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2018年06月23日

新聞の外国の人名表記(六月廿二日)



 チェコ代表が予選で負けてしまった結果、あまり盛り上がらないまま、いつの間にかという感じで始まっていたサッカーのワールドカップに関して、ちょっと面白い記事を見つけた。たまに取り上げる「アゴラ」の記事なのだけど、いやはや、新聞社ってのは、新聞社の社員てのは校正担当も含めて、どうしようもねえなあというのが読んでの感想である。
 この記事では、「なぜ一般紙は「ロナウド」でなく「ロナルド」なのか?」という問いに答えようとしているのだが、その答えが、ひどすぎる。ひどいのはこの記事の著者ではなく、著者が引用している毎日新聞の校閲部の解説である。孫引きになるけれども引用する。

ロナルド選手の場合、サッカーに詳しくない読者も多い一般紙は現地の発音に近づけることを優先し、逆にある程度サッカーに親しんでいる読者層に向けた媒体は、慣例の表記として「ロナウド」を選ぶ傾向にあるのではないかと推測できるのです。 (http://www.mainichi-kotoba.jp/2014/06/c.html


 新聞の記事の中には、ろくに取材もせずに、自社に都合のいいストーリーに基づいて憶測に憶測を重ねて恥じないような、何の根拠もないものがあるのは知っていたけれども、これもその一つだと言えそうである。末尾に「推測できるのです」とあるあたり、特に取材もせず、自社の表記を正当化するために、「ロナルド」のほうが現地の発音に近いのだと主張しているのは明らかだが、大嘘である。
 かつてスウェーデンのテニス選手の名前を、多くの新聞が英語風に「エドバーグ」と記していた中、現地読みに近い「エドベリ」という表記を採用する見識を見せていた毎日新聞がこんな状態だということは、他の大手新聞は推して知るべしであろう。「アゴラ」の記事の著者は、共同通信の配信する記事を利用しているからと弁護しているが、各新聞社内でそれぞれの基準に従って、表記を決め、場合によっては共同通信の表記を修正しているはずである。これは、かつては毎日新聞ですらかつての修正できるだけの見識を失ったことを示している。仮に新聞が事実を報道するものだというのなら、「推測」で自己正当化をはかるのではなく、ポルトガル語の知識を持つ人に確認するべきなのだ。
 毎日新聞の「ロナルド」のほうが現地の発音に近いという主張をでたらめだと談じる根拠としては、チェコテレビのアナウンサーたちの発音を挙げればそれで十分なのだが、その前に日本語の枠内で、説明をしておこう。

 問題になるポルトガルの選手はローマ字では「Ronaldo」と表記される。これが日本語の慣用表記として何の理由もなく「ロナウド」になるとは考えられない。ローマ字読みすれば、どう考えても「ロナルド」になるこの名前が「ロナウド」と表記されるためには、何らかの根拠が必要である。その根拠が現地のポルトガル語では「ロナウド」に近い発音がなされるということであろう。
 だから、一般紙で「ロナルド」になっているのこそ、ローマ字読み、もしくは英語の発音に基づいた慣用表記であって、海外のサッカー関係者ともやり取りをする専門誌では、その表記に飽き足らなくなって「ロナウド」という現地音に近い表記を使用し始めたというのが正しい。だから、毎日新聞の主張は全く反対なのである。「ロナルド」と慣例的に表記するのを批判するつもりはない。ただ、それをでたらめな理由で正当化するのが許せないだけである。

 チェコ語の場合には、表記は「Ronaldo」で問題はないのだが、発音が問題になる。チェコテレビのサッカー関係者は、みな「ロナウド」に近い発音を使用している。チェコ語も原則としてローマ字読みなので、特に理由がなければ「ロナルド」になるはずである。それが「ロナウド」になるのは、ポルトガル語の発音にあわせているからに他ならない。
 ちなみに人名の末尾の「do」に関しても、「ド」なのか「ドゥ」になるのか、ポルトガル語とスペイン語で違うとか、地方によって違うとか、サッカーの番組で、現地取材に基づいて議論していたのを覚えている。結局どういうことになったのかは覚えていないし、正直な話「ロナウド」と言われても、「ロナウドゥ」と言われても、単独で発音されない限りとっさには判別できないからどちらもいいと思うのだけどね。
 日本の新聞も、仮にも校閲部を名乗るのであれば、現地の発音をその言葉の専門家に尋ねて表記を決めるぐらいのことをしても罰は当たらないと思う。
2018年6月22日23時10分











posted by olomoučan at 06:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語

2018年04月21日

アクセントの話2(四月十八日)



