2022年09月03日
母の生き様を映す短歌集我の心に沁むる命日の夜
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
これは皆さんご存じの俵万智さんのベストセラー「サラダ記念日」の中の一首である。
彼女の最も大きな功績は短歌の敷居をぐんと低くして我々一般人に近づけてくれたことだ。
もうひとつ、分かりにくいという点では「和歌」と「短歌」の違いが挙げられるが、近世までが和歌と呼ばれ、それ以降は短歌という呼び名に変化したものと思って差し支えない。
そうした意味では現代短歌の幕開けの役割を果たしてくれた。
この度、母親の3,000首を超える短歌を読み返したとき、どうしても触れざるを得ないと感じたのは若くして逝ってしまった僕のすぐ上の姉の事であった。
いずれにしてもこの短歌集が想像を超えるほどの豊かな発想の宝庫であったことに今更ながら驚かされた。
■日本舞踊と詩吟、そして短歌を愛した母の生涯
母の人物像を簡潔に言ってしまえば、多芸多才で多感、かつ人情味溢れる心優しい人であった。
貧しかった大正時代に生まれ、若かりし時間の多くを無残にも戦争に奪われ、逞しく生きる他しかない人生を送ってきた。
そのせいかどうかは知らないが、芯が強く頑固であったが、一方でひょうきんで面白い一面も持ち合わせていた。
趣味の詩吟や日本舞踊は本当に熱心であったが、特に日本舞踊は90歳近くまで舞台に立っていた人気者であった。
熱心さが伝わるこんな歌を残している。
八十路(やそじ)超え身の衰えを保たんと今日も舞踊に汗を流さん
初稽古霜路(しもじ)に冷たし白足袋(しろたび)を履きて夢追う吾が趣味として
またもう一つの趣味の短歌では「小宇宙」(コスモス)という合同歌集で平成2年の第七集に「さびたの白い花」、平成4年の第八集では「想ひ出」、その後も第九集、第十集まで併せて70首に余る短歌を世に送り出している。
下記は第一集から第八集の名簿であるが、第七集と第八集の中にたまたま戸崎美代子という母の名前を見つけたものである。
小宇宙(コスモス)名簿
「さびたの花」とは、小さな花のまわりで白い蝶がヒラヒラと飛んでいるように見える「ノリウツギ(糊空木)」の別名。
第七集では15首ほど掲載されているが「さびたの花」となったテーマの歌はこれである。
延々と樹海は続き所々(しょしょ)に咲くさびたの花の白き鎮(しず)まり
ところで先ほど母にはひょうきんな一面もあったと紹介したが、それが分かるこんな歌が面白い。
皮下脂肪如何(いかん)し難く重々(おもおも)と暑さに輪をかけ汗のもとなり
我が庭に度々来ては糞をする犬に云いたし立て札みよと
野良犬に対する文句までこんな笑える短歌にするとは、稀有な才能の持ち主であったに違いない。
母は人生を謳歌しながらも亡き夫や娘の分まで生き抜いて、99歳で波乱万丈だった人生の幕を閉じた。
■亡き夫(僕の父親)を偲ぶこんな歌も残している
冬雨が枕にひびく夜(よ)は思ふそばに夫の寝顔ありしを
亡き夫(つま)の足跡残るサンダルを捨てかね又も履きて物干す
実は僕の父は長い闘病生活の末に亡くなっている。
母はほとんど病院に泊まり込んで共に病と闘ってきた。
長年連れ添ってきた夫を亡くした喪失感や未練といったものがこの歌には見事に刷り込まれている。
■僕について詠んだ歌もある
初サラリーまずは母へと吾が子より封書届きし春雨の朝
安眠し長寿祈ると詩を添へて羽毛布団が息子より届きぬ
他の兄姉と違って母の側にいてやれなかった僕にはせめてこんな事しかできなかったのだ。
■若くして他界した娘(僕の姉)を思い、悲しみの底辺にいた母
母を語る上では若くしてこの世を去ったすぐ上の僕の姉の事に触れなければならないと書いた。
姉は私より2歳上で幼いころから仲が良くとても僕を可愛がってくれた。
