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2022年01月04日

「あの日、ヒトラーを見た私」直木賞作家・安西篤子さんが語る



 「あの日、ヒトラーを見た私」 

  直木賞作家・安西篤子さんが語る ベルリンで目撃した光景



  1-3-1.png 1/3(月) 9:00配信 1-3-1



  安西篤子・エッセイ「あの日、ヒトラーを見た私」



  1-3-2.jpg

          アドルフ・ヒトラー(Wikimedia commonsより)1-3-2



 「ヒトラーと石原莞爾」 同年生れの二人を軸に東西の時局から大戦を描く、佐江衆一の渾身の史伝『野望の屍』が2021年1月に刊行された。
 幼少期をベルリンで過ごした直木賞作家の安西篤子さんは、ナチスの隆盛時、父親に連れられてヒトラーの住まいを見に行くと、バルコニーの下に集まった群衆に手を振るヒトラーの姿を目にしたと云う。当時の体験を振り返りながら『野望の屍』の読み処を紹介する。

                     * * *  




                  1-4-1.jpg

               安西篤子(作家) あんざい・あつこ


 2020年10月に亡く為った佐江衆一(さえしゅういち)氏の御遺作『野望の屍』を頂いた。佐江氏には何度か御目に掛かったが、取り立てて親しいと云う程では無い。御著書を頂くのも初めてだった。けれども、表紙を見て思い出した。
 以前にお会いした時、私が昔、ドイツに居て、ヒトラーを見たとお話しした事が在る。それを覚えて居られて、この御本を送る様手配して下さっていたのだろうと思った。

 早速拝読した。大層面白かった。私は子供の頃、中国各地で暮し、上海では蒋介石の邸の隣に住んで居たから、その点でも興味深かった。
 1927(昭和2)年8月に神戸で生れた私は、11月には日本郵船の伏見丸に乗って欧州へ向かった。銀行勤めの父がハンブルクへ転勤に為ったのである。母の話では、28年の1月1日にマルセーユへ着いたと云う。
 
 私がもの心着いたのはハンブルク時代で、庭の広い一戸建てで、隣家のドイツ人のお姉さんが好く遊んで呉れた。その後、父がベルリンへ出張所を開く様命じられベルリンへ移った。ベルリンでは、マンション住まいだった。女中のケーテが可愛がって呉れた。ヒトラーが台頭したのはその頃である。
 ベルリンで最初に住んだのは、カスタニアーレと云う通りの五階建てマンションの五階だったそうだが、僅かしか住まず私は覚えて居ない。次に移ったのが、アムパーク15番地のマンションで、此処は好く覚えて居る。
此処も五階建てで一フロアが一戸に為って居る。私共は二階に住んだ。マンションと云っても可成り広い。

 玄関を入るとホール、その奥の客間には大家さんが残して行ったものと私の母のもの、二台のグランド・ピアノが在ったが未だ広々として居た。続いてダーメン・チンマ(婦人用客間)ヘーアン・チンマ(父の書斎)寝室・食堂・子供部屋・女中部屋・台所・浴室等が在る。向いのマンションには、当時人気の映画スター、マルレーネ・ディートリッヒが住んで居り時々見掛けた。  

 私共のマンションの持ち主は資産家のユダヤ人で、ナチスが勢いを得て来た為、危険を感じ市外のワンゼー(湖)の畔の別荘に移り、後を家具着きで私共に貸したと云う。 一度招かれて、別荘へ遊びに行った事が在る。
 両親が食堂で御馳走に為って居る間、私は退屈して廊下をブラブラ歩き廻った。通り掛かった部屋のドアを開けると、そこは不要な道具を仕舞って置く所らしく、雑多な家具の間に、私の背丈より高い白い物が見えた。近寄って見るとそれは白鳥の羽だった。何だか怖く為って、慌ててそこを出たのを覚えて居る。  
 別荘には芝生の広い庭が在り、湖迄斜めに続いて居た。後に映画で、これとソックリの別荘が舞台に為って居るのを見た事が在る。  

 日本へ帰ってからも、両親は時々大家さんの事を思い出して話して居た。酷い目に遭って居ないだろうか、アメリカへでも逃げて居れば好いがと云って居た。 ベルリンでは、私は何時も女中のケーテにクッ付いて歩いて居た。日常会話はドイツ語で親ともドイツ語で話した。
 日本へ帰った時日本語が話せず、小学校へ上がる直前だったので、親が心配して、当時、住んで居た東京・阿佐ヶ谷の幼稚園に通わせた。私は忽ち日本語で話す様に為り、ドイツ語は頭から抜けてしまった。
 
