうからだ。ナチスのユダヤ人虐殺にしても、偉大なドイツ民族に汚れたユダヤの血を混ぜては為らない、世界に蔓延する共産思想を培養するユダヤ民族を抹殺しなければ為らない・・・と、真剣に考えたからに他ならない・・・全てが己の正義の為なのだ。
 国家主義・全体主義・絶対主義・・・と色々な云われ方をするが、全ては我が民族・我が国家・自分自身と周りの全ての為の利益を最優先し、それに反する全てを攻撃し反発されると暴力を加える・・・それが、戦争の正義なのだ。幾ら多くの人間を殺傷したか・・・それが最大に評価される・・・前アメリカ大統領トランプ氏の行動と全く同じだろう。
 全ての戦争は、我が国・我が民族を守る・自衛の考えから出発する。初めから他国を侵略する考えを以て戦争を始める国は皆無だ。前提として敵国が存在し、彼らが何やら怪しげな言動を発することで「自衛」の基に直接的暴力が開始されるのだ。
 この問題に飽きては為らない、何度も何度もシツコイ位に反復し思い返しては考えることを習慣としなければ直ぐに第二第三のトランプ氏が登場し国民から大喝采で迎えられてしまうのだ。細菌部隊・731部隊の話も忘れた頃に思い出さなければ為らない。

                   以上














 
 

食い違う歴戦搭乗員2人の証言から見えて來る 日本海軍「失敗の本質」




 食い違う歴戦 搭乗員2人の証言から見えて來る 日本海軍「失敗の本質」

 現代ビジネス 5/9(日) 11:31配信



          5-9-3.jpg

              写真 現代ビジネス 5-9-3

 今から79年前の昭和17(1942)年5月7日から8日に掛けて、世界史上初と為る空母対空母の戦いが繰り広げられた。連合軍の拠点・東部ニューギニアのポートモレスビーを攻略しようとした日本海軍と、それを阻止せんとする米海軍機動部隊が激突。
 「珊瑚海・さんごかい海戦」と名付けられたこの戦いで、日本側は米空母「レキシントン」を撃沈したが、小型空母「祥鳳」を失い、肝心のポートモレスビー攻略作戦は断念を余儀無くされた。  

 筆者は、この海戦に参加した空母「翔鶴」の零戦搭乗員・佐々木原正夫二飛曹(のち少尉)と小町定三飛曹(のち飛曹長)に生前、インタビューを重ねたが、同じ空母で同じ戦いに参加した二人の回想がどうしても一致しない場面があるのが気に為った。それは「零戦で無線が使えたか、否か」と云う事である。

 無線機は搭載されていたが・・・


            5-9-4.jpg

                写真 現代ビジネス 5-9-4

 太平洋戦争当時、日本軍の飛行機上での無線の使い方は連合軍に比べて遅れて居た。一般に、音声での無線通信を「電話」モールス信号での通信を「電信」と呼ぶが、欧米の空戦映画で屡々(しばしば)目にする「〇〇方向に敵機!」と云う様な空戦中、味方機に危険を知らせたりカバーする形での戦闘機同士の無線電話は最後迄使われ無かった。  
 だが、基地や空母と戦闘機・偵察機から戦闘機・・・と云う通信は電信・電話を問わず、昭和15(1940)年、零戦が実戦に投入される遥か以前から行われていた。  

 零戦に搭載された九六式空一号無線電話機の単体での性能は、欧米の無線機と比べて遜色無かったと云うし、ソモソモ空母に搭載された零戦には、クルシーと呼ばれる無線帰投装置が装備されて居た。
 母艦から出す電波を操縦席後方のループアンテナでキャッチして、その角度を計器板の航路計に示す・・・航路計の針が真上に來る様に飛び続ければ母艦に還れると云う優れた無線装置である。  

 それなのに何故、太平洋戦争中零戦を駆って戦った当事者間で、無線が「使えた」「使え無かった」と回想が分かれるのか。それを突き詰めると海軍の教育制度の欠陥に行き着くのだが、本論に入る前に、先ずは珊瑚海海戦の概要を振り返ってみよう。

 母艦を飛び立てば、もう連絡はとれ無い



        5-9-5.jpg

   第五航空戦隊の空母「翔鶴・しょうかく」(上)と「瑞鶴・ずいかく」(下) 5-9-5

 昭和16(1941)年12月8日、ハワイ・真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を壊滅させた日本海軍機動部隊は、更に南太平洋の要衝・ラバウルやオーストラリアのダーウィン、更にインド洋に進出してセイロン島(現スリランカ)の英海軍拠点を攻撃する等・・・開戦から数ヵ月の間は、向かう処敵無しの快進撃を続けていた。  
 処が、昭和17(1942)年4月18日、密かに日本本土に接近していた米空母「ホーネット」を発艦した16機のノースアメリカンB-25爆撃機による本土空襲を許してしまったのを一つの切っ掛けとして、その勢いに翳りが見え始める。  

 日本海軍は、日本本土とハワイの中間に位置するミッドウェー島を攻略する作戦を決め、それに先立って、陸軍と協力する形で東部ニューギニアの要衝・ポートモレスビーを攻略することを決めた。  
 ポートモレスビーを占領する事が出来れば、アメリカとオーストラリアとの輸送路を遮断出来、連合軍がオーストラリアを足掛かりに南から反攻して來るのを封じる事が出来る。逆の立場で言えば、それだけに、連合軍に取っては何としても死守し無ければ為ら無い場所であった。  

 日本海軍は、ポートモレスビー攻略作戦を支援する為、第五航空戦隊(五航戦)の空母「翔鶴・しょうかく」「瑞鶴・ずいかく」を主力とする機動部隊をオーストラリア北東の珊瑚海に派遣。米海軍は、日本側の上陸作戦を阻止しようと、空母「レキシントン」「ヨークタウン」を主力とする機動部隊を差し向けた。  
 5月7日、上陸船団護衛の為ポートモレスビーを目指していた小型空母「祥鳳」が、米空母艦上機の集中攻撃を受けて沈没、此処に日米機動部隊の戦いの火蓋が切られた。

 この日「翔鶴・しょうかく」「瑞鶴・ずいかく」を発進した合計78機の第一次攻撃隊は、米給油艦「ネオショー」と駆逐艦「シムス」を撃沈したが敵空母を発見出来なかった。更に第二次攻撃隊として30機を発進させるも、攻撃隊は敵戦闘機グラマンF4Fの襲撃を受け、更に日没で攻撃を断念。
 爆弾・魚雷を投棄した処で、眼下に見えた空母が着艦誘導灯を灯したので「翔鶴」の九九艦爆3機が着艦しようとした処、飛行甲板の右側に、日本の空母とは明らかに異なる巨大な艦橋と煙突が見えた。

 この空母は、探し求めていた米空母「ヨークタウン」だったのだ。敵も味方も、この瞬間迄誤認に気が付いて居なかった。日本の搭乗員が慌てて着艦を取り辞め、航空灯を消灯して上昇すると同時に、漸く気付いた敵艦からも対空砲火を撃ち挙げて来た。詰りこの時、日米機動部隊は直ぐ近くに居ながら、互いの存在に気付いていなかったのだ。

 佐々木原二飛曹の日記には、この時米空母に着艦しそうに為った艦上爆撃機の搭乗員が、先に爆弾を投棄した事を悔しがって居た様子が書かれて居る。本格的な戦闘に為ったのは、翌5月8日の事だった。  
 この日、小町三飛曹は、夜明けと共に母艦上空直衛の為発艦した。1時間も経った頃、敵艦隊発見の報を受けて攻撃隊が続々と発艦するのが見えた。見事な大編隊である。小町は、高度3000メートルの上空で、小さく為って行く攻撃隊を見送りながら、聞こえる筈も無いのに大きな声で「がんばれよ!」 と声を掛けた。  

 上空直衛は緊張の連続であった。と云うのも小町によれば、当時の零戦では無線電話(音声)は雑音が多く殆ど通じ無かったので、一旦飛び上がってしまえば母艦と全く連絡が取れず、自分の眼だけが頼りであったからである。
 
 「今時、タクシーでも無線で客の居る処へ急行出来るのに、我々にはそれが無かった。世界一の戦艦『大和』『武蔵』『零戦』を作る力のある日本で、どうして新兵器でも何でも無い無線電話が使い物に為ら無かったのか、今でも無性に腹が立ちます。
 電話さえあれば、もっと有効な使い方が出来たのに。 母艦には、司令官も参謀も艦長も皆居るのに、上空を飛んでる戦闘機の指揮も出来無いんですから。敵機の進入方向さえ判れば、何十浬(カイリ)か手前で捕捉する事も出来るんですが、飛んでしまえばそのママ音信不通。
 搭乗員は無言のママ飛び続け、母艦はダンマリのママ戦闘の結果を待って居るのみで、こんな戦争があるかと思いましたよ」
 

 程無く、母艦の前方数浬先を航行中の駆逐艦より、敵機来襲を知らせる黒煙が上がり、発砲が始まるのが見えた。  

 「敵機の大編隊を発見し、そこへ突っ込んで行って一撃を掛けた時には、既に敵機は母艦の直ぐ近くに迄来ていました。二撃目にはもう真上。グラマンF4F戦闘機は艦爆を守ろうと挑んで來るし、しかも、下方からは味方の艦隊が、飛んでる飛行機は全部敵だと思って対空砲火をバンバン撃って來る。  
 兎に角敵機を1機も近づけてはいけない、そう思って必死の思いで戦い続けました。こっちは10数機で、敵の大編隊(84機)を相手にするんだから、皆必死でしたよ」
 

 小町機も可成りの敵弾を受けて居た。戦闘が一段落してフト下を見ると「翔鶴」が敵弾を受け飛行甲板から煙がモウモウと上がって居た。  

 「悔しくて涙が出ました。それで、無傷だった『瑞鶴』に着艦したら、私の機の被弾がアンマリ多いので使用不能と判断されて『その飛行機レッコー(投棄すること)』と声が聞こえたと思った途端、大勢の手でアッと云う間に海中に投棄されてしまいました。
 真珠湾以来、ズッと大切に乗って来た零戦なのに、ショックでしたよ。『瑞鶴』の搭乗員室も、戦死者が多くて皆ションボリしていました」
 

 ・・・小町三飛曹の回想だけ見れば、無線が使え無くて大変だったのだろうと誰もが思う。だが、同じ「翔鶴」佐々木原二飛曹「無線は使えた」と回想して居る。

 無線で「敵艦発見」の報告を受けた


     5-9-6.jpg

 空母「翔鶴」零戦隊の一員として珊瑚海海戦に参加した佐々木原正夫二飛曹(右写真撮影 神立尚紀)5-9-6

 「5月7日は敵空母を取り逃がしたので、翌8日は早暁に攻撃隊を出す事に為った。私も第一次攻撃隊の制空隊として出撃することが決まりました。私は此処迄実戦の機会に恵まれ無かったから、今度こそ遣れると欣喜雀躍でしたね」  

 佐々木原によると、攻撃隊の九九式艦上爆撃機九七式艦上攻撃機を護衛して飛ぶ途中、敵艦隊に触接を続ける味方索敵機から、無線電信(モールス信号)で逐一敵情報告が入って居たと云う。
 
 〈敵二〇〇度方位、二三五浬(435キロ) 味方艦攻触接戦艦一・母艦二・重巡二・軽巡・駆逐艦合して九隻。その報告整然として見事なり〉
 
 と、佐々木原は日記に記している。敵艦隊に向かう途中、索敵機(さくてきき)が戻って來るのが見えた。索敵機は帰りの燃料ギリギリ迄敵艦隊に触接を続け、12通もの適切な報告を打電した後、帰途に就く処だった。「ご苦労さま、ありがとう」と、佐々木原は心の中で感謝した。処が、母艦に帰ると思われた索敵機は、スレ違いざまにバンク(機体を左右に傾ける)を振って反転すると、攻撃隊の先頭に立った。万が一にも敵を取り逃がす事の無い様、帰投出来無く為るのを承知で、身を捨てて誘導を始めたのだ。  

 午前9時、攻撃隊は敵機動部隊を水平線上に発見した。空母2隻を中心に、護衛艦艇が周囲を取り囲むように航行するのが望見される。敵空母は「レキシントン」「ヨークタウン」の2隻だった。  
 9時22分、先頭を飛ぶ飛行隊長・高橋赫一少佐が搭乗する九九艦爆より信号弾が発射される「突撃セヨ」の合図である。
 艦爆隊と艦攻隊は敵空母に対し同時に攻撃を開始。制空隊は、邀撃(ようげき)して來るグラマンF4Fから攻撃隊を守る為空戦を挑んだ。  

 「敵空母からは、次々と戦闘機が発艦するのが見えた。予(あらかじ)め邀撃(ようげき)態勢(たいせい)を整えて居たと云うより、慌てて飛び上がって來る感じでしたね。こちらの高度は3,500メートル。上昇して來る約40機の敵戦闘機に対し零戦9機で優位(高度が高い)から突入しました。
 私は側方から急上昇して來るグラマンに機首を向け、正面から反航して、相手が私の機を避けようと急反転した処へ機銃弾を叩き込んだ。するとソイツは火を噴いて墜ちて行きました。続いて、味方機に撃たれて白煙を噴きながら上昇して來るグラマンを狙い、距離500メートルから撃ってこれも撃墜。
 その時、機首の7.7ミリ機銃が発射出来無く為ったので、一旦高度を取って空戦場を離脱し、上昇しながら操縦席の両前にある装填レバーをガチャン・ガチャンと操作して詰まった薬莢を弾き出しました。連続発射していると、銃身が焼けて薬莢(やっきょう)が詰まっちゃうんです。
 弾丸が出ることを確認して再び突入すると、味方の艦攻がグラマンに追われて居るのが見えたので、急降下して、距離200メートルから射撃、これを海面に激突させました。機銃弾が命中したら手応えを感じますよ。弾丸が敵機に食い込むのが手に取る様に見えるんですから」
 

