玉置浩二『LOVE SONG BLUE』二曲目、「いい顔で」です。
トランペットが響き、すぐさまベース、ドラム、シンセが入ってすぐブレイク、玉置さんが「フウーン」と唸ってギターのカッティングが始まります。トランペット……これはサックスですかね、短いフレーズを織り交ぜてミディアムテンポの心地よい……けだるいに近いですね、そんなスピードでイントロが進みます。
編成はイントロのまま歌が始まります。〜て〜て〜て〜てレッスン1、〜て〜て〜て〜てレッスン2と、もうリズムなんだか歌なんだかわからないような同じ調子の歌です。「魔法の呪文」「魔法のランプ」と、メルヘンの世界をイメージした言葉が並びますが、これは一番だけで、二番以降はまったく現実に帰ります。メルヘン要素がまったくなくなり、「最後は自分と真っ向勝負さ」とちょっと突き放したような激励に変わっていきます。思うに、これは子ども時代から青年時代に変わってゆく精神世界を表現しているのでしょう。レッスン1は6−7歳くらいまでの幼少期、レッスン2は12歳くらいまでの小学生期、くらいですかね。
この「〜レッスン1」「〜レッスン2」ですが、けだるいリズムとスピードなのに、異様にノリがよいように感じられます。若いうちはとかくスピードとか複雑さとかに目がとまるものですが、遅さとか単調さとかにも心地よい刺激はあるんだと、玉置さん・田村さんの詞・玉置さんのボーカルによって気づかされた気分です。
歌はBメロ、伴奏に大きな変化はなく、コード進行の妙と「〜たら〜う」「〜ても〜う」の繰り返し、畳みかけで曲を盛り上げていきます。伴奏と歌が完全に一体化したものすごい表現です。いや歌って本来みんなそうなんですけど、歌メロがあって、それにステキな世界を描いた詞があって、それに伴奏をかぶせていく、いやこれも当たり前だな(笑)。えーと、そういうふうに順番にバラバラに作った曲でなくて、何もかもスタジオで全部いっぺんに作って、そこにリズムやコード進行から自然に湧いてきた言葉を当てはめたような、この歌・詞・伴奏が一体化した感覚というのは久しく感じていなかったものです。実際にはちゃんと分業で順番に作ったものを重ねていっているに決まっているんです。ですから、玉置さんの頭の中に浮かんだ最初のイメージがすでに詞や伴奏をかなりの部分まで示唆するものであって、それに余計な装飾やこだわりを付加することなく作っていったものなのではないかと思うのです。ドリフの「ニンニキニキニキ」なみに無意味だけどやたらノリのいい歌詞ってあるじゃないですか、そういう歌、幼少の頃に聴いた子どもの曲くらいにまで遡らなければこの感覚には似たものが見つけられません。専業プロの作詞家ならもっと頑張っちゃうんだと思うんです。でもこのノリは出せない。専業プロの編曲家もやっぱりもっと頑張っちゃうでしょう。でもこのノリは出せない。編曲は玉置さんと星さんでやってますけど、星さんも基本は玉置さんのイメージを尊重していくらか付け足した、いくらか整えた、くらいなんじゃないかなと思います。「やる気になったらやれそう」とか「病気になっても遊ぼう」とか、もうその場のノリで思いついたとしか思えない歌詞には、こういう製作現場でしか生まれない凄みがあります。
曲は一気にサビに行きます。タイトルの「いい顔で」の意味がここで明かされます。悲しくたって苦しくたって笑顔だ、それは誰かを支えてるんだ、だから誰にも愛されるんだ、なんという強いメッセージ!なんという飾らない素朴さ!これがあのTVで化粧してすましていた玉置浩二なのか!耳を疑うようなメッセージでした。でも、ずっと心に残りました。わたくしはぜんぜんいい顔でいられませんでしたけれども(笑)、折にふれて思いだしていました。「誰〜にも愛・され・る〜」という譜割とそれを実現する活舌、なによりそのメロディーの流麗さ、これが全て一体となって正面からぶちかまされるのです。不意打ちの初弾をくらったわたくし、安全地帯サウンドをまだ期待していたところでしたから、自分が致命傷を負ったのにも気づかず、まだ斜に構えていました(笑)。ですが、こうなったらもう何をしていてもこのサビが脳内再生されるようになってしまいます。完全に降伏でした。治療不可です、アイサレンダー(レインボー)。
そして歌は短い間奏に「ヘイヘイヘイ〜」と玉置さんがさらに勢いをつけて、すぐに二番に、いやレッスン3とレッスン4に入ります。
レッスン3とレッスン4は青年期ですね。それぞれ20歳くらいまでとそれ以降のように思われます。実力とは全く無関係なことに「ウチら最強」「オレら最強」的で誇りいっぱいの人たちがウザい勢力誇示にいそしむ時期でもあります(笑)。まあ、人間関係とか情報とか流行とか、そういったものの力を敏感に感じる時期なんでしょうね。ほんとうはそんなの気休めか、よくても補強程度のものにすぎず、「最後は自分と真っ向勝負」「損得なんて〜最後はどうでもいい」という厳然たる事実を突きつけられる時期でもあります。「最強」の人たちも一人二人と目を覚まして離脱していきますが、最後まで最強と信じているコアな人たちが奈落に堕ちてゆくのもよくある話で、およそ人間社会が始まってからというもの果てしなく繰り返されてきた若者たちの姿なのです。まあ、そのときにはもう若者でなくて単に痛いおじさんおばさんなんですけども。ちなみにわたくし、危なかったです(笑)。あやうく「ささやかな部屋」で痛々しいおじさんとして朽ちるところでした。ありがとう玉置さん!
