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2020年09月30日
思わず引き込まれるゴルフボールの不思議
いつも有難うございます、とっちゃんです。
皆さんは、本物ではなくてもテレビや雑誌などでゴルフボールを見たことはありますか?
昨年は渋野日向子選手の活躍もあってか、おそらくほとんどの方が「そう言えば見たことぐらいはあるよなー」と思っているはずです。
実は、あの小さなゴルフボールの中にはとんでもない面白いネタが沢山秘められていたのです。
今回はボールの技術的進歩とともに腰を抜かすような驚きのボールまですべてを紹介します。
■小さなゴルフボールにだって変遷の歴史はある
1900年代初頭に登場したボールは、牛革の袋にガチョウの羽毛を詰めたフェザーリーボールというものでした。
値段も非常に高価で、当時の庶民にはとても手が届くようなものではなかったそうです。
次に登場したのは天然樹脂を使用したガッティボールというもの。
価格も安く手に入りやすかったものの、飛距離や弾道がばらつくなどの欠点も多く、性能的にはフェザーリーボールには及ばなかったそうです。
その後、ボールの中心部に糸ゴムを巻きつけ、その上から天然樹脂のカバーで覆うというこれまでにない特殊な方法で作ったハスケルボールが登場しました。
飛距離・方向性ともに安定していたため、しばらくの間ゴルフボールの主役となっています。
しかしその主役の座を追われるボールが登場してきました。
ここからはご存じの方も多いでしょう。
ボールの中心部に糸ゴムを巻きつけその上からカバーで覆う3層構造の糸巻きボールです。
そして今や4層構造ボールの出現で多種多様な群雄割拠の時代へと突入しています。
またタイプとしても、今や距離(ディスタンス)でも止める(スピンょ)球のどちらでもない、つまり飛距離も稼げてアイアンではグリーンにピタッと止められる第3系ゴルフボールが人気のようです。
■何故ゴルフボール表面にはあんなデコボコがあるのか?
実はゴルフボールの表面のあのデコボコは何も最初から作られていたわけではありません。
最初は、つるつるの表面だったのです。
何ためかと言えばボールの飛距離や弾道を安定させるために付けられたもので「ディンプル」と呼ばれています。
では空気力学などが発達していない当時に何故それが分かったのか不思議ですね。
実は偶然にも「ボールの表面に傷がつくと飛距離が伸び、弾道も安定する」ということに気が付いたことがきっかけでした。
つまりディンプルがあると揚力が上がる、空気抵抗も減るという2つの現象によってボールがよく飛ぶという事に人は気づいたのです。
今や競泳用の水着やスキーウェアなどにも表面のこの原理を応用してデコボコを付けているそうです。
さてそうなると次は「どんな凹凸が最適なのか」試行錯誤を繰り返すようになりますね。
ディンプルの数で言えば、最近のデータでは300〜400個前後が一般的のようです。
多すぎて少なすぎてもいけない、そんな絶妙なバランスを実現するためには非常に高い技術力が求められているのです。
■ゴルフボールにはこんな不思議なものもある
1.ナイターゴルフに最適!打った衝撃でスイッチが入り赤くフラッシュ!!
ナイターゴルフに最適で、衝撃を与えると赤く点滅して光るという画期的なボールをご存じですか?
これは「トワイライト トレーサー」という商品で実は私は実際にこれを使用したことがあります。
泊りがけでゴルフに行ったときのナイターゴルフで初めて使ってみましたが、残念ながら打った瞬間から5分間程度しか点滅してくれません。
したがってその後はラフにでも入ろうものなら、ナイターとは言え結構暗いためロストボールの連発でした。
面白グッズとしてはウケルと思いますが、余り実用的だとは感じませんでした。
やはりゴルフは天気の良いの明るい青空の下でやるのが一番です。
2.ついに夢のゴルフボールが登場か?
