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2020年07月14日
プシェミスル家の遺産1(七月十一日)
昨日の『小右記』の記事も、後半時間が足りなくなって大急ぎでまとめた感があるが、今日の記事も似たようなものになりそうである。何について書いたものか頭を悩ませていたら、チェコ版の「歴史読本」と言ってもよさそうな、歴史好きのための雑誌の記事が目に入った。「100+1 historie」という雑誌の別冊で、去年の夏に出たチェコの魔術的な伝説を特集した号である。
その最初の記事が、プシェミスル家の遺産をテーマにしていて、チェコ各地にプシェミスル家の時代から残る建造物を紹介している。プシェミスル家の時代と一口に言っても9世紀から14世紀の初頭と長きにわたるのだけど、チェコの君主について書いているものも、プシェミスル家の君主は残り三人になって終わりも近づいているので、ちょうどいいということで、この記事に紹介されているものを紹介しよう。
最初に取り上げられているのは、プラハのビシェフラットである。この川沿いにそびえる岩山の上に建てられた城がプシェミスル家の時代から存在したことは、イラーセクのチェコの伝説などにも登場することから明らかなのだが、よくわからないのは、ブルタバ川の対岸の高台の上に建設されたプラハ城との関係である。
チェコの伝説ではなく歴史について書かれたものを読むと、大抵はプシェミスル家の最初の拠点はプラハではなく、プラハからブルタバ川を少し下ったところにあるレビー・フラデツの城だったとされている。その後、現在のプラハ城のあるところに城を建てて本拠地を移したと理解しているのだが、そうなると、この歴史のどこにビシェフラットを位置づけるべきなのかがよくわからない。プラハ城が先なのか、ビシェフラットが先なのか、ビシェフラットがプシェミスル家の本拠地だった時代があるのか。
雑誌の記事によれはビシェフラットでもっとも建築活動が盛んだったのは、チェコの君主の中で最初に王位を獲得したブラティスラフ2世とその息子のソビェスラフ1世の時代だったという。ということは、11世紀の後半から12世紀前半にかけてと言うことになるから、プラハ城のほうが先なのかな。
二つ目はズビーコフ城で、ブルタバ川の上流、南ボヘミアのピーセクの近くにある。この地に最初に城を建てたのは、プシェミスル・オタカル1世である。この手の建造物の例に漏れず、後世改築の手が入っているようだが、現存する最古の部分はマルコマンカと呼ばれる塔だという。一文字違えばナルコマンカで薬物依存症の人をさすことになるのだが、塔の名前と薬物は関係なさそうだ。
城の名前のズビーコフは、城の建つ岩山のふもとにあった村に由来するらしいが、その村は1950年代に建造されたダムによって水没したという。交通の要所だったブルタバ川沿いにはたくさんの白が残っており、中にはダムに水没する予定だったものが移築されたものもある。ブルタバ川沿いの城は交通の便が悪そうなところが多いが、ズビーコフも車がないと行きにくそうである。
城の名前の由来になった村には、伝説によれば、プラオテツ・チェフの娘の一人が、平民の男との結婚に反対されて駆け落ちし、住んでいたらしい。後に父親のチェフが娘の様子を見にきたところ、娘は平民の生活に慣れてなじんでしまっていたことから、慣れるという意味の「zviknout」から村の名前が付いたのだとか。
三つ目は、プシェミスル家のモラビア支配の拠点のひとつだった南モラビアのズノイモである。ズノイモの城の中庭には、古い円形教会があり、内部にはプシェミスル・オラーチ以来のプシェミスル家の歴史を描いた壁画が残っている。旧約聖書の名場面を描いた部分もあるようだけど、チェコにとって重要なのは、プシェミスル家の壁画である。この壁画はズノイモのプシェミスル家のコンラート2世の結婚式に際して描かれたものらしい。それで、君主ではなかったけどコンラートとその妻の肖像も描かれているのだとか。記事によれば、後世、この教会が教会としての地位を失い、さまざまな用途に用いられてきたことを考えると、壁画が完全な状態ではないにしても、現在まで保存されているのは奇跡的なことだという。
ズノイモには、こちらに来たばかりの夏に出かけてお城の見学もした。円形教会があったのも覚えているのだが、当時はチェコ語もだめだめ、チェコの歴史についての知識もほとんどない状態だったので、その歴史的な価値などまったく理解できなかった。内部の壁画についても模写が展示されていたと思うのだが、みょうちくりんな絵だなあという感想しかもてなかったような気がする。やはり先達はあらまほしきものなのである。日本語でプシェミスル家について語れる先達がどれだけいるかと言う問題はあるけど。
長くなったので、以下次号。
2020年7月12日14時。
タグ:プシェミスル家