「淋しくたって」「くやしくたって」笑顔でやろうと努力して、歳をとったせいかいくぶん涙もろくなったお年頃に(涙がもっと素直に)なったとき、ようやく生業を続けられる見込みが立つくらいの、ごくごくささやかな実力を身につけることができました。最初は大丈夫かこんなんで!と思いながらでも懸命に毎日を重ねていくと、いつの間にかまあ大丈夫だろう、くらいの状態にはなれるんですね。ここを通過するのが一番苦しんですけども。だからレッスン3もレッスン4も、ほんとうにつらい人生の修行です。
曲はここで展開を変えて、いわゆる大サビに入ります。「幸せになる」ことが「無理さ」「本当に全然無理さ」と絶望的な詞をノリノリのリズムで玉置さんは歌います。なんだよ人をがっかりさせるなよと初聴時(94年)には思いました。まあわたしもまだハタチとかですからそう思うのも無理はなかったのです。いま思うと、これはレッスン3とレッスン4を経ないとわからない気持ちだったのですね。まだわたくしレッスン3の初期段階、悪くするとレッスン2も赤点で落第していましたから、とうていわかりませんでした。そう、レッスン4あたりでは無理なんですよ、幸せになるなんて。毎日が必死過ぎて、とてもそんな気分になれないのです。だから自力ではいかんともしがたいので奇跡を待ちます。「僕の顔」も「君の顔」も明日を夢見て必死に「いい顔」で今日を凌いでゆきます。幸せになるためのパートナーはすぐ隣にいるのかもしれないのに、それさえも見えません。
そして曲は最後のサビに入ります。若者は必死な「いい顔」が、誰かを支えているなんて気がつかずに、消耗していきますが、幸せの扉はすぐ隣で開きそうになっているのかもしれません。だから玉置さんはスーパーキャッチーな歌で若者たちに教えるのです。ガンバレ、いい顔でいるんだ、もうすぐなんだ、苦しいからっていい顔を崩したら幸せは遠くなるだけだぞ……
ドイツの文芸に教養小説(Bildungsroman、イギリスだとApprentice novel徒弟小説ですね)と呼ばれるジャンルがあります。ヘルマン・ヘッセとかゲーテとかによって綴られた、若者が都会にきて身を為そうと奮闘しながら成長してゆく小説です。それらの作品を読むと、むき出しの資本主義が人々を苦しめていた18−19世紀というのがいかに若者にとって身を為すに厳しい時代であったかがわかります。それがあんまり苦しいので共産主義やユートピア社会主義というアイデアが生まれて、その気になった人たちがのちに統治することになった国も結構な数であったくらいなのです。その他多くの国は修正資本主義と呼ばれる社会保障機能を強化した資本主義に舵を切ったわけなのですが、それが正しかったのかどうかは結局誰にもわかりません。
曲は一分を越える長いアウトロを、玉置さんの唸りとサックスソロで飽きさせず聴かせ、フェードアウトしてゆきます。わたくしはオーディオの前に寝転んで、実家から持ってきたヘッセ『郷愁』の文庫本なんかを読みながら、このサックスソロを聴いていました。灰皿に積まれてゆく吸い殻、蛍光灯にたかる羽虫、ぬるくなってゆくソーダ水、100年以上前の若者がたどった運命と、いままさにこれから運命を重ねるかもしれない自分、そして一生懸命それを励まして目を覚ませ!と言ってくれている玉置さんの曲、バブル崩壊から最悪に向かって静かに悪化してゆく経済状況、規制緩和の名のもとにじわりと削られてゆく社会保障、若者が走り出す気になるに舞台装置は完璧でした。でも、いやーわかってなかったですねえ、答えはすぐそこにあったのに。斜に構えてカッコつけてないで、ろくに読めないくせに読めるつもりになっていた英語でも勉強してりゃよかったのです(笑)。時は無情に、若者たちの将来を真っ黒に塗りつぶしてゆきました。五里霧中、真っ暗なその中で、「いい顔で」のメッセージがどれだけ力を与えてくれたか、分かったものじゃなかったのです。
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