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2019年12月28日

黙殺された「日米開戦不可なり」電報30通 連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(4)


 連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(4)

 黙殺された「日米開戦不可なり」電報30通


                〜岡部 伸 2019.12.26〜


 小野寺信(まこと)少将(最終階級)は再びバルト海の畔の中立国、スウェーデンの駐在武官を命じられた。1941(昭和16)年1月 赴任したストックホルムで、ラトビアの首都リガ在勤時に親交を深めたポーランドやバルト三国の情報士官達は、正確無比な情報をもたらした。
 独ソ開戦を一早く伝え、ドイツ劣勢の特ダネを掴み「日米開戦不可なり」と繰り返し打電したが、ドイツを過大評価する大本営は黙殺し、日本は勝算無き無謀な戦端を開いた。

          12-28-7.jpg  中央に小野寺氏

 奇縁か幸運か、リガの絆がストックホルムで結実

 ヒトラーは、スターリンと独ソ不可侵条約を結び、1939年9月、ポーランドに侵攻し第二次大戦が勃発した。ソ連はバルト三国を編入。フィンランドからカレリア地方を奪取。ドイツ軍は翌40年4月、デンマーク、ノルウェーも占領下に置いた。
 更にフランス、ベルギー、オランダを降伏させ、バルカン諸国も制圧してロンドンを空襲し、英本土上陸作戦の機会を探った。同年9月27日、三国同盟に調印した日本は「バスに乗り遅れるな」と北部仏印に進駐、欧州でのドイツ優位に呼応する形で国策を決定しようとして居た。

 北欧の都に赴任した小野寺の最初の任務は、ドイツの英本土侵攻作戦の確認だった。「ドイツ軍は5、6月、英仏海峡を渡り進攻する。関連ニュースを報告せよ」

 情勢分析したが、英本土上陸作戦を裏書きする証拠は無かった。反対にドイツ軍が独ソ不可侵条約を破棄してソ連へ奇襲攻撃する準備して居るとの独自情報が集まった。情報を伝えたのはリガで知遇を得た他国の情報士官達だった。
 小野寺は回顧録で述べて居る。「リガ時代に結ばれた絆は、ストックホルムで、ドンなに役に立ったか判ら無い。(中略)奇縁と云おうか幸運と云おうか。この人達が確実な情報を提供して呉れたからコソ、中央に反抗しても、意見具申する事が出来たのだ」

 小野寺は戦後、米中央情報局(CIA)の前身、米戦略諜報部隊(SSU)の尋問で、情報活動が成功したのは、祖国を失い中立国スウェーデンに亡命した彼等に生活資金・生活物資を援助し、家族グルミで信頼関係を結び秘密情報を得たからだと答えて居る。機密費で彼等の生活の面倒を見た。
 小野寺は戦後、旧陸軍将校らの親睦組織の機関紙「偕行」1986年3月号「将軍は語る」で「機密費と言われる諜報費に一番お金を使った組でしょう」と回想して居る。連合側も小野寺が多くの小国の情報士官に資金援助して関係を築いた事を突き止め、米戦略情報局(OSS)は1945年7月28日付け作成の報告書で「小野寺は数千万クローネ(当時の1クローネは約1円に当たる為現在の貨幣価値にして数百億円)の活動資金を持ち、ドイツ降伏後も全欧州を把握するポストに留まる」と警戒した。

 決め手はドイツの「棺桶準備」情報

 最も親密で最良の協力者と為ったのがエストニア陸軍参謀本部第二(情報)部長から参謀次長を務めたリカルト・マーシングだ。
 1940年ソ連に併合される直前、ストックホルム駐在武官に転じて、ドイツ陸軍等で諜報活動を行う部下を束ねて居た。スウェーデン軍部とも親しかった。イギリス対外情報部(MI6)のエージェントでもあったが、小野寺により精緻な情報を多く提供した。
 その事が判明してMI6は報酬支払いを中止したが、尋問調書によると、マーシングは、小野寺から謝礼として毎月、1000から1500クローネ(当時の為替レートで1クローネ約1円なので現在の価値で100から150万円)を日本敗戦迄受け取った。

 マーシング情報では「バトル・オブ・ブリテン」英独航空戦で惨敗したドイツは制空権を握れず、Uボートの撃沈が相次いだ大西洋でも制海権を握れず、英本土上陸作戦は不可能だった。
 寧ろ対ソ開戦の情報が多かった。マーシングの部下でドイツ軍に入ったヤコブセンは、小野寺に「ドイツの情報部に勤める部下が、連日ヒトラーの戦闘指令書を準備し、東プロシア(ソ連が占領して居た旧ポーランド領)に行って居る」と耳打ちした。

 決め手に為ったのは、ポーランドのインテリジェンス・オフィサー、ミハウ・リビコフスキの情報だった。ペーター・イワノフを名乗り、武官室に通訳官として勤務して居たリビコフスキに、ベルリンで暗躍する部下からドイツ軍の耳よりの情報が入った。