 日本語のアクセントといえば、我々日本人はどこまで自覚的に使い分けられているのだろうか。自分のことを考えてみると、例えば「はし」であるが、「橋」「端」「箸」の三つの言葉のアクセントの違いを単語単独で発音し分けろと言われても、できない。いや正確には正しく発音し分けられているかどうかの自信がない。それに、発音し分けたつもりのものが同じなんじゃないかという不安もある。
 漢字を見ながら発音すれば、多少ましになるような気もするけれども、それでも確信は持てない。確信を持って正しいアクセントで発音しているというためには、文にしないとだめなのである。どうしてこういうことが断言できるかというと、昨日登場したアクセントマニアの畏友に飲み屋で散々追及されたからである。この「はし」は、「橋」か「端」かと聞かれて、わからんと答えたら、じゃあ自分で発音して見せてくれと頼まれ、単独だとぐちゃぐちゃになる区別が文脈がわかる形で発音すると、正しいかどうかはともかく区別はできていることを畏友に指摘されたのである。
 つまり、「はし」「はしを」だけだと、どの「はし」なのか文脈がはっきりしないため発音が不安定になるのに対して、「はしを渡る」「はしで食べる」「道のはし」のような形で口に出せば、ちゃんと発音し分けられているらしいのである。そこで疑問になるのが、「はしを渡す」の場合に、自分が「橋を渡す」で発音しているのか、「箸を渡す」で発音しているのかなのだが、状況を思い浮かべながら発音すれば、ちゃんと発音し分けられているというのが畏友の評価であった。

 こんなのは、日本語の場合には「雨」と「飴」、「柿」と「牡蠣」(アクセントが違うかどうか自信がないけど)など枚挙に暇がない。人の名字でも、「久保田」と「窪田」、「葛西」と「笠井」ではアクセントが違うらしいし。特に前者は、大学時代の先輩にこの名字の人がいて、発音の違いを指摘されてもなかなか修正することができなかった。人名だと文脈で区別できないから当時は仕方がなかったのである。
 その後、国語学をかじった後に、「窪田」の「窪」が、「窪地」の「窪」であることに気づいて、「窪地」の「窪」に「田」をつけるように発音することで、区別して発音できるようになり先輩からも文句を言われなくなった。「葛西」と「笠井」も、漢字の切れ目、特に「笠井」の「笠」を意識して発音することで、区別できるようになったと思う。これは畏友にも発音を聞かせていないし、あくまで個人的な印象に過ぎないのだけど。

 そして、数年前にさらに厄介なアクセントの話を教えられた。それは、「東」「西」「南」「北」である。この四つの言葉は、方角を表す場合にも使えるし、人の名字としても使われる。どちらも名詞であることには変わりはないし、漢字も同じなのに、方角と名字とではアクセントが違うというのである。それまでそんなこと一度も意識したこともなかったので、半信半疑だったのだが、その人が発音し分けてみせたのを聞いて、確かに違っていることが理解できた。
 自分の発音でも「北に行く」と「北さんが行く」というときの「北」のアクセントが違っていることが確認できた。どう違っているかはよくわからないけど違っているのは確かだった。それは、他の方角でも同じで、日本語の発音というのは簡単な陽でおくが深いのだなあと日本人でありながら思わず嘆息してしまったのだが、驚きはそこでは終わらなかった。
 この話をしてくれた方の出身は東京なのだが、実は西日本では方角と名字のアクセントが逆になると言うのだ。その境界となるのが静岡県の真ん中ぐらいで、そこから西と東とで方角と名字が完全に入れ替わるのだそうだ。一度関西の人に発音してもらったことがあると思うのだけど、そのときちゃんと聞き分けられたかどうかの記憶がない。

 九州は西に入るはずなのだけど、個人的には西側のアクセントで方角と名字を聞くと違和感を感じてしまう。これはアクセント崩壊型といわれるアクセントが原則として存在しない方言で育っているため、耳で聞いてまねして覚えたアクセントがテレビで使われる、特にNHKで使われるアクセントだったということによるはずである。東京近辺でも北関東にアクセント崩壊型の方言が存在して、そんな人たちが江戸、東京に入っていったことも、現在の標準アクセントの成立に寄与しているはずだから、九州の人間にとっては、京都、大阪の関西風アクセントよりも、関東風のアクセントの方が親和性が高いのである。
 昔、実家に帰って中学、高校時代の同級生達と話をすると、「気取った話かたしやがって」と非難されたものだが、それは語彙の問題ではなくアクセントの問題だったのだろうと今にして思う。それも田舎にしばらくいれば、もとの田舎のアクセントに戻ってとやかく言われなくなっていたから、アクセント崩壊型の方言で育った人間のアクセントは周囲の人たちのアクセントの影響を受けやすいということもいえるのかもしれない。そういえば、オストラバで仕事をしてオロモウツに戻ってくると、自分のチェコ語のアクセントがオストラバ方言みたいに聞こえるような気がして頭を抱えたこともあったなあ。

