『安全地帯アナザー・コレクション』十六曲目、「地平線を見て育ちました」です。「あの頃へ」のカップリングでした。北海道版JAたるホクレンのイメージソングだったそうです。知らなかった!ホクレンというのは北海道人なら幼いころからそこそこ目にしながら育っている名前ですが、それがJAだとは知りませんでした。本州と違って農協の販売店がそこかしこにあるような感じではなかった気がします。
歌詞は「おいしい生活(ゲラゲラ)」とか言ってわたくしが時折ネタにしているコピーライター糸井重里さんですね。非常に意外な起用でした。やめてくれ安全地帯のストーリーを電車中吊り広告みたいなことばで表現しないでくれ、おれの愛する安全地帯はあんたに一行でまとめられるようなバンドじゃないんだよ、余計なことしないで埋蔵金でも掘ってればいいのにと勝手に被害者ヅラしたくなるほど意外でした。よくよく考えたら糸井さんだって安全地帯サイドに頼まれたから書いたんでしょうから、とんだとばっちりというものです。
糸井さんの書いた歌詞というのは存外に多く、矢野顕子さんに数多く提供しているほか、ジュリー、前川清、和田アキ子等々実力派シンガーがズラッと並びます。わたくしの好きな「いまのキミはピカピカに光って」(ミノルタ)も糸井さんですね。もう言葉の総合商社とでも呼ぶべき無尽蔵の活躍です、埋蔵金以外。
そんな糸井さんの詞を玉置さんの曲と融合させるとどんな曲になるのか?こんな曲でした。やっちまった……安易な北海道フィーリング……もう、ガックリです(笑)。いや、普通以上にはよくできた歌だと思いますよ?いまのキミはピカピカに光ってますよ?でもねー、「北の朝はしかりつける」とか「牧草(くさ)のうえで」とか簡単に言わないでくれませんかね。朝早くに雪かきして吹雪の中登校しなければならない日々や社会科見学でバスの中まで臭ってきた牛馬の糞尿のニオイにむせかえった思い出とか、そういう内実(Gehalt)を見ないことにして安全地帯といえば北海道だ、A面の「あの頃へ」が示唆する北海道の日々だ、と、北海道をイメージだけ切り出して売り物にされたようで……これはいけない、わたくし、そうとう糸井重里さんによろしくないイメージを持っているようです(笑)。いや悪いわけじゃないんですよ、カテゴリミステイクの違和感で背中が痒くなる思いなのです。糸井さんはイメージで売ろうとする人、玉置さんは実力を示す人でその結果イメージが形成され売れたり売れなかったりする人、やってることがそもそも違うのです。仮に「ワインレッドの心」以降の安全地帯アダルト都会ロック路線というイメージで売ろうとしたころに出会っていればある程度マッチしたかもしれません。実際には松井さんがいてこその絶頂期があったわけですから、もちろんお呼びではないんですけども。
さて曲は低めのストリングス、なにやらパーカッション、そしてアコギのストロークに、玉置さんの雄叫びで始まります。いま思うとこの玉置さんの雄叫び、ほんとに玉置さんらしい節回しと歌いっぷりですね。このアコギ、これも……玉置さんが弾いてらっしゃるんじゃないかと思います。曲全体が、安全地帯で演奏した感じではありません。ギターソロも、玉置さんのガットギターでしょう。音が全体的にのちの『カリント工場の煙突の上に』にそっくりなのです。「編曲 安全地帯」というクレジットになってはいますけども、メンバーがどこまで演奏に参加したかはなんとも……ドラムもベースも、90年代後半以降の玉置ソロの音に近いように思われます。かりにメンバーが編曲・演奏したにしても、かなりシンプルに徹して、それに着想を得た玉置さんがのちに自分のソロでのサウンド基軸にしたということなのでしょう。そんな、時代はすでに次に遷っていたことをバリバリ示す曲なのですが、もちろん当時はそんなこと知らないで聴いていますので、演奏に感じるところはあんまりなく、合唱曲だなー、くらいに思っておりました。
イントロの途中からベース、ホーンが入りまして、合唱で歌が始まります。女性混じりの合唱にギリギリ安全地帯のメンバーっぽい声が聴こえるような気がしますから、メンバーもともあれ歌には参加したんじゃないかと信じたいです。