 そのドイツ語だが、家へ来たドイツ人の客に云わせると、田舎訛が強いと云う。私のドイツ語は、女中のケーテから覚えたもので、ケーテは田舎の出身だったらしい。ケーテが、近所の小間物屋へ糸や針を買いに行く時も私は着いて行った。
 店の主人は、何時も黒い服を着た陰気な感じの中年の女性でユダヤ人だと云う。大家さんもそうだが、詰まり、ユダヤ人はベルリン市内に溶けこんで暮して居たのである。
 
 私がヒトラーに興味を抱くのは、どうしてアレ程ユダヤ人を排斥し虐めたか・・・と云う事で在る。日本でも、関東大震災の折、在日朝鮮人を酷い目に遭わせた。が、それは一過性に過ぎ無い。ヒトラーの場合、先ず宗教が背景に在りそうだ。少なくとも口実には為るだろう。
 日本人は宗教の受け入れに寛容だが、ヨーロッパ人はそうはいか無い。日本人は神式で結婚式を挙げ、人が亡くなれば仏式で葬儀をする。神様も仏教も有難い対象で片付けてしまう。

 ベルリンの人達は日曜日には必ず教会へ行く。父は学生時代、銀座教会で洗礼を受け、一応クリスチャンだが日曜毎に教会へ行く事は無い。
 キリスト教徒とユダヤ教徒、ソコには日本人にはチョット理解不能の溝が在るのかも知れ無い。ヒトラーが勢力を増して来た或る日、父は六歳の私を連れてヒトラーの邸の前に行った。その日はヒトラーの誕生日だった。
邸の二階のバルコニーにヒトラーが姿を現すと、バルコニーの下に集まった群衆が何事か叫んで手を振る。それに対して、ヒトラーが手を振り返す・・・大層な騒ぎだった。  

 私の見た処、群衆の大半は、17・8歳か20代前半の若い女性だった。金髪で色白、ふくよかな女の子達で、美しいと云うより、素朴で無邪気と云った印象だった。何故父は、そんな所へ私を連れて行ったのだろうか。  
 銀行勤めの父の下には、新しいニュースがドンドン入る。ヒトラーの台頭に依って、第一次大戦後の疲弊したドイツに何か変化が起こる・・・そう感じて、当のヒトラーがドンな男なのか、自分の眼で見たかったのではないか。

 男一人より幼い女の子を連れて居れば無難に見える。序に私に歴史に残る人物を見せて遣ろう・・・そんな処か。幼い私の印象では、ヒトラーは極普通の男性で、何故女の子達がキャアキャア騒ぐのか訳が判ら無かった。
 実は母もヒトラーを見て居る。カイザーホーフと云ったかベルリンのホテルで、日本人の夫人達のお茶の会が在った。ホールに居ると大階段をお供を連れたヒトラーが降りて来た。
 私が大人に為った後、その話を聞き「どんな人だった?」と尋ねた。母は何時も冷静な人で、その時も「小さい人だったワ」と答えただけだった。それが印象の全てらしい。  

 93歳に為る私は、最近、ユダヤ人関係の本を選んで読んで居る。例えばサーシャ・バッチャーニの『月下の犯罪』(伊東信宏訳、講談社) 深緑野分氏の『ベルリンは晴れているか』(筑摩書房) クリストファー・R・ブラウニングの『普通の人びと』(谷喬夫訳、筑摩書房)等。  
 しかし、読めば読む程判ら無く為って来る。私がベルリンで体験した様に、ユダヤ人は市民に溶け込んで居た。嫌、私にはそう見えた。  

 私の住むマンションの前には、道路一つ隔てて公園が或る。冬には池が氷ってスケートが出来る。小山が在り橇(そり)で滑り下りて遊ぶ。私は同年輩の金髪の男の子と仲好く為り好く一緒に遊んだ。他にも友達が出来たが、ドイツ人かユダヤ人かで差別する・・・等と云った経験は一度も無い。日本人には判ら無いだけで、密かな差別は在ったのだろうか。