 佐々木原が回想する様に、零戦は圧倒的多数のグラマンF4Fを相手に極めて有利な空戦を行なった。  

 「空戦しながら下を見ると、敵空母の上を味方の艦攻がスーッと飛び抜ける。ア、魚雷を発射したなと思う間も無く、命中すると高さ何10メートルもあろうかと云う巨大な水柱が上がる。日露戦争の、日本海海戦の絵を見て居る様でした」  

 攻撃を終え、母艦に帰投する途中、佐々木原は更に1機の米雷撃機を発見、これを撃墜している。  

 「初陣としては上々の戦果でした。処が、母艦に還ってみると『翔鶴』の飛行甲板が被弾してメクレ揚がっている。そこで、無傷の『瑞鶴』に着艦したんですが・・・」  

 佐々木原の日記には、着艦した「瑞鶴」飛行甲板上の情景が生々しく綴られている。

 〈甲板上に南(義美)兵曹をり、一ノ瀬兵曹戦死せりと告げらる。暫(しば)し茫然とす。聞けば我が第一次攻撃隊発艦後約三十分して敵も我を攻撃せんとして発艦せりとの報あり。直衛機は全機直衛に上がれり。  
 一ノ瀬君南一飛曹の二番機として飛行中、優位にある敵戦闘機六機の攻撃を被り、彼は瞬時に火達磨となり戦死せりと。同期生一ノ瀬君の戦死を悼む。艦攻の新野兵曹長機上戦死、両眼を「カツ」と見開いたまま血だらけで我が眼前を運ばれたり〉


 この海戦で、日本側は米大型空母「レキシントン」を撃沈「ヨークタウン」にも損傷を与え、米軍の飛行機69機を失わせたが、日本側も小型空母「祥鳳」が撃沈され「翔鶴・しょうかく」が被弾、飛行機約100機と多くの搭乗員を失った。
 戦果の上では互角の戦いだったが、この海戦の為、肝心のポートモレスビー攻略が中止に追い込まれ、作戦そのものは失敗に終わっている。これは日本に取って開戦以来初めての大きな躓きだった。  

 「トラックに寄港した時『瑞鶴・ずいかく』から『翔鶴・しょうかく』に戻ったんですが『翔鶴』は、搭乗員室の横にある高角砲に直撃弾を受けて9名がソコで戦死したらしい。搭乗員室も天井に穴が開いていて夜は星が見えました。
 そこで寝てたら時々スコールが降って、水浸しに為ると凄い屍臭が鼻を突くんですよ。これは溜らんと、ベッドを担いで整備員の部屋で寝たりしながら内地に帰りました」
 

 と、佐々木原は回想する。

 証言の矛盾は搭乗員養成制度の不備の所為


     5-9-10.jpg

 海軍屈指の名パイロットと呼ばれた羽切松雄中尉も、モールス信号は苦手としていた(右写真撮影 神立尚紀)5-9-10

 さて、先程の小町佐々木原の回想を好く見ると「無線が使えた、使え無かった」に関して、チョットした違いがあることにお気付きだろうか。
 小町は「当時の零戦では無線電話(音声)は雑音が多く、殆ど通じ無かった」と回想して居るのに対し、佐々木原は「味方索敵機から、逐一無線電信(モールス信号)で敵情報告が入っていた」と言っている。詰り、音声での無線電話は使え無かったがモールス信号の無線電信は使えたと云う事である。
 では何故、この様に回想に差が出たかと言えば、そこには日本海軍の、搭乗員養成制度の不備があった。日本海軍の搭乗員養成制度は、

  海軍兵学校出身士官をパイロットに養成する「飛行学生」
  各兵種からの内部選抜で選ばれた者に搭乗員としての訓練を施す「操縦練習生」「偵察練習生」
  そして後から出来た、全国から選ばれた少年に基礎教育を施し、その上で飛行機搭乗員として訓練する「予科練習生」(応募者の学歴により甲種・乙種があった) 
  更に大学・専門学校卒業者を予備士官に任用する「予備学生」
  愛媛・長崎乗員養成所を卒業した者を訓練して充員召集する「予備練習生」
  大学予科・高等学校在学中の者を予備海軍少尉候補生に任用する「予備生徒」

 ・・・と様々なコースが在った。だが、珊瑚海海戦当時、空母に乗っていた搭乗員は「飛行学生」「操縦練習生(操練)」「甲種飛行予科練習生(甲飛)」と「乙種飛行予科練習生(乙飛)」の出身者のみである。  
 小町操練四十九期の出身で、佐々木原甲飛四期を卒業している。この、出身コースの違いが鍵なのだ。
 
 操縦練習生は、大正の昔・海軍航空草創期からの歴史ある制度である。水兵・機関兵・主計兵等海軍のアラユル兵種の下士官兵の中から搭乗員志願者を募り、数十倍の倍率の中から粒よりの優秀な者だけを採用し操縦訓練を施した。
 だから、古参の名パイロットと呼ばれる人の多くはこの操練出身者である。だが、この制度には弱点があった。既に一人前に為って居た下士官兵の中から採用した為、イキナリ操縦訓練に入ってしまい座学の部分が弱かったのだ。航空機の無線の重要性が高まって来ても、それを基礎から教え込む様なカリキュラムは無かった。  

 それと、兵種も階級もマチマチの者の寄せ集め所帯だった為に、飛行場では同じ練習生でも宿舎に戻れば階級の下の者は上の者の洗濯から靴磨きまで遣らされ、ジックリ勉強する暇が無い。どんな兵種でも、新兵の時に手旗信号とモールス信号の初歩は教わるが、通信兵にでも為らない限りは、普段モールス信号を使う様な機会は無い。
 それをそのママにして、飛行機の操縦だけを教えるものだから「飛行機の操縦に関しては名人だが、モールス信号が取れ無い」搭乗員が、海軍航空隊の主力に為ってしまった。  

 それに対して、飛行学生出身の士官搭乗員は海軍兵学校で、甲種・乙種の飛行予科練習生は飛行練習生に進む前の課程で、誰もがモールス信号の特訓を受け、1分間に最低85字は捕れる様に訓練されて居る。この差は極めて大きかった。海軍屈指の名パイロットと言われた、操練二十八期出身の羽切松雄中尉は、筆者のインタビューに、

 「昭和15(1940)年 横須賀海軍航空隊で、基地からの無線誘導で敵機を邀撃する訓練を何度もしましたが、一緒に飛んだ乙飛二期の東山市郎空曹長は無線のモールスを瞬時に読んでパッと行動に移せるのに、僕はどうしてもそこで遅れを取ってしまう。空戦に為れば負け無い自信はあるのに、アレは悔しいと云うより情け無かった。東山さんにも好く冷やかされましたよ」  

 と回想している。また、珊瑚海海戦に続いて昭和17(1942)年6月5日、日米機動部隊が激突・・・日本が空母四隻を失い大敗したミッドウェー海戦でも、空母「蒼龍」から母艦上空直衛に飛んだ藤田恰與藏(いよぞう)大尉(のち少佐 海軍兵学校六十六期、飛行学生三十三期)は、  

 「母艦から敵機来襲の報を聞き・・・モールス信号の無線電信ですよ・・・指示された方角に向かうと、低空を飛んで來る双発のマーチンB-26を発見しました」  

 と回想する。だが、 同じ「蒼龍」から、矢張り上空直衛に飛んだ原田要一飛曹(後中尉 操練三十五期首席卒業)は、  

 「無線が使え無いから敵機が何処から来るか判ら無い。目に入る敵機を次々と攻撃するばかりでした」  

 と語っている。この辺りの弱点を海軍も自覚したのであろう。操縦練習生制度は昭和16年に廃止され、内部から選抜した者も予科練で基礎教育を施した上で飛行練習生に進ませる「丙種飛行予科練習生(丙飛)」に切り替わった。
 しかし、丙飛出身の搭乗員が第一線に出るのは概ねミッドウェー海戦以降の事である。以上の例から明らかな様に、零戦の「無線が使え無かった」と回想するのは操練出身者が多い

 「撃墜王」として知られる坂井三郎中尉(操練三十八期首席卒業)も、台南海軍航空隊でラバウルやニューギニアのラエ基地を拠点に戦っていた頃のことを、  

 「無線は使え無いから、全部手信号です。どうせ使え無いならチョットでも機体を軽くしようと無線機も降ろし、操縦席の後ろにある木製のアンテナ支柱も、空気抵抗に為るからとノコギリで切ってしまいました」  

 と筆者に語っている。

 モールス信号訓練の有無が生死を分けた


       5-9-11.jpg

 昭和18年4月にラバウル東飛行場で撮影された二〇四空の零戦 操縦席の後ろにあるべき無線のアンテナ支柱を撤去しているのがわかる 5-9-11

 実際、昭和17年から18年に掛け、南方戦線の基地航空隊では殆どの場合、搭乗員の出身コースに関らず無線は使い物に為ら無かった。台南空に続いてラバウルに投入された第二航空隊(後 第五八二海軍航空隊と改称)も、第六航空隊(後 第二〇四海軍航空隊)も、無線は使い物に為らず、無線機とアンテナ支柱を撤去した例が多々あったことは写真からも確認出来る。
 空中での飛行機間の意思疎通は手信号で、例えば燃料関係のトラブルなら自分の口を指さす。上空から真ん丸に見えるコロンバンガラ島へ不時着せよ、の場合は指で丸く輪を描いて、続いて下を指さす。ベララベラ島は、口を開けてベロを出すと云った具合である。戦闘隊形に入る場合は、大きくバンクを振ると小隊毎に散開、片方にだけバンクを振ればソチラ側に梯形陣(ていけいじん)を執れと云う意味である。

 毎日、一緒に飛んで居ればこれでも十分に意思が伝わったが、搭乗員の戦死が相次ぎ入れ替わりが激しく為るとそうも言っていられ無く為る。ガダルカナル島の敵飛行場を陸軍が占領したと云う知らせに、早速進駐させるべくラバウルから零戦隊を差し向けた事がある。
 数時間後「飛行場占領は誤り」との報告が入ったが、無線が使え無いので呼び戻すことも出来無いママ、着陸しようとした零戦が敵戦闘機の奇襲を受け壊滅すると云う悲劇も起きた。  

 基地航空隊の零戦で無線が使え無かったのは「高温多湿の環境が精密電子機器である無線機に悪影響を及ぼした」「部品供給の不足」「整備員の無線機への無理解」等、色んな説があるが、使え無いなりに手信号など現場の工夫で何とか凌いでしまったことも、寧ろマイナスに働いたのではないか。  
 一方、同じ時期でも、空母に搭載された零戦は無線を使い熟している。例えば、昭和17(1942)年10月26日、又も日米機動部隊が激突した「南太平洋海戦」「翔鶴」零戦隊佐々木原二飛曹の日記には、敵機動部隊攻撃からの帰途、単機で母艦に帰投した時のことが次のように記されている。  

 クルシーを入れてみると、味方の母艦群より連続信号を發信して來るのが受信された。然し未だ母艦は見えず、又その位置も判ら無ければ測定も出来ぬ。クルシーが破壊されてゐるのだ。  
 諦めて電話に切り換えたが感度無く、電信にダイヤルを切り換えると間も無く感度あり、総戦闘機(サクラ)及び制空隊(ツバメ)に呼び掛けてゐるのが聞こえた。シメタ!と受信に掛る。右手の操縦桿を左手に持ちレシーバーを完全に装着して、ダイヤルを調節して聞こえるのを右膝の上の記録板に書き留める。  
 『サクラサクラ我の位置、出発点よりの方位二十八度九十五浬速力三十ノツト、針路三十三度。一三三五』  次いでサクラサクラと連送して来る。直ちに母艦の位置を計算、会合点時間を計測する」


 クルシーは優れた無線帰投装置だったが、衝撃に弱く空戦によるG(重力)で故障してしまうのが難点だった。無線電話(音声)は電波の到達距離が短く、海上ではどうしてもモールス信号による無線電信に頼る事に為る。こんな時、予科練で叩き込まれたモールス信号の訓練は、生死を分ける程重要なものであった。
 南太平洋海戦で敵機動部隊攻撃に参加した零戦搭乗員のうち、空母「瑞鳳」分隊長・日高盛康大尉は、矢張り空戦の際のGが原因でクルシーが故障、母艦を探して飛ぶうちに幸運にも無線電話が通じ帰還出来たと云うし、空母「隼鷹」飛行隊長・志賀淑雄大尉は、クルシーが使えて母艦からの無線誘導で帰還出来たと回想している。「翔鶴」の佐々木原が無線電信で帰還出来たのと合わせ、無線がフルに使われた戦いだった。

 改善された時は既に時遅く


       5-9-12.jpg

    横空戦闘機隊の先任搭乗員だった大原亮治上飛曹(右写真撮影 神立尚紀) 5-9-12

 そんな、時と場所と人によって使えたり使え無かったりした戦闘機の無線事情が劇的に改善したのは、昭和19(1944)年も後半の頃だった。最前線で米軍の新型戦闘機・グラマンF6Fとの戦いで辛酸を舐め、内地に還って来た横須賀海軍航空隊(横空)の塚本祐造大尉(のち少佐)が機上無線の実用化について改めて研究・テストを重ね、無線電話の雑音の原因がエンジンプラグのスパークの火花にあることを突き止めたのだ。
 そこで機器に適切なシールドを施した処、劇的に雑音が解消され通信距離も伸びた。横空の先任搭乗員だった大原亮治上飛曹(のち飛曹長)は、  

 「塚本大尉の無線テストを、横空の無線室で皆固唾を飲んで見守りました。『ワレ名古屋上空』好く聴こえる。『ワレ大阪上空』未だ聴こえる。岡山・広島と、段々感度は下がりましたが、岩国上空まで音声が聴き取れた。電波はその日によって到達距離が変わって来ますが、横空から岩国まで約800キロ、これだけ届けば空戰には十分です。早速横空が各航空隊に無線の講習をしました」  

 大戦末期の沖縄航空戦や本土上空の空戦では、横空を初め、新鋭機「紫電改」で編成された第三四三海軍航空隊や、零戦の第二〇三海軍航空隊などが「混信を避ける為戦闘中に発信するのは一番機のみ」等と制限着きではあるものの無線電話を実戦に活用している。

 だが、時既に遅く昭和20(1945)年8月15日、日本は敗れた・・・戦後76年、通信機器の進歩は目覚ましく、今や誰もがスマートフォンを持ち、何時でも何処でもインターネットに接続したり、人と通話出来るのが当たり前の時代に為った。  
 「戦争中にこれが在れば、もっと楽に戦えただろうなあ」とは、遂先頃、スマホでリモート会議デビューを果たした97歳の元零戦搭乗員の述懐である。


          5-10-2.jpg

           神立 尚紀 カメラマン・ノンフィクション作家


















「IZ*ONE」とは一体何だったのか?  松谷 創一郎




 「IZ*ONE」とは一体何だったのか? 