あなたの目は信じられる、あなたの手は信じられる……北海道人はこんなこと思ってませんって(笑)。まあ、あくまでイメージですね。広い広い大地が育てた視界の広さ、未舗装の大地が育てた土臭さ、こういうものを共通体験として持っていれば何かわかりあえるかもしれない、とは思わされます、一瞬だけ。だって北海道人だってハイジみたいな生活してたわけじゃないんですよ、ふつうに小中学校行って悪ふざけしたりクラスメートと気まずい関係になったりしてますって。本州の人をロッテンマイヤーさんみたいだなあなんて思いませんよ。ともあれ、合唱でさわやか道産子のイメージを出した後、玉置さんが朗々と独唱に入ります。
そのまま腕をひろげ、そのまま胸をひらいて……さきほどの「信じられる」もそうなんですが、対句的に似たフレーズを繰り返し印象を強くします。玉置さんの歌ならなおさら強くなります。王道の歌詞ですね、もちろん仕事として不可なく見事です。ですから、安全地帯のこれまで築き上げたストーリーがなければ、ふつうによくできたいい歌なのです。「〜はなぜ〜るの」「おしえておじいさん」を繰り返すあの歌が思いだされます。同じ調子で、「〜ている」「おおきく〜て」と繰り返しを忠実に守り、地平線を見て育った女性が、同じく地平線を見て育った青年に出会い、地平線の見える場所で新しい人生をともに始めようというストーリーが描かれていきます。
二番は玉置さんの独唱でサビからはじまり、そのまま玉置さんだけで間奏まで突っ切ります。さきほども言及しましたが、玉置テイストたっぷりのガットギターによるメロディー、そして「地平線を見てたわたし」「地平線が育てたわたし」というつぶやきボーカルと絡み合い、歌はBメロからはじまり合唱でサビを繰り返す後半へと続きます。
あなたの目は……あなたの手は……もしかして糸井さんは、玉置さんが北海道に帰りたくなっていたことを察知してこの歌詞を書いたのかもしれません。東京で大成功したがために揉まれ、傷つき、すっかり弱気になっていた玉置さんに、そんなに帰りたいなら帰れば?しがらみなんか知ったことじゃない、自分がどうしたいかだろ?どこに行ったってなんとかなるさと、オトナの度量を見せたのかもしれません。結果として玉置さんはこの後ほんとうに北海道に帰ってしまいます。そして、あの『カリント工場の煙突の上に』を作り上げるわけですから、もしかして糸井さんは安全地帯・玉置浩二ヒストリーにおいて決定的な役割を果たした重要人物なのかもしれません。えーと……糸井さん!「おいしい生活(笑)」とかおちょくっててすみませんでした!(笑)。
さて、この曲で『安全地帯アナザー・コレクション』のご紹介も終わりになります(「あの頃へ」はすでにご紹介済み)。ファンクラブなどに入っていたわけでもなく同世代の友人と安全地帯の動向を話し合っていたわけでもなく、ましてやインターネットなど研究用にしか存在していなかった当時、情報がとにかくありませんでした。その結果、このアルバムで安全地帯が終わったことを悟ることになったのです。ああこんなマニア用の総まとめ盤まで出るようでは、この先安全地帯の新曲が出される見込みはかなり薄いとわかってしまったのです。まさに、絶望的でした。玉置さんのソロがこの先、ソニーで三枚、ファンハウスで三枚(セルフカバーアルバム含めれば四枚)と展開してゆき、「田園」のヒットを含む盛り上がりを見せるのですが、そのことは安全地帯が遠くなったことを意味していました。
仕方ない、どんなバンドもいつかは終わるんだ……安全地帯だけが例外だなんてあるわけない……94年、まだバブルの残り香で街はとくに大きな変化を見せていませんでしたけれども、大不況の暗雲は確実に私たちの未来に影を落としつつありました。まだ自分は何者でもなく、これから何者かになるために歩み出さなければならない青年前期にあって、強制的に安全地帯から精神的乳離れをしなければならないと告げられたわたくし、油断すると泣きそうでした(笑)。ライブハウスのある楽器屋や雑居ビルの喫煙所でタバコをふかし、出番を待つ間に廊下や控室ですっかり貫禄のついたFenderのストラトでつまびくのは「エイジ」のソロや「ブルーに泣いてる」のリフ、すっかり後遺症です。やがてライブハウスからも足が遠のき、いよいよ社会の荒波に揉まれにレッツゴーという矢先に起こったのが札幌テルメの倒産と北海道拓殖銀行の破綻でした。闇しか見えねえ!大丈夫かおい!