 ちなみに日本語のアクセントを視覚化してくれるものとしては、OJADというものがある。視覚化だけでなく耳でも聞けるようにしてくれるから、興味のある人は覗いてみてほしい。
2018年4月18日24時。





NHK日本語発音アクセント新辞典








posted by olomoučan at 05:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語

2018年04月20日

アクセントの問題1(四月十七日)



 日本で、一般に方言といった場合には、語彙について語られることが多く、文字にしにくいこともあって、アクセントの問題はあまり取り上げられない。日本語は強弱のアクセントではなく、高低のアクセントを使うために、語彙が共通していれば、アクセントが違っていても、あれなんか変だと思うことはあるだろうが、相互理解には大きな影響を与えないというのも確かではある。

 しかし、日本語が日本人並みに堪能な、あるチェコ人によれば、正確なアクセントで話すのは日本語でも重要なのだという。そんなことをのたまう我が畏友は、日本に留学したときの体験にもとづいて次のような話をしてくれた。
 雑音のない静かなところで、面と向かって、日本語で話す場合には、自分のアクセントの変な日本語でも何の問題もなかった。だけど、何人かで一度に話しているようなとき、電車の中や混雑したお店でざわついた雰囲気の中で話しているようなときには、自分の日本語ではちゃんと理解してもらえないことが多かった。そして最悪だったのが、大学の寮や、体育館でシャワーを浴びているときに、隣で浴びている友人と仕切り越しに話すときで、シャワーの音と反響とで、こちらの話を全く理解してもらえなかった。
 この体験をもとに、我が畏友は理解されなかったのは、自分の日本語のアクセントがおかしかったからだと結論付けた。つまりアクセントが正しければ、音がはっきり聞き取れなくても、それぞれの言葉のアクセントの形から、正しい音を類推できるはずなので、全く理解されないということにはならなかったはずだと言うのである。その結果、語彙や文法などの勉強に加えて、発音、特にアクセントの勉強に邁進することになるのだが、我がチェコ語の勉強振り、いや勉強しなさぶりを思い返すにつけ、つめの垢をせんじて飲むべきかと思ってしまうは確かである。

 ここで、我が畏友の努力を賞賛してそれでおしまいにすることは可能である。賞賛すべき頭の下がるような努力であることは間違いないし、はっきり聞き取れない音があった場合にアクセントが理解の助けになるのも確かなのだが、ちょっと現実に目を向けてみよう。日本人同士で話しているときであっても、電車や飲み屋の喧騒の中では話が聞き取れないことも多くないか。シャワーを浴びながら仕切り越しに話した場合にどうだったかは記憶のかなたで思い出せないけれども、ちゃんと理解できると言うことはないはずだ。
 最近、チェコでチェコ語の字幕付きで日本の映画を見ることがあるのだが、出演している人の中には、発音やアクセント、括舌のせいで何を言っているのか聞き取れない人もたまにいる。場面によっては効果音のせいで聞き取れないことも多い。

 そんなことを考えると、我が畏友ながらそこまでする必要はあったのかねと言いたくなってしまう。確かにアクセントの勉強に力を入れた後、あいつの日本語は聞き取りやすくなった。しかし、もともと発音自体は綺麗だったから、いっちゃあ悪いけど誤差の範囲であった。そういう評価になったのは、NHKのアクセント辞典を持ち歩き、ことあるごとに、このアクセントは? と質問されて、アクセント崩壊型方言で育った人間に答えられなかった恨みが含まれていないとは言わないけれども、アクセントの勉強を終えたこいつの発音は、ちょっと悪い意味で日本人的になっていて、前より聞きにくいぞと思わされたこともあるのである。そこまで日本人的な発音を目指さなくてもいいというか、目指すなら個々の発音をサボらないNHKのアナウンサーの日本語だと思う。普通の日本人の発音って、自省も含めて言うと、結構端折って外国人より聞きにくかったりするからさ。

 じゃあ、チェコ語のアクセントはというと、アクセントが変わると、勉強してチェコ語を身に付けた外国人には非常に辛いことになる。オストラバ近辺の方言のアクセントが、ポーランド語の影響で、語頭の音節ではなく、後ろから二番目の音節に来るようになっていて、長母音が短母音で発音されることが多いせいもあって、むかしあの辺りで通訳の仕事をしたときは、慣れるまでは泣きそうだった。