  2年半で見えた 日韓アイドルの「決定的な差」


 現代ビジネス 5/8(土) 8:01配信


           5-8-5.jpg

               写真 現代ビジネス 5-8-5


 日韓混成のガールズグループ・IZ*ONEが、4月28日に活動を終了した。2018年にMnetのオーディション番組『PRODUCE 48』を経て結成されたこの12人組は、デビュー当初から大ヒットした。
 K-POPのガールズグループでは、BLACKPINKTWICEに次ぐ人気を維持して来た。惜しまれる解散は、結成時から予定されていた2年半の活動期間に達したからだ。

 IZ*ONEで特筆すべきは、AKB48グループの日本人メンバー3人が加わって居た事だ。宮脇咲良(HKT48) 矢吹奈子(同) 本田仁美(AKB48) の3人がそうだ。日本のトップグループのメンバーが、言わば“期限付きレンタル移籍”の形でK-POPグループに加わったのは極めて異例のことだ。  
 様々なプロダクションから集まった12人は、今後夫々の会社に戻って新たな活動を始めると見られる。48グループの3人も一旦帰国した。人気グループだけあって、彼女達の動向は今後の日韓の音楽状況に可成りの影響を与えると予想される。今後のK-POPとJ-POPにおいて、大きなメルクマールと為ると見られるIZ*ONEの2年半を振り返る。 

 メルクマールとは、目標を達成する迄の道のり・中間目標・ゴールなどと云った意味で使われるドイツ語です。 目標を達成するプロセスの指標のなかで、特に重要なものを指すことが多いです。2019/11/29

 IZ*ONEが誕生するまで
 
 『PRODUCE 48』が放送されていた2018年、筆者はその模様をこの『現代ビジネス』で4回に渡って逐次レポートした。IZ*ONEが誕生するまでのプロセスを入念に追っていた。

  AKBが開いたパンドラの箱『PRODUCE 48』の代償と可能性(2018年8月3日) https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56778
 『PRODUCE 48』で露呈した、日韓アイドルの決定的な違い(2018年8月17日) https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57011
 『PRODUCE 48』が保守的な日本のアイドル像を破壊する可能性(2018年8月31日) https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57301
 『PRODUCE 48』は“JK-POP”の生みの親になるかもしれない(2018年9月20日) https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57573 ----------  

 当時、日本では『PRODUCE〜』シリーズは広く知られていなかった。だが、2016年にI.O.I・2017年にWanna Oneが生まれて大ヒットした実績を踏まえれば、新シリーズから誕生するグループの成功は十分に予想出来た。
 それ以上に興味深かったのは、Mnet秋元康と組みAKB48グループのメンバー39人を参加させたことだ。それは参加者(練習生)の4割に相当し、当初から日韓混成のグローバルグループが目的とされていた。

 それ迄にも、少数の外国人が参加したり、中国へ番組パッケージを輸出してグループを創ったりはしていたが、これ以後にもここまで多くの外国勢が参加した事は無い。結果として、日韓の文化的な差異が様々に明らかに為った興味深い企画となった。  
 当時は、BTSがドーム公演を成功させ、日本出身者3人を含むTWICEが日本でも大ブレイクしてから1年程経った頃。既に定着して居たK-POPは、最大の海外マーケットで拡大期に入っていた。そこで、現地(日本)の人気アイドルグループと全面的に手を結んだ誕生したのがIZ*ONEだった。

 一時は活動がストップしたが・・・

 IZ*ONEの2年半は、決して順風満帆だった訳では無い。予期せぬ不運な出来事にふたつ見舞われたからだ。  
 ひとつが、デビューから1年が経過した2019年11月に生じた『PRODUCE〜』シリーズの投票操作問題だ。この番組のデビューメンバーは「国民プロデューサー」と呼ばれる視聴者からの投票で決められた筈だったが、実際は投票結果を番組サイドが意図的に操作して居た事が明るみに為った。

 この時IZ*ONEは難しい立場に置かれた。メンバーの幾人かが、本来は脱落していた事を意味したからだ。(後に判明するのは、意図的に脱落させられた2人の名前のみだった)
 既に活動から1年が経過し、十分な人気を得ていたIZ*ONEは、突然スティグマを負わされてしまった。タイミングも悪かった。問題の発覚は、1srアルバム『BLOOM*IZ』の発売と、ドキュメンタリー映画『EYES ON ME : THE MOVIE』公開の数日前だった。

 スティグマとは、差別・偏見と訳されるが、特定の事象や属性を持った個人や集団に対する、間違った認識や根拠のない認識のことを言う。 スティグマは、その結果として対象となる人物や集団に対する不利益や不平等、排除等のネガティブな行動の原因として社会的に問題となることが多い。

 年末年始に日韓の音楽番組やイベントを控えて、万全の体制で臨もうとしていた矢先だ。恐らく『NHK 紅白歌合戦』への出場も内定して居たと見られるが、それも実現しなかった。  
 結局、2019年11月中旬から2020年2月中旬までの3ヵ月間、IZ*ONEの活動は完全にストップした。ファンクラブの受付を止める等一時は解散に傾いたかと見られたが、結果的には活動を再開した。多くのファンから声が上がり、同時にメンバーたちに同情する向きも拡がったからだ。何も知らされずに順位操作でデビューしたメンバーたちも結局は被害者だったからだ。

 新型コロナは大きな痛手だった

 2020年2月に活動を再開したIZ*ONEだったが、その直後に生じた不運は新型コロナウイルスのパンデミックだった。日韓での活動を前提とするIZ*ONEは、コンサートを開催出来ない処か韓国から出国出来ない状態に置かれた。  
 この状況は、結局最後まで続いた。新型コロナの影響を受けたのはIZ*ONEだけでは無いが、2年半のリミットが最初から決まっていた12人に取っては矢張り大きな痛手だった。終わってみれば、2年半の活動期間のうち通常の活動を出来たのは最初の1年だけだった。

 活動期間の満了が迫る中、IZ*ONEの継続を求めるファンは多かった。クラウドファンディングのサイトでは、現在まで目標の10億ウォン(約1億円)を大きく超える約32億ウォン(3億2,000万円)が集まって居るほどだ (「IZ*ONE活動再開の為の小さな一歩、平行宇宙プロジェクト」 ) その額の大きさからもIZ*ONEの人気は窺(うかが)えるが、こうしたファンの動きが今後どのような影響を見せるかは未だ判らない。

 最大の特長と魅力


     5-8-6.jpg

            〔PHOTO〕gettyimages 5-8-6

 不運に見舞われながらもIZ*ONEは大ヒットを続けた。それは判官贔屓的な支持が拡がった訳では無く、手堅い人気を維持するだけのパフォーマンスがあったからだ。 彼女たちの最大の特長は12人の編成にある。これはK-POPグループの中でも可成り多い部類に入る。
 人数の多さはプラスに働くばかりでは無い。ひとつの曲の中でもメンバー個々のパートが減る為、埋没する可能性もあるからだ。

 だが、IZ*ONEは大人数であることを確りとアドバンテージとした。その最大の魅力は極めて精緻に練られたダンスにある。メンバーは目まぐるしくフォーメーションを変えてダンスをハーモナイズして行く。
 これまでK-POPは、例えば少女時代が見せた様に一糸乱れずシンクロナイズしたダンス(韓国語で「カル群舞」と呼ばれる)で注目されて来た。IZ*ONEはこうした技術的な側面は勿論のこと、大人数を活かしたダンス構成が極めて秀逸だった。  

 それが判るのは、例えば「幻想童話 Secret Story of the Swan」のダンス動画だろうか。センターのヴォーカルパートは次々と入れ替わり、4人ずつ3グループで左右に分かれたり、或いは前方7人の後ろから残る5人が段階的に加わったり、12人が縦横無尽に動いてフォーメーションを変え続ける。サビ部分で全員の“カル群舞”=ユニゾンが映えるのも、それ迄の複雑な展開があるからこそだ。  

 IZ*ONEのダンス傾向は、この5年程K-POPを席巻して来たガールクラッシュ(女性が憧れる女性像)の力強さとは異なる。デビュー曲「La Vie en Rose」の時から、IZ*ONE嫋(たお)やかな腕の動きや細かい指使いを多用して優雅さを魅せて来た。
 ヒップホップやR&B、最近ではディスコファンクが目立つK-POPの中で、その上品なダンスはモダンバレエを思い起こさせる類のものだ。  

 中でも独特だったのは、MV曲では無い「Highlight」だ。ミドルテンポのこの曲は、最大の見せ場がダンスそのものだ。しかもそれは決して複雑では無い。メンバー全員が両腕を広げ、身体全体をユックリと捻(ね)じるだけ。シンプルなその動きは極めて小さくユックリとしており、それまで続いていた動の時間が急に止まる。言わば “動かないダンス” だ。  
 ダンスと言うと、一般的には前述した様な“カル群舞”や激しい動きばかりが注目されるが、曲全体で緩急をつけるこうしたアイディアは秀逸だ。

 非常に小さい動きではあるが、12人が横に並んで見せる事でこのダンスは威力を発揮する。(同じ『PRODUCE〜』シリーズの日本版からデビューしたJO1も、デビュー曲の「無限大・INFINITY」で似たアプローチをしている)
 日本発のアイドルグループでは、こうした工夫は余り見られ無い。例えばAKB48や坂道グループなど日本のアイドルは、シンプルなフォーメーションでメンバー全員が最初から最後まで※ユニゾンで踊り続けるものが多い。それはパフォーマンスにコストを掛け無いビジネスモデルの結果でもあるが、“一致団結”ばかりを目指すヨサコイソーランの悪癖にも見える。

 ※ユニゾン 音楽においてテクスチュア・音構成原理を形成する方式の一つ。同一の音高を同時に響かせることをいう。その厚みを感じさせる効果が特徴で、労働歌・国歌・寮歌ばかりでなく、歌曲や管弦楽曲でも他の多声的なテクスチュアとの対比を強調するときに用いられる。
 オクターブ関係にある音を重ねて進行すれば純粋のユニゾンではないが、オクターブ平行の意識が働かず、男女が同一旋律を斉唱するときなどはユニゾンとみなすこともできる。[山口 修]

 K-POPJ-POPは融合したのか
 
 2年半前、筆者はIZ*ONEの誕生を受けて「『PRODUCE 48』は“JK-POP”の生みの親に為るかも知れない」と記した。(連載第4回) K-POPJ-POPの境界がより取り払われ、両者の特長が融合する化学反応を予想したのである。勿論、それは希望的観測でもあった。

 閉鎖的かつ保守的な日本の音楽とアイドル状況に、IZ*ONEが大きな風穴を開ける存在に為って欲しいと云う願望を“JK-POP”と表現した。 だが、現実的にはそう為ら無かった。日韓で完全に別々のプロデュースと為ったからだ。
 これは恐らく番組開始時からの契約だったのだろう。韓国はMnetを運営するCJ ENM傘下のプロダクション、日本はAKB48グループを運営するAKSと秋元康だった。(後にAKSはAKB48の運営を分社化し、社名をヴァーナロッサムに変更)

 韓国語曲は韓国チームが、日本語曲は日本チームが創る体制は最後まで貫徹された。しかし、逆にそれはプロデュースにおける日韓の姿勢と力量の違いを鮮明にさせた。メンバーは同じ12人でも、楽曲やダンスなどに明らかな差異があったからだ。  
 結論から言ってしまえば、そこでは日本語曲の水準の低さが浮き彫りと為った。日韓で求められるアイドル像やビジネスモデルが異なるとは言え、素材が同じゆえに比較を免れる事は出来ない。ファンからは日本語曲への不満が噴出した。  

 より具体的に言えば、日本語曲はサビに為ったら全員で合唱し、ラップは(活動後期まで)ホボ無く、歌詞は日本デビュー曲の「好きと言わせたい」の様に思春期的な恋愛模様ばかり。そのコンセプトは従来のAKB48グループと大差無く、メンバー達の個性も全く活かすことが出来ていない。
 「IZ*ONEの無駄使い」と酷評するファンも少なくなかった。実際、全体の活動の30〜40%を日本語曲に費やした事を考えれば、限定的な時間を有意義に使えたとは言い難い。

 視聴・再生回数を見れば一目瞭然

            5-8-7.jpg

                写真 現代ビジネス 5-8-7

 こうした楽曲の力は、YouTubeやSpotifyの視聴/再生回数にもハッキリと表れている。CD売上が人気を測る指標として過去のものと為った現在、視聴回数をオープンにしているインターネット配信は曲の広がりを見る基準として機能する。  
 韓国語曲は、デビュー曲「La Vie en Rose」がYouTubeで約1億5000万回視聴されているのを筆頭に、昨年12月発表の「Panorama」まで全て5,000万回を超える。K-POPではMVが2,000〜3,000万回視聴されてやっとヒットとして認識され、BLACKPINKTWICEでは億を超えるのが当然の世界だ。  

 しかし日本語曲は、最高が「好きと言わせたい」の約2,600万回に留まる。他の3曲は2,000万回に達しても居ない。曲単位では「好きと言わせたい」以外はヒットと言い切れ無い水準だ。  
 Spotifyでは、YouTube以上に人気の差が出ている。日本語曲で1,000万回再生に達したものは無い。音楽だけではMVよりも訴求しないと云う事だ。  

 こうした結果を踏まえると、日韓のYouTubeチャンネル(韓国は音楽レーベル、日本はIZ*ONEのみ)等による差とは考え難い。コンテンツ(音楽)でハッキリと評価が分かれたと見る方が妥当だ。  
 これは極めて興味深い事例だ。何度も音楽(MV)を聴きたい(観たい)と思う魅力のグローバルな伝播が再生回数に反映するとすれば、日本語曲は韓国語曲の足元にも及ば無かったことを意味する。  

 結局、日韓で別々にプロデュースされたIZ*ONEは、“JK-POP”などに為ること無く二つの顔を並行させたママ終わった。3月13・14日に行われた「IZ*ONE ONLINE CONCERT [ONE, THE STORY] 」でも、過去の日本語曲はひとつも披露され無かった。
 この日の為に創られた秋元康作詞による日本語のバラード「Lesson」は歌われたが、作曲は韓国人なので恐らく韓国サイドで制作されたものだ。
 コンサートは夫々コンセプトがあるので過去の人気曲でも披露され無い事はある。だが、集大成と為る最後に日本語の代表曲が全て外されたのは象徴的な事態だった。しかも、ファンの多くはそれに不満を表さ無い処か当然の事と受け止めていた。

 同じ曲なのに“立体感”が違う?