わたくし個人はぜんぜん大丈夫ではなかったんですが、時は容赦なく人を90年代後半へと運んでゆきます。次回以降、94年『LOVE SONG BLUE』、96年『CAFE JAPAN』、97年『EARLY TIMES』『JUNK LAND』という順番で記事を書いてゆこうかと思っております。きまぐれに安全地帯ライブアルバムの紹介も挟めることがあるかもわかりません(やっとライブアルバムの扱い方を決心しました、悩んで五年もかかりました)。なにとぞご愛顧を!
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武沢さんのギターは相変わらず切れ味抜群、こういう音楽なんですよね、当時いちばん生きるのは。
https://www.youtube.com/watch?v=UichdVHe0-g
ユーチューブにフルアップは初だと思う
以前、矢萩さんのFのオリジナルサントラもあったが
いつのまにか消されてしまった聖のテーマ良かったのだが
当時の武沢さんが求めてた音楽性を知る上で貴重なので
良い時代になったもんですね
おかげさまでやっとここまできました……お待たせしました……ニ年以上も……完全に止まっていた弊ブログを動かしてくれてありがとうございます。あのとき100くらい書いただけで手が止まってしまいました。「To me」で満足したわけです。あれからまた100くらい書いたと思いますが、今回は「地平線を見て育ちました」だから大丈夫!(笑)。
アルバム最後まで今回もありがとうございました( ˊᵕˋ* )
ライブDVDで一度聴いたことのある曲が多くて(例えば「ノーコメント」とか)、このアルバムに入ってたのか〜って思いながら読んでて楽しかったです(*^^*)
LOVE SONG BLUE、大好きだからめっちゃ楽しみです!
よろしくお願いいたします!
ご紹介のブログ面白いですねえ。お母さんが金持ちと再婚していて仕送りしてくれていたのをさらけ出してみたなんて、ああそんな話あったかもな、詳細は忘れていたけど、超貧乏なばあちゃんがドラムセット買ってくれたとかメチャクチャだったなと懐かしくなりました。いや、わたくしも『STAND UP』とその前後の盛り上がりくらいはリアルで体験してますんで。知り合いがキャロルにハマっていろいろ貸してくれたのも懐かしいです。
エレキがホントに高かったころのことはわかりませんが、ムリヤリ現代に当てはめると、中学生がお年玉でレスポールスタンダードとか買おうとするような感覚でしょうかね。はっはっは、そりゃムリだ。
キティは……メルヘンすぎたんじゃないですかね、おもに多賀さんが。80年代に築いたものを90年代で使い果たしたのでしょう。安全地帯を抱えきれないんだから仕方ありません。アーティストは趣味のいい人たち多かったんですけど。なんでしょうね、うる星やつらとめぞん一刻で稼いだ分をらんまと犬夜叉で使い果たしたんじゃないでしょうか(笑)。
矢沢が近所のボンからクリスマスケーキを投げつけられた話など嘘
糸井重里の作り話に矢沢が乗る形式
ボンは家からワンホールのケーキ持ち出し意気揚々と
矢沢めがけて投げつけたのだろうか?
