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2021年01月11日
録画、失敗? 成功?(正月八日)
先日紹介したコメンスキーのドラマが、水曜日の深夜に放送されたので、セットトップボックスのUSB録画機能を使って録画してみることにした。これならテレビはつけていなくても録画できるはずである。去年の九月に地上はデジタル放送の電波形式が変わって以来初めての試みなのだが、画面の解像度が上がってデータ量が増えていることが予想されたので、念のために夏にツィムルマンの録画をした時に使った容量32ギガのUSBメモリーを空にしてからタイマーをセットした。
翌日、USBメモリーの中の録画されたものをPCにコピーしてから、ファイル形式をコンバートするためのソフトに読み込ませてみるのだが、映像ファイルとして認識されず、音声ファイル扱いされているようだった。それでウィンドウズのメディアプレーヤーでも試してみたのだが、音が聞こえてくるだけで、映像は全く再生されなかった。
この時点では、録画に失敗したものと考え、いくつか思いつく理由の中で、ありえなさそうな容量が足りなかった説を除外するために、30分ほどの番組を同じ方法で録画してみた。今度はUSBから直接再生してみたのだが、再生できないというエラーが出た。これも失敗だと思ったのだが、ふと思いついて録画に使ったセットトップボックスで再生してみたら、何の問題もなく再生ができてしまった。録画には成功していたけれども、PCでの再生に問題があったのである。
ということはコメンスキーのドラマも録画はできているはずである。PCにコピーしたものを消さなくてよかった。後はどうやればこの映像ファイルを再生できるかである。「[TS]CT2」で始まる名前のフォルダの中に、「000.dvr」「000.ts」「info3.dvr」という三つのファイルがあるというのは、ツィムルマンを録画したときと全く同じ形式である。ただしツィムルマンのときと違って、拡張子が「ts」のファイルの表示がテレビの画面ではない。
同じ「ts」ファイルでも、新しい放送の様式に変わったことで再生できなくなってしまったようだ。使っているコンピューターが古くてウィンドウズ7だから、新しい形式に対応できていなくても仕方がないのかもしれない。職場に持っていって新しいウィンドウズで試そうかとも思ったのだが、それでは月曜日になってしまう。そこまで待ちたくはない。
ということで、ネットで検索したらこんなページがでてきた。あれこれ書いてある説明の中にはよくわからないことも多かったけれども、「VLC Media Player」というソフトを使えば再生できるかもしれないことだけはわかった。このソフト職場のいくつかのPCには入っているはずだけど、自宅のには特に必要を感じておらず、入れていなかった。
「VLC Media Player」では再生できない「ts」ファイルもありそうなことも書かれているが、試して駄目なら削除すればいいだけである。ダウンロードしてインストールして起動して、コメンスキーの動画を開いてみたら、あっさりと言うには読み込みに時間がかかって駄目かなと思ったけど、最終的には問題なく再生することができた。フラー。
ファイルのコンバートができないので、不要な部分を切り捨てることはできないのだが、今回はわりと設定がうまくって前にちょっとついているだけなので満足しておこう。ファイルサイズも意外と小さくて3Gちょっとで済んでいるし。古い形式のツィムルマンの5割り増しぐらいである。
再放送があることを確認したとき、日本時間の午前8時からといういい時間帯だったので、日本の知り合いに伝えたのだけど、なぜかこのドラマは日本では見られなかったらしい。「ボジェナ」のほうは見られたというからよくわからない。レンブラントの絵を使った関係で、外国からは見られないように制限をかける必要があったのかもしれない。確かオリンピックのネット中継もチェコ国内からしか見られないようになっていたし。
知り合いも見たそうだったから、非常事態宣言が撤回されたら日本に送ろうかな。SDカードかUSBメモリーか媒体を買ってこなきゃいけないし、電器屋今休みだし、いつになることやらなんだけど。
2021年1月9日23時。
2021年01月10日
足らざるは病床のみにあらず(正月七日)
クリスマス商戦のための規制緩和のせいで、検査数を増やしても、規制を最高レベルまで再強化しても、ワクチンの接種が始まっても感染状況の悪化が止まらず、人口約一千万人の国で連日1万5千人内外の新規陽性者が確認されている。PCR検査における陽性の割合は、40パーセントを越える日が多く、アンチゲン検査で陽性になった人が確認のために受けた影響もあることを考えても高すぎる数字である。感染者の総数は80万人に近づき、治療中の人だけでも13万人を越え、入院している人の数も7000人を越えた。亡くなった人の数も急速に増え、すでに1万3千人に近づきつつある。
こんな状況なので、病院側が限界まで配置転換をして、武漢風邪患者受け入れ用の病床を増やしたが、満杯になりつつあり、軍が準備している野戦入院病院の稼動も近いと言われている。それでどの病院にどれだけ空き病床があるかの情報を集約して、入院が必要な患者が出た場合に、どの病院に運ぶかを指示する管制システムのようなものも導入されているらしい。
ここまでが前提。年末だったか年始だったか正確には覚えていないのだが、オストラバから衝撃的なニュースが飛び込んできた。モラビアシレジア地方では、医療システム以上に火葬のシステムが破綻しつつあり、地方内の火葬場で順番待ちの遺体の数が増えすぎて、遺体を安置する場所が足りなくなりつつあるというのである。
考えてみれば、患者の数が増えれば医療機関の負担が増えるのだから、死亡者の数が増えれば葬儀関係の負担が増えるのは当然である。医療機関もそうだが、普段はある程度の余力を持って運用されていて多少の数の増加には対応できても、今回の激増ともいえる事態には対応できないのだろう。今年の9月から11月の死亡者の総数は、ここ10年、20年で最高を示した月と比べても、倍以上の数を示しているのである。火葬場の処理能力がパンクを起こしても不思議はない。