 自分のチェコ語のアクセントは、耳がよくないし意図的に発音できているわけでもないので、評価のしようはないのだけど、師匠からは悪くないという評価を受けたから、正しいかどうかはともかく、理解してもらえるという意味では問題ないのだろう。ただ、うちのにしばしば指摘されるのが、前置詞がついたときのアクセントの移動ができていないことである。名詞に前置詞が付いた場合、名詞節全体の第一音節にアクセントがくることになるので、場合によっては前置詞にアクセントを載せなければならない。それができずにアクセントを名詞の語頭に残してしまうらしい。
 らしいというのは自分ではよくわからないからなのだけど、そこまで外国人に求めないでほしいと書きかけて気づいてしまった。我が畏友はそこまでできるようになることを求めて、チェコ語のアクセントよりもはるかに厄介な日本語のアクセントの道へと踏み込んでいったのだ。あいつのこういう姿勢こそが、単に友人とは書けずに、畏友と書いてしまう所以なのであった。
2018年4月17日23時。





新明解日本語アクセント辞典第2版 [ 秋永一枝 ]








posted by olomoučan at 06:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語

2018年04月18日

弁論大会(四月十五日)



 昨日プラハに出かけた要件は、正確には知人に押し付けられた用件は、日本語の弁論大会の手伝いだった。人数足りないから手伝いに来てよと言われて、いいよと答えてもいないのに、欠席裁判で役割まで決められてしまって、今更行けないとは言い出せない状況になっていた。行くべきか行かざるべきかで悩んでいたから、背中を押してもらえたという意味では、悪くはなかったのだけど、釈然としないものが残ってしまう。
 そんな思いも、発表者の弁論を聞いてと言うと、柄にもなくきれいにまとまってしまうからやめて、交通費を出してもらえるということになったときに吹っ飛んでしまった。往復四時間多少のゆれはあるとはいえ、静かな空間でのんびりと仕事をすることができて、その経費を出してもらえるのだから、来年も呼ばれた行こうかな。そんなことを言うと、押し付けられる仕事が増えそうだから、口に出すのはやめておこう。

 チェコの日本語弁論大会は、今年で四十二回目を迎えるらしい。冒頭の挨拶に立たれた日本大使のお話では、これはヨーロッパの中でももっとも長い伝統を誇るものの一つだと考えていいらしい。今から四十年以上前というと、1970年代のいわゆる正常化の時代に始まったということになる。それがここまで継続しているというのは、関係者の努力の賜物であると同時に、チェコ、かつてのチェコスロバキア国内で日本語の勉強に励んできた人々の存在があったからこそであろう。
 歴代の関係者、日本語学習者たちの過ごされたであろう濃密な四十年と、自分の怠惰に流れてしまった、いや今でも流れ続けている四十年を振り返って忸怩たるものがある。だからといって今更人生をやり直せるわけでもなく、これから少し日本人的な勤勉さを取り戻す努力をしてみようかと、大使のお話、発表者の方々の話を聞きながら、考えてしまった。三日坊主に終わるだろうけど、毎年三日努力をすれば、チリも積もれば山となるで、くたばるまでには一年分ぐらいにはならないかなあと考えたけど、そのためには120回ぐらい弁論大会を聞かなければならないから無理だなあ。

 弁論は、初級と中級、それに参加賞しかもらえない日本に留学や長期滞在をしたことがある人を対象にした上級の三つの部門に分かれていて、中級の優勝者には日本への往復航空券が副賞として与えられることになっているようだ。じつはこれももう何十年も続いている伝統らしい。最初の大会からそうだったのかどうかはわからないけど。
 おそらく、発表には多かれ少なかれ日本人の手が入っているのだろう。初級の人から、まったく理解ができないようなものはなかった。最後に講評をされた国際交流基金の先生もおっしゃっていたけれども、落として笑いを取りに来るような発表が多くて、会場では一つ一つ笑っている日本の人が多かったけど、結構笑えないのもあったんだよなあ。

 初級で気になったのは、日本語の個々の音を発音するという面では問題のある人は少なかったのだが、アクセントがチェコ語に引きずられて、全て語頭に強いアクセントをつける傾向があって聞きづらいと思うものが多かったことだ。まあ、日本の人が質問者の名前を呼ぶときに、チェコ語の強弱アクセントを捨てて、日本語的な高低のアクセントで、語頭にアクセントが来ない発音の仕方をしていたから、言葉を学習する上でアクセントというのは難しいのだという結論にしておこう。アクセント崩壊方といわれる吸収方言で育った人間には、東京方言(標準語とか共通語とかいう言い方は嫌いである)、もしくはNHK方言で話すときに正しいアクセントを使えているかどうか自信がないし。