 「開戦に備え、ソ連国境に近いポーランド領内に集結し、棺桶を準備して居る」ドイツ軍は作戦開始の際、戦死者を弔う為事前に兵士の為棺桶を用意する。ソ連侵攻は決定的だった。マーシングとリビコフスキの情報が一致した事で小野寺は「バルバロッサ作戦」を確信したのだ。
 小野寺の最大の情報提供者で生涯の友と為るリビコフスキは、帝政ロシアの支配下にあったリトアニアで1900年に生まれ、18歳でポーランド軍に入隊。参謀本部第二部(情報部)でドイツ課長を務めたが、独ソの侵攻で祖国を失ってリガに逃れ日本の陸軍武官室に匿われた。

 リトアニア領事代理だった杉原千畝に満州国パスポートを発給して貰い、満州生まれの白系ロシア人として40年8月、ラトビアがソ連に併合され武官室が閉鎖されると、ストックホルムの陸軍武官室に移った。大戦前から日本陸軍とポーランド陸軍に諜報で協力関係があった為だ。日本が後に真珠湾を攻撃し、両国が、交戦国同士と為っても、リビコフスキは小野寺との協力関係を続けた。
 こうした中、松岡洋右外相が訪欧した。モスクワで日ソ中立条約を結ぶ直前の41年4月である。しかしヒトラーは、同盟国の外相にソ連侵攻を秘した。松岡等日本の中枢は希望的観測から、独ソ蜜月を背景に、ドイツが英国を屈服させ、米英を牽制する事で、泥沼の日中戦争を終息出来ると夢想して居た。

 在欧武官で唯一、独ソ戦勃発予言も

 そこで在欧武官会議がベルリンで開かれた。全員が英本土上陸を主張する中、一人小野寺だけが「ドイツはソ連に向かい、独ソ戦が必ずある」と主張。するとドイツの西郷従吾補佐官は「小野寺は英米の宣伝に惑わされて居る」と非難した。
 「英本土対岸の港を視察したが、上陸用舟艇が多数あり、上陸作戦用だった」からだ。しかし、それは同盟国も欺くカモフラージュで「偽情報による撹乱作戦」だった。

 「ソ連を攻撃するが、6週間位で終わるから日本の援助は必要としない」作戦開始直前の6月4日、ヒトラーが要約大島浩大使に打ち明けた。小野寺の情報は正しかった。しかし、イタリアがユーゴスラビアを攻め、ドイツが支援せざるを得無かった事が誤算と為って、作戦開始が2か月遅れた。奇襲こそ成功したが、退却しながら降伏しない赤軍の強さは想定外だった。
 スターリンが11月7日の革命記念日に、徹底抗戦を呼び掛けると、モスクワ近郊でソ連軍の反撃が始まり、補給が途絶えたドイツ軍の進撃が止まった。

 小野寺は、新聞や雑誌等から情報を得る「オシント」を活用、更にリビコフスキの情報を合わせて冬の戦いに弱いドイツが苦戦して居る実情を掴み、参謀本部に「絶対に日米開戦不可なり」と電報を30通打ち続けた。「ドイツ劣勢であり、ドイツの勝利を期待して米英相手に戦争を始めるのは絶望的」だったからだ。
 処が参謀本部は「ドイツのソ連制覇は確実」と一顧だにせず、電報は黙殺された。

 日本軍は南部仏印に進駐。ドイツに呼応した動きと捉えた米国が対日本の石油全面輸出禁止の制裁を取った為、日米対立が決定的と為った。日本は情報を軽視して、世界情勢を見渡す客観的視野を欠いて居た。そして太平洋戦争の悲劇に突き進んだ。



 補足WIKKより・・・小野寺信 1897年、岩手県胆沢郡前沢町(現在の奥州市)出身。町役場助役・小野寺熊彦の長男として生まれる。12歳の時に熊彦が病死し、本家筋の農家・小野寺三治の養子と為る。
 遠野中学校、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期 兵科・歩兵)を卒業し見習士官(陸軍歩兵曹長)同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第29連隊附となる。
 翌1920年大正11年に発生した尼港事件を受けてニコラエフスクを保障占領し、1921年(大正10年)第29連隊はアムール河口地帯守備の為に尼港に派遣される。小野寺も最初で最後の戦場での勤務を行い、現地でロシア語を習得する。1928年(昭和3年)12月 陸軍大学校(40期)を卒業し、歩兵第29連隊中隊長と為り、会津若松へ赴任する。

 当初はドイツ駐在を希望して外国駐在試験を受けて居たが、ロシア語の能力を見込まれて翌1930年(昭和5年)3月、陸軍歩兵学校教官として千葉に転任。上官の小畑敏四郎大佐に目を掛けられ、赤軍研究を集中的に行い、ロシア専門家としての道を歩み始める。
 1932年(昭和7年)3月、小畑の人事異動に従って陸大教官に転身。此処でも本来の講義と別に個人で赤軍研究を継続する。研究を経て、ロシア革命後に機械化を進めた赤軍に対する脅威を主張する様に為る。陸大在任半年で参謀本部第2部ロシア班に引き抜かれた。作戦課長として参謀本部に配属されて居た小畑の手引きで、1933年(昭和8年)5月 ハルピンへ赴任。
 語学研修の傍らで国境視察なども行い、赤軍の作戦等についてレポートをまとめている。帰国後の1934年(昭和9年)8月、陸軍歩兵少佐に進級。