とりあえず、ハマーチェク内相が数十体の遺体を南モラビアの火葬場に移送して処理させることにして、モラビアシレジア地方の火葬場から遺体の収められた棺があふれ出す事態だけは防がれたが、処理能力の限界に近づきつつあるのはモラビアシレジア地方だけではなく、チェコ全体で火葬場が遺体であふれそうになっているらしい。それで、ハマーチェク氏は入院用の病床と同様に、どこの火葬場にまだ余力があるかをまとめて、遺体搬送のための管制システムが必要だと語っていた。
一番の問題はニュースで取り上げられるような形で、モラビアシレジア地方の知事が訴えるまで何の対処もされていなかったことで、発表前に報告を上げていなかったとは思えないことを考えると、ハマーチェク氏も含めて政府の怠慢を責められてもしかたあるまい。火葬場の状況がどうなろうと、ニュースで注目を集めるまでは、選挙での得票にはつながらないから後回しにされたわけである。
もう一つ気になるのは、葬儀会社の人が、問題の原因は火葬場の処理能力にあるのではなく、火葬に際してさまざまな無駄な義務が課されていることにあると批判していたことだ。その人の話によると、現場を知らない官僚どもが頭の中だけでルールを作るからこんなことになるのだというのだけど、具体的にどんな決まりが火葬場の状況を逼迫させているのかはわからなかった。遺体を運ぶ際には必ず二台の車で動かなければならないことになっているというのは聞き取れたのだけど、それが火葬待ちの遺体が増えているのとどう関係があるのかわからなかった。
考えられるとすれば、火葬場本来の能力を無視して一日に火葬できる数を制限していることだろうか。ただ、それなら管制システムなど導入しなくても、非常事態宣言下の政府の権限で制限を外すぐらいのことはできそうである。
日本だと火葬の後に遺族が骨上げを行なって骨壷に収める儀式があるから、他の火葬場に移されるのに反対するだろうけど、チェコではそこまでこだわらないのだろうか。移送の対象になる遺体は、遺族のいない人のものが優先されるのかもしれない。とまれ医療だけでなく、葬儀のシステムまで破綻寸前と言えば、チェコの状況がいかに危機的かわかってもらえるだろう。
2021年1月8日23時
タグ:コロナウイルス
2021年01月09日
ヤン・ネルダ(正月六日)
ネルダは、19世紀のチェコを代表する文学者の一人なのだけど、国会図書館オンラインの検索で「ネルダ」「ネルーダ」と日本語で使われていそうな表記を入力すると、チリの詩人のパブロ・ネルーダや、音楽関係者や登山関係者とおぼしきネルダ、はてはトンネルダイオードなんてものまで検索結果に並んでいて、本当のヤン・ネルダの作品の翻訳を探すのは大変だった。パブロ・ネルーダの場合には、ヤン・ネルダにちなんで筆名をつけたなんて話もあるし、ネルダがみんなチェコ人とは限らず、ややこしいことこの上ない。
とまれネルダと言えば、さまざまな雑誌に掲載され刊行された短編小説を集めて1878年に刊行された『Povídky malostranské』である。以前どこかで『小地区物語』と訳しているのを見た記憶があるのだが、プラハのプラハ城の直下の城下町にあたるマラー・ストラナ地区を舞台にした作品を集めたものである。ブルタバ川対岸の旧市街に比べると狭く小さいことからマラー・ストラナと呼ばれるようになったものと解釈している。マラー・ストラナ地区には観光名所だけではなく、日本の大使館や広報文化センターも置かれているから、チェコに来た人は大抵訪れたことがあるはすである。
この『Povídky malostranské』に収録された作品が、1960年代に日本語に翻訳され紹介されたのがネルダの作品の最初の日本語訳だと思っていたのだが、今回改めて確認したら、すでに戦前の1929年に原典不明の作品が雑誌に掲載されていたことがわかった。
@訳者不明「吸血鬼」(「文学時代」第一巻六号、新潮社、1929.10)
原典も不明。『Povídky malostranské』に収録された作品に該当するような題名のものはない。国会図書館のオンライン目録では「ヤンネルダ」と名前と名字がまとめて表記されており、作品の題名もチェコならではのものではないので、別人かと疑ったのだが、ビロード革命後に刊行された沼野充義編『東欧怪談集』(河出文庫、1995)に、石川達夫訳「吸血鬼」がヤン・ネルダの作品として収録されているので、同じ作品の翻訳と見てよかろう。ちなみに『東欧怪談集』は昨年9月に新装版が発行されているので手に入りやすくなっている。
A竹田裕子訳『フェイエトン : ヤン・ネルダ短篇集』(未知谷、2003)
残念ながら全訳ではなく、抄訳のようだが『Povídky malostranské』の翻訳が単行本として刊行されたことは喜ぶべきであろう。出版社の未知谷は昔国枝史郎の全集を刊行していたのを覚えているけれども、最近は旧共産圏の文学作品の翻訳にも力を入れているようで、チャペク以外のチェコの作家も日本に紹介されている。訳者は1970年代から児童文学の翻訳を手がけている方のようである。なぜ、日本語の題名を『Povídky malostranské』からかけ離れたものにしたのかは疑問である。
単行本として刊行されたのはこれだけだが、『Povídky malostranské』に収録された作品のいくつかが翻訳されて。全集などの短編集に収録されている。
1訳者不明「ボレルさんのパイプ」(『名作にまなぶ私たちの生き方9』小峰書店、1961)
原題は「Jak si pan Vorel nakouřil pěnovku」。版元の小峰書店は児童書専門の出版社。『名作にまなぶ私たちの生き方9』は、「北欧・東欧の文学」という副題がつけられており、チェコからはカレル・チャペクの「切手収集」も収録されている。『フェイエトン : ヤン・ネルダ短篇集』には、「ヴォレル氏が海泡石のパイプをふかしすぎた話」という題で収録されている。
2木村彰一・千野栄一訳「ドクトル・カジスヴェト」(『世界文学大系』第93巻、筑摩書房、1965)