 あとは、何と言うのだろうか、自分の言いたいことを強調しようとしすぎて、演技をしているようなドラマチックなまでの話し方をする人が多くて、淡々とまじめに話したほうが、逆にドラマを感じさせるのではないと思うようなものが多かった。思い入れを生のまま出されても共感はしにくいのである。思い入れのあることを淡々と他人事のように語れるというのも弁論というものには必要ではなかろうか。ドラマチックな話ぶりのほうが受けやすいからそっちに流れる人が多いのはよくわかるのだけど、だからこそ周りとは違う話しぶりをすることに意味が出てくる。
 弁論大会の弁論といえば、「ご清聴ありがとうございました」で終わるのが定番で、何年も前に聴きに行ったときには、みんな判子を押すかのように「ご清聴ありがとうございました」を繰り返していた。最初の一人二人がこんな表現を使ったら凄いと思うかもしれないけれども、みんながみんな使ってしまえばまたかと思うだけである。雑用をしながら聞いていたので、どれだけの人が決まり文句で発表を終わったのか確認できなかったのだけど、今回はどうだったのだろうか。

 さて、我がチェコ語は、日本語弁論大会の参加者を批評するのにたりるレベルにあるのだろうか。
2014年4月15日24時。







posted by olomoučan at 06:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語

2017年05月26日

安倍総理大臣の日本語、もしくは不毛すぎる国会(五月廿三日)



 愛読しているジャパンナレッジの連載「日本語、どうでしょう?」にアクセスしたら、「そもそも」という言葉がテーマになっており、その理由が安倍総理大臣の国会での答弁だった。「そもそも」に「基本的に」という意味があるといったというのだけど、国会というのはそんなことを話し合う場だったのか。最近、チェコの国会でバビシュ財相が嘘をついたかどうかについて審議が行われて、嘘をついたという議決がなされたというニュースを聞いて、あまりの不毛さに耳を疑ったことがある。日本の国会も負けてねえなあ。
 そもそも何でこんな話になったのか、確認してみた。検索したら四月十九日付けの朝日新聞の記事が出てきたので、ちょっと引用する。引用元はここ

 議論になったのは、過去3回廃案になった共謀罪法案より適用対象を厳しくしたと訴える首相が、「今回は『そもそも』犯罪を犯すことを目的としている集団でなければならない。これが(過去の法案と)全然違う」と述べた1月26日の衆院予算委での答弁。民進党の山尾志桜里氏が「『そもそも』発言を前提とすれば、オウム真理教はそもそもは宗教法人だから(処罰の)対象外か」と尋ねた。


 この部分の首相の「そもそも」の使い方は間違っていないし、山尾氏の使い方も正しい。ただし、議論がかみ合っていないのは、山尾氏が意図的に論点をずらしているせいに見える。ひどいのはこれに対する安倍首相の答えである。首相の日本語がおぼつかないのは周知の事実なんだから、周辺の人間が支えろよ。日本語の集中講義を受けさせるぐらいのことはしてもいいかもしれない。

 これに対し、首相は「山尾氏は『初めから』という理解しかないと思っているかもしれないが、辞書で念のために調べたら『基本的に』という意味もある」と主張。「オウム真理教はある段階において一変した。『最初から』でなければ捜査の対象にならないという考え方そのものが大きな間違いであり、いわば『基本的に』変わったかどうかということにおいて、『そもそも』という表現を使った」と述べた。


 問題は、首相自身が「そもそも」の意味を、「初めから」「最初から」だとしか認識していない点にある。だから「基本的に」などという「そもそも」の意味に、遠くはないけれども外れた意味をどこぞの辞書から引っ張り出してくる羽目に陥るのである。
 そもそも、自分自身が使った言葉を説明するのに辞書の記述を持ってくるのが間違っているのだ。辞書には一般的な意味は書かれているけれども、どんなことを意識して使うのかまでは書かれていないことが多い。だから、自分ではこういう意味で、こういう意識で使用したのだと説明すればよかったのだ。それにしても「基本的に」はないよなあ。もしかしたら、揚げ足取りの質問には、適当に辞書にあると答えておけということなのかもしれないけど。

 さて、「そもそも」について、考えておくと、新聞記事にも挙がっている「初めから」「最初から」という辞書的な意味はそれでいい。ではどんなときに使うのだろうか。一つは、「そもそも日本という国は」と始めて、国の起源から語り起こす使い方。それから、「そもそも言葉というものは」で始めて、言葉の起源でもいいけれども、むしろ言葉の本質、根本的な部分から語り起こすような使い方。どちらの場合も、この言葉を最初に置くことによって、物事の発端、最初の分から、もしくは本質的な部分から説明を始めることを示すために使われるのである。