「そんな奴はおらんやろー」と突っ込むしかない
矢沢が子供の頃の広島大半が貧乏で金持ちのボンだとしても
甘い物に飢えてるから投げつけるぐらいなら自分で食べる
貧乏だと強調するのに祖母がドラムセット買ってくれたとか
話ちぐはぐで矢沢本人も整理できてないはず
同世代の寺尾聡が「エレキが高くてねぇ」としみじみ回想してた
矢沢エレキ所有してた陽水さん歯科医の息子だから
それなりに家庭に余裕あったはずだがエレキ持ってなかった
少し下の世代のさだまさしも加山雄三に憧れてたがエレキ持ってない
そこから逆算すると矢沢の嘘が見えてくる
興味深いブログがあったので貼っておきます
https://ameblo.jp/yazawajournal/entry-12446681399.html
それれにしてもキティなぜ破綻してしまったのだろう
リゾート型スタジオ作っただけでも凄い話なのに
中森明菜に一番多く楽曲提供してる来生たかおも関係してるから
その著作権管理料だけでも莫大な額が入ってくるはず
うる星やつらのコンプリートLDBOXも売れまくってたのに
アニメ業界にも一石投じてる
西武グループの凋落とともに「おいしい生活」の糸井さんも消えたかと思いきや、ほぼ日?まだ何かやってたんですね。ちょっと読んでみました(笑)。ふむふむ、当時はカッコつけて忙しそうにしてただけで実のある仕事なんかたいしてしてなかった……生産力はいまの1/5くらい、今のほうがよほど忙しい、か……そりゃそうだよ。わたしなんか呼ばれても会議とか行きませんから(笑)。ムダですもん。ムダでもバブル期みたいに楽しいなら行きますけど、楽しくないんですから救いがないわけです。
いろんなことがうまくいってない、色々やってみたけど好転しない、だからもう何やってもムダだ的な空気に支配されてたんでしょうね。もう安全地帯にもキティにもミュージカルファーマーズにも覇気が感じられません。連敗中の就活生みたいなもので、業界全体、目が死んでます。あの頃、もう安全地帯以外の邦楽は聴く気がなかった、すべてが虚仮にしか聴こえなかったのは錯覚ではなかったといままた確信しています。
実際には、キティにやる気が漲っていなかったわけではなく、玉置ソロ「コール」とスプリットシングルにするのを止めたことから、慌てて制作したのではないかと。全盛期なら、松井さんが急いでカップリング曲を書き下ろすことも出来たでしょうが、既にエルトン・ジョンにおけるバーニー・トーピンではなかった。むしろ世間には松本隆のような存在になってしまっていた、そんなふうに思います。
糸井さんは、安地の楽曲を作詞したわけではなく、単にコピーライターとしての、ホクレンのキャッチコピー「地平線を見て育ちました」、そのついでに作詞した程度でしょう。今でこそ「ほぼ日」でまさに尊敬されるような、憧れるような存在かもしれませんが、紛れもなく当時は「80年代ブイブイ言わせていた」「何かと業界的であんまり好きになれない」「樋口可南子はそのどこに魅かれたのか全くわからない」存在であり、そんな輩に(失礼)安地の作詞をやらせるとは、甚だ遺憾に存じます、という気分でした。
つい一年前に「俺はどこか狂っているのかもしれない」と歌っていた人が、「あなたの目は信じられる」って、誠に遺憾に存じましたよ(苦笑)。
まぁ、カップリング曲でしたから、溜飲を下げられましたが、トバさんのご指摘のように、その後の玉置さんのソロの方向性に影響を与えたなら、ある意味では、重要な楽曲だったのかもしれません。
ただ、残念ながら、安地メンバーによる演奏感は皆無。ランディ・カーバー編曲なのにクレジットされない「きっかけのWink」の逆で、安地編曲ではない(でしょうね)なのに安全地帯編曲とクレジットされる始末で、色々と残念な思いが、年月を重ねるごとに増していきました。
確かに「碧い瞳のエリス」だって、露骨にコマーシャルな曲ですけれど、それを超越するドラマ性が松井さんの詞にはありました。しかし「地平線を見て育ちました」にはそれがなかった。やはり、「作詞家」と「作詞もやる人」の違いだったのでしょう。
この次のシングルが「ひとりぼっちのエール」であり、カップリングが「あの頃へ」のライブ(キティよ、そんな安易なリリースを今までしなかっただろう?って思いましたよ)だったことで、なんとなく、この作品が浮かばれるように思えてきます。
長々と失礼致しました。