原題は「Doktor Kazisvět」。『世界文学大系』第93巻は「近代小説集」の第三冊目で、ロシア、北欧、東欧の文学の短編が収められ、チェコからはチャペクの「金庫破りと放火犯の話」「なくした足の話」の二編も収録される。『フェイエトン : ヤン・ネルダ短篇集』では、どうも「藪医者」という題で訳されているようである。
3飯島周訳「没落した物乞いの話」(『世界短編名作選 東欧編』、新日本出版社、1979)
原題は「Přivedla žebráka na mizinu」。『世界短編名作選 東欧編』には、チャペクの「切手蒐集」「聖夜」、シュクボレツキーの「カッツ先生」も収録されている。。『フェイエトン : ヤン・ネルダ短篇集』での題名は「疫病神にとりつかれた物乞いの話」。
ちょっと順番が錯綜するけれども、「ボレルさんのパイプ」が発表された2年後にも、原典不明の短編が翻訳されている。
B栗栖継訳「そいつをどこえ?」(『世界短篇文学全集』第10巻、集英社、1963)
題名末尾の「え」が意図的なのか、誤植なのか気になるところではあるが、オンラインでは確認のしようがない。『世界短篇文学全集』の第10巻も、「北欧・東欧文学」ということで、このヨーロッパの二つの部分はまとめて扱われる傾向があったようだ。チェコからチャペクの作品(「最後の審判」「アルキメデスの死」)が収録されているのも、この時代の文学選集の短編集としては定番だったと言っていい。
現在確認できている限りでは、ネルダが、チャペク兄弟、クルダ、エルベンに次いで、日本語訳が発表されたチェコ作家ということになる。クルダとエルベンは翻訳に名前が出ていなかったから、チェコの作家として紹介された三人目と言ってもいい。
2021年1月7日10時。
2021年01月08日
夏の雪のように――コメンスキーの生涯(正月五日)
チェコテレビは毎年新年に、公共放送の威信をかけて制作した(と想像する)良質の作品を放送するのだが、今年は二日の土曜日にボジェナ・ニェムツォバーの生涯を描いた「ボジェナ」の第一回を放送したと思ったら、四日には、コメンスキーの生涯を描いた「夏の雪のように――コメンスキーの生涯」が放送された。こちらは、去年2020年がコメンスキーの没後350年目に当たるので、それにあわせて製作されたものと考えていいだろう。
この二つの作品、「ボジェナ」が一回80分の全四回の連続ドラマでチェコテレビ1で放送されるのに対して、「夏の雪のように」が約100分の長編ドラマでチェコテレビ2で放送されたのが、二人の過去の偉人に対するチェコの人たちの興味の持ちようを反映しているのかもしれない。出演者の人気にも関係があるかもしれないけれども。
さて、本題の「夏の雪のように」である。最近はテレビの番組表の確認を怠っているので、気がついたら始まっていて最初の部分は見てないのだが、何よりも素晴らしかったのは、コメンスキー役の俳優である。演技がどうこうではなく配役が素晴らしかった。若き日のコメンスキーと、老いさらばえたコメンスキーを親子で演じ分けているのである。
若い方はダビット・シュベフリーク。若いといっても1972年生まれの48歳。父親はアロイス・シュベフリークで1939年生まれの81歳。どちらも映画やテレビドラマだけでなく、吹き替えなどでも活躍する現在のチェコを代表する俳優である。この二人が同一人物を演じ分けたドラマや、親子を演じたドラマもすでに存在するが、ちゃんと見たのはこれが初めてである。
ドラマは、イタリアのウフィツィ美術館に収蔵された、レンブラントの老人を描いた作品が、コメンスキーを描いたものだということを前提に制作されている。つまり一時期近所に住んでいたらしい二人の間に交流があり、コメンスキーがレンブラントの絵のモデルになっている間に交わされる会話の中で、コメンスキーが過去のことを回想して語るという形で話が進んでいくのである。ただし、絵をレンブラントに注文したのは、実際に購入したメディチ家ではなく兄弟団の幹部ということになっている。この辺はフィクションなのかな。
チェコ語で喋る画家がレンブラントだと気づいたときには、思わず「ティ・ボレ」と言いそうになったけれども、ヨーロッパ中を移動し続けたコメンスキーを描いたこの作品の舞台は、ポーランド、スウェーデン、ルーマニア、オランダといくつもの国にまたがるのである。実際の会話が何語で行われたかなんて考証をしていたらテレビドラマにはそぐわなくなってしまう。レンブラントとコメンスキーが、実際に話をしたのだとしたら何語で話したのかはちょっと気になるけど。
コメンスキーの生涯を紹介するドラマとしてはよくできていると思う。ただ回想シーンが断片的で、コメンスキーについての知識が断片的なせいもあって、どこで何が起こっているのかわからなくなることが何度かあって、手元にH先生の書かれた本を置いて年表や地図、人名なんかを確認する必要があった。日本語の本じゃないのは、耳でチェコ語を聞きながら目で日本語を追いたくなかったからである。
自らを「チェコのノストラダムス」と称する反ハプスブルクの予言者ミクラーシュ・ドラビークが登場して重要な役を果たすのだが、それがコメンスキーの教育者とはかけ離れた一面、神秘思想家としての一面を浮き彫りにしていた。場合によっては、コメンスキーの語る理想が、「napravit」という動詞を使っているせいなのか、「人類修正計画」「人類改善計画」のように響いて、誇大妄想だと批判する人がいるのも当然のような気がした。このコメンスキーの描き方が意図的だったのか、結果としてそうなったのかはわからないが、これまで知っていながら実感をもてていなかったコメンスキーの一面に気づけたのは収穫である。
もちろん、あれだけの信仰が原因となった苦難を経てなお、自らの信仰を捨てず、神を信じ続けるコメンスキーの姿も描かれ、時に反発することもあったレンブラントも最後には感服して、コメンスキーの肖像を描き挙げる。そこに写し取られていたのは、学生を導く教師でも、信者を率いる司教でもなく、老いさらばえた一人の老人が力なくいすに座っている姿だった。絵を注文した兄弟団の幹部には受け入れられるものではなく、絵はレンブラントの元に残される。コメンスキーはそれを見て、これこそまさしく自分の姿だと喝采する。