これって、いつかはできるだろうとは思っていました。
どんなに長いパットでも「確実にカップインするゴルフボール」を昨年ある自動車メーカーが昨年開発をしたのです。
そのボールの名は「プロパイロット ゴルフボール」というもの。
まずは、この動画を見て下さい。
「おおっ、天才少年ゴルファー現る!!」と言いたいところですが残念ながらそうではありません。
実はこれはあの自動運転システムを応用したものなんです。
つまりボールがカップインする仕組みは、外部のカメラがボールの位置を認識しルートを計算する。
そして内部に組み込まれたセンサーによって、ボールはカップまで正確に自走しているだけという仕掛けなのです。
これなら確実にカップインするのは当たり前で、分かってしまえばなんだか興ざめしちゃいます。
■まとめ
さてここまでいかがでしたか?
あの小さなゴルフボールでもその命の中に長い歴史を持っていましたね。
また、変わり種のクラブやボールには実は種も仕掛けもあるのです。
私は今春テレビショップで宣伝していたマルマンの「ダンガン7」というドライバーを購入しました。
テレビのゴルフ番組でも、ある落語家が使用しナイスショットを連発。
CMコーナーでは数十ヤードも飛距離を伸ばしたアマチュアが続々と登場していました。
家内を説き伏せ、鼻息を荒くしながら到着の日を待ちました。
その結果については言わずもがなです。
毎回、今までのクラブと併用していますが私の場合は今のところ飛距離の差はほとんどありません。
むしろ少しシャフトが短い設計になっているため、場合によっては飛んでいません。
「だからあれだけ言ったでしょ、アハハっ!!」とは家内の声。
普通のクラブには種も仕掛けもなくそこにあるのは巧みな広告宣伝だけだったのです。
落ちゆく体力を道具でカバーすることはシニアプロでも当たり前のようにやっていることです。
しかし、私のように努力も鍛錬もしてない人間にご褒美なんてあるはずがないのです。
いつかこんな言葉を聞いたことがあります。
「この世には、どんな有名人や政治家、あるいは世界の大金持ちでもどうしようもできないことがいくつかある。その中の一つはゴルフのスコアだ」
なるほどスコアはお金では買えません。
いや仮にあの必ずカップインするボールの使用が実現したとしても面白いはずはないのです。
何故ならアーサー・デイリーのこの言葉がすべてを物語っていると思うからです
ゴルフは恋愛のようなものだ。真剣じゃないと楽しくなく、真剣だと胸が苦しい。
悔しいけれど、まだまだ「ゴルフも人生も晴れ時々曇り」の日々が続きそうです。
S.T
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2020年09月06日
ゴルフも人生も大叩きすることがある、でも立ち止まらずに前に進めばすべてが過去のものになる
いつもご訪問ありがとうございます。
とっちゃんです。
日本の男子プロゴルフツァーについても実に5か月遅れでやっと開幕しました。
開幕戦となったフジサンケイクラシックは3日から6日まで開催されています。
コロナ禍の中で無観客の試合となっていますが、選手の中からは「試合ができるのが嬉しい」「仕事があるのは有難い」といった声が上がっています。
女子ツァーの方はずっと先を走っていますので追い付け追い越せで男子ツァーの盛り上がりにも大いに期待したいところです。
ところで皆さんはプロゴルファーの「大叩き」とは一体どのくらいなのか気になったことはありませんか?
ということで今回はちょっと変わった記録をご紹介します。
あったぞ大叩き記録、記録上は「122」実際には「101」って何故2つあるの?
まずは記録上ですが記録の残る1985年以降、日本男子ツアーでの、18ホールの最多スコアは1987年「東海クラシック」で鈴木規夫が記録した「122」ですが、これはスコアカードの9番ホールの欄にアウト9ホールの合計スコア「42」を誤って記入したことによるもの。
つまり「122」は誤記によるもので実打数ではないのです。
実質ワーストは85年関東オープン高尾賢治、87年関西プロ選手権丸山仁義の「93」。
誰がいつ出したの?
