2022年02月03日
からゆきさんと女衒の歴史
からゆきさんと女衒の歴史
日本の近代化に必要だった彼等の今
2/1(火) 6:01配信 2-1-1
フランス領ベトナム北部トンキンの・からゆきさん達 明治時代初期・インドシナ半島では、日本人の人口の大半を売春婦が占めて居た 2-1-2
連載 少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識
江戸時代後期の成人向け絵解き本「七七四草(ななしぐさ)」には「女見の女を衒(う)るところより、女衒(ぜげん)と書き、音読み転訛してゼゲンと呼ばれるに至れるならん」とある。娼婦としての価値を見定める目利きを女見と呼んだ。
女衒は、凶作で生活に窮した貧農の親から娘を買い取り遊廓等に売り、売春労働に斡旋する事を業とした人買い稼業で、嬪夫(ぴんぷ)とも呼ばれる。
風来山人こと平賀源内の滑稽序文集『細見嗚呼御江戸序』の序跋には、目鼻から爪の先、指のそりよう、歩み振り迄注意して、その後価格が定まる・・・とある。娘を買い取る査定として極上・上玉・並玉・下玉と云う格付けが在り、それを瞬時に見極める・・・女性を見る術の秘伝が在った。
遊女・瀬川と客・五郷との悲恋を描いた戯作に『契情買虎之巻(田螺金魚 著 安永7年(1778)刊)』が在る。その中で、親が病いに伏せって居るからと、兄と称する女衒が娘を吉原の妓楼に売り飛ばすシーンでは、楼主は女を見ては直ぐに気に入り、奉公人に命じて目先の利く女衒の権二を呼ぶと、権二は次の様にその娘を即座に鑑定して居る。
「この娘で御座いますが、先ず、なたまめ・からたちの気遣いも無しと。そして小前で、足の大指も反るし、言い分無しの玉だ・・」
娘の身売り額の1〜2割が斡旋仲介手数料として徴収される。その際、女衒は文字の読み書きが達者で、証文を認める等文書構成能力が在り、遊廓や岡場所・貸座敷業には欠くべからざる存在で在った。日本の戦場では古くから勝った方が負けた国の男女を戦利品として拉致する「乱妨取り」が行われて居た。
ポルトガル人が1514年、日本に上陸し、マラッカ・中国・日本の間で貿易が始まると、ポルトガル人は捕獲に為った日本人を奴隷として買った。その殆どが女性で、船員の妻や妾、若しくは売春婦として東南アジア等に売られて行った。南蛮貿易で売られた娘達は、知性や勤勉な気質が尊ばれアフリカからの奴隷よりも人気が在った。
江戸幕府が、キリスト教圏の人の来航と日本人の海外渡航を禁止した1639年(寛永16年)長崎に丸山遊廓が誕生する。
丸山遊郭の遊女は日本人男性相手の「日本行」の遊女の外に、出島に出向きポルトガル人やオランダ人を相手にする遊女達も居て「紅毛行」と呼ばれた。唐人屋敷へ中国人を相手にする遊女達は「唐人行(からひとゆき)」と呼ばれた。
唐人屋敷の近隣・島原の辺りでは〔からゆき〕と云う言葉が生まれ、それは「唐人行」又は「唐(からん)ん国行(くにゆき)」と云う言葉が約(つづ)まり「からゆきさん」と為る。遊郭内では少女の人身売買が行われ、ポルトガル人の貿易業者に依り万単位の数の少女が東南アジアなどに売られて行った。
春を鬻ぐ(ひさぐ)女性は、人間の最も秘匿性の高い性的行為に依ってカネを稼が無ければ為ら無い。それは、理不尽とも云える低賃金で労働する生活よりもっと苛虐なものと言え様。
そんな〔からゆきさん〕と為った女性の多くは、農村・漁村等飢餓に喘ぐ貧困家庭の娘達だった。貧窮した村の多くが間引きや捨て子等の悪習が蔓延したが、そうした窮乏した村落の娘達を海外の娼館へと女衒は橋渡しをしたのである。