 それから、もう一つの使い方については、疑問文で考えるのがいいだろう。「日本語、どうでしょう?」では、「いったい」という意味でつかわれると書かれている。だからといって、「いったい誰が来るのだろうか」と「そもそも誰が来るのだろうか」が全く完全に同じだという人はいるまい。
 「いったい」を使った場合には、単に疑問を強調しているだけなのに対して、「そもそも」を使うと、今考えている問題よりも、先に考えるべき問題、本質的な問題に立ち返って、改めて考え直すような場合に使われる。例えば、お客さんにあげるプレゼントを考えているときに、来るのが誰なのか、男性なのか女性なのか、知らないことに気づいて、「そもそも誰が来るんだ?」と、プレゼントについて考える前に知っておくべきことに意識を戻すのである。
 だから、「この計画にはそもそも反対だったんだ」と過去の発端にさかのぼって言い訳めいたことも言えるし、「この団体はそもそも政党ではない」と団体の表面に現れた部分ではなく、その下に隠された本質的な部分、根本的な部分に立ち返ってコメントをすることもできる。

 そう考えると、オウム真理教について、最初は宗教団体として設立されたという面に目を向けて、「そもそも宗教法人だ」という言い方は正しい。同時に、教義に終末論的なところがあって、教団の拡大のためには犯罪的行為をも辞さなかった点に目を向ければ、「そもそも犯罪行為を肯定するところのある組織である」なんて言い方をしてもいいだろう。表面上はただの宗教団体だったけれども、その本質は世界に終末をもたらすことを目的としたテロ組織でもあったのだから。つまり首相の発言における「そもそも犯罪を犯すことを目的としている集団」にオウム真理教を含めても問題はないのである。

 この「そもそも」問題のそもそもの問題は、首相だけでなく質問した山尾氏も、「そもそも」についてよくわかっていない点にある。その点、目糞鼻糞を笑うレベルの揚げ足取りで、思想的にどちらを支持しているにせよ、こんなくだらない質問、国会でやるなよという感想を持つのが、まっとうな日本人というものである。
 朝日も含めて新聞社が、どの辞書に載っているのだと大騒ぎしたのもみっともない。新聞記者というものは、ある意味で日本語を使うプロなのだから、辞書に逃げずに、自らの「そもそも」の使い方に鑑みて、首相を批判するなり擁護するなりするべきなのだ。

 そして、内閣が、辞書『大辞林』で「そもそも」を引いて、さらにそこに語義として挙げられる「どだい」を引いくと「基本」という言葉が出てくるから、安倍首相の答弁は正しいということを閣議で決定したというのには、もう何をか言わんやである。
 自分自身の「そもそも」の使い方に鑑みて改めて断言しておく。1月26日の首相の発言における「そもそも」の使い方は、オウム真理教もそこに入れるということを念頭においても、間違っていない。ただし、4月の質問に対しての答えは、質問と同様、クソ以下である。
 「日本を愛するのなら、国語としての日本語も同じように愛してもらいたい」という「日本語、どうでしょう?」の著者が末尾にもらした言葉にはもろ手を挙げて賛成する。いや、国家としての日本は愛していなくても、日本語だけは愛せよ、と急進的日本語至上主義者としては考えてしまうのである。
5月24日17時。



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posted by olomoučan at 06:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語

2017年01月31日

云々云々(正月廿八日)



 昨日だったかな、朝仕事に出かけようとしたら、うちのに、安倍総理大臣が何かまた変な日本語を使ったらしいよと教えられた。見せられたのは日本語のニュースではなく英語のニュースで、「テイセイデンデン」と言ったらしいのだけど、そんな言葉はないので、「ウンヌン」を誤読したのではないかと書かれていたようだ。
 国会での答弁だというので、「テイセイ」は「帝政」だろうかと考えたのだが、これに「云々」のつく状況が思いつかなかった。夜になって思い出して調べてみたら「訂正云々」だった。その前後の民なんとか党の人とのやり取りは、日本の国会の議論の不毛さを象徴しているようで、目くそ鼻くその争いをいつまで続けているのだろうとため息をつくしかない。

 それはさておき、「云々」の「云」を「ウン」と音読みするのは、「云」を音符とする形声文字の音読みを考えればわかるだろうと書きかけて、常用漢字の範囲でこれに当てはまるものが「雲」しかないことに気づいた。
 しかし、日本では漢字検定とかいう、何のために受けるのかも、何の意味があるのかも理解できない検定試験が、不祥事が発覚するまでは大流行していたらしいから、「芸」の本来の音読みが「ウン」であることを知っている人も多いだろう。「ゲイ」は、常用漢字で正字「藝」の略字体として採用された結果、「ゲイ」という読みが正しいことになっただけである。
 同じように、「会」の正字は「會」、「転」の正字は「轉」で、「云」は音符としての機能を果たしていないのである。では、「伝」はというと、これも「傳」が正字である。この辺が、丸谷才一氏など、常用漢字の新字体を強く批判し、正字の使用を求める人がいた所以なのだろう。音符と字音の関連性が失われてしまって、漢字の読みの習得を困難にすることになる。ということは、今回安倍首相が言い間違いか、読み間違いかをしてしまったのは、常用漢字のせいだということになる。これ決めたの自民党政権だよね。ってことは自業自得か。