色々なことを考えさせられたドラマだったけど、考えがまとまらないのでここに記すのはやめておこう。ただ、H先生が教えてくれたさすらいの飲んだくれとしてのコメンスキーが描かれていなかったのは残念でならない。飲み屋のシーンもあったけど、飲んだくれてわけのわからないことをわめいていたのはドラビークだった。
2021年1月6日15時。
タグ:チェコテレビ
2021年01月07日
ハンドボール代表の危機(正月四日)
今年はハンドボールの世界においては世界選手権の年で、一月の後半には男子の世界選手権がエジプトで行われることになっている。チェコ代表も出場権を得ていて、昨年末以来準備が進められているのだが、状況はあまりいいとはいえないようである。
まず、クリスマス前に、守備の柱とも言うべきパベル・ホラークが代表を辞退することを発表した。イーハ監督率いるキールでプレーするホラークは、延期されていたチャンピオンズリーグの試合のために。年末までチームに拘束されることが決まっていて、チェコに残した家族と夏からずっと会えていないのに、世界選手権に出場したら会えない期間がさらに一か月延びてしまうというのが理由のようだ。
こちらのプロスポーツの選手たちは、感染の可能性をできるだけ下げるために家族との時間も制限されているのである。例年であればドイツで単身赴任状態であっても半年も家族に会えないということはありえないのだが、去年は国境を越えた移動が制限されたために帰国できなかったようだ。年末決勝が行われたチャンピオンズリーグも、昨シーズンの試合が延期されたものだし、スケジュールも厳しいものになっているはずだ。
それはともかく、残念なこのニュースの裏側には、キールが優勝候補筆頭だとみなされていたバルセロナを破って優勝を遂げたという、チェコにとっても嬉しいニュースが存在するから、そちらを喜び称賛するべきだろう。イーハは、選手と監督という二つの立場でチャンピオンズリーグを制覇するという偉業を成し遂げたのだから。名選手が必ずしも名監督になるわけではないとはよく言われることだが、ハンドボールの場合には、特に最近は選手としても監督としても優秀さを発揮する人が増えているような気がする。
チェコ代表は、クリスマス開けに、スロバキアとの親善試合を行なった後、一旦解散し、元日に再びプルゼニュに集まった。当然、感染の有無を確認するための検査が行われたのだが、ヤン・フィリップとダニエル・クベシュという二人の監督が陽性の判定を受けてしまった。攻撃面を担当するフィリップのほうは症状が出ていないのでチームから隔離されただけのようだが、守備担当のクベシュは体調の悪化も見られるということでドイツの自宅に戻って療養することになってしまった。下手をすれば、世界選手権に帯同できない可能性もあるという。
1月6日と、9日には来年のヨーロッパ選手権の予選も控えているのだが、相手がフェロー諸島なので、何とかなると思いたい。チームは明日5日にフェロー諸島に出発する予定だが、監督の役はゴールキーパーコーチのペトル・シュトフルと、元代表監督のパベル・パウザが果たすことになるようだ。もちろんフィリップとクベシュもオンラインで練習の指示をしたりはするのだろうけど、試合中に接続が許可されているのかどうかはわからない。
12月に行われた女子のヨーロッパ選手権では、チェコ代表は善戦はしたものの勝ち点を一つも挙げられずに敗退した。大会が開催され、チェコ代表の試合が、テレビで見られるというだけでも満足するべきだということはわかっているのだが、せっかく出るからにはできるだけいい成績で帰ってきてほしいと思うのもまたファンとしては当然である。ただ全員感染することなく無事に戻ってくることが一番大切か。
エジプトでは、グループステージでスウェーデン、エジプト、チリの三チームと順番に対戦する。よくわからんけどこれまでの例から考えると、各グループ上位三チームが二次グループに進出するのかな。南米はオリンピックで強化したブラジル以外はそんなに強くなっていないはずだから、チリには勝てるんじゃないかなあ。開催国のエジプトは、アフリカだけどアラブの笛が炸裂するかどうかが問題。二次グループに進めれば御の字と考えてくれるなら、チェコは2位になれそうだけど、どうかな。スウェーデンには勝てないだろうなあ。
キールで年末までチャンピオンズリーグの試合をしていたイーハとホラークは、大会を延期するべきだと考えているようだけど、ここまできてしまうと無理だろうなあ。
2021年1月5日22時。
5日になって、選手からも陽性者がひとり出て、さらに体調不良を訴える選手もいて、ホテルで同質だった選手も含めて6人の選手が、フェロー諸島には向かわないことが発表された。いずれもベテランのチームの中心選手なので、ちょっと心配である。若手を追加で招集するという話もあるけど、代役が務まるか。ここで活躍すれば世界選手権出場につながるからモチベーションは高いだろうけど。
フェロー諸島での試合が行われるはずだった6日には、試合が延期になったというニュースが届いた。到着直後に行われた検査で選手、スタッフ合わせて8人もの陽性者が出てしまったらしい。その結果現地の保健所の判断で試合が行われないことが決まった。チェコでの二試合目の予定は9日、世界選手権へ出発する予定は12日。間に合うのか? 出場辞退だけは避けてほしいところである。
2021年01月06日
日本大丈夫か(正月三日)
箱根駅伝の結果を伝える記事を読んでいたら、沿道に観客が並んでいるのを非難するような報道が目に付いた。特に高齢者が多いことを咎める声が大きいようだけれども、老い先短い人たちが冥土の土産に年に一度の楽しみの駅伝を観戦することまで、攻撃の対象にするなんて、日本人の非寛容性も、また一段とエスカレートした感じである。沿道で応援するお年寄りを口汚く罵る連中がみんな外出を自粛しているとも思えないし、マスコミも含めて自分のことは棚に挙げて批判しているに違いない。