             1-3-3.jpg 
          
             『野望の屍』佐江衆一[著](新潮社)1-3-3


 佐江衆一氏の『野望の屍』を読むと、ヒトラーが如何に巧みに権力を握って行くかが、好く判る。 しかし、それは一方で、喜んで彼を受け入れて行くドイツ民族が居た為である。
 誕生日にバルコニーで手を振るヒトラーと熱狂する女性達、その光景を思い出すと、当時のドイツ人達の心情が如何で在ったか好く理解出来る様に思われる。  

 私の父は、ヒトラーの、そしてナチスの危険な事を好く知って居た。無論、口には出さ無かったが。1933(昭和8)年に、父が横浜の本店勤務に為り私共は照国丸で帰国した。偶然、渡欧の時の伏見丸と同じ大矢船長で、私を見て「大きく為ったね」と云って下さった。その後、父は中国の天津・上海・営口(えいこう)等を経て横浜本店に転勤した。

 1941(昭和16)年の事。横浜に上陸すると、ホテルニューグランドに2・3日滞在した。偶々訪日中の「ヒトラー・ユーゲント」の少年達と泊まり合わせた。彼等と廊下でスレ違う時声を掛けたかったが、決まりが悪く黙って通り過ぎた。彼等は帰国後、ドンな運命を辿っただろうか。  
 ヒトラーは公式には、生涯、独身を通した。誕生日のアノ騒ぎを見ればその意義も判る。一体、ヒトラーとはドンな男だったのだろうか。後にチャップリンが演じて居るが、本当に、チャップリンと一脈通じた処が在る様な気がする。

 本人は大真面目だが、傍から見ればチョット滑稽な男・・・そんな男とユダヤ人の関係が、私には如何しても判ら無い。あのアウシュヴィッツの悲劇・・・アレ程の事が如何して起こったのか。恐らく日本人で在る限り、先ず理解する事は出来無いのではないか。そう思いながら今日もアレコレ読んで居る。


 筆者 安西篤子(作家) あんざい・あつこ

 プロフィール 1927年 神戸生まれ 少女時代をドイツで過ごす 神奈川県立横浜第一高女卒 53年中山義秀に師事し小説を書き始める 主な著書に『張少子の話』(直木賞)『黒鳥』(女流文学賞)ほか多数 神奈川県教育委員会委員 神奈川近代文学館館長を歴任

 新潮社  波 2021年5月号 掲載 新潮社



 【管理人のひとこと】

 確かに、ヒトラーに関する本は数限り無く書籍化されて居る。それだけ彼が特異な存在であり或る意味偉大な業績を誇る偉人・軍人だったからには他なら無い。だが、彼と身近に接し彼の本性を赤裸々に探り、更に分析して綴ったものは意外に少ないのでは無かろうか。
 その意味でもこのエッセーは、ヒトラーの一瞬の姿を記録した貴重なものかも知れない。だから、彼の個人的性格や隠された本性・癖・・・等は案外と秘密のベールに包まれて居そうだ。

 彼は、恐らく可成り理数的頭脳の発達した・・・かと言って、或る種の芸術に傾倒した文科系的にも優れた個性在る偏狭的性格の強い人物だったで在ろう。言い換えれば〔おたく体質〕の〔しつこい〕〔特別個性的〕な変質者である。
 結果的に、反道徳的で宗教的にも異常な程のユダヤ人排斥思考と、彼の持つ正常な心とは何処で交わるかを、正確に理解出来る人は居ないだろう。青少年時代彼は、軍隊に応募し苦労して〔軍曹〕と云う下士官に為って居る。しかし芸術・絵画に興味を持ち、将来は画家への夢も持って居た。

 そして、第一次世界大戦後のドイツの置かれた立場に対して、戦勝国連合の仕打ちに対する怒りが収まらず〔ドイツの復権〕を掲げて政治に邁進する・・・政権を握ると、当時としては斬新な経済対策を続け瞬く間に〔ドイツの軍・産業の再興〕を成功させる。
 しかし、その偏狭的性格でナチズム・恐怖政治・全体主義国家へと第二次大戦を引き起こす・・・最大の戦争犯罪者へと変貌してしまうのである。そんな彼の姿を少女時代の筆者は「少女達に騒がれる背の低い普通のおじさん・・・」との感想を語って居る。
 管理人は、ヒトラー・ナチスドイツの奇跡的復興を遂げる〔経済政策〕に限りない興味を持って居る。前回に取り上げたが・・・実に天才的な不可思議な経済政策を建てたものである。





















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