安全地帯のころからそうなのですが、玉置さんはカップリングをそんなに重要視していないフシがあるというか、作ったこと忘れちゃってるんじゃないのってくらいアルバム未収録のまま放置されていることがよくあります。これもそんな曲だったのですが、奇跡的にというべきかなんというべきか、このベストアルバムに収録されました。このほか「カリント工場の煙突の上に(Single Version)」もカップリング曲ですから、アルバム未収録だったカップリング曲を収録する方針だったのかと思わなくもありません。ですが、それにしては「田園」のカップリング曲「働こうよ」は収録されてませんし、その一方でシングルでもなんでもない「CAFE JAPAN」「ROOTS」「花咲く土手に(New Recorded Version)」「JUNK LAND」が収録されているわけですから、これは本当にそのとき収録したい曲を選んだんじゃないかと思えてきます。
さて曲は『カリント工場の煙突の上に』の頃よく聴いたようなフィーリングのシンバルから始まり、ギターのアルペジオに併せてオーボエ的な音色をもつ管楽器が悲しげな旋律を奏でてはじまります。丸いけども腹にズシーンと来るベースが全体のムードを引き締めます。
「FIGHT…...OH......」と玉置さんが吐露します。なんだよ吐露って、激励とか発破とかそういうのじゃないのかファイトなんだから、と思わなくもないんですが、ホントに吐露としか言いようのない、覇気のない「ファイト」なんです。なんなら「OH」はできるなら避けたいけども仕方ないなと諦念の境地に達しています。いったい何があったんだと思わせる「ファイト」なんです。伴奏はなにやら単音の鍵盤に、ギターのアルペジオを重ねています。そしてポクポクとパーカッション……いやこれギターのボディー叩いたんじゃないですかってくらい簡素でささやかな打楽器音です。シンプル極まりません。
「ひさしぶりに」いやだけど仕方ないから喧嘩でもしなくちゃならないって感じですね、そのままに歌詞を読んだら。でも、そんなふつうの「ファイト」なわけはありませんから、たぶん自分からは手を出さないで殴られるんでしょう。もちろん殴られると痛いですからイヤなんですけど、仕方ないから殴らせるんです。詳しい事情は分かりませんが、それが「あの娘」を守る方法なら喜んで殴られましょう、もちろんやっつけてもいいんですけど、そうすると恨みを買いますから殴られて話を終わりにすることで後難を防ぐことが彼女を守る唯一の方法ならば、もちろん殴られますとも!でもまあ……痛いしなあ……という心境なのでしょう。
ふたたびベース、テンションを高めるアコギのストロークが入り、決意を確かめるように「OH FIGHT! FIGHT OH!」と二回繰り返します。今日だけでいい、もう一度だけ、と転調しつつメロディーもどんどん変化させていきながら非日常モードへと自分を突入させていくのがわかります。「勇気を」「戦う」と最高潮の伸びやかさで歌い、その直後に「フーンフーン 男にして」と二拍子を入れて一気に曲をコード進行が不安定なものにします。ここで一気に「崩れた」感覚があるのですが、そのいっぽうで歌詞は女性のために体をはる男、ファイトする男に変貌するさまを描いているという一種の倒錯がこの絶望的な気持ちで臨戦(殴られるだけですが)態勢へと変わりゆく心情を絶妙に表現しているように思われます。
さて、ここで間奏というべきか……バンバンバンバンバン、と目立つリズムを打ちつつ調を元に戻しているんですが、緩衝材的に機能しつつ曲を通常モードに戻す前のひと悶着が表現されている箇所が挿入されます。これは殴られたのでしょう。「ボコボコにされたって」と、わたしが殴られに行ったという説をぶち上げる根拠となる箇所にさしかかります。逃げないよ、好きなんだ、だから逃げやしない……もちろん殴られるというのは、物理的に拳で打撃をくらうだけではないでしょう。仕事上の攻撃をくらうとか、政治的経済的に不利益を被るとか、殴られ方はいろいろあります。そのどれもがあの娘を守るためなら耐えてみせると覚悟しなければならないほど痛いものなのでしょう。それこそ、中学生が席替えのくじ引きで一番前の席になってしまったあの娘の身代わりを買って出る程度のホンワカしたものから、ビジネスマンが借金の取り立てに苦しむあの娘の連帯保証人になる死亡必至レベルのものまであります。これは、守られた側の「あの娘」はどうしているのかが気になるレベルの熱の入れようです。元気でいてくれれば幸せなんですよ。後ろの席で新しい友達とよろしくやってこっちのことは見向きもしなくなったって、また借金して結局夜逃げしちゃったって、どこかでよろしくやっていてくれれば(人によっては)耐えられるんです。その元気はわたしの苦痛と引き換えに生まれたものなのですから。
人間は結局利己的な動機でなければ他者のために動かないものだ的な人間理解をもつ人がこの世には無視できない割合でいます。哀れなことです。親が子どもに愛情を注ぐのは自分の老後の労働力として育てているのだ、教師が教え子に情熱をもって教育を行うのは社会の奴隷を育成して自分が優位であり続けるためだ、妻が夫にやさしくするのは夫をATMとして飼いならすためだ等々、それはもう自分が食われないためにそこまで人を疑うかってくらいの自己保身の情熱で燃え尽きて真っ黒な塊になってしまっているようなオリジナル信念の持ち主がいるわけです。これはたまにいるレベルでなく、90年代にはマンガやビデオで頻繁に描かれるくらいには一般的なものでした。そうじゃない、自己犠牲は結局は自分のためなんてそんなことあるもんか、誰でも自分が一番かわいいからいざとなれば他人を犠牲にして平気だなんてことがあるか、だってここに玉置さんがいるじゃないか、こんなにも、何も得られなくたってこんな名曲をサラッと作ってしまって、カップリングにしてへたすれば曲の存在を忘れてしまっているような人がいるじゃないですか(笑)。もっとテキトーな曲だってよかったんです。「MR.LONELY」さえあれば売り上げはそう変わらなかったことでしょう。その「MR.LONELY」だって自分はいいから君は頑張って元気でやってくれ的な歌じゃないですか。この玉置さんの人間理解、とことんまで人を愛する、そのためならとことん自分は犠牲にしてもいい、とことんまで惜しみなく与える、こういう生き方をする人が同じ時代にいるんだと感じながら生きられたことは、あのつらい90年代後半からしばらくの間、わたしにとって希望でしかなかったのです。
価格:2,777円 |
幸せに「なる」のは、マジで無理だと思います。なにかに打ち込んでいて充実してるときは大変で幸せを感じるどころじゃないんですが、それをあとからみて幸せだったと「わかる」ものなんだと思います。
人生のいろいろなステージで打ち込んでいることってのは違うのですが、あの孤独で悲惨で辛かった90年代後半から2000年代初期、じつはわたしは幸せだったと思うのです。とても結婚どころじゃなかったですけどね。何しろ家賃も光熱費も食費もろくにないんですから。修行するということは、他人よりも過剰な知識なり技能なりを意図的に集中的に身に付けるということです。楽しいと思ってやっていたことはありませんが、後から思えば幸せな日々だったんです。自分のことだけやってればよかったんですから。
過剰なものはどこかで絶対にバランスをとらざるをえませんから、世の中の全ての現象もきっとそうなっているはずです。
しあわせになろうなろう、彼氏彼女が欲しい欲しい!と、鼻息を荒くしているとしあわせも恋人も離れていきました(笑)
無心で、野に咲く花の可憐さを、見つけながら私はようやく晩婚できました。感謝。ありがとうございました。