恐らく、一番問題なのはマスコミの報道のあり方で、必要以上に人が外に出ることの危険性を強調し、恐怖を煽るのがいけない。事実をして語らしめるというか、チェコですら簡単に手に入る実際の感染状況の危険度を示す数字は出てこず、陽性と判定された人の数だけを元に、危険だ危険だと騒いでいるだけのようにしか見えないのが日本の報道である。
感染状況を判断する際に、重要なのは検査での陽性者の数ではなく、症状が出て入院する必要のある人の数と割合であり、重症化して集中治療を受けている人の数と割合である。またどんな規準で入院と自宅療養を分けているのかという情報も必要になるし、検査における陽性者の割合も重要なはずだ。これらの情報なしに、感染状況が悪化しているといわれても、どこまで信じていいものやらわからない。
医療が逼迫しているという記事も目にするが、残念ながら具体的な数値は目にしたことがない。日本全体にどれだけ入院のための病床があって、そのうちのいくつが武漢風邪の患者用に振り分けられていて、どのぐらいふさがっているのかなどの情報なしに医療の逼迫を語られてもなあ。チェコでは流行が拡大した時期に、大き目の病院の本来は感染症とは関係ない科を閉鎖して、武漢風邪専用の病棟に改装することで増やされたものも含めて専用の病床の総数を出し、そのうちいくつ空いているのかすぐわかるし、地方ごとのデータもあって逼迫の具体的な状況がわかるようになっている。
もちろん、人的な意味で逼迫しているというなら、通常業務に加えて検査の業務が加わっているわけだから、病院の仕事が増えているのは言うまでもない。また、医療関係者が感染したり、隔離を余儀なくされることで人手不足に陥る可能性もあるが、現時点で一体どれぐらいの医療関係者が、仕事にかかわれなくなっているのかという情報も見たことがない。多いとか増えているとか当たり前のことでお茶を濁すのは報道する側の怠慢である。新たに感染する人もいれば快復する人もいるわけで、数字は日々変化しているはずである。
そして、武漢風邪の流行が本当に危険なのかどうかを示す数字、例年と比べて死者の数が増えているのかどうかという情報も日本の報道では見たことがない。チェコでは、春の流行期には例年と変わらないか、少し少ないかだったようだが、秋の大流行が始まってからは死者の数が急増し、10月11月は例年の2倍以上になっているというデータが出ている。それは武漢風邪関係の死者だけで増えているのではなく、病院が一般の患者の受入を停止したことや、病院に行くことを避ける人が増えたことなども原因となっているらしい。
こういう具体的なデータがあれば、医療が逼迫しているというか、崩壊寸前だといわれても十分納得がいくし、検査における陽性者率が50パーセントを越える日もあるチェコの感染状況がやばいことになっているというのにも異論はない。だからといって、非常事態宣言が続くのには賛成しかねるし、現在の厳しい規制に関しても、そこまで必要かという疑念を消すことはできない。
チェコではニュースで感染状況や医療の状況が報道されるたびに、この手の具体的な数値が提示されるのだが、日本でもそうなっているのだろうか。ネット上の記事を読む限りではそうは見えないのだけど。
日本で非常事態宣言を求める声が上がっているのも、正直理解に苦しむ。非常事態宣言なんて、行政上必要な手続きを簡略化することを可能にするものである。つまりは政府にフリーハンドを与えるようなものだということがわかっているのだろうか。
チェコでも他のヨーロッパの国でも、感染対策の規制を自由を侵害するものだとして抗議するデモが行われている。その自由の侵害を憲法上理論的には可能にするのが非常事態宣言なんだけどねえ。日本では、普段は政府のやり口を権力の濫用だと批判している連中が、非常事態宣言を求めるのだから意味不明である。
命が一番大切だというのは、真実ではあるのだろうが、乱発すべき言葉でもあるまい。国民の命を守るということが感染症の拡大を防ぐために、人々の自由を侵害することとイコールで結びつくわけでもない。いや、経済活動の停止によって職を失い貧困に陥る人も多いだろうことを考えると、感染対策を強化することによって失われる命もあるはずだ。そう考えると日本では「命が一番大切だ」とか、「命を守る」という言葉が軽く使われすぎている気がしてならない。チェコもバビシュ首相が乱発して誰も気にしなくなっているような気がするけど。
2021年1月4日21時。
2021年01月05日
チェコの君主たち10(正月二日)
久しぶりに思い出したので、チェコの王様たちのお話を。今回でプシェミスル家最後の王、バーツラフ3世までたどり着けるはずである。
プシェミスル・オタカル2世が。ハプスブルク家のルドルフ1世との争いに負け、モラフスケー・ポレの戦いで命を落とした後に残されたのは、まだ幼少のバーツラフ2世だった。当時7歳だったバーツラフは、父の同盟者だったブランデンブルク家のオットー5世によって幽閉されてしまう。チェコの貴族たちの要求が通ってバーツラフが解放されてチェコの王位についたのは5年後の1283年のことだった。
御年12歳のバーツラフがすぐに親政をとるというわけにもいかず、実権を握ったのはバーツラフ2世の母クンフタの愛人ファルケンシュテインのザービシュだった。この男は、性的な魅力で女性権力者に取り入って出世し実権を握った人物とされる。日本史上の道鏡みたいなものだといえばわかりやすいか。ザービシュの名前をポルノ映画の俳優が芸名とするぐらいにはよく知られた存在らしい。
とまれ、バーツラフが成長するにつれてザービシュを疎ましく思うようになるのは当然の話で、特に1285年にクンフタが亡くなった後、ザービシュの地位は不安定なものとなり、1289年にはバーツラフの命令で捕らえられ、一年半後に処刑されている。これで名実共にチェコの君主となったバーツラフ2世は、父プシェミスル・オタカル2世と同様に有能で野心的な君主であることを示し始める。