 さて、「云」に踊り字を重ねた「云々」が、「ウンウン」ではなく、「ウンヌン」と読まれるのは、連声と言われる現象である。「反応」が「ハンノウ」、銀杏が「ギンナン」なるように、音読みが子音Nで終わる漢字の後に母音で始まる漢字が付いたときに起こることがある。問題は規則がよくわからないことで、同じ「サン」と読む漢字に「位」がついた言葉でも、「散位」は「サンニ」と読み、「三位」は「サンミ」と読むのである。いや、「三位」にはスポーツの場合の「サンイ」という読み方もあった。
 一般的には、連声は起こりにくくなっているといっていいのだろう。かつては「マンニョウシュウ」と読まれていたはずの『万葉集』は、「マンヨウシュウ」以外の読み方はされなくなっているし、新しく次々に作られる熟語の場合には、連声を起こすことはなさそうだ。ただ、日本人がこの連声と縁を切ることはあるまい。国民統合の象徴たる天皇、その天皇の読み「テンノウ」も、連声の結果生じた読み方なのだから。「皇」は、単独で「コウ」「オウ」とは読まれでも、「ノウ」と読まれることはないのである。

 「云々」に話を戻すと、本来は漢文で誰かの言葉を引用した最後につけてそこで話が終わることを示した表現である。狭い意味での漢文、つまり中国の古典に登場したかどうかは、ちゃんと覚えていないが、日本で書かれた漢文資料には頻出する。それで思い出したことが一つ、文学系の先生や学生は、「云々」を「ウンヌン」と読み、史学系では、「としかじか」と読んでいたことだ。
 韻文であれ、散文であれ、和文を主として研究対象にする文学科の人間が、音読みして済ませているのに、漢文史料を主に扱う史学科の人たちが、訓読みしているのが不思議に思えたものだ。「しか」が「云」の訓読みなのかという疑問に対しては、漢字の読みを和文における意味から当てていったのが訓読みであることを考えれば、訓読みと言ってかまわないだろうと答えておく。

 和製漢文においては、「者」も人の話の引用の末尾に用いられる。これは、書き下し文では「てへり」と書かれ、文語なので「てえり」と読まれる。「といへり」の約まった形なので、意味は「と言った」ということになる。引用の助詞「と」が「て」に形を変えるのは、現代口語だけの話ではないのである。
 その「者」を「てえり」ではなく、歴史的仮名遣いの読み方の原則を無視して文字通り「てへり」と読んでしまう史学科の学生がいるという話を聞いたことがある。これは、日本で国語教育、特に古典に関する教育が軽視されていることの反映であろう。一般の人ならともかく、近代以前の日本史を専攻する人間が、正しく読めないというのはしゃれにならない現実である。
 おそらく、安部総理大臣が、「云々」を知らなかった、もしくは読めなかったというのも、その延長線上にある。戦後の学校教育が英語教育に力を入れるあまり、国語をないがしろにしてきた結果、かつては誰でも知っていた言葉も読めない総理大臣を輩出してしまったのだ。以前も誤読を連発して問題になった総理大臣がいたというが、母語である日本語において間違いを連発することを恥だとは思わないのだろうか。英語ができないことよりもはるかに大きな恥だと思うのだが。

 最近流行っているらしい「美しい日本語」とやらを称揚する動きも関連すると言えば言えるか。あれは、外国語、とくに英語に対するコンプレックスが生み出した徒花としての流行に過ぎない。それに、あの手のものに紹介される日本語が本当に美しいものだとは必ずしも言い切れないし、あれを読んで国語能力が向上するとも思えない。
 国語そのものだけではなく、外国語も含めた他の分野の学習に関しても、世界認識の要である母語、すなわち日本語が確たるものとして確立されていることは重要だと思うのだけど、日本の社会はそっちのほうには向かっていないようである。

1月29日17時。


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2016年12月07日

日本語能力試験(十二月四日)