したがってもうひとつの「101」というのが事実上のワーストスコアとなるのですが誰がどのようにしてたたき出したのでしょうか。
時は2014年4月17日「東建ホームメイトカップ」(東建多度カントリークラブ・名古屋、パー71)の初日の事です。
主催者推薦でツアーデビュー戦となった大津将史(42=フリー)という選手が、30オーバーの101の大たたきを記録したのです。
当時の日刊スポーツ紙によると
❝帽子からシューズまで、ピンクずくめの大津が最終18番グリーンにやってきた。
掲示板の「+29」の数字にギャラリーからざわめきが起きた。
最後もボギーで、スコアは30オーバーの「101」。事実上のツアーワーストだ。
ぶっちぎりの最下位に沈み「OBも5、6発打って、9個持っていたボールが15番であと4個。ハラハラした」と振り返った。
この日がツアーデビュー戦だった。
今大会のスポンサー、東建コーポレーションのイメージキャラクターで俳優菅原文太と知り合いの縁もあり、主催者推薦を受けての出場。
02年にツアー予選会を受けた時に「プロ宣言」したが、本業は会社を経営する“社長さん”。
プロならこれだけ大たたきすれば、棄権も考えるが「こんな晴れ舞台は2度とない。夢でしたから」。
妻と3人の娘も応援に駆けつけていた。
1番ではバンカーで3回たたいて、ダブルパーの「8」。
唯一のバーディーの15番と、パーとした16番以外の16ホールはすべてボギー以上のスコアが並んだ。
大津は「101匹わんちゃんだったよ」と照れた。❞
とあります。
◆大津将史(おおつ・まさし)
1972年(昭47)4月3日、岐阜県生まれ。
ゴルフは美濃加茂高1年から始め、90年日本ジュニア出場。
ツアープレーヤーに転向したのは02年8月。
167センチ、89キロ。
でも最後は101匹ワンちゃんに例えるなんて少しホッとする内容でしたね。
上を見たらきりがない、下を向いても仕方ない
彼はかつて「藤田将史(ふじた・まさし)という名前でしたが、この3年前に養子縁組で「大津姓」になったそうです。
どこかで聞いたような名前だな・・
そう、2012年賞金王の藤田寛之とレジェンド尾崎将司を合体した最高の名前でした。
2日目オレンジ色のウェアで臨んだ大津は「83」で結局通算42オーバーで予選落ち。
この大会の優勝者は宮里優作でした。
ちなみに日本ツァーでの最少スコアは2010年中日クラウンズの石川遼のなんと「58」。
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まとめ
ゴルフとはなんとも不思議な世界です。
大津選手にとってはやっと立てた「夢の舞台」でしたが、ちょっぴりほろ苦いデビューのようでした。
私たちも生きていればこれに似た経験はいくつもあります。
うまくいくばかりが人生じゃない、楽しいばかりがゴルフじゃない。
最後にこんな言葉が大津選手ばかりか私たちにもピッタリくるような気がします。
ゴルフとは
自分が前へ進めば、楽しいことも辛いことも後ろへ過ぎ去る。人生は決して止まらない。
デービス・ラブ3世(Davis Love III)
(1997年の全米プロゴルフ選手権優勝者。アメリカPGAツアーで21勝を挙げた。世界ランキング自己最高位は3位。)
ゴルフも人生も立ち止まってばかりでは何も生まれません。
どんなことがあっても上を向いて前進あるのみです。
ハイ、今日はここまで!!