南方のハプスブルク家のオーストリアは避けて、バーツラフ2世の領土拡張の対象となったのは東方だった。まず1300年に、何度目かの試みでポーランド王位の獲得に成功する。これは武力で成し遂げたのではなく、最初のハプスブルク家から迎えた妻が亡くなった後、后としてポーランド王プシェミスウ2世の娘エリシュカ・レイチカを迎え入れたことで達成された。
当時のポーランドは大分裂時代とも言うべき、国内を統一する王のいなかった長い時代が終わり、プシェミスウ2世によって再統一されたばかりで、その死後に王権の強化を嫌う貴族たちによって都合のいい王として選出されたのがバーツラフ2世だったのだ。おそらくバーツラフ2世の側からの売り込みもあったのだろうけど、貴族たちが国内で実際の政を摂るということで話がついていたのだろうと思われる。
同様のことはハンガリーでも起こり、1301年にアールパード朝が断絶したときに、母クンフタがハンガリー王の娘だった関係で、貴族たちの決断によってバーツラフ2世に王位が提供された。バーツラフ2世はそれを息子のバーツラフ3世に与え、プシェミスル家がチェコ、ポーランド、ハンガリー三国の王位を占めることになった。武力で征服したわけではないので、三国に君臨したというと誇張になってしまうのだろうけどさ。
バーツラフ2世の治世は、比較的安定したとされるが、それを支えたのが、13世紀末にクトナー・ホラで発見され、採掘が始まった銀である。この銀でプラハのグローシュと呼ばれる新たな銀貨を鋳造することで通貨制度の改革が行われた。その結果が、ポーランド、ハンガリーの王位の獲得であり、文化的にも豊かで安定していたとされるバーツラフ2世の治世なのだろう。
残念ながらその安定した時代は長続きせず、バーツラフ2世は1305年に結核で亡くなってしまう。跡を継いだのは、まだ十代半ばだった息子のバーツラフ3世である。参考にしている子供向けの絵入りの本によれば、即位当初は典型的な放蕩息子で酒色におぼれる生活をしていたらしいが、やがて立ち直り君主としての職務を勤勉に果たし始めたという。放蕩を続けていれば暗殺されることもなく、プシェミスル王朝は、力を落としながらも存続した可能性もあったのかも知れない。
妄想はともかく、バーツラフ3世は即位した1305年の時点で、負担にしかなっていなかったハンガリーの王位を手放すことを決める。1306年には、ポーランドで反乱が起こり、鎮圧に向かうために軍勢を集めたオロモウツで暗殺されてしまう。誰がどんな目的で暗殺したのかは現在もはっきりわかっていないようだ。聖バーツラフ大聖堂前のバーツラフ広場が暗殺の舞台だと思い込んでいたのだが、実際には建物の中でくつろいでいるところを襲われたようだ。
かつて高校で世界史を勉強したときには、神聖ローマ帝国には選帝侯なるものが存在して皇帝が選挙で選ばれたというのを知って、妙に感心したものだが、王を貴族たちの選挙で選ぶというのは実はこの辺りではよくある話だった。王朝の断絶時には貴族たちの選挙でどこの国から新たな王を連れてくるかが決まるし、選挙自体が分裂して内戦になることもあるけど、後継者間の争いが起こったときにも貴族たちの意向で後継者が決まることがある。
ということで後継者のないまま亡くなったバーツラフ3世の死によって、プシェミスル王朝は断絶し、誰を次のチェコの王座にすえるかを巡って国内外で争いが巻き起こることになる。
プシェミスル家の君主I
29代 バーツラフ(Václav)2世 1283〜1305年
30代 バーツラフ(Václav)3世 1305〜1306年
プシェミスル・オタカル2世の亡くなった1278年から、バーツラフ2世が即位する1283年までの期間は空位扱いでいいのかな。
2021年1月3日24時。
2021年01月04日
去年も今年もまた(元日)
去年も同じようなことを書いたような気もするのだが、いや、二年目以降毎年同じことを書いているかもしれないが、新しい年が明けたからといって特に大きな感慨はない。大学受験を口実に、お年玉をもらうための親戚の集まりに出なくなった高校時代からその傾向はあったけれども、新年だからという理由であれこれ考えたりしたりするのを億劫だと考える怠け者なのだ。
チェコにいると、新年よりもクリスマスのほうが重要視されていて、季節はずれのうるさいだけで迷惑としか思えない花火ぐらいしか、年末年始を象徴するものはない。今年は、もしくは去年は、外出規制、販売規制のおかげで、馬鹿高い花火を自費で購入して怪我や火災のリスクを犯してまで、上げようとする阿呆はいなくなるだろうと期待していた。
大晦日の夕方に、散発的に花火の音が聞こえてきた後、外出禁止が始まる午後九時を過ぎるとぱったりとやんで静かになった。日本と同じで習慣的に見てしまうような番組はあっても、どうしても見なければならない番組、放送が中止されたら困るような番組など存在しないので、熱心に見ていたわけではないけれども、テレビの音声が花火の音に遮られない大晦日というのは久しぶりである。
午後11時過ぎにテレビを消した後は、世界が静寂に包まれ、これで12時前に除夜の鐘は無理だから、教会の鐘が聞こえてきたら厳粛で、年の改まりを感じさせる大晦日になるのになんてことを考えていた。例年は12時過ぎて新年になる前、10時ぐらいから、花火を挙げて騒ぐ人が増え始めるのだが、今年は11版を過ぎてもまったく音が聞こえてこなかった。
これなら花火の音で寝られないということもあるまいと、そろそろ寝ようかと考えていたちょうど12時。突然の轟音で寝ぼけていた眼が覚めた。例年より時間は短かったとはいえ、それから三十分ほどあちこちから花火の音が響いてきた。窓を開けて外を見たら、白い霧が立ち込めていて花火なんか見えやしない。音しかしない花火なら爆竹じゃないか。風情のかけらもありゃしない。
チェコの政府が外出は禁止したものの花火は禁止しなかったせいで、例年は多少は安全を考えてちかくのスーパーの駐車場などまで足を運んでから花火を挙げる人が多いのだが、まともな場合には自宅の庭から、最悪の場合には自宅の窓から花火をあげる阿呆どもが続出したらしい。だから、妙に音が近くて例年以上にうるさく響いたわけだ。