 1935年(昭和10年)12月、ラトビア公使館附武官に発令され、翌1936年(昭和11年)1月、首都リガに着任。
 ラトビアを含むバルト三国は西欧の対ソ最前線であり、各国の諜報活動が盛んであった。小野寺が赴任した当時の日本公使館は補佐官も居ない小所帯であったが、バルト三国の重要性を認識した小野寺は本国に掛け合い、隣国のエストニア・リトアニア公使館附武官を兼務する様に為る。
 三国の参謀当局は地の利は有ったが資金面から諜報範囲が限られて居た為、日本側が必要な諜報活動費を援助した。又、当時ベルリンの駐独大使館には参謀本部直属の諜報工作組織(馬奈木敬信機関)があり、対ソ工作員を養成して居た。工作員はエストニアからペイプシ湖を通してソ連に送り込んで居た為、エストニアに掛け合って送り込む為の高速船の手配も行った。1937年(昭和12年)11月、陸軍歩兵中佐に昇進。

 1938年(昭和13年)6月、参謀本部ロシア課に復帰、直後に発生した張鼓峰事件の対処に当たった後、同年10月、中支那派遣軍司令部附として上海に派遣される。
 当時中国大陸で進行中であった日華事変の収束策として、参謀本部の支那課は汪兆銘政権の樹立による和平交渉を検討して居たが、ロシア課は対ソ防衛の為には事変を早期終結させるべきと考えて居り、小野寺は武漢に籠る蒋介石との直接の交渉を企図する。

 小野寺は市内のアスターハウスホテルに事務所を置き、自前の特務機関を構えた。メンバーには軍人は一人も含まれず、共産党転向者を中心に20人程採用した。
 1939年(昭和14年)5月、香港において板垣征四郎陸相と国民党の呉開先組織部副部長との直接会談を行う根回しを行うが、汪兆銘工作を進めて居た影佐禎昭の巻き返しに遭い通ら無かった。6月には本国へ戻された上で陸大教官に就任、事実上の左遷と為った。同年8月、陸軍歩兵大佐に進級した。

         12-28-7.jpg  中央に小野寺氏

       1942年12月、ドイツ陸軍上級大将(第21軍司令官ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト、左端)以下、独陸海空軍の将校らと写る小野寺(中央)

 1940年(昭和15年)11月 スウェーデン公使館附武官に発令され、翌41年1月 ストックホルムに着任、12月に太平洋戦争(大東亜戦争)を迎えた。
 諜報活動の他に、クリプトテクニク社(現・クリプトA.G.)から最新の暗号機械を買い着けたり、ピアノ線とボールベアリングを調達しドイツ経由で本国に送って居る。1943年(昭和18年)8月 陸軍少将に進む。この頃からSD国外諜報局長であるヴァルター・シェレンベルクと共に和平工作に従事する。

 小野寺の送った機密情報は「ブ情報」と呼ばれ、海外からの貴重な情報源と為った。「ブ情報」の「ブ」は、ミハウ・リビコフスキ(Michał Rybikowski)の上官ブジェスクフィンスキの頭文字である。大戦最末期にはヤルタ会談での密約に付き、ドイツ降伏から約3ヶ月後にはソ連が日ソ中立条約を破棄、対日参戦するとの最高機密情報を日本に打電して居る。陸軍中枢はその情報を信じずアメリカとの和平の仲介をソ連に期待し続けた。

 敗戦後の1946年(昭和21年)3月に日本に帰国復員したが、同年7月まで戦争犯罪人として巣鴨プリズンに拘留された。戦後は妻百合子と共に、主にスウェーデン語の翻訳業に従事する傍ら、スウェーデンの文化普及活動に努めた。
 最晩年に『NHK特集 日米開戦不可ナリ 〜ストックホルム・小野寺大佐発至急電〜』で取材インタビューが行われ、1985年(昭和60年)12月に放映された。この番組は第12回放送文化基金賞を受賞し、小野寺の大戦中の活動に照明が当てられた。

 エピソード 陸軍士官学校では、同期の成績上位5名に軍刀が下賜されて居た。小野寺は卒業試験はトップだったがその前の成績が10番以下で在ったのが響いて総合で6番と為り拝受を逃した。代わりに、旧主の南部利淳から刀を拝領して居り、この軍刀は後にストックホルム引き揚げの際に政府に寄贈した。
 著述の才能に恵まれて居て、対赤軍戦術を纏めた参考書は「赤本」と呼ばれて居た。参謀本部ロシア班に配属後、ロシア班として中華民国や米国も含めた研究書『隣邦軍事研究』を偕行社から出版すると青年将校の間でベストセラーに為る。収益でロシア班はタイピストを2人雇う事が出来たが、直属の上司(第二部長)であった永田鉄山大佐から「儲け過ぎだ」と叱責を受けたと云う。


                     以上






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