 IZ*ONEの日韓における活動では奇妙な現象も見られた。K-POPで既に発表された曲の日本語版が創られる事は、ローカライズの為のコンテンツ運用として珍しく無い。IZ*ONEも、例えば韓国語の代表曲である「La Vie en Rose」「Violeta」等はその日本語版が創られ、2020年10月に発表された日本アルバム『Twelve』に収録されている。  
 その逆に、活動前半には日本語曲の韓国語版も二つ創られた。2019年2月に日本デビューシングル「好きと言わせたい」のカップリングとして発表された「ご機嫌サヨナラ」「猫になりたい」だ。2ヵ月後の4月、この2曲は韓国での2ndミニアルバム『HEART*IZ』に韓国語詞で収録された。  

 奇妙な現象はここで見られた。その2つは、歌詞のみが異なる同じ曲であるにも関らず、音楽の“立体感”が異なって居たからだ。中でもアップテンポの「ご機嫌サヨナラ」ではその違いが明白だった。  
  日本語版「ご機嫌サヨナラ」  
  韓国語版「GOKIGEN SAYONARA - Korean Version」  
 簡潔に言えば、韓国語版はヴォーカルと伴奏(トラック)が調和し、曲全体のメリハリが感じられるのに対し、日本語版はヴォーカルだけ浮き上がり、曲全体も平板な印象だ。この違いが前述した“立体感”であり「奇妙な現象」の正体だ。しかし、何故こうしたことが起こっているのか? 

 なぜ違いが生まれたのか?
 
 この2曲で明確に異なるのは低音部だ。韓国語版は低音が強いのに対し日本語版は控えめだ。ヴォーカルも韓国語版は伴奏に溶け込んでいるが、日本語版は一語一語がクッキリ聴こえる。これは、日本語版ヴォーカルのリヴァーブ(反響)が弱い為でもある(「猫になりたい」も概ね同様だ)。恐らくミキシングにおける違いだと考えられる。  
 詰り、楽曲そのものでは無くレコーディング後のポストプロダクションにおいて日韓で違いがある。では、なぜこうした差異が生じたのか?   

 幾つかの仮説が考えられる。ひとつが「好み」説だ。低音を中心にビートを軸とする韓国語版に対し、日本語版はヴォーカル(歌)を軸に調整されている可能性がある。カラオケ文化が韓国以上に浸透している日本では、確かにJ-POPで歌や詞が重視される傾向はある。
 音楽ジャンルでも、欧米と同じくダンスミュージックやヒップホップが中心の韓国に対し、日本では未だにロックバンドのサウンドが好まれる傾向が強い。  

 もうひとつが「能力」説だ。端的に言って、IZ*ONEの日本語曲の制作スタッフに能力的な問題がある可能性だ。ベテランのエンジニアに訊いた処、IZ*ONEの日本語曲は「音圧を稼ぎ過ぎる余り、ダイナミックレンジを狭くして立体感を失っている」と分析した。

 世界中のファンが指摘する問題
 
 その違いを生じさせた本当の原因は、日韓の当事者から証言が得られ無い以上は判らない。只、IZ*ONE前半期の日本語曲は、未だ制作に力を入れて居た気配があった。しかし、ファンの期待を裏切ったのはそれ以降の日本語曲だ。
 中でも2019年9月に発表された3rdシングル「Vampire」は、多くの不評を買った。楽曲そのものの質もあるが、前述した様なミキシングの問題がそこには見られた。この曲は、クグモったアナログ音の様なイントロから、ヴォーカルの入るAメロから通常の音圧にする趣向だ。こうした演出自体は珍しく無いが、Aメロの音の抜けが極めて悪い為にイントロ部分が上手く機能していない。

 実際、筆者がYouTubeで初めてこの曲に接した時、PCに繋いで居たスピーカーの問題だと勘違いし、接続や故障の確認をした程だった。ミキシングで完全に失敗している。
 勿論それは「Vampire」の“仕様”だった訳だが、筆者が自然体で発見してしまったこのミキシングの問題は、世界中のファンから指摘されて居る。その一部はYouTubeのMVにおけるコメント欄で確認出来るが、その殆どは英語によるものだ。

 しかもそれに対し「ヴォーカルのミキシングが失敗」「これは典型的なJ-POPのサウンド」と云ったやり取りが交わされている。「ご機嫌サヨナラ」からも窺われた制作スタッフの「能力」説は、後に発表されたこの「Vampire」からも推測できるのだった。

 「能力」問題が重大視される理由


      5-8-8.jpg

                〔PHOTO〕gettyimages 

 こうした「能力」問題が、重大視されるのもグローバル化した音楽状況があるからだ。2010年代とは、既にデジタル化していたエンタテインメント(音楽や映像)が、スマートフォンとSNSにより一層のグローバル化をした※ディケイドだ。
 経済学で言う処の情報財に相当するエンタテインメントは、デジタル化によって複製コストが限り無く下がる為に単価は安く為った。  

 ※ディケイド 英 decade デカッド 英 decadとは、英語で10個組の物や10の長さの期間を指す言葉 一般的には10年間すなわち十年紀のことを指す

 その一方で、インターネットによる流通コストも下がった為に、マーケットはグローバルに拡大した。YouTubeやSpotify・Netflix等は、その激変するメディア環境の中で飛躍的に業績を伸ばして居るサービスだ。  
K-POPを初め、韓国ドラマや韓国映画もそうした状況を見越して、トライ&エラーを繰り返しながら20年間賭けてグローバル展開を成功させた。「グローバルアイドル」を目的としたIZ*ONEも、その流れに乗ることを前提とした存在だった。  

 しかしその中では「Vampire」の一件の様に、閉鎖的なJ-POPでは顕在化し無かった事象が、YouTubeを通じて世界の人々から問題化される様に為ってしまう。しかもそれは、IZ*ONEの日本プロデュースを担当して来た秋元康が、能動的にグローバルな世界に足を踏み出した結果だ。半ば自爆といって好い。  
 この問題は深追いしないが、IZ*ONEを通して見えて来たこれらの音楽的な事象は問題提起して置きたい。当事者が何気無く過ごして居るうちに、可成り深刻な事態が生じているのではないか・・・そう危惧している。  

 (後編「IZ*ONE解散・・・宮脇咲良が世界で活躍するには「韓国に戻る」しかない」はこちらは、別途アクセスください・・・管理人)


 松谷 創一郎 ジャーナリスト














2021年05月08日

TABIZINE 気持ちだけでも旅行へ・・・




 TABIZINE 気持ちだけでも旅行へ・・・


  5-8-30.png  2021/05/08 07:30


 〜管理人 コロナ禍のゴールデンウィークも既に終わってしまった。何と無く閉塞された日々とは言え、少しは楽しい思いはされたのか・・・どうせ、未消化で欲求不満の毎日だった事だろう。そこで、気持ちだけでも何処かへ旅行しよう・・・との考えで妻の故郷・島根県松江市への旅立ちをご一緒頂けたら幸いである〜 


 【島根の難読地名】十六島・三瓶・温泉津・・・幾つ読めますか?


 日本各地には、ナカナカ読め無い難しい地名が多数存在します。地域の言葉や歴史に由来しているものなど様々ですが、中には県外の人は勿論、地元の人でも判らないと云うものも。
 今回は島根県の難読地名を紹介します。あなたは幾つ読めますか? それと、島根県の所在は知ってるでしょうネ? 鳥取・島根と並ぶ日本海に面した人口過疎の県で、松江市は島根県の県庁所在地なのですが・・・


 十六島


 5-8-12.jpg

     コピーライトマーク TABIZINE 提供 (C)公益社団法人 島根県観光連盟 5-8-12


 「うっぷるい」 と読みます

 出雲市に在る日本海に面する町の名です。海苔の生産が盛んで「十六島海苔(うっぷるいのり)」と云うブランド名で知られて居ます。天然の岩海苔を手で摘み取り、乾燥させて作る為、香り高くコシのある食感が特徴。出雲地方ではお餅に十六島海苔を乗せたお雑煮が食べられています。


 三瓶



         5-8-13.jpg

        コピーライトマーク TABIZINE 提供 (C)公益社団法人 島根県観光連盟 5-8-13


 「さんべ」 と読みます

 大田市の町名で、8世紀の「出雲国風土記」にも登場する三瓶山が聳(そび)えます。三瓶山は活火山で、その噴火により河川が堰き止められ「浮布池(うきぬのいけ)」が誕生しました。
 浮布池の名前は、大蛇に恋した邇幣姫 (にべひめ)が池に飛び込み、身に付けていた布が浮き上がったという伝承にちなみます。池の中には鳥居が建てられ、対岸には邇幣姫神社が祀られています。


 温泉津



  5-8-14.jpg

         コピーライトマーク TABIZINE 提供 (C)公益社団法人 島根県観光連盟 5-8-14

 「ゆのつ」 と読みます

 日本海に面する港町で、その名の通り豊富な温泉が湧き温泉街として発展しました。石見銀山の近くに在った事からそこで働く人々の癒やしの場と為り、現在も宿屋がズラリと立ち並びます。時の流れが止まった様なレトロな街並みは一見の価値あり。全国で唯一、温泉街として街並み保存地区に指定されています。


 宍道


  5-8-15.jpg

        コピーライトマーク TABIZINE 提供 島根県松江市宍道湖 (C) Shutterstock.com 5-8-15


 「しんじ」 と読みます

 しじみの産地で知られる宍道湖。その周辺には宍道町が広がります。 元々「宍道」は、猪が出る道を意味する「穴道(ししぢ)」を意味し、それが訛(なま)って「しんじ」と為り地名として根付いたのだとか。しじみ漁は早朝に行われ、早朝に幾つもの小船が宍道湖に浮かぶのが風物詩と為っています。



 名賀


 5-8-16.jpg

         コピーライトマーク TABIZINE 提供 (C)公益社団法人 島根県観光連盟 5-8-16


 「なよし」 と読みます

 「山陰の小京都」とも呼ばれる津和野町に在る地名です。山間にある穏やかな農村地帯で、JR山口線が敷かれ、時折、蒸気機関車「SLやまぐち号」が姿を見せます。
 その美しさから「貴婦人」の愛称も持つC571号機。モウモウと煙を上げながら緑の中を駆け走る様子は、マルで絵葉書のような美しさです。


 併せて知って頂きたい読んで欲しい・・・

 【日本の美味探訪】心に残る島根県のご当地グルメ3選
  ワーケーションにもピッタリ?島根県隠岐諸島をオススメする4つの理由
 【地方の美味を自宅で】島根県のお取り寄せグルメ4選
  日本列島ユルユル古墳ハント(19)“埴輪界のアイドル”が居る島根県松江市大草町「岡田山古墳群」をピックアップします 



 〔埴輪界のアイドル〕が居る 島根県松江市大草町「岡田山古墳群」をご紹介


 5-8-30.png 2021/03/31 15:00 4-8-30


 〜「旅チャンネル」の企画で世界一周を2回経験した、古墳を愛するイラストレーター・マンガ家の水谷さるころが、これ迄訪れた日本各地の古墳の魅力を紹介します。今回は、島根県松江市大草町「岡田山古墳群」です〜


 5-8-17.jpg

     コピーライトマーク TABIZINE 提供 日本列島ゆるゆる古墳ハント19 島根県松江市大草町岡田山古墳群
          岡田山1号墳 石室の前 5-8-17



        5-8-18.jpg

  コピーライトマーク TABIZINE 提供 日本列島ゆるゆる古墳ハント19島根県松江市大草町岡田山古墳群 5-8-18

 岡田山古墳は島根県の松江に在る古墳群です。「八雲立つ風土記の丘」として公園整備されている敷地内には岡田山1号墳と岡田山2号墳があります。岡田山1号墳は全長約24mの前方後方墳です。
 出雲地方には、この「前方後方墳」という形の古墳が多く在ります。前方後方墳は全国的には古墳時代の中期〜後期には余り作られ無く為りますが、出雲地方では作られて居ました。
 この岡田山1号墳も6世紀後半に築造されており、古墳時代では後期に当たります。大正4年(1915年)に発見された岡田山1号墳は発掘調査が行われ、多くの副葬品が発見されています。


 
 5-8-19.jpg

    コピーライトマーク TABIZINE 提供 日本列島ゆるゆる古墳ハント19島根県松江市大草町岡田山古墳群
         岡田山1号墳 前方部からの墳丘 5-8-19


 大正4年に発見された円頭太刀(えんとうたち)は昭和58年(1983年)に為って保存処理を行う時に「各田卩臣」(額田部臣)の銘文が発見されました。昭和61年(1986年)にこの事実が発表されると全国的に話題に為ったそうです。
 国の重要文化財に指定されている銘文入太刀は展示学習館で見る事が出来ます。国の重要文化財に為った発掘品は東京国立博物館などに収蔵されることも多いのですが、本物が発掘された場所で見られるのは現地に行く醍醐味のひとつに為ります。