今日のニュースでは、自宅の玄関かどこかで花火を上げていた人が、誘爆させて隣家にまで損害を与えたとか、いくつかの事件を報じていたが、例年よりは怪我などで救急車で運ばれる人の数は少なかったようだ。それでも病院の受け入れ態勢が逼迫している中、酔っ払って花火を上げそこなって怪我をして病院に負担をかける人たちがいたのは事実である。
どうせ何の役にも立たない、何の意味もない花火なのだから、今年の状況を利用して打ち上げ型の物だけでも販売と使用を禁止してしまえばよかったのに。この手の花火はどうせ中国製の低品質のものなのだ。禁止したところで自国の産業に悪影響を与えることはないし、病院や清掃業者の負担を軽減することにもつながるから一石二鳥である。新年を祝う花火が伝統行事だというのなら、それは行政が行う公式行事としての打ち上げ花火だけで十分で、思考力の欠けた酔っ払いに危険物である打ち上げ花火を許可するいわれはない。
環境保護論者が花火禁止を言い出さないのにも不満である。個人用の花火を禁止しても新しいビジネスにつながらないから放置されるのだろうが、火薬の燃焼、使用後のゴミの散乱などを考えたら、環境破壊の度合いは、ゴミ箱にちゃんと捨てる人のほうがはるかに多いファーストフード店のストローよりもひどいことになるんじゃないかと想像する。酔っ払いにまともな片付けなど期待できないのだから。
そして、みちもの動物愛護団体が花火禁止を強く主張しないのにも納得がいかない。花火の音に驚きパニックになって家を飛び出し迷子になってしまうなんて例が続出するのは動物虐待じゃないのか。花火の音と光に野鳥が眠りを妨げられるなんて話もあるし、鶏卵生産施設の一羽辺りの籠の面積を多少広げるなんて意味不明なことをするぐらいなら、打ち上げ花火の禁止を求めたほうがはるかに動物愛護の精神にかなっているはずだ。
ということで、個人用の打ち上げ花火の生産と販売、使用の禁止を主張しない自然保護運動も、動物愛護運動も、支持する気にはなれない。って去年も同じような結論で終わったような気がする。花火に睡眠を妨げられた結果だと言い訳しておこう。
2021年1月2日12時。
2021年01月03日
聖ボイチェフ2(十二月卅一日)
前回ボイチェフ=アダルベルト(アルベルト)が成り立つことを確認した際には、チェコ語のウィキペディアで聖ボイチェフのことを調べたりはしなかったのだが、今回確認したら、日本語版にも「プラハのアダルベルト」で立項されていた。それなら普通の百科事典にも出ているのではないかとジャパンナレッジでも検索してみた。
数ある辞典、事典のうち、聖ボイチェフが見出し項目として立てられているのは、『日本大百科全書』(小学館)、『世界大百科事典』(平凡社)、『世界人名大辞典』(岩波書店)の三つで、『日本大百科全書』は「アダルベルト」、『世界大百科事典』は「ボイチェフ」、『世界人名大辞典』は「アダルベルト(プラハの)」という見出しの立て方をしている。つまり、日本でも全く無名の存在というわけではないようだ。生没年に関して、没年は三つの事典とも、997年で一致しているが、生年は、「955年ごろ」とする『日本大百科全書』に対して、他の二つは「956年ごろ」としている。大差はないか。
とまれ、『日本大百科全書』の記述を基に、チェコ史側からの解説を加えてみようと思う。最初に「ボヘミア貴族スラブニク家出身の聖職者」と書かれているのだが、10世紀後半のボヘミアにおいて、君主権を確立しようとしていたプシェミスル家と争いを続け、最終的には996年に族滅されたスラブニーク家の出身であることが、この一見聖職者である聖ボイチェフが、世俗の権力争いと無縁ではなかった原因となっている。
次に「983年プラハ司教となり」とあっさり書かれているが、プラハに司教座が設置されたのは975年のことで、ボイチェフは第二代目のプラハ司教なのである。ボヘミアを支配していたプシェミスル家はすでに大モラバの庇護の基にあった9世紀後半にはキリスト教に帰依していた。9世紀末には大モラバの、ビザンチンのキリスト教を離れて、東フランクの、ローマのキリスト教に鞍替えし、ボヘミアはマインツの司教の管轄とされていた。
本拠地に、つまりプラハに司教座を設置したいというプシェミスル家の宿願を達成したのはボレスラフ2世で、初代のプラハ司教に就任したのはザクセン出身のデトマル(もしくはティエトマル)だった。デトマルは、マグデブルグで修行した後、プラハに移り、ボレスラフ2世に仕えていたようだ。その没後二代目のプラハ司教となったのが聖ボイチェフなのである。
聖ボイチェフが選ばれたのは、デトマルと同じくマグデブルグで学んだとか、同じベネディクト会に属していたとかいう事情もあっただろうが、プシェミスル家の権力の伸長を望まない勢力の工作があった可能性も高い。スラブニーク家と対立していたプシェミスル家のボレスラフ2世が、聖ボイチェフの司教就任を望んだとは思えないし、この司教就任がプシェミスル家とスラブニーク家の対立を激化させたであろうことも容易に想像できる。
それが『日本大百科全書』に記される「有力な貴族勢力と対立し、988年辞してローマ近傍の修道院に入った」事情なのだろうが、「992年教皇ヨハネス15世により再度プラハへ派遣され」ることになる。これがチェコの政情を不安定化させたことは間違いなく、995年のスラブニーク家の族滅事件の直接の原因のひとつになったと考えて問題はあるまい。聖ボイチェフ自身は、前年の994年に「同地での布教を困難とみて、ハンガリー、ついでポーランド、プロイセンへ移り、宣教した」おかげで無事だったが、スラブニーク家で生き残ったのは、もう一人だけだったらしい。
スラブニーク家の生き残りは、ポーランドの庇護の下に入るのだが、当時ポーランドの君主となっていたのは、プシェミスル家のボレスラフ1世の孫で、ボレスラフ2世の甥に当たるボレスワフ1世だった。国内情勢を安定させ国外に勢力を拡大したボレスラフ2世の死後、息子達が権力争いを繰り広げる中、ボレスワフ1世は、スラブニーク家の生き残りをつれてボヘミアに侵攻するなど介入を繰り返し、11世紀初頭には一度はチェコの君主の座につくのである。