女衒は全国の貧しい農村や漁村を周って年頃の娘を探し「海外で奉公させると、お金が儲かる」等と言葉巧みに親子を説得し、親に現金を手渡した。娘を売り飛ばした両親は我が子を売らなければ為ら無い程貧しかったのである。
女衒は娘達を下関や門司・長崎・神戸・横浜・清水の港から密航させた。学校に行く事が出来ず、ひらがなも数字も書け無い・読め無い少女等は、当然ながら彼女等が自らペンを執ってその生活の実情と苦悩とを訴えると云う事は出来なかった。
娘達は女衒に依り斡旋手数料や経費と云った名目で多額の借金を負わされて、それが返済される迄は日本に帰れ無い様に、カネでその身体を縛られたのである。
開国したばかりの明治4年、シンガポールには既に日本人の〔からゆきさん〕の姿が在った。そして、アジア太平洋戦争の敗戦迄、シベリア・中国・香港・朝鮮から台湾・シンガポール・フィリピン・ボルネオ・タイ・インドネシア等の東南アジア、オーストラリア等太平洋の各地、ハワイ・北米(カリフォルニアなど)・南アフリカやザンジバル等の至る処に約30万人以上の娘達が売られた。彼女等は現地で稼いだカネを日本に送金したのである。
南洋の地域に売られて行った〔からゆきさん〕達は、日本よりももっと文明が遅れ、それ故に西欧列強の植民地とされてしまった東南アジアの国々で客を取らされた。客は主として中国人や原住民。彼女等は南国の夜毎、様々な肌の色をした異国の男達が入れ替わり立ち替わり遣って来てカネを払い彼女等の身体を弄び蔑(ないがし)ろにする。
インドシナ半島では早くから日本女性売春婦の市場が形成され、日本人の人口の大半を売春婦が占める様に為った。シンガポールのマレー街と呼ばれる通りには日本人娼館が連なり633人の娼婦が働いて居たとの記録が在る。
身体だけで無く心も蹂躙(じゅうりん)された彼女達の遣る瀬無い思いを、測り知る事は出来そうに無い。1910年の「福岡日日新聞」には、現地を訪れた記者は、当時の〔からゆきさん〕の様子を次の様に記して居る。
「異類異形(いるいいぎょう)の姿せる妙齢の吾(わ)が不幸なる姉妹、之(これ)に倚(よ)りて数百人とも知らず居並び、恥し気も無く往来する行路の人を観て、喃喃(なんなん)として談笑する様、あさましくも憐(あわ)れなり」
又、当時、シンガポール辺りに立ち寄った夏目漱石や森鴎外は手記にシンガポールの〔からゆきさん〕の事を書いて居る。
「彼女達には微塵の暗さが無い。愚痴・泣き言を溢さ無い、如何してあんなに朗らかで明るく突き抜けた様に気分で居れるのか不思議でしょうが無い」
酸鼻を極めた状況に置かれた少女達が、晴れ晴れとして居る様子に面食らって居た事が覗える。愛情の無い不特定多数の男性に金銭と引き換えに自らの肉体を自由にさせる生業は、その肉体のみ為らず精神迄蝕む事が多いとされる。
一夫一婦制の婚姻方式が一般的と為りつつ在った当時の日本で、売春はモラルに反する事であり、それに従事せざるを得無かった女性達は、世間から無慈悲な差別を受けるのが普通だった。
増してや、借金でガンジガラメにされ、何時まで経っても貧窮とは縁が切れ無いと為れば、精神的に絶望して投げ遣りと為って挙措(きょそ)を失う人も多いだろう。
しかし、彼女等は心が潔く清らかに澄み切ったかの様に、暗鬱(あんうつ)が無く明るく朗らかに振る舞えたのは、現実に置かれた状況にマゴツク事無く、深刻な物事も忽(ゆるが)せに捉えて、気丈夫にそれを受け入れてしまう。それは真俗二諦(しんぞくにてい)の境地と云う絶対的真理に到達したかの様にも思えて来る。