 5-8-20.jpg
 
    コピーライトマーク TABIZINE 提供 日本列島ゆるゆる古墳ハント19島根県松江市大草町岡田山古墳群
                銘文入太刀
 

 八雲立つ風土記の丘には、もう一つ岡田山2号墳が在ります。こちらは直径約44m、高さ約5.4mの円墳です。こちらは未発掘で詳細は明らかに為っていません。

 5-8-21.jpg

      コピーライトマーク TABIZINE 提供 日本列島ゆるゆる古墳ハント19島根県松江市大草町岡田山古墳群
                岡田山2号墳 5-8-21


 1号墳も2号墳も墳丘に登る事は出来ません。私は墳丘萌えの古墳好きなので、登れ無いのは残念ですが、見るだけでも十分可愛らしい素敵な古墳です。岡田山1号墳の石室の中には展示室で鍵を借りれば入れるそうです。
 しかし、我が家は墳丘派のわたしと発掘品派の息子なので、今回は石室は覗くだけにしました。古墳好きの中には「石室派」は多いのですが、入り口の狭い石室に積極的に入れ無い我々なのでした・・・

5-8-22.jpg

           〔埴輪界のアイドル〕見返りの鹿埴輪

 展示学習館には、見応えタップリの出土品が沢山あります。一番はヤッパリ「見返りの鹿埴輪」です!此方の埴輪は古墳では無くて、松江市に在る平所遺跡埴輪窯跡(へいしょいせきはにわかまあと)から出土したものです。
 埴輪の中にもスター級の埴輪はありますが、此方の見返りの鹿は〔埴輪界のアイドル〕と言っても過言では無いと思います。勿論重要文化財です。ミュージアムショップで見返りの鹿埴輪ぬいぐるみを売っているので、これはマストバイ!だと思います。我が家の古墳コーナーに鎮座しています。


  5-8-23.jpg

     コピーライトマーク TABIZINE 提供 日本列島ゆるゆる古墳ハント19島根県松江市大草町岡田山古墳群
          見返りの鹿埴輪ぬいぐるみ(自宅)5-8-23


 次回も出雲の古墳を紹介したいと思います。※古墳の大きさは現地看板を参照
 岡田山古墳群 住所 島根県松江市大草町


 松江市は好いところです・・・コロナ感染が収まりましたら一度は遊びに来てください・・・















戦国最大のナゾ「豊臣秀吉」が朝鮮出兵した真相とは?




 戦国最大のナゾ「豊臣秀吉」が朝鮮出兵した真相とは?

 名誉の為なのか 土地が欲しかったのか??


 5-8-1.jpg

       本郷 和人 東京大学史料編纂所教授  2021/03/24 16:00


     
5-6-14.jpg

         昔は太閤記・・・出世物語として人気だったが・・・


 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で、日本の戦国時代の歴史に改めて注目が集まっています。明智光秀の「本能寺の変」による信長の死後、天下を取ったのは豊臣秀吉です。秀吉は、国内のみならず朝鮮半島にも出兵しますが、一体何故出兵しようとしたのでしょうか。
 東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏が上梓した『「失敗」の日本史』を一部を抜粋・再構成し、背景事情に迫ります。これは日本史上の難問題。

 秀吉は一体何を考えて朝鮮迄出兵したのでしょうか。昔から言われて来た説として先ず挙げられるのが名誉欲。日本の全てを手に入れてしまった秀吉は、言ってしまえば「思い上がっていた」権力を手にした秀吉がそれに酔ってしまい、日本を征服した自分の力をもってすれば中国でも支配出来ると考えた。そして実際に大陸を目指す。
 元々、朝鮮を自分のものにしようと考えて居た訳ではありません、本来の目的は中国大陸です。中国を手に入れて天皇を移す・・・とそこ迄考えて居たのですね。最早妄想に近い様な構想ですが、それ位思い上がって居たと云う解釈です。

 そしてもう1つ、これも昔から好く言われる説として「土地が足り無く為って居た」と云うもの。日本全国を攻め取ってしまった結果、家来たちに配分する土地が無く為った秀吉は、家来たちの期待に応える為に新しい土地の獲得を目指したと云う説。

 家康1人ですら苦労したのに・・・

 最初の「思い上がり説」ですが、果たして人間はそこ迄思い上がれるものでしょうか。本当に秀吉は「日本を全部平定した俺なら、中国大陸も取れる」と考えて居たのか。
 しかし新刊『「失敗」の日本史』で述べた様に、結局、秀吉は家康を潰せ無かった。そもそも潰す以前に家康を家来にする事だけでも相当に苦労して居るのです。豊臣秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営がブツかった「小牧・長久手の戦い」の当時、もし総力を挙げて戦えば、秀吉は家康に勝つ事が出来ただろうと思います。しかし彼の立場も繊細なバランスの上に成り立って居た。

 秀吉にしてみれば「此処で1つ下手を打ったら、今は一応、俺に従っている連中まで牙を剥くに違い無い。為るべく早く家康と手打ちをしよう」と考えて居た筈。実際に早々と講和した秀吉が、家康を服従させる為に目を着けたのが天皇の権威でした。
 それ迄の秀吉は、元々天皇や官職に全く興味が無かった。しかし家康と講和する為に、これは使えると目を着けた訳です。すると秀吉は、朝廷の伝統を悉く破り、官職を物凄いスピードで獲得し始めます。本来、朝廷には朝廷なりの官職を与える手順がある。これは詰り日本の学校教育として、小学校の次に中学校があり、更にそこから高校・大学と云った段階が有る様なもの。

 そこで秀吉は、朝廷の記録を改ざんすると云う荒業に出ます。朝廷には、昔から「何年に誰々がどういう官職に就いた」と云う『公卿補任』と云う史料・・・詰り朝廷の職員録があります。それを秀吉は改ざんし、前歴を詐称して圧倒的な速度で太政大臣関白迄成り上がった。天皇の権威を利用して、漸く家康を屈服させる事が出来たのです。

 言い換えれば、家康足った1人を屈服させる為にそこ迄苦労した。その大変さを秀吉も好く判って居た。勿論家康以外、例えば長宗我部を倒した際も島津を討った際もそれ為りに苦労している。平定・征服と云うものが、それ程簡単では無いこと位、秀吉も判って居たと思います。
 その秀吉が、自らの名誉欲の為だけで中国に迄手を伸ばそうとするものでしょうか。アレ程慎重だった秀吉が。僕には、そこが判ら無い。豊臣秀吉の影武者が存在し、何処かで入れ替わって居たのなら未だしも納得出来るのですが。

 推測その1「世界を知らなかったのでは」

 例えばの話ですが、世界地図を未だ見て居なかったと云う事はあるでしょうか。中国を、それこそ日本の四国位に考えて居たのなら「好し、じゃあ行こうか」と云う話にも為る。しかし宣教師が持って来た地図位は見て居るでしょうし、いかに中国が広大かも幾ら何でも知って居た筈。
実際の処、秀吉は「中国は皇帝と官僚が治めている国・・・詰り基本的に貴族・長袖の連中しか居ない」と理解して居た様です。

 それも間違いでは無いのですが「詰り武力は弱い」と云う感覚で居たらしい。だとしても、中国の国土は飛んでも無く広い。征服するのは決して簡単では無いと、それは判って居たでしょう。
 だから名誉欲に駆られ、思い上がって、朝鮮・中国の迷惑も顧みずに兵を送ったと云う説明はどうだろうと思う訳です。

 推測もう1つ 家来に与える土地を獲得する為海外へ出兵したと云う説も好く耳にします。コチラは此方で、秀吉と云う人が、果たしてそこ迄家来思いだったとも思え無いのです。確かに、家来にキチンと恩賞を与え無いと、豊臣政権が安定し無いと云う事情は在ったのかも知れない。しかしそれを言うのであれば、繰り返しと為りますが、総力を挙げて家康を潰した方が、余程豊臣政権は安定したし一石二鳥ではなかったのか。
 しかも日本の武士に、言葉も通じない土地を征服して支配するノウハウはありません。海の向こうの土地を与えられても、実際にどう治めたら好いのか。甲子園初出場の高校は多くの場合、1回戦で負けてしまいますが、それは実力と言うより、常連校に比べて甲子園で戦うノウハウが蓄積されて居無い為ではないでしょうか。

 これが例えば中国の異民族、モンゴルや満州族の様な北方の異民族が中国を支配するのであれば、歴史の中で蓄積して来たノウハウを持って居ます。しかしノウハウ処か外国と戦った経験さえ無い自分達が、海の向こうの土地を征服して支配して行く。現実として秀吉がそれを構想して居たとは到底思え無いのです。

 推測その3「東シナ海貿易の権益を握ろうとしたのでは」

 結論。では秀吉は何故朝鮮出兵をしたのでしょうか? それは、東シナ海貿易の権益を握ろうとして居たのではないか。これは東北大学名誉教授の平川新先生が出された解釈なのですが、僕は此方が今の処、一番納得出来る説だと思います。
 当時は所謂大航海時代、ヨーロッパ諸国の船が東シナ海まで来て貿易を行って居た。その貿易の主導権を握りたい。そうした織田信長以来の思惑が秀吉にもあったのではないでしょうか。

 傍証的なことを言うと、秀吉は元々土地よりも経済を重視するタイプでした。例えば徳川に与えた領地は250万石、しかし豊臣は220万石しか持って居ない。その代わり秀吉は、日本全国の港や金山・銀山を持って居た。秀吉は金の重要性を判って居たのです。言ってみれば、過つて明との貿易を行った室町幕府的な感覚を持ち合わせていました。
 そう云う面から考えると、当時の南蛮貿易・ヨーロッパとの交易に秀吉は目を向けて居たのではないでしょうか。その貿易の主導権を取りたい。しかし入り口で外国との交渉を間違えてしまい、結果として出兵する事に為った。そう云う事だったのではないでしょうか。

 玄界灘を渡った日本軍は、不意を突いたので、マア当たり前と云えば当たり前かも知れませんが、半島の北迄快進撃を続けます。処がそこで明の援軍が遣って来た。マアでも、長袖の国の兵だし弱いだろう等と思っていたら、彼等は荒くれ者の異民族とのバトルを経験して来た軍隊。とても強かった。
 日本軍も簡単には勝て無く為り、勝ったり負けたりの膠着状態に陥る。加えて朝鮮の民衆達も立ち上がり、補給線が維持出来無く為って来た。そう為ると、これはもう泥沼の戦いに為る。知ら無い土地を征服するノウハウが全く無い状態で始めた戦いですから、そうした処で準備の無さが出てしまった。

 何のために戦うのか 目的がハッキリしなかった


     5-6-15.jpg 5-6-15

 九州や関東を平定するのとは訳が違う。そうした状況を考え無いまま開戦したのは秀吉の完全な失敗です。ソモソモ秀吉は「この戦争は何の為に戦うのか」と云う目的を、キチンと掲げる事が出来て居なかった。海を渡った諸将達も「一体何をすれば好いんだろう」と云う心境だった筈。
 昔の秀吉なら「これは上手く行かない、引くべきだ」と考えた時点で、早々に手を引くことが出来たと思います。しかし矢張り、秀吉も権力者として可成り思い上がって居たのか「ナンだ。俺に逆らうのか」と云った感じで引け無く為って居た。

 明と講和を結んだ時も「何か美味しい事が有るだろう」と思って居たら、明の方から言って来たのは「汝を日本国王に任命する」そんな事は当たり前だと激怒し再び出兵してしまう。最早昔の秀吉とマルで別人に為ってしまった。そう感じます。
 結局、朝鮮出兵に付いて、未だ定説は無い状況が続いて居ます。研究も行われて居るのですが、現代では繊細な政治問題も関わって來る。ナカナカ難しいのが現状です。

                     以上















なぜNHKが独走?「歴史番組」の知られざる歴史




 なぜNHKが独走?「歴史番組」の知られざる歴史

 東洋経済オンライン 5/6(木) 17:01配信



      5-6-13.jpg

         歴史番組について解説します(写真 Josiah PIXTA)5-6-13


 〜歴史を教養としてオトナのエンタメとして楽しむ「歴史番組」は、 NHKがその中心を担って来た事は間違い無い。1970年放送開始の「日本史探訪」から現在までの主な番組史を紐解いてみた〜


 NHK「日本史探訪」がレギュラー番組の最初  

 主に教養としての歴史を扱ったレギュラー番組の最初は、1970年4月放送開始のNHK「日本史探訪」とされる。(NHKアーカイブス「NHK放送史」より) 毎週22時台の30分番組で、日本史における著名な人物や出来事をテーマに、人気作家の海音寺潮五郎・司馬遼太郎・松本清張等をゲストに招き、毎回ゆかりの場所を訪ねる現地取材と共に歴史の深淵部に迫ると云うものであった。

 同番組は1976年に「新日本史探訪」と改題され、1978年2月まで放送された。取材映像と有識者の解説(スタジオトーク)を組み合わせた歴史番組の一つのひな形は、この番組から生まれたといえるだろう。  
 そして歴史学者の磯田道史氏「小学校時代に衝撃を受けた」という新たな歴史番組が1978年にスタートする。NHK「歴史への招待」である。司会の鈴木健二アナウンサーの名調子と取材映像、作り込んだスタジオセットなどにより、日本史のさまざまな出来事を詳細かつわかりやすく解説する本格歴史番組だ。

 同年4月6日の第1回放送のテーマは「安政大地震」その後「旗本八万騎」「実録鬼平犯科帳」「江戸城総攻め」と続く。そのテーマの切り口は、年表に太字で記載されて居る様な誰もが知る史実だけでは無く、言わば教科書に載ら無いサイドストーリーが数多く取り上げられており、歴史好きの人には新鮮かつ刺激的な番組に映ったことだろう。  

 1970年代は民放でも未だ時代劇が盛んに制作されて居たが、所謂チャンバラ活劇、勧善懲悪の娯楽ものがメインであり、一方でNHKは大河ドラマに代表される重厚な歴史劇も多く、その制作過程において蓄積されて行く合戦シーン等の映像アーカイブは、新しい作品や歴史番組に2次利用された。
 ・・・映画会社が予算の掛かる特撮シーン等を他の作品で流用したのと同様に、この、NHKならではの財産=アドバンテージは、現在に至るまで民放には真似出来ない領域とされている。