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posted by 戸崎史朗 at 12:03
| ゴルフ珍記録・びっくり話
2020年08月02日
そういう事か、ゴルフのアウトコースとインコースは人生に通じる道なのか
こんにちはとっちゃんです。
いつもありがとうございます。
今では27ホール以上を有するゴルフ場などではコースごとに個性ある名前が付けられていますが、今回はその基本となったアウトコースとインコースについて解説してみます。
ゴルフをご存じない方でも「アウト」「イン」という言葉は聞いたことがあるのではないでしょうか。
これはスコットランドで生まれた歴史ある言葉なのです。
実はそう呼ばれたのには今とは違う、ゴルフ場の作りに理由がありました。
その由来と意味は単純ですがとても興味深いです。
■ゴルフ場のアウトとインはとのようにして生まれたのか
名前の由来はゴルフ発祥の地として知られる、スコットランドのセントアンドリュースゴルフ場から来ています。
このゴルフ場は全英オープンなどの開催地としても広く世界に知られています。
こうした古いタイプのリンクスコースは、海岸沿いに各ホールが直線的に連なったレイアウトになっています。
セントアンドリュースは、クラブハウスを出ると最初の9ホールはどんどん遠ざかっていきます。
そして10番から18番までの9ホールはクラブハウスへ帰ってくるような動線を描く設計となっています。
したがって、最初の9つを「going out」あるいは「outward nine」(外側に向かう9ホールの意)、折り返したあとの9つを「coming in」あるいは「inward nine」(内側に向かう9ホールの意)と呼んでいました。
これが、「アウト」、「イン」の語源とされています。
また一般的には、アウトコースとは午前中に回るのでテレビ中継などでも「フロントナイン」午後からのインコースを「バックナイン」と表現することがあります。
■何故アウトスタートとインスタートに別れる必要があるのか?
どうもその背景には、プレイ人口の増加が大きく関係しているようです。
一般的に少人数であればアウトスタートでも良いのですが、これがゴルフコンペやプロでも使われる有名なコースともなるとそのプレイ人数がどうしても増えてしまいます。
すべてのスタートを1番から始めた場合、季節によっては終盤には日が暮れてしまうこともあり時間がかかって仕方ありません。
そこで考えられたのが円滑な流れにするためにイン、アウトの両方からスタートさせることでより多くのゴルファーが一度にコースを利用できるという方法です。
■時代とともにコースレイアウトにも変化が生まれた
先に挙げたスコットランドの例ではイン、アウトに別れてのスタートはまず考えられません。
そこで、アメリカで考えられたのがクラブハウスの前に1番と10番が並んでいるコース構成です。
現代のゴルフコースは、世界中どこでも9ホールプレー終了時点で、一度クラブハウスに戻ってこれるレイアウトが主流です。
特に日本では、一部のコースを除いて9ホール終了後お昼の休憩や食事を挟みますので一旦クラブハウスに戻っていくケースがほとんどです。
したがって、本来の意味である「going out」、「coming in」はなかなか味わえなくなっていますが伝統的な呼び名は今も残っているということです。
もっとも日本を除くほとんどの国では昼休憩をしないスループレーを基本としています。
■まとめ
では何故そのように外国と日本でゴルフ文化に差が出てきたのかと言えばこれに尽きます。
日本においてはバブル期に社交目的で造られたゴルフ場が多いため、イン、アウトに別れてのスタートや前半と後半の間に昼食休憩を挟むコースが当たり前となったからです。
私にも経験がありますが、バブル期には昼の休憩時間が1時間半以上はザラでした。
そしてクラブハウスの中も外も人で溢れている時代でした。
食堂のテーブルの上には徳利が何本も転がり、話し声と歓声で仲間の話がよく聞き取れないほどのざわめきに包まれていました。
そこはまるでゴルフ場ではなく宴会場のようでそれがまた楽しいという時代でもありました。