結婚して広島県福山市に住んでいたが、心臓の病によって30過ぎの若さで他界してしまったのである。
母にとっては不幸なことに、夫の闘病生活と娘の入院が重なりあうという最悪の事態となったのだ。
当時の病院は完全看護とは名ばかりで、誰かが付き添うのが当たり前の時代だった。
母はボロボロになりながらも二つの病院を献身的に行き来した。
姉が入院していた病院は岡山県にあり、神戸とは比較的近距離にあったので僕も家内もよく見舞いに行った。
専業主婦であった家内は、まだ子供もいなかったこともあり、母や他の姉たちの代わりに進んで泊まり込みの看病をしてくれた。
このことは後々、母が家内に対して感謝も込めて全幅の信頼を置く大きなきっかけとなった。
しかし一方で、日々悪化していく姉にもう明日はなかった。
辛い手術に何度も耐え、ここまで苦しみ続けてきたというのに無情にも報われることはなかったのである。
僕が声をあげて泣いたのは社会に出てからこの時が初めてだった。
子供のころ姉と遊んだ一コマずつが目の前に浮かんでは消えていった。
本人の無念さはもとより父母やご主人の悲しみを思うだけでも胸が張り裂けそうだった。
そしてまだ若かった僕はお葬式の間中、人目もはばからずにずっと泣き続けていた。
母は姉の入院中にこんな歌を残している。
大声で泣かせてやりたし母なれば信じ難きに耐ゆる娘(こ)いとし
何故どうして唯(ただ)残念の想いのみ祈りつ歩む桜散る道
そして亡くなった後も思いは募るばかりだったのだろう・・
すすり泣く細りし声で逝きし娘(こ)の遺影に向かい日毎(ひごと)語りぬ
年経れど我が胸底に娘(こ)の笑顔十三回忌の朝雨降りだしぬ
やはりそう簡単に子供の事を忘れられるはずはない。
■それから続いた不思議な出来事
姉が亡くなってから2年後に、なんと僕は神戸から福山へと転勤となった。
希望を出したわけでもないし、まして希望が通るような会社でもない。
これは果たして偶然なのか・・
福山には姉の元ご主人や、僕の長姉の夫の親戚も住んでいたので僕たちは大いに歓迎され、とても仲良くしてもらった。
おかげで初めての転勤なのに寂しさなどは微塵も感じることはなかった。
勤務地は少し離れた府中市であったが新設されたばかりの支社だったこともあり、まるで姉が僕を呼びよせたような気がしていた。
それから5年間、僕たち家族は毎月欠かさず姉の墓参りに行った。
そしてその4年目に諦めていた二人目の子供を授かったのである。
これも偶然なのか・・
まるで人生のすべてが何かによって動かされている、そんな気がしていた。
・・あれから随分と長い月日が流れてしまった。
元ご主人はとっくに再婚していて、最近はすっかりご無沙汰している。
久しぶりにお墓参りに行ってみたいが、なんだか先方の生活にズカズカ入り込むようで少し気が引ける。
■僕が心打たれた一首と涙した一首
この度3,000首余りの母の短歌集を読み返していて心打たれた歌と思わず涙した歌が1つずつあった。
心打たれたのは、晩年車椅子で桜咲く道を通ったときに詠んだこの一首である。
花吹雪真只中(まっただなか)に車椅子止めて両手に花びら受けぬ
この花びらは喜びや怒り、哀しみや楽しさなどすべてを受け止めながら生きてきた母の人生そのものを象徴している。
そして涙したのはこの一首。
どんな人生であろうとも、日々の感謝を忘れずに生きていく大切さをこれ以上ない明快な言葉で綴っている。
ありがとう唯(ただ)ありがとうの今日一ト日(きょうひとひ)過ごせしわが身に唯ありがとう
年老いた母の絞り出すような感謝の声が今も聞こえてくるようだ。
最後に今は亡き両親や姉、そして読者の皆さんに御礼の言葉に代えて私からこの一首を捧げたい。
届いても届かなくてもどちらでも僕は言いたいあなたで良かったとS.T
スポンサーリンク
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image