 1980〜1990年代は「歴史への招待」の後継番組として制作された「歴史ドキュメント」(1985年スタート)「歴史誕生」(1989年)「歴史発見」(1992年)「ライバル日本史」(1994年) そして内藤啓史アナウンサーの講談調の司会が好評だった「堂々日本史」(1996年) 「ニッポンときめき歴史館」(1999年)等、その都度新たなアイデアが加わりながら、NHKの独壇場が続いた。

 歴史番組の領域を大きく広げた「その時歴史が動いた」

 2000年代を代表する歴史番組と云えば、松平定知アナウンサーの格調高い司会振りが印象的だった「その時歴史が動いた」(2000年スタート) タイトルの如く、一つの歴史が大きく動いた決定的瞬間・ターニングポイントを具体的な日時として抽出し、そこに至る迄の主要人物の行動や心理、葛藤などを描いて行く。  
 同年3月29日の第1回放送は「日本海海戦」 第2回は「沢村栄治とベーブ・ルース世紀の対決」と取り上げるテーマは更に幅広かった。

 戦史や文化史・スポーツ史まで、歴史番組の領域を大きく広げた。それは同年にスタートした「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」と呼応するかの様に、過去の歴史番組(そしてNHK)の殻を破る様な大胆なアプローチを以て「その時〜」は2009年3月まで続いた。
 記憶に新しいのは、2000年代後半辺りから到来した「歴女」ブーム。その切っ掛けは諸説あるが、2007年のNHK大河ドラマ「風林火山」で、人気ミュージシャンのGackt(現GACKT)が演じた上杉謙信が、若い女性層の熱い注目を集めた。
 それ迄は血生臭い合戦シーン等を敬遠し勝ちだった女性層も、実は個性的なキャラクターを持った戦国武将達の魅力を発見する等してブームに火が点いた。
 
 更にはアニメやゲームでも戦国武将を扱ったものが次々と登場し、それ等を切っ掛けに戦国時代、延いては歴史そのものに興味を持ち、メディアに登場する女性が増えて行った。堀口茉純・小日向えり・美甘子等“歴ドル”と呼ばれたタレントがその代表格である。
 女性が牽引する歴史ブームの中で、主役の天璋院篤姫(宮アあおい)、脚本の田渕久美子と、女性がメインの2008年大河ドラマ「篤姫」は、平均世帯視聴率24.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)をマークして大きな話題と為った。
 
 このブームに呼応して、2007年「タモリのヒストリーX」(フジテレビ) 2008年には「日本史サスペンス劇場」(日本テレビ) 「新説!? 日本ミステリー」(テレビ東京)等、民放らしい新感覚の「歴史バラエティ」がゴールデン・プライム帯に編成されるに至った。
 正攻法な歴史番組と言っても好い内容のものから「日本ミステリー」の様に珍説・奇説を扱うものまで百花繚乱だったが、翌2009年にはホボ全てが終了

 当時、筆者が番組関係者に取材した記憶では、民放にはNHK程の歴史関連の映像アーカイブが無く、再現VTRを一から撮影する予算の確保が難しく(これは時代劇制作においても同様のことが言える)、更に毎回採り上げるテーマや人物によって視聴率にバラツキが出てしまうこともネックに為り、その後も民放地上波の歴史関連番組は短命で終わる傾向にある。

 民放BSは現在でもレギュラーで制作  

 但し、2000年に開局した民放BSでは、歴史番組はシニア層を中心に好評で、現在も各局でレギュラー或いは単発で制作されている。中でも歴史番組の制作に積極的なのがBS-TBS。今回取り上げた「にっぽん! 歴史鑑定」はその代表番組だが、前身番組である「謎解き! 江戸のススメ」(2012〜2015年)は、当時NTTドコモの1社提供番組で、少なくとも「視聴率のバラツキ」に頭を悩ませる事のない制作環境の下で、江戸期のあらゆる事象を網羅した良番組だった。  

 又、BS日テレ「片岡愛之助の解明! 歴史捜査」(2015〜2018年)も、調査取材に力を入れた骨太の作りで印象に残る。
 2009年3月に終了した「その時歴史が動いた」の後継番組として、同年4月にスタートした「歴史秘話ヒストリア」は、9年続いた前番組での蓄積を受けて、歴史の裏側に在る知られざる物語=秘話にスポットを当てた。
 
 その背景には、これ迄の歴史番組がどちらかと云うと男性層、又歴史好きの人と云ったメインターゲットを大胆にシフトし、歴史に興味が無い人も含めた幅広い層を意識した。  
 その象徴が番組の案内役を女性アナウンサー(初代渡邊あゆみ・2代目井上あさひ・3代目渡邊佐和子)にした事だろう。CG合成によるオープニング、Kalafinaによるテーマ音楽など、又新たな歴史番組の誕生を実感させた。そして同番組は今年「歴史探偵」として生まれ変わった。

 更にBSプレミアム「英雄たちの選択」も画期的な番組だ。「その時歴史が動いた」とも共通する、歴史のターニングポイントで人が何をどう決断したのか、逆に別の方法を執ったとしたらその後の歴史はどう変わったかを、実際に複数の選択肢として提示すると云うアプローチが、毎回歴史好きの胸を熱くする。  
 歴史上の人物のパーソナリティを、単なる史実からだけで無く、その内面の心理にまで分析を加えて行くと云うのは、可成り踏み込んだ手法だが、準レギュラーの脳科学者の中野信子、そして経済学者の飯田泰之、作家の高橋源一郎など毎回多彩な知識人が各人の専門領域から様々な仮説を提示しつつ「私ならこの選択肢を選ぶ」と云う落とし処は番組開始以来不動のスタイルだ。

 もう1つ記して置きたいのは、2009年4〜5月に第1シリーズ計8回が放送され、後に映画化もされた「タイムスクープハンター」だ。大枠は「歴史SFドラマ」の体裁を取っては居るが、ドキュメンタリー的な手法を用いて、名も無き人による知られざる歴史の“真実”を描いたと云う点で、歴史番組の最も先鋭的なスタイルを提示したと言え様。

 テレビの歴史番組はあくまで入り口  

 歴史を知ることは、それ自体興味深く楽しい。しかし得た知識を「今」にどれだけ生かせるかがより肝心なのだ。判り易く言えば「温故知新」 過つて「その時歴史が動いた」のディレクター「歴史秘話ヒストリア」のチーフ・プロデューサーを務めた渡辺圭氏は『調査情報』(09年・490号)で筆者にこう語っていた。

 「アカデミックな意味での歴史の学習は、本を読んだり調べたりと云う形でするべきだと思って居るんです。テレビは時間が限られて居るメディアで、毎回提供出来る事は極僅かなんです。言い換えれば、テレビの歴史番組は飽く迄入口に過ぎ無い」  

 この言葉に尽きる気もする。飽く迄入り口に過ぎ無いかも知れないが、他のあらゆるメディアよりも、テレビはこれ迄蓄積されて来た手法によって、歴史への興味を強く掻き立てられるメディアである筈だ。特に近年、頻発する災害や疫病・デリケートな世界情勢を見るにつけ、近視眼的に陥る危うさから自らを守る為にも、歴史から学ぶ姿勢がより求められている、と言っておきたい。 (文中一部敬称略)

 鈴木 健司 メディア・ライター 「GALAC」編集長


 〜管理人のひとこと〜

 歴史ものの番組は管理人も大好きで好く観る。そして見方・切り口を変えることで色々な真実を推測し予想するのが面白い。それは推理小説に通じる人類共通の娯楽の一つだ。それにしても如何してNHKは同じ様な番組を次から次と題名を変えて続けるのだろう。
 恐らく切り口・立場を変えることで新たな解釈で物事を考えられるからだろう。例えば、同じ戦争でも登場人物を軍人にしたり逆に庶民へ・敵国の人・・・と立場を変えることで見方が大きく変わる。たてよこ斜めと色々な方角からもの見るのは好い事で、ものの真実を見るにはそれが必要だ。


                  以上












 





・・・迷宮入りか?「餃子の王将」社長射殺事件




  ・・・迷宮入りか? 25口径4発の弾丸が 胸や腹に命中


 「餃子の王将」社長射殺事件を迷宮入りさせた 京都府警の失態


  文春オンライン 5/7(金) 14:16配信



 5-7-5.jpg

         「王将フードサービス」本社前(著者提供)5-7-5


 2013年12月19日午前5時45分 株式会社王将フードサービス大東隆行社長(当時72歳)は、京都市山科区の本社駐車場に車を停めた。2000年に社長と為ってから、毎朝午前5時半から6時に出社するのが日課だった。
 ゴム長靴に履き替え廻りを掃き清める。その後、周囲の道路に水を撒く。京都・四条大宮の1号店からスタートした「餃子の王将」は、関西を中心に737店舗(2020年3月31日現在)を全国展開する巨大飲食チェーンである。
 大企業のトップが、冬場なら未だ暗いうちに出社し、率先して汚れ仕事を行う美談は格好のネタだ。実際、マスコミでも何度か取り上げられ、近隣住民にも社長の早起き・掃除は好く知られて居たと云う。

 「誰よりも早く一番乗りが大切。仕事は朝が勝負ちゃうのん? 意欲と勢いと活気で遣るもんや」 『週刊ポスト』2013年12月13日号より引用   
 
 急所に命中していた4発の銃弾
 
 この朝も、何時ものマメマメしい姿が見られる筈だった。が、車から降り立った直後、至近距離から25口径の小型拳銃が発射され4発の弾丸が急所の胸や腹に命中した。脅しとは考え難い、殺す積りとしか思えない。
午前7時、社員が昏倒する社長を発見したが、病院に運ばれ死亡が確認された。遺留品は4個の薬莢だけで、鞄や財布などは一切荒らされていなかった。車内に百数十万円以上有った現金も手付かずのままだ。  

 凶行の現場と為った山科区は、観光客でゴッタ返す京都市中心部とは違い、ひとつ山を越えた極普通の住宅街である。とは云え、JR京都駅から東海道本線に乗車すると僅か5分で山科駅に到着する程近い。激坂の為自転車での行き来はシンドイが、原付バイクが有れば、市内中心部から容易に移動出来る。
 通りに人が居ない早朝、アクセスが簡単な現場、決まった時間に出社して來る社長・・・計画そのものは簡単だし逃走もし易い。  

 新聞報道によれば、京都府警はこれ迄延べ22万人を超える捜査員を投入し、現在も50人以上で捜査態勢を敷いて居ると云う。しかし、実行犯に繋がる決め手は残念ながら見付かっていない。殺人事件は発生直後の捜査が明暗を分ける。最早新情報は殆ど無いだろう。迷宮入りに為っても可笑しくは無い。

 風化しない「王将社長殺害事件」
 
 それでも王将社長射殺事件は未だ増しだ。クリスマス前に為ると、決まって地域住民の話題に為るからである。JR山科駅を出ると、直ぐ左側に「餃子の王将・山科駅前店」が在る。事件が発生した12月に為ると、遺族や王将フードサービス社員・捜査関係者らが店舗周辺に立ち、通行人に情報提供を求めるチラシやティッシュ等を配るのだ。こうした光景はクリスマス直前の風物詩の様に市民に記憶されて居る。

 「コマイ事件は在っても、この辺りで殺人事件何て殆ど無いからね。冬に為ると日野小学校の小学生が殺された事件(通称・てるくはのる殺人事件 容疑者は自殺 捜査本部は山科署)と一緒に、この辺りの人間の話題に為るんですわ。
 殺された(大東)社長は、物凄く評判好かった。只あそこ迄会社を大きくしましたから、何の商売でも何処かで誰かの恨みを買うやろう・・・これは絶対に何か有るデって話には為りますね。単なる噂でも、風化するよりエエでしょう」(山科駅前の商店主)
 

 事件現場と為った王将フードサービス本社でも、12月には毎年献花が行われて居た。事件から7年経った昨年末は、コロナ禍の為中止された。

 暴力団関係者の関与は濃厚 現場近くに工藤會組員のDNA
 
 捜査では北九州市に本部を置く工藤會の名前が挙がって居る。現場から約1キロの場所で発見された煙草の吸い殻から採取されたDNAが、工藤會組員のそれと一致した為だ。鮮やかな犯行の手口からみても、暴力団関係者の関与は濃厚だった。
 現実には映画の様な殺し屋など存在しない。それでも暴力団員は、サラリーマンよりずっと暴力に慣れ親しんでいる。京都府警も可成りの暴力団関係者に接触している。

 「警察・・・府内のヤヤコシイ奴の殆どに『何か情報知らんか?』と訊いとるね。或る程度の概要は教えて呉れるから、ヤクザは皆それ為りの情報を持っとるよ。ソリャア刑事が取引材料にして來る情報など、大した価値のあるものじゃ無い。
 それでも府警の様子観てたら遮二無二為っとるのは分かるわ。何しろ死体が上がってる事件で被害者は有名人・・・マスコミは今も興味を持ってる。このママでは引き下がれ無い・・・んやろうけど、威信に賭けて捜査して居る割には、ビッグニュースを聞かへんな」(京都の指定暴力団幹部)


 手袋にヘルメット姿でも 不審に思われ無いバイクは常套手段
 
 事件当日の防犯カメラには、不審な男がバイクに乗って立ち去る映像が残されていた。現場はカメラの死角の為、殺害の瞬間は映っていなかったが、直後、現場を離れる車の姿もあった。
 物証や目撃証言が乏しい中、事件の翌年4月には現場から約2キロのアパート駐車場に放置されている小型バイクが発見され、拳銃を発射した際に付着する硝煙反応も確認出来ている。近くには凶行の2ヶ月前に盗難された原付バイクも在って、ナンバーは別のものと替えられて居た。  