そういえば、代理店とのあるコンペでのこんなエピソードを思い出しました。
同伴プレーヤーの中にやや高齢ですが、無類の酒好きの方がいらっしゃいました。
余りに混んでいたせいなのか、「ワンカップ大関」というお酒をチビチビ飲みながらプレーしていました。
パットは軽く「ワンカップ」以上外れます。
結局何本飲んだのでしょうか・・
最後の頃はベロベロで、当然のことながらその方の成績は「大関」どころか「最下位の番付」でした。
後で聞いた話によると「今日の酒の量は少なすぎた、あれは相撲で言えば序の口だ」との回答。
この飄々とした受け答えにとにかく笑うしかありませんでした。
今ならマナー違反でつまみ出されるかも知れません。
私も嫌いな方ではありませんが、昼食時にはハイボール一杯と決めています。
何故ならそれ以上になると家内の表情がとたんに険しくなってくるからです。
ところでゴルフって朝ドキドキしながらスタートしていき、やがてクラブハウスに戻ってきますね。
その間、いろんな荒波にもまれてアウトでは泣き、インでは笑顔で帰ってくるものもいます。
昔「男は一歩外に出れば7人の敵がいる」と言われましたが、ゴルフの場合敢えて言えば「風」「雨」「池」「暑さ」「寒さ」などほとんど自然のものが敵です。
本当の敵は自分自身しかいないので誰のせいにもできないのです。
ここに私はゴルフの難しさと人生の厳しさや悲哀が重なって見えて仕方ないのです。
「ゴルフと人生、アウトとインの繰り返し」
ここには実にいろいろな人間絵巻が展開されているものです。
ハイ、ではまたお会いしましょう!!
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posted by 戸崎史朗 at 12:04
| ゴルフ珍記録・びっくり話
2020年06月22日
世界初の女性ゴルファーからファッションを変えたある衝撃的な事件まで
とっちゃんです
いつもありがとうございます。
各府県をまたいでの移動制限が解除されて初めての週末はどこも大変な人出だったようです。
ゴルフ場においてもこれから賑わいが戻ってくるものと思われます。
さて今回は初めてと言ってもいいでしょう、ゴルフにおける女性の歴史についてまとめてみました。
■世界初の女性ゴルファーは誰でしょう?
世界初の女性ゴルファーといえば、一般的にはスコットランドのメアリー女王であると言われています。
というのは1565年にシートン城近くのリンクスでゴルフをしたという公式な記録が残っているからだそうです。
ただ、メアリー女王以外に女性がプレーしたという史料が19世紀になるまで存在していないというだけで実際のところは誰かははっきりとはわかっていません。
当時のゴルフは、今日のように長い距離を飛ばした後、球を転がしてホールに入れるというものではなくどちらかと言えば「球ころがし」とい程度のものでした。
夫が亡くなった3日後には、ゴルフコースに出ていたといいますから、相当なゴルフ好きだったのでしょう。
ちなみに彼女は、フランスから連れてきた「カデット」と呼ばれた召使にバッグを運ばせていました。
どうやらこれが「キャディ」の語源とされているようです。
■女性のゴルフ社会はこうして発展してきた
19世紀の文献には、スコットランドの漁村に住む漁師の女房や娘たちは男同等の仕事をし、休日にはゴルフやフットボールにも興じていたという記述が残っています。
やがて、その女性たちはグループを作り、それがレディスゴルフクラブに発展していきました。
1872年には、セントアンドリュースの地方新聞にこのゴルフクラブの話題が記事になりました。
この記事によると、女性たちのゴルフはパッティンググリーンでのプレーに限定されてはいたものの、数多くの競技会を開催していたそうです。
なんやらそうした光景が目に浮かんでくるようですね。
おなじ頃、イングランドの上流階級の女性たちの間にもゴルフが広まっていったそうです。
ウィンブルドンなどの地域では、上流階級を中心としたレディスゴルフクラブが組織され、こうして各地で次々と多くのレディスクラブが生まれていきました。
そして1893年、最初の全英女子選手権競技が開催。