 ブルノで日本語を教えている知人に頼まれて、ブルノで毎年一回行われている日本語能力試験の試験監督に出かけた。試験開始は十二時で受験生は十一時半までに到着すればいいのだが、裏方は早めに行って準備しなければいけないので、九時前後にはブルノに到着するようにとの指示であった。つまり七時の電車に乗ってブルノに向かわなければならないということである。
 昔、オストラバで通訳の仕事をしていたころは、週一で七時前の電車に乗っていて慣れていたのだけど、近年自堕落な生活をしている身には早起きはつらい。一時間半ほどかけてブルノに到着すると、今度はトラムで会場に向かわなければならない。週末は九番しか会場に向かわないというので、それに乗って向かう先は、メンデル大学である。
 遺伝の法則の発見で有名なメンデルは、ブルノの修道院で実験をして、法則を発見したのである。その功績をたたえてブルノにある農業系の大学に、名前が冠されたわけだ。メンデルに関しては、仕事をしたのはブルノだけど教育を受けたのはオロモウツだという話もあって、当時モラビアにあった高等教育機関は、イエズス会の学寮から発展した現在のパラツキー大学の前身しかなかったはずなので、むべなるかなではあるのだけど、詳しいことは知らない。

 昔、メンデルの生地について日本で調べている人から、同じ名前の村が二つあってどっちが本当のメンデルの生地かわからないから、教えてくれというメールをもらって、ちょっと困ったことがある。現地まで出かければすぐわかるのだろうけど、出かけなければインターネットが発達した今、チェコ語の問題を無視すれば、日本でもチェコでも調べて手に入れられる情報には大差はない。
 もちろん、偶然というもののおかげで情報が入ってきやすいのはチェコだけれども、当時周囲にいた人たちに誰彼ともなく聞いて回っても、誰も正しい答えを知らなかった。チェコ人だからといってチェコ出身の有名人について詳しいとは限らないのである。特にメンデルのようにドイツ系とも見られる人の場合にはその傾向が強い。
 その後、偶然チェコテレビのニュースで、メンデルの生地の村で、メンデルの生家を博物館だか、記念館だかにしているというのを見る機会があった。ただ、そのときには知人からの連絡をもらってすでに数年、どこにある二つの村が問題だったのか覚えておらず、その二つのうちのこっちだよと教えることはできなかったのだった。

 閑話休題。
 メンデル大学は、オロモウツのパラツキー大学、プラハのカレル大学とは違って、キャンパスがあった。キャンパスに入れるところには門があって、警備の人もいたし、日曜なので使える入り口はひとつだけに限定されていた。
 この大学の建物の集約されたキャンパスの中で、いくつかの建物を使って行うらしい。一つの建物でできないのかと聞いたら、大きな教室で、ちゃんとした机のあるところが少なく、建物の数のわりに試験に使える教室は少ないのだという。N1からN5まで合わせて300人ほどの受験生がいると言うから、一クラス平均でも60人となり、小さな教室は使えそうもない。
 そのため、担当の級によっては、会場と本部の間を、寒空の下行ったり来たりする必要があって、大変そうだった。私自身はチェコ語で指示を出す必要のあるN5クラスに、チェコ語くっちゃべり要員として配属され、本部と同じ建物の一番近い会場だったので、非常に楽だった。N5は一番下のレベルで、初めてこの手の試験を受ける人が多く、どたばたしてしまった部分もあるのだけど、それも含めて、なかなか楽しかった。他人が受けるテスト、しかも採点する必要のないテストというのは楽しいものである。
 それにしても、日本からはるか遠く、飛行機の直行便もないチェコの地で、毎年一回このような大規模なテストが行われていて、しかも年々受験者の数が増えて300人になろうとしているというのは、ちょっとした驚きである。願はくは、この中の一人でも多くの人が、日本語の勉強を続けて、最高レベルだというN1に合格してくれんことを。

 かつて、80年代から90年代にかけてだったと思うが、日本語を国際化して、国際的な言葉にしようという考えを持った人たちが積極的に発言していた時期がある。日本語を国際化する必要があるのかどうかはともかくとして、その連中が主張していたのは、日本語をしっかり教える方法を考えることではなく、日本語そのものを変えてしまうことだった。
 当人たちの言葉を変えれば、複雑に過ぎるらしい日本語の文法を簡約化して簡約日本語と言うものを作り出し、それを外国人に教えると言うのである。実例として挙げられていた簡約日本語は、日本語を粉砕して適当に糊でくっつけたような、到底日本語とは言えないような代物であった。こんなくそみたいな日本語もどきを一度身につけてしまった外国人は、絶対に正しい日本語を身につけることはできないと断言できるようなものだった。
 いや、当時簡約日本語なるものを主張していた連中は、今日ブルノに集まった、日本から遠く離れたチェコの教材の面でも、教師の面でも恵まれない環境で、正しい日本語を身につけようと努力を積み重ねている人々の顔を面と向かってみることができるのだろうか。恥を知れとしか言いようがない。漢字廃