 一向に捜査が進展し無い為、外国人による犯行と云う見方も出たが、暴力団員らは「外国マフィアの犯行は先走り過ぎ」と懐疑的である。京都市内に拠点を持つ山口組系幹部も、外国人ヒットマン説は考え難いと話す。

 「外国人を使って殺すなんて怖くて出来ない。それに金で雇った半端者は、所詮その程度の繋がりしか無いから、逮捕されれば全てを謳う(※白状する)そんな危ない橋を渡るとは思え無い。襲撃にバイクを使うのは襲撃の基礎中の基礎。
 手袋をして顔の見え無いヘルメットを被って、ウロウロしてても誰も不審に思わ無い。恐らく現場近くに拠点が在って、そこを根城にしていたんじゃないか。当日は動かず一晩テレビを観て過ごし、ユックリ寝てそれから逃走した筈」


 自らが関与した抗争事件の経験から、そう推測して居ると云う。相応の説得力はある。

 福岡県警と京都府警の不仲
 
 2016年春 京都府警は、中古車ディーラーに並んでいた軽自動車が、バイクの盗難に使用された車両だと突き止めている。
 事件当時の持ち主は容疑の掛かった組員と同世代であり出身も又同じだった。その上この軽自動車が九州を走って居た事実も判明している。状況証拠はそれ為りに揃っている。京都府警は此処から実行犯に辿り着こうと必死の捜査をしている。
 では、なぜ犯人が逮捕され無いのか? 京都在住の暴力団幹部は、京都府警が失態を犯し捜査停滞の理由に為っていると話す。

 「捜査一課の人間が証拠を紛失したらしいですワ、左遷されたと聞いてます。それ為りの立場の人間です。それを聞いた福岡県警が『コンナにも適当な京都府警とは、一緒に捜査など出来ない』と激怒し連携が出来ないらしい。
 工藤會のI組のTが実行犯ちゃうか・・・と云う名前まで俺等の処に伝わって来てるんやけど、福岡県警の協力が無い限りドナイも為らんでしょ。無くした証拠・・・暫くしてから出て来たんやと。でもヒビ割れた信頼関係は修復出来ん。
 『京都府警はタルイ、ヤクザの取り締まりもダラシナイ。強硬な取り締まりで有名な大阪府警に一遍研修行ったらエエ』何てイヤミも聞こえて來る。そんだけ警察は縄張り意識が強いんですわ。ヤクザ顔負けのメンツが邪魔し仲良う出来んのやろうね」
   

 何処まで信じて好いのか分から無いが、当の幹部は「これ迄何度も情報交換して来た。間違い無い」と自信タップリだった。

 不透明な取引のうち170億が未回収
 
 2016年3月29日 暴力団との関係を聞き込み調査した第三者委員会は93ページの調査報告書を発表した。反社会的勢力との関係は無かったとされたがマスコミは沸いた。九州出身の「A氏」と王将の間に、合計260億円もの不透明な取引があり、そのうち170億が未回収と記されて居たからだ。  
 A氏は被害者の義兄である創業者と昵懇で、その次男とも数々の取引をして居た。マスコミが書き立てた事もあって、A氏は週刊誌の取材に実名で答え、暴力団相手のトラブルが起きた際、仲裁に入ったとも語られている。

 が、以降、捜査は進展していない。事件から5年後の2018年12月、発生当時の様子を調べようと考え、私も殺害現場を訪問した。
 社長が射殺された駐車場にフェンスやゲートは新設されて居らず、只立ち入り禁止の看板だけがあった。本社の目の前に在る住宅を皮切りに、手当たり次第呼び鈴を押した。京都の風土なのか、マスコミに辟易して居るのか分からぬが、誰もが冷淡で取材拒否だった。

 「とにかく犯人が捕まって欲しい」
 
 1時間後、とある家の女性が漸く口を開いて呉れた。

 「大騒ぎやったですよ。小学校は私達が付き添って集団下校、警察のパトカーやマスコミがウロウロしてて、皆ビクビクしてました。兎に角犯人が捕まって欲しいです。どうなんですか? 犯人は見付かりそうなんですか?」  

 その際、連絡先を教えて貰ったので、今回、記事を書くに当たり、再度、電話取材を行った。頻繁(ひんぱん)にでは無いにせよ、矢張り年末に為ると話題に為ると云う。通常、見ず知らずの人間が殺されても、世間は直ぐ忘れてしまう。
 これだけ関心を持たれる殺人事件は余り無い。それだけ「餃子の王将」が、市民に親しまれて居るのだろう。解決の糸口はキッと見付かる。遺族の無念を晴らして欲しい。

 鈴木 智彦


 〜管理人のひとこと〜

 最近この事件のことがマスコミには出てこない様だ。実際に捜査は継続されているのだろうが、京都府警と福岡県警は本当にご苦労さん。実に3年が経過しているのだが、派手な事件の割には結果が余りにも少ない様だ。余程のプロの仕業の様である。
 被害者と全く無関係な第三者が犯行を請け負い、そして全く無関係な者が実際に犯行を実行・・・そして又無関係な第三者が逃走を援助する。全く無関係な者達が有効的に配置され、互いに全く所在も顔も認識せずに一つの犯行の流れを作り出す・・・全てが無関係な第三者なので、何処から漏れるか分からない危険性も高いが、調べる側からは何処から手を着けるかが困難だ。
 この様な新しい犯罪シンジケートを一回限り作り出し、成功するとすぐに解散する・・・警察の捜査が始まる頃には関与する全ての人間は一般に溶け込んでいて闇の中に潜んでしまっている。被害者が死亡して一体誰が利益を得たのか・・・それとも損得とは無関係な何かの義憤? 恨み? 宗教?・・・犯行の動機は意外に深く何か、社会的な正義からかも知れない・・・矢張り地道に調べるしか無いのだろう。


               以上



















2021年05月07日

男系男子に固執する 二つのレポートをご紹介



 男系男子に固執する 二つのレポートをご紹介


 なぜ「女系天皇」は皇室を潰すのか 

 「皇室そのものの正当性の根拠は消え・・・内側から解体されていく」との見方も


 夕刊フジ 5/6(木) 16:56配信 門田隆将氏特別寄稿



           5-6-10.jpg

                 門田隆将氏 5-6-10


 〜秋篠宮ご夫妻の長女・眞子さまのご婚約を巡る最近のメディア報道の過熱振りを見ると、改めて「日本国民の誰に取っても皇室は、敬愛すべき存在であって欲しいと願う気高きものなのだ」と気付かされる。これ迄「男系」だけで世界に類を見ない長い歴史を紡いで来た中で「女系天皇」を認めてしまえば皇室はどう為るのか。人気作家でジャーナリストの門田隆将氏が、女系天皇の危うさについて緊急寄稿・警鐘を鳴らした〜  


 4月8日、安定的な皇位継承の在り方を検討する有識者会議の第2回会合が官邸で開かれた。ここでは、ジャーナリストの櫻井よしこ氏八木秀次麗澤大教授を初め、皇室や男系継承の意味を深く理解している方々が意見を陳述したので、先ずは安堵(あんど)した。
 だが、私はそもそも「安定的な皇位継承の在り方を検討する」との会議の趣旨に首を傾(かし)げて居る。男系の正統な継承者・悠仁さまがいらっしゃるのに、何故そんな会議が必要なのか疑問だからだ。  

 悠仁さまご誕生前に議論されて居た「安定的な皇位継承」そして「女系天皇」が、親王ご誕生で消えた筈なのに、何故例和の御代(みよ)が来ても必要なのかと云う事だ。
 男系は皇統唯一のルールである。代々の天皇は父方を遡(さかのぼ)って行くと神武天皇に辿(たど)り着く。これが皇統だ。歴史上、8人10代の女性の天皇も、何れも父方に天皇、若しくは皇太子らを持つ男系天皇だ。

 詰り、父方を遡っても神武天皇に辿り着か無い「女系天皇」は1人も存在しない。この足った1つのルールによって日本は「世界最古の国」と為った。エジプトも中国も、国家の興亡が繰り返されその度に新しい独裁者が生まれた。だが、日本は違う。昔も今も日本であり、何時の間にか世界最古の国と為った。天皇は令和の今も脈々と続いて居る。
 その理由こそ男系にある。父系を辿れば神武天皇に辿り着く皇統は時の独裁者にも覆せない。
 平家や源氏、或いは足利・織田・豊臣・徳川・・・どの時代の権力者も天皇に為り代わる事は出来ず、精々娘を天皇に嫁がせ、外戚として振る舞う事しか出来なかった。これは「権威」「権力」を分離した先人の智慧(ちえ)による。

  6世紀に武烈天皇が後嗣(こうし)を残さず崩御した際、5代上の応神天皇迄遡り、越(こし)の国から5代孫の継体天皇を即位させた。  
  江戸時代には、3宮家では皇位が危ないと感じた新井白石が東山天皇の6男の直仁親王に閑院宮家を創設させた。懸念は現実と為り、白石の死後70年を経て後桃園天皇が後嗣を残さず崩御。その際、閑院宮家から光格天皇が即位し皇統が維持されたのである・・・これを、二度の男系の危機と云うらしい。

 どの国でも権力と権威は一致している。独裁者は常に両方を持って居り、国が滅ぼされれば新たな独裁者が生まれる。だが、日本は天皇の存在によって「国が変わること」は1度も無かった。  
 悠仁さまご誕生によって男系は維持される事に為った。しかし「安定的な継承」の為に女系天皇を認めようと云う不遜(ふそん)な動きが起こった・・・悠仁さま廃嫡論だ。共産党の理論的支柱・奥平康弘東大教授が雑誌『世界』の2004(平成16)年8月号に寄稿した論文にヒントがある。  

 女系天皇〈天皇制のソモソモの正当性根拠である処の『萬世一系』イデオロギーを内において浸蝕(しんしょく)する〉と記したのだ。正統性が消えた天皇はやがて滅ぶとの見解である。  
 何故女系天皇に為れば皇室は滅ぶのか。女性天皇が結婚され、生まれたお子さまが即位すれば女系天皇だ。何処の血筋の人か判らないが、何れにしても父方を遡っても神武天皇に辿り着か 。詰り正統性なき天皇である。

 萬世(ばんせい)一系の皇統が途絶すれば、皇室そのものの正当性の根拠は消え、内側から解体されて行く・・・と奥平氏は分析している。仮に国際結婚で父親が中国人なら中国系に為り、韓国人なら韓国系に為る。それが女系天皇だ。皇統と関係の無い天皇が続いた場合、やがて皇室は消え去ると云う見方だ。  
 確かに、長く天皇制打倒を掲げて来た共産党は19(令和元)年6月、志位和夫委員長が「赤旗」女系天皇容認を打ち出し立憲民主党も追随。朝日新聞や毎日新聞がこれを評価した。面子を見れば「何の為に?」と云う事が分かる。  

 男系では、母親が昭和天皇の長女・祖母は明治天皇の第9皇女と云う東久邇家には、今も男系継承者が何人も居る。皇室典範を改正し、皇族が養子を迎える事が出来る様に為れば皇統は何の心配も無いのである。  
 有識者会議の人々がどう云う国家観を持ち知識と常識を備えて居るのか。私はそのことに限りない関心を抱くのである。  

 門田隆将(かどた・りゅうしょう) 作家・ジャーナリスト 1958年 高知県生まれ 中央大学法学部卒業後 新潮社入社 元「週刊新潮」デスク 歴史、司法、事件、スポーツなど、幅広いジャンルで活躍する
『なぜ君は絶望と闘えたのか』(新潮文庫)『死の淵を見た男』(角川文庫)『疫病2020』(産経新聞出版)などベストセラー多数 『この命、義に捧ぐ』(角川文庫)で山本七平賞受賞 最新刊は『新・階級闘争論』(ワックBUNKO)





 皇位継承、男系断絶の危機乗り越えて来た過去


 産経新聞 2019.8.13 21:18
          


             5-6-11.jpg

                    5-6-11

 皇統は126代にわたり例外無く男系で維持されて来た。女性天皇は過去に10代8人存在したが、何れも男親を辿れば初代の神武天皇に行き着く男系だ。この皇位継承が危機に瀕する度に、時の為政者は遠縁でも男系の継承者を探し出すなどして来た。

 断絶危機に備えた先人
 
 皇統断絶の危機は何度か訪れたが、解消に尽力した先人たちが居た。例えば大伴金村(おおともの・かなむら)と新井白石だ。
 5世紀末から6世紀半ばの豪族だった大伴は、現在の福井県から応神天皇の5世孫を招き第26代継体天皇として即位させた。江戸時代中期の儒学者だった新井は、皇統断絶に備えて閑院宮家の創設を進言した。この宮家からは現在の皇室の方々と関係が深い第119代光格天皇が即位しており、新井の備えが功を奏した。 

 男系継承に対しては「女性差別だ」との意見もあるが、京都産業大の所功名誉教授(日本法制文化史)は「皇室の祖先神と信じ仰(あお)がれるのは女神の天照大神であり、母性・女性の尊重こそ日本の伝統だ」と否定する。

 管理人・・・女神の天照大神を尊敬し祀るのは、母性・女性の尊重こそが日本の伝統だ・・・とするなら何故女系天皇を忌避するのかの説明に為っていない。

 広まる「誤解」
 
 とは云え、前例の無い女系天皇を容認する声は少なくない。産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)の5月の合同世論調査では女系天皇への賛成が64・2%に上った。皇室に詳しい麗澤大の八木秀次教授は「皇位継承の原理原則を知らず、女王がいる英王室等と同一視して居るのだろう」と解説する。
 
 伝統を重視する人達は、戦後に連合国軍総司令部・GHQの意向で皇籍を離脱した旧11宮家の男系男子孫の復帰等による解決を求めている。その中に適任者が居るのか疑問を示す向きもあるが『誤解だらけの皇位継承の真実』などの著書がある作家の八幡和郎氏「旧宮家以外にも男系を守っている方々が少なく無い」と指摘する。
 戦前に皇室を離れた皇族や江戸時代に公家の養子と為った皇族に由来する「皇別摂家」の子孫を指して居り、八幡氏は「秋篠宮ご夫妻の長男、悠仁さまの同世代でも対象者は数十人は居るのではないか」と語る。