優勝したのは、当時18歳の貴族出のレディ・マーガレット・スコット(1874-1938)です。
女性もうっとりするほどの美女だったそうです。
そんな美女がモダンなゴルフというスポーツで優勝したことにより、英国では女性の間にさらなるゴルフ熱の高まりが生まれました。
彼女は英国社交界の大スターとなり、時の人となりました。
しかも翌年の第2回、そして続く第3回でも優勝したというのは驚きです。
■当時の女性のゴルフファッションは驚くべきもの
それではファッションはどうだったのか見ていくことにしましょう。
女性が本格的にゴルフを始めたビクトリア女王時代(1837〜1901年)は、産業革命による経済の発展が成熟に達したイギリス帝国のいわば絶頂期でした。
同時にこの時代は、淑女が人前でひざや二の腕をさらすなどとんでもないことで、衣装といえば歩くのにも邪魔なロングドレスを着用していました。
また当時のレディスゴルファーたちは、コルセットで胴をきつく締めつけていて、球を転がすのが主体だったとはいえ、よくこの衣装でゴルフをやったものだと思います。
もっとも、ファッションに関しては男性も山高帽に燕尾服、それにネクタイ着用でした。
1910年代の後半になると、ゴルフ新興国アメリカが、先進国のイングランドを凌駕するようになりました。
そしてファッションについてこんな言葉で大革命が起こったのです。
その人物とは、ウォルター・ヘーゲンというプロゴルファーです。
(1890〜1969年、ニューヨーク生まれで全米オープン2勝、全英オープン4勝、全米プロ5勝という実力者)
その彼が1924年全英オープンに勝った後にこう言ったのです。
「イングランドのプレーヤーが伝統を重んじて、旧来通りネクタイを締めて、上着まで着込んでいるのに対して、アメリカのプレーヤーは軽快に動けるセーターでプレーしている。イングランドがアメリカに勝つためには、まずその窮屈な上着を脱いで、プレーに専念できる服装にすることだ」
これは、なかなかの説得力をもった表現であり男女のゴルフファッションに大きな影響を与えました。
■女性のゴルフファッションを変える衝撃的な事件が発生
女性服飾史によると、スカートの裾が短くなったのは第1次世界大戦(1914-1918)後だそうです。
女性の社会的地位が叫ばれ、機能性を優先したからです。
そして、1933年のイングリッシュ・レディース選手権で衝撃的な事件が発生したのです。
出場選手のひとりが真っ黒なスラックスでスタートホールのティーグラウンドに現れたのです。
上半身も真っ黒。まるで男性のようないでたちでした。
トーナメント会場は騒然としました。
ズボンを履いてプレーしたという女性は前例がないということで、大会役員たちは急遽会議を行い、その選手に警告を与えることにしたそうですが、彼女は1回戦で敗退、そのまま帰宅してしたため、警告には至らなかったそうです。
機能性を重視しはじめた時代背景もあり、これ以降、少しずつスラックスを着用する選手が増えていきました。
第二次大戦後には、男性と同様のゴルフシャツにキュロットやスラックスでプレーをするようになり、その後、現在における基本スタイルの襟付きシャツ、スカート、パンツというアイテムが登場し、定着していきました。
■最後に
そういえば、女子プロ界のレジェンド樋口久子プロがこんなお話をしていたそうです。
「私がアメリカツアーに参戦していた1970年頃、まずびっくりしたのは、女性用のゴルフウェアが売られていたことです。当時、私たちは男性用の小さいサイズのウェアでプレーしていましたからね。」
そう考えると、女性用のゴルフウェアって、つい最近のお話だと言えます。
ところで最近は中高年の夫婦ゴルファーをよく見かけます。
生涯スポーツとしては高齢になってもできるし年齢の離れたもの同士でも楽しめます。
それにしても若い女性ゴルファーがもっと増えてくれればと思います。
それを生きがいにして今後の人生を楽しむことにしたいのです。
ハイ、今日はここまでです!!
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posted by 戸崎史朗 at 15:43
| ゴルフ珍記録・びっくり話