人は、ありとあらゆる汚濁に染まりながらも、様々な醜悪に出会えば出会う程に他人に対して寛容となり、円熟して行く事も稀に在るのだろう。女衒の顔役・村岡伊平治は、少女達が海外に売り飛ばされる事は日本の為であり、現地にも大きな利益と発展をもたらすと主張して居る。
「からゆきさん達が海外に送られると、国元にも手紙を出して毎月送金する」
「女の家も裕福に為ると税金が村に入る」
「どんな南洋の田舎でも、そこに女郎屋が出来ると直ぐに雑貨屋ができ、日本から店員が来る」
「その店員が独立して開業する」
「商社等会社の現地出張所が出来る」
「女郎屋の店主も嬪夫(ぴんぷ)と呼ばれるのが嫌で商店を経営する」
「1ケ年内外でその土地の開発者が増えて来る。その内日本の船が着く様に為る。次第にその土地が繁盛する様に為る」
明治33年(1900年)当時『海外邦人発展史(入江寅次 著 井田書店 昭和17年刊 )』に依れば、ウラジオストクを中心としたシベリアの日本人出稼者が日本へ送金したのは約100万円(現代に換算すると約50億円)そのうちの6割、約30億円以上が〔からゆきさん〕からの送金だった。
そうした女性達からの日本への送金は世界各地で行われて居た。明治政府は当初〔からゆきさん〕達の送金が経済に貢献して居るとして、海外で少女達を外貨獲得の為に働かせる事を奨励して居た。日本人女性の海外渡航は海外進出の先兵と位置付けられ「娘子軍」と賞されたのである。
西欧諸国に政治・経済・軍事に対抗する為、近代国家を目指した日本に取って、彼女達の送金は欠けては為ら無いものだった。貨幣価値の高かった明治〔からゆきさん〕達の働きにより、それが外貨獲得に繋がる。彼女達は国家の富国強兵の一翼を担って居たのだ。
『サンダカン八番娼館(山崎朋子 著 筑摩書房 1972年刊)』に依れば、大正から昭和のボルネオでは、娼婦の取り分は50%・その中で借金返済分が25%・客の1人当たりの時間は3分か5分・それより掛かる時は割り増し料金が掛かる。娼婦達は現地人を相手にする事は好まず、可成りの接客拒否が出来たと云う。
又、日露戦争時、海外日本人娼婦が、明治政府に軍事に関する情報の提供もして居た。その役割は勝敗を決する上でも大きかったと言え様。
衛星やレーダーの無かった当時、ヨーロッパのバルト海に展開するロシア海軍のバルチック艦隊が、バルト海を出てアフリカ大陸の南を通って日本に向かって居た時、マダガスカルからは「バルチック艦隊が、今マダガスカルに入りました」
そして、シンガポールを通過した時には「マラッカ海峡をバルチック艦隊が四十数隻黒い煙を吐いて日本に向けて出航しました」と世界各地の〔からゆきさん〕から日本に向けての電報が相次いだ。
明治末期に為ると〔からゆきさん〕は最盛期を迎えるが、国際的に人身売買への批判が高まり、国内でも彼女等は「国家の恥」と非難される様に為った。彼女等は平均で4・5年位海外で稼ぎ、借金の返済を終えて日本に帰ったが、残留した人・亡く為った人も数多く居る。その死因はマラリア・風土病・性病・肺病・阿片等で平均すると20歳前後で命を散らして行った。
亡く為っても現地に墓を建てて貰う事は極めて稀で、殆どは何処かに埋められるか、海や密林に放り投げられた様だ。家族には何時何処で亡く為ったか命日を知らされる事も無かったと云う。
昭和恐慌期(昭和5〜6年)に為ると、食う事もままなら無い貧窮した人達が追い詰められて、裕福な家に妻子や自分自身を売る人が相次ぎ、女衒に依る人買いは高度成長期初頭迄続いた。