 世論分断の懸念
 
 只、政界でも男系継承への理解は十分に広がって居ない。立憲民主党は6月にまとめた論点整理で「偶然性に委ねる余地が余りに大きい」として女系天皇を容認すべきだと訴えた。旧皇族の復帰について「グロテスクだ」と嫌悪感を示す政府高官も居る。
 それでも八幡氏は「原則を曲げれば正統性が揺らぎ『本来の継承者に返せ』と云う運動が起きる」と話し、社会の混乱を抑える為にも男系継承を守るべきだと訴える。

 八木氏もこう指摘する『国民統合の象徴』を巡り国家が分断される事態だけは避け無ければ為ら無い。男系継承は守るべきだ。1千年後を生きる子孫から『一時代の価値観に囚われた愚かな世代が伝統を壊してしまった』と嘆かれ無い為にも」

 少なくとも戦後の為政者らは、皇位継承に関し先人並みの汗を流していないことは確かだ。

 内藤慎二 以上



 〜管理人のひとこと〜

 男系男子の原則論・・・お二人のレポートにどれだけの説得力があるだろう。先ず男系を遡れば神武天皇へ辿り着く・・・との事が大原則なのだが、神武天皇が実在の人物であり果たして天皇と呼ばれていたとする事実が在るのかどうかが甚だ疑問なのだ。
 仮に、それに似た人物が存在したのだろうが、その人が果たして天皇と呼ばれていたのか、単に何処かの王であった人で、後に天皇と仮定(古事記・日本書紀で)したに過ぎない・・・詰り、天皇位の存在と各天皇の実存が全く曖昧であるのが事実であり、或る人物の存在を断定できないのに、その人物が果たして男系・男子で在るかの疑問も成立しないのだ。
 架空・想像上の人物を実存だと設定し、何かと権威づけただけであり、それに影響されて仮定の「男系男子」を論じても何の意味も為さないのだ。恐らく「男系男子」も「一統」も疑わしい。明治のドサクサに皇統が作られ数字的にも合わないものを短時間で作り上げてしまったのが初期の明治政府なのだから、天皇陵等も同じで不確かなものを次々と指定して行ったのが歴史の真実なのだ。

                 以上



















真面目な自衛官の苦悩・・・専守防衛と云う「まやかし」



 真面目な自衛官の苦悩・・・

 専守防衛と云う「まやかし」が日本に危機をもたらす



        5-7-2.jpg

 作 織田 邦男 JBpress 2021年05月07日 06:00
 
 プロフィール 5-7-2 元・空将 1974年 防衛大学校卒業 航空自衛隊入隊 F4戦闘機パイロットなどを経て83年米国の空軍大学へ留学 90年第301飛行隊長 92年米スタンフォード大学客員研究員 99年第6航空団司令などを経て2005年空将 2006年航空支援集団司令官(イラク派遣航空部指揮官) 2009年に航空自衛隊退職 2015年東洋学園大学客員教授 2018年国家戦略研究所所長



       5-7-1.jpg

        コピーライトマーク JBpress 提供 航空自衛隊の主力戦闘機「F-15」 5-7-1

 今年の憲法記念日は、例年になく改憲論議が低調だった様に感じた。他方、新聞の世論調査では、新聞各社によって数字はマチマチであるが、共通して改憲勢力の方が護憲勢力より上回っていた。
 尖閣諸島では、中国公船によって毎日の様に我が主権が侵され、台湾海峡では緊張が高まり、国民は中国の脅威を肌で感じ取って居る。国内では、新型コロナウイルスの猖獗により、今ほど緊急事態条項の不備を実感する時は無い。にも関らず、憲法論議が盛り上がら無い。
 
 東京など主要都市で緊急事態宣言が発出中であり、集会やシンポジウム・野外行進などが制限された所為もあるだろう。何より改憲反対政党のサボタージュにより、国会の憲法審査会が機能してこ無かった事が大きい。改憲と言えば、矢張り「9条」を避けて通る訳にはいかない。 
 現在、世論調査によると、日本で最も国民に信頼される組織は自衛隊である。国民の92%が自衛隊の存在を認めている。先日、政府はワクチン接種の為の自衛隊出動を決めた。災害派遣から豚コレラ処理に至る迄「困った時の自衛隊頼り」は顕著に為り、マルで「便利屋」扱いである。

 もう9割以上の国民が自衛隊を認めて居るのだから、9条改正は不要と云う声もある。だが、今尚憲法学者の62%が自衛隊の存在を違憲と主張して居るのも事実である。学者や政党の間では合憲か違憲かと云う神学論争が今なお続いている。
 自衛隊に対する国民の好感度いかんに関らず自衛隊の存在は、政治的には解決・法的には未解決状態なのだ。自衛隊は日本の安全保障の「最後の砦」である。

 有事が現実化するかも知れない昨今の情勢にあって、未だに宙ブラリンの状態に自衛隊を放置し、いざ有事に為ったら命を賭けて働けと言うのは身勝手過ぎる。自民党はこう云う状況を受け、現行の9条はそのママにして、新たに自衛隊の存在を明記しようとしている。
 改憲のハードルの高さと現在の政治情勢を考えると、止むを得ない選択かと筆者も思う。だが、それは飽く迄次善の策であり、本来の姿では無い事を国民は知るべきだ。改めて憲法9条を振り返ってみよう。

 第9条 (1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 第1項の「戦争放棄」は「パリ不戦条約」(1928年)の焼き直し・・・詰り侵略戦争の否定であり問題は無い。だが第2項の「戦力」「交戦権」否定は矢張り無理がある。この第二項がこれ迄日本の安全保障政策を歪めて来た事は否め無い。
 現行憲法は進駐軍の占領下に在って、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーが約20人のスタッフを掻き集め、約10日間で作らせた速成物である事は公知の事実である。マッカーサーはこの時、真に非武装日本を造ろうとしていた。

 9条は当初「戦力・交戦権」を放棄し、自衛権発動の戦争さえ否定して居た。1946年の国会で吉田茂首相は次の様に答弁している。
 「戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定して居りませんが、第9条第2項に於いて一切の軍備と国の交戦権を認め無い結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も放棄したのであります」
 これに対し、日本共産党の野坂参三代議士は「侵略戦争は正しく無いが、自国を守る為の戦争は正しい。憲法草案の様に戦争一般放棄と云う形では無く、侵略戦争の放棄とすべきではないか」と食い下がった。吉田首相はこれに対し「近年の戦争の多くは国家防衛権の名に於いて行われたる事は顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認むる事が偶々戦争を誘発する所以であると思うのであります。(中略)正当防衛を認むる事それ自身が有害であると思うのであります」と述べた。

 今の自民党、日本共産党の主張とは真逆であるのが面白い。憲法制定後、朝鮮戦争が勃発し冷戦激化の事態に直面し、政府は憲法解釈を180度変える。「我が国が独立国である以上、この規定は主権国家としての固有の自衛権を否定するものでは無い」(政府統一解釈) 
 この解釈変更は、パリ不戦条約や国連憲章とも齟齬しないから問題は無い。だが第2項の「戦力」「交戦権」を否定したママであればどうしても矛盾が生じる。この矛盾を「まやかし」と云う苦肉の策で糊塗して来た事が日本の安全保障論議を未成熟なものにした。

 「自衛の為の必要最小限の実力」は「戦力」では無いと云う「まやかし」である。政府答弁書にはこうある。「憲法第9条第2項は『戦力』の保持を禁止しているが、この事は、自衛の為の必要最小限の実力を保持すること迄禁止する主旨のものでは無く、これを超える実力を保持することを禁止する主旨のものである」
 この「まやかし」が生んだ最大の弊害は「専守防衛」と云う用語を製造したことだろう。そもそも「専守防衛」と云う言葉は軍事用語には無く政治用語に過ぎない。従って英語に訳しても諸外国には理解して貰えない。政治用語であるが故に概念が曖昧で、人によって解釈が大きく振れる。

 未だに「専ら守るだけ」「反撃しない」「攻撃兵器は保有しない」と平気で述べる政治家が居るから驚きだ。国の安全に責任を有する政治家がそう云う軍事的非常識を得意げに述べるから罪は深い。専守防衛に対する政府の解釈は以下の通りである。
 「相手から攻撃を受けた時に初めて防衛力を行使し、その態様も自衛の為の必要最小限に留め、また保持する防衛力も自衛の為の必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」(防衛白書)

 これに似た専門用語に「戦略的守勢」と云う言葉があるが、似て非なるものがある。こちらから軍事力を行使する事は基本的には無いが、相手の攻撃を抑止するに十分な合理性ある防衛力を備え、相手の攻撃には即座に反撃・阻止し、また相手の攻撃意図が明白な場合、先制的にこれを阻止する事も在ると云うものである。
 現代戦は侵略か犯罪か不明、或いは防衛事態か警察事態か明白で無いグレーゾーンから始まるのが常態である。「相手から攻撃を受けた時に初めて防衛力を行使」する「専守防衛」では、現代戦には対応出来ない。又攻撃を受けてから初めて防衛力を行使するのでは、国民が被害を受けることを前提にして居る。

 一発の核兵器で何百万人の被害が出る現代戦にあっては、極めて非人道的な政策であることを国民は知るべきだ。サイバー攻撃の様な物理的破壊が伴わず、被害を受けたかどうか分から無い攻撃には対応不可能である。「専守防衛」を受け、政府は「武力攻撃事態」の認定を厳密に行い、防衛出動を自衛隊に命ずる事に為っている。
 詰り「国または国に準じる者」による「組織的・継続的・計画的」な攻撃であるかどうかを議論し認定する訳だ。

 尖閣諸島に数百隻の漁船が来襲し、武装民兵が上陸した事態を想像すれば好い。政府は、自衛隊の出動は愚か、攻撃事態の認定さえ出来ず右往左往する内に機を失し尖閣を奪取されるだろう。
 「自衛の為の必要最小限」の装備と云うのも「まやかし」に近い。装備品は導入に4〜5年掛かりその後30年近く使用する。従って、導入時には約35年先を予測して、実力を確保して置く必要がある。導入時には過剰な実力と為るのは当然である。戦争を抑止する為には、軍事的合理性のある装備品を保有する必要がある。
 最新鋭の装備を導入しながら「自衛の為の必要最小限の実力」を主張するのは「まやかし」以外の何物でも無い。「必要最小限」かどうかと云う不毛の議論では無く「軍事的合理性」があるかどうかを政治の世界で議論すべきだろう。

 「交戦権」については、冷戦時も今も全くと言って好い程議論が無い。これは逆に危ういことだと筆者は思っている。「交戦権」の政府解釈は以下の通りである。
 「交戦権とは、戦いを交える権利と云う意味では無く、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称であって、相手国兵力の殺傷と破壊、相手国の領土の占領などの権能を含むものである」(防衛白書) 「交戦権」が無くても自衛権行使には問題無い事を政府は次の様に説明する。

 「我が国が自衛権の行使として相手国兵力の殺傷と破壊を行う場合、外見上は同じ殺傷と破壊であっても、それは交戦権の行使とは別の観念(であり問題ない)」
 諸外国は自衛権行使に当たっても交戦権、詰り戦時国際法で認められた権利を行使して戦う。だが、日本の場合、自衛権行使の際には、交戦権は無くとも同等の権利が行使出来ると云う。本当にそうだろうか。例えば、戦時国際法に認められる「交戦権」には以下のような権利がある。

 @ 敵国の将兵への攻撃および殺傷
 A 防守地域・軍事目標への攻撃およびその破壊
 B 敵国領土への侵入およびその占領
 C 敵国との海底電線の遮断
 D 海上での敵船・敵貨の拿捕・没収
 E 敵地の封鎖、中立国の敵国への海上通商の遮断および処罰
 F 海上での中立国の敵国への人的・物的援助の遮断および処罰
 
 有事の際、作戦所要に応じてこれら「交戦権」に準ずる作戦を政府は果たして命ずることが出来るのだろうか。「専守防衛」との絡みで自縄自縛に陥るのではないか。「必要最小限度の武力行使」と云う美名の下(もと)、軍事的合理性を捨て去り自衛隊を危殆に陥らせる事は無いのか。こう云う事こそ平時に議論し憲法に反映させて行く姿勢が求められている。

 筆者は35年間、戦闘機パイロットとして国防の任に就いて来た。憲法9条2項に依って立つ「まやかし」と実戦との乖離について常に脳裏から離れる事は無かった。尖閣諸島や台湾海峡有事が取り沙汰される中「まやかし」は最早通じ無い。モヤモヤ気分で自衛官を戦場に送り込んでは為らない。
 自衛隊を憲法に明記する事は最低限必要である。その上で、矢張りスッキリした形で我が国を防衛出来る様憲法9条は改定すべきである。国権の最高機関である国会での真剣な議論が望まれる。
                     
                以上



 〜管理人のひとこと〜

 管理人も自衛隊ファンの一人である。著者の指摘するように最近政府は何かというと自衛隊を頼りにし縋ってばかりいる様だ。その分多くの国民から期待と信頼が増すことに為る。地震・水害・その他諸々の災害・化学兵器の防災・・・果ては医師や看護師の派遣・・・実力部隊として直接行動出来る唯一の組織なのだ。
 本来の任務を熟しつつこの様な突発的な出動に対処するには、充分な余力と万全な準備が必要だ。果たして予算や人的な支えが整っているのか心配だ。オーバーワークで隊員の身体的影響も心から心配だ。これら全てのことは、多くの国民から理解され支援される精神的なバックボーンが在ってこそ癒されるだろう。
 自衛隊の法的根拠・・・それが皆無だと隊員を嘆かせるのは政治の怠慢以外の何物でも無い。その為の法律は憲法によって拘束されるので憲法改正へと話が広がらざるを得ない。「憲法改正」に直ぐにでも立ち向かわなくては為らない状況だ。
 唯一の実力組織だと甘え便利に使っているだけだと、間違って何時かは、ミャンマーの様に国民に標的を向け無いとも限らない。物心とも国民が支えなくては為らないのだ。

                以上