2022年01月25日
何故「史上最悪の危機」は起きたのか?
何故「史上最悪の危機」は起きたのか?
1/21(金) 6:32配信 1-24-1
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〜世界的な金融危機は何故起きたのか? 100年程前の「史上最悪の危機」とは何だったのか? 『教養としての金融危機』著者で財務省・IMF・世界銀行などで活躍された宮崎成人さんが解説します〜
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放置されて失敗に終わった危機
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丁度100年前の1920年代は、第一次世界大戦の余波で欧州諸国が苦しむ中、米国が繁栄を享受して株式バブルへと突き進んだ時代でした。そしてバブルが崩壊した後の1930年代は、大恐慌と戦争に象徴される、世界史上最悪の悲劇的な時代と為りました。
後世から振り返ってみると、大小様々な困難は一つの大きな危機を形作るパーツであり、危機はドンドン拡大して、経済・金融から政治・軍事に至る複合危機と為って、遂に世界は第二次世界大戦へと突入します。
その意味で、第一の危機は、放置されて失敗に終わった危機でした。第二次世界大戦後、現在に至る迄、この様な失敗を繰り返さ無い事が、国際社会の共通認識と為って居ます。 国際金融の観点から見ると、危機の原因は、大きく以下の三つにまとめられます。
(1) 国際金融システムを支える制度が硬直的だった
(2) 米国から欧州に向かう資金の流れが逆流した
(3) 各国が自国第一主義に立って、国際的リーダーが不在だった
「金本位制」とは何だったのか
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先ず、当時の国際金融制度の基盤であった金本位制の仕組みを見て行きましょう。19世紀の金本位制は、金貨を発行・流通させる代わりに紙幣(兌換紙幣と呼ばれます)を発行し、その紙幣と金との交換を約束するものです。
紙幣を保有する全ての人が金との交換を求める訳では無いので、紙幣の発行量は必ずしも金の保有量と完全に一致し無くても好いのですが、例えば米国では発行紙幣量の最低40%をカバーする量の金の保有が法律で義務付けられて居ました。
従って、個々の国の通貨発行量は金の保有量の増減に影響され、究極的には、世界中の金の産出量の増加と世界全体の通貨発行量の増加が連動する事に為ります。金本位制下では通貨発行量が無規律に拡大する事は無いので、ハイパーインフレーション等は起こり難い反面、成長の可能性が在る分野に十分な通貨が供給されるとは限ら無い為、成長力が抑制される側面があります。
金本位制を執る国の間では、金を媒介にして為替レートが固定されて居ます。例えば、1ポンドは純金113グレーン(1グレーン・1/480トロイオンス・約64.8ミリグラム)、1ドルは23.22グレーンと定義されて居たので、為替レートは1ポンド・4.86ドルと為ります。
事実上、金本位制は主要国間に単一通貨が在るのと同じ為、基本的に為替リスクは極小化され、国境を越えた貿易や投資が促進されました。
実際、第一次世界大戦前夜の1914年時点で、貿易が世界経済全体に占める割合は21%であり、ブロック経済化が進んだ第二次世界大戦前夜(1938年)の9%に比べると、如何に国同士の相互依存が進んで居たか分かります。勿論、その様に相互依存の進んだ国家間でも戦争が起こった事も事実です。
金本位制の理論では貿易収支の不均衡は自動的に調整されると考えられました。寧ろ、赤字国に於ける恐慌や倒産・失業、それに依る労働者の惨状は、輸出競争力を回復する為に必要かつ望ましいプロセスである・・・と云うのがその時代の常識で在ったと言えます。
英国では1918年の改革まで男性の一部と全ての女性に選挙権が在りませんでしたので、弱い立場の人々の声が政治に十分反映され無かった事も、こうした非人間的なプロセスが維持される一因と為ったのかも知れません。
停止した金本位制の「戻り方」
金は、国家に取って最後の決済手段ですから、危機時に軽々と手放す訳には行きません。第一次世界大戦勃発と共に、各国が金の流出を禁止し金本位制を停止したのは当然です。では「総力戦」を経て国民全体の国家への貢献を重視する風潮と為った戦後に、硬直的で非人間的な金本位制では無く、新しいシステムを作って行こうと云う気運は盛り上がったのでしょうか?
残念ながら、そうではありませんでした。終戦と共に、各国は金本位制への復帰を考え始めます。当時の感覚では、金本位制が常態で在って、戦時に一時的に停止したのだから、終戦後は又常態に戻るのが当たり前と云う事だったのだと思います。
しかし、多くの国では戦争中にインフレが進んで居り、通貨の実質的価値は戦前から相当目減りして居ますから、問題は戻り方です。
英国を例にとると、当時の正統派の議論は、英国の威信に賭けて旧平価(以前の金価格・実質的にはポンドの為替レートを示す)で金本位制に復帰すべきであり、その為にインフレ退治が不可欠だから、健全な金融政策(引き締め)を執って国内不況を甘受し物価を引き下げるべきだ、と云うものでした。
ボールドウィン内閣の蔵相チャーチルが、この政策を推進しました。インフレで地代収入や投資収益が実質的に目減りした貴族・富裕階級の利益を図る意図も在ったのかも知れません。
一方、新進気鋭の経済学者ケインズは、現状の実力相応にポンドを切り下げ、戦前よりもポンド安の形で金本位制に復帰すべきだと主張します。
特に米ドルとの関係を見ると、米国のインフレ率の方が英国よりも低かった(即ち、ポンドの実質的価値が対ドルで目減りして居た)ので、ケインズは、10%程度低い金価格(即ちポンドの10%切り下げ)で金本位制に復帰すべきだと論じました。
正統派の主張する様な金融引き締め政策で一般的物価水準を10%程度引き下げるとすると、それは失業の増加をもたらすので社会正義に反する、とも主張しました。
英国の「離脱」
ケインズの反対にも関わらず、1925年に英国は旧平価で金本位制に復帰し、案の定ポンド高から来る競争力の低下と為替レート維持の為の高金利に苦しむ事に為ります。各国でも、金本位制復帰後は固定為替レートの維持が金融政策の大目標と為りますので、国内経済の動向に関わらず、厳しい引き締めが行われる事も珍しくありませんでした。
大恐慌の影響で失業率が15%程度まで上昇し、欧州大陸の銀行危機によって金が流出した1931年、英国は遂に金本位制を離脱します。 同様に、米国はルーズベルト大統領就任直後の1933年3月に金本位制を停止し、1928年に戦前よりフラン安のレートで金本位制に復帰したフランスも1936年には離脱しました。
尚、日本は1930年に旧平価で金本位制に復帰(所謂金解禁)しましたが、大恐慌の嵐の中で窓を開けた様なものであり、翌1931年に金本位制を再停止しました。各国では金本位制からの離脱に応じて、要約デフレーションが終息し物価が上昇して行きます。
金本位制は硬直的な制度ですから、平時に於ける安定的な経済環境には適して居るかも知れませんが、ショックに対して柔軟に対応する事は出来ませんでした。
戦後復興や、大きなバブルとその崩壊と云う経済の激動を、金本位制と云う制約の中に押し込もうとしても無理な相談でした。
各国は、戦前の常態に戻ろうとして、国民に多大の犠牲を強制したのみ為らず、返って経済基盤に自らダメージを与え、それをリカバーすべく自国の利益を優先する利己的行動に陥って、国際金融システムの崩壊に加担して行きました。
宮崎 成人
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