斡旋仲介業者は、上野と青森を結ぶ列車を買い取った娘達の輸送に使って居た。1950年、18歳未満の未成年者を人身売買した容疑で、警察に検挙された仲介者は377人。未成年者の送り先の55%は売春婦として計上されて居る。人類最古の職業と云われる女性が春を鬻ぐ(ひさぐ)と云う商売は無く為る事は無いだろう。
昨今では、女衒は消滅したかに見える。しかし、それは「スカウト」と云う言葉に代り今も活発に蠢いて居る。スカウトとは街中で女の子に声を掛けるプロの落とし屋である。 彼等は女性を口説く技術に磨きを重ね、女を落とす為の独自の指南書もあるらしい。
そこに仕事に金銭・恋人等身近な問題に悩んで居る女性を落とし込む為の、人間心理を巧みに突いた高度な口説きの技が記されて居ると云う。過つて、女衒は少女達を海外に売り飛ばし、娘に多額の借金を負わせて日本に帰れ無い様にした。
しかし、似た様な流れで、今度は逆に多額の借金を背負いながら海外から日本に働きに来る人達が居る。
それは日本の少子高齢化社会の労働力不足が深刻な問題を解決する為に国家が考えた技能実習制度により来日する人達である。
日本政府は技能実習制度は途上国に技術を教えると云う国際貢献の看板を掲げて居る。だが、技能習得と云うのは名ばかりで、本国に帰っても役には立た無いうち容と云うのが実態と囁かれて居る。東南アジアから来日する技能実習生の働き先の多くは、日本人の若者が嫌がる労働力不足が極めて深刻な産業や職種への就業、そして低賃金労働者の確保として技能実習制度は機能している。
ベトナムでは、実習生が日本に働きに出る事を「労働力輸出」と称して奨励する。来日する実習生は親類縁者に平均100万円以上の借金を重ねて渡航費用を工面する事に為る。それを返す迄は故郷には帰る事が出来ない。
実習生の来日は現地外国の送り出し機関と日本の監理団体を通して行われるのだが、送り出し機関に過大な手数料を取られる悪質なケースが後を絶た無い。又、悪徳仲介斡旋業者が賃金の半額程度をピンハネしているケースや、受け取る給料が時給に換算すると300〜400円程度と云った働き先もある。
こうした過酷で非人道的とも云える扱いは、かつての〔からゆきさん〕が置かれた状況と同じようなものと云え様。1816年(文化13)頃に書かれた江戸時代後期に書かれた「世事見聞録」に、拐かし(かどわかし)について記されている。
「かどわかしというものありて、群集の場所、または黄昏の頃、遊び迷い居る子を奪いとりて、遠方などへ連れ行きてついに売るなり」
「かどわかす」は騙して取る、欺き誘うと云う意味の古語の「かどふ」が、その語源である。それは強引に何かをすると云う意味の接続詞「かす」が付き「かどわかす」となる。人を騙し、欺き、借金で強引に縛って売り飛ばす稼業は名を変え形を変えて、今も暗躍して居る様だ。
【管理人のひとこと】
先日youtubeの無料映画で『天城ごえ』を視聴した。本作が松本清張の原作でありヒット曲の原案で在ったとの再認識をしたものだ。主人公の少年が、大人と為り戦争を経て、印刷会社の社長と為って居て、そこに当時の事件を捜査した刑事が現れる・・・まるでジャンギャバンのフランス映画の一シーンの様だ。
昔、恋心を抱いた女性の住む加賀へ赴く・・・年老いた彼女は気丈にも魚の行商をして居た・・・ラストの描写が暫くの間心の余韻として燻った。彼女も、親に売られた娘だったのだろう。この文章を読んで直ぐにこの映画を思い出してしまった。女衒・ゼゲン・・・とは、昔は直ぐ隣に住む日常の存在だったのだろう・・・
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