話を戻そう。ポーランドに移った聖ボイチェフは、異教徒だったプロシア人への布教を試み、その途上で異教の禁忌を犯したことをとがめられて殺されてしまう。それが997年のことで、その二年後の999年には、列聖を受けている。同年には、奇しくもスラブニーク家の族滅を行ったボレスラフ2世が没しており、この列聖にも政治的な意図が読み取れそうな気がする。
聖ボイチェフの遺骸はポーランドのボレスワフ1世によってグニェズノに葬られ、そのおかげもあってか、列聖の翌年である1000年に、この地に大司教座が設置されることになる。チェコを混乱させたスラブニーク家の聖ボイチェフを世俗的にも宗教的にもうまく利用して、地位を高めることに成功したのが、ボレスワフ1世だったということになろうか。
その事実が許せなかったのか、ボレスラフ2世の孫でプシェミスル家第二の盛期を築いたブジェティスラフ1世は、ポーランドに侵攻しグニェズノを占領することに成功すると、聖ボイチェフの遺骸をプラハに持ち帰ってしまうのである。そして、その遺骸は、チェコ最初の聖人であるプシェミスル家の聖バーツラフが葬られているプラハ城内の聖ビート教会に葬られることになる。敵対した貴族家の出身とはいえ、チェコの聖人はチェコにという考えがあったのか、ポーランドの宗教的な地位を貶める目的があったのか、その辺はよくわからない。
以上が、すでに書いたことも含めて、聖ボイチェフを中心としてみたチェコの歴史ということになる。大晦日にキリスト教関係者の話。聖ボイチェフを列聖したのが時の教皇であるシルベストル2世だからいいということにしよう。
2021年1月1日20時。
2021年01月02日
聖ボイチェフ1(十二月卅日)
オロモウツに戻ってきて、ブログの管理ページを開けたら、コメントが三つ増えていた。最近目にしなくなっていた偽ブランド販売ショップの宣伝めいた書き込みが、かなり昔の記事についていた。それで今朝、増えていた三つのコメントも、同じようなものかと思ったら、以前書いた日本を訪れた最初のポーランド人であるアルベルト・メンチンスキ神父に付いての記事につけられたコメントで、以前コメントをいただいたにっしゃんさんからのものだった。前回コメントをいただいたときもこんな書き出して新たな記事を書いたような気がする。
コメントは三つあって、二つは以前もコメントを頂いた「メンチンスキ神父の謎」につけられたもので、質問に答えておくと、パンフレットは、クラクフにあるイエズス会系の大学でもらってきたもので、恐らく長崎で印刷されたものの一部が、出身地のクラクフのイエズス会に寄付され、傘下の大学で配布されていたということなのだと思う。どれだけの数がすでに配布されて、どれだけ残っているのかは当然不明だけれども、大学以外にも、イエズス会関係の施設に置かれていて日本の人、日本に関心のある人が見学に来たら配っているのではないかと想像する。
にっしゃんさんはポーランド語もできる方のようで、ポーランド語の記事も紹介していただいたのだけど、読もうにも読めなかった。ポーランド語は耳で聞くと、ところどころわかるような気がするのだけど、目で見ると表記体系の違いからか、もう完全にお手上げである。ポーランド語よりは聞き取れるスロバキア語の場合には、逆に目で見たほうがわかるような気がするから不思議である。ポーランド語の記述の仕方を覚えればいいのだろうけど、怠け者なので今更勉強したくない。
ところでコメントには、パンフレットに書かれていた「メンチンスキ」というカタカナ表記でなく、「ミェンチンスキー」という表記が使われている。こちらのほうが、ポーランド語の発音に近いのだろう。とするとポーランド語の「ę」は、チェコ語の「ě」に「n」をつけたような発音と考えていいのかもしれない。こういう似ているけど、微妙に違うところが多いのが、自分が勉強して身につけた以外のスラブ語を使おうとしたときに困る点の一つである。スラブ語をいくつも勉強したと言う人も苦労しているに違いない。
三つ目のコメントは、時間的には最初かもしれないけど、「メンチンスキ神父考再び」という記事につけられていた。この記事自体が、頂いたコメントに触発されて書いたものだが、今回書かれていたのは、アメリカから始まる、日本とポーランド、過去と現在を結ぶ壮大な話で、こんな経験をされた方にあんな与太話を読ませてしまったのかと申し訳ない思いがする。
ということで、今回はミェンチンスキー神父のことではなく、ポーランドについては詳しくないし、ポーランド語も読めないからこれ以上かけることもないのだけど、ポーランドでは「ヴォイチェフ」という名前が、ドイツやイタリアなどではアルベルトになってしまうきっかけを作ったチェコの聖人、聖ボイチェフについての文章を記すことにする。この聖ボイチェフ、チェコの貴族家の出身ではあるけれども、ポーランドとの関係も深く、チェコだけではなくポーランドの守護聖人にもなっているのである。
例によって枕が長くなって、本編はまた明日ということになりそうだが、名前の話だけをしておくと、ボイチェフがアダルベルト(アルベルト)と呼ばれるというのは、ヤン=ヨハネ、パベル=パウロのような語源を同一にする名前が、それぞれの言葉で微妙に違う形になっているものとは趣をことにする。チェコの聖ボイチェフが、外国で聖アダルベルトと呼ばれることはあっても、ドイツのアダルベルトがチェコでボイチェフと呼ばれることはないのである。
チェコのボイチェフがアダルベルトと呼ばれるようになったのは、堅信を受けた際に堅信名として、師匠のマグデブルグのアダルベルトの名前をもらったからである。以後、キリスト教会の中では本名のボイチェフではなく、アダルベルトと呼ばれるようになる。そしてチェコ語版のウィキペディアによれば、アダルベルトの短縮形であるアルベルトや、アルブレフトと呼ばれることもあったようだ。ハンガリー語だとベーラになるらしいし、知らない人には誰が誰やらさっぱりである。
ミェンチンスキー神父が、キリスト教会の中でアルベルトと呼ばれたのも、この聖ボイチェフの故事に倣うのである。アダルベルトではなくアルベルトなのは、アダルベルトが古い形で嫌われたのかもしれない。
2020年12月30日24時。