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2020年07月13日

永延二年八月の実資(七月十日)



 この月は、『小右記』の記事が残っていない三日から。『大日本史料』には、円融上皇が大僧正の寛朝によって灌頂を授けられたことが立項される。綱文では「両部灌頂」とされているが、金剛界の灌頂と胎蔵界の灌頂のことである。引用された『灌頂記』によれば、三日に受けたのは金剛界の灌頂で場所は上皇の居所の円融院。胎蔵界の灌頂は廿八日に遍照寺で受けている。遍照寺は寛朝が翌年に創建した寺なので、年が合わないけれども、遍照寺の基になった(と考えてよさそうな)広沢房のことだろうか。
 寛朝は、宇多天皇の孫で、東大寺別当などを経て大僧正にまで昇った真言宗の僧だが、『小右記』関係で重要なのは、円融上皇出家の際に受戒の戒師を務めたことである。残念ながら上皇が出家した寛和二年の記事が残っていないため、『小右記』では読むことができない。また、遍照寺が花山上皇の勅願で創建されるなど、当時の皇室と極めて密接な関係のあった僧である。この円融上皇の受戒については他の仏教書にも記録が残っているようである。

 
 この月最初の『小右記』の記事は七日のものである。この日、実資は早朝から摂政兼家に呼び出される。五日の夜の天文の観測で、熒惑星つまり火星が、軒轅女主つまり獅子座のレグルスをよぎるような動きをしたことについてである。それで、一条天皇と皇后(この頃はまだ円融天皇の皇后だった遵子かな)に「慎むべし」という。また、この天文上の異変に対してさまざまな対策が取られている。
 一つは天台の惣持院で熾盛光の御修法を十二日と十七日に行わせることで、天台座主の尋禅に仰せが遣わされている、熾盛光の御修法は天変地異などの災の際に、災害を除き国家安泰を祈る修法とされているから、「熒惑星軒轅女主を犯す」というのは天変地異の前触れとして考えられていたのかもしれない。
 二つ目は、八万四千の泥塔を供養することで、こちらは慈徳寺で行うことを座主に伝えているが、直後にすでに終わったという文がある。供養が終わったのか、連絡が終わったのか、よくわからない。三つ目は、熒惑星つまり火星を祭る祭りを開催することで、安倍晴明が、十二日と十九日に行うことを勘申している。自分が勘申したのにサボったみたいだけどね。
 最後にこの日が内裏の物忌にあたっていたことが記され、実資も参入する。普段の物忌よりもあれこれやることが多い印象なのは、重い物忌だったのか、天文上の異変のせいか。


 続いて『小右記』の記事の欠けている十一日に「定考」が行われる。出典は『日本紀略』。これは毎年八月に行われた官吏昇任の儀式で、六位以下の官人を対象にして勤務評定を行い昇任などを決定した。


 毎月十八日は、実資は清水寺に参詣する日だが、今月は中止。参内して摂政兼家のところに出向くと、安倍晴明が熒惑星の祭に奉仕しなかったので過状を提出させるようにという指示を受けている。
 また瀧口に詰めているはずの武官たちの出勤状況がでたらめなことになっているので、蔵人所の出納に出勤簿を検臨させることが決められている。平安中期の最大の問題の一つが官人たちの怠慢でしばしばそれを戒める命令が出ているが、実効性はあまりなかったようだ。対策の一つとして出勤簿を押さえたということか。実資から指示を受けたのは出納の小槻奉親。
 最後に実資が東宮のところに出向いて、しばらくして退出したことが記されるが、これは恐らく十九日に行われた東宮の童相撲に関することであろう。


 十九日は、お昼頃に参内した後、東宮に向かっている。童相撲のためである。この日の儀式は康保五年九月五日と同じように行われたという。実資は細部まで記録しているが、ここでは省略する。大切なのは蔵人四人の振る舞いについて、「上下目を側む、朝威を虧損する者か」と記していることである。ただし、、批判された四人はいずれもあまり有名な人ではない。


 廿一日は、まず、参内してから上皇の許へ。円融上皇が受戒の戒師を務めた大僧正寛朝の広沢房に渡御した。同行したのは左近衛大将藤原朝光、右近衛大将藤原済時以下四五人の公卿。実資は夕方になって退出して再度参内。「明日の事を案内す」というのだが、「明日の事」が何を指すかは、『小右記』の廿二日の記事が欠けているだけでなく、『大日本史料』にも項目がないので判然としない。
 最後に、恐らく十九日に行われた東宮童相撲における頭弁つまり蔵人頭で弁官を兼ねていた藤原懐忠の失態について批判する。すべては藤原在国のせいだというのだけど。どうも相撲の節会の儀式を童相撲に持ち込んだのがいけなかったようだ。

 ところで、この日の円融上皇の広沢房御幸に関しては、左近衛大将藤原朝光と右近衛大将藤原済時が作った歌が『新勅撰和歌集』に収録されている。詞書は「円融院御出家の後、八月ばかり廣澤に渡らせ給ひ侍りける御供に、左右大将つかうまつり、ひとつ車にて帰侍りける」とあって、まず朝光の歌が、

  秋のよを今はとかへる夕くれはなくむしのねそかなしかりける

続いて済時の「返し」が、

  蟲の音に我なみださへおちそはゝ野原の露の色やかはらん

とある。


 廿三日は『小右記』の記事は欠けているが、『類聚符宣抄』に収録されたこの日付の太政官符から、九月に予定されている伊勢斎宮が伊勢神宮に下向する斎宮群行に関して、左右京職、五畿内、近江、伊勢などにおいては九月を歳月とすることが決められたことがわかる。


 廿九日は、『小右記』の記事はないが『小右記目録』に除目が行われたことが立項されている。当然『公卿補任』などにもこの日の除目のことが見られる。


 卅日はまず早朝に内裏を退出して、夜になって再度参内して候宿。次に伝聞の形で、斎宮群行のための大祓が行われたことが記される。また、未明と言うから、内裏を退出してすぐだろうが清水寺に参拝して、灯明を奉り、僧の高信に袈裟を与えている。最後に典薬頭清原滋秀真人の妻が亡くなったことを記す。実資は弔問の使を送っている。使は為信とあるが、詳細は不明。
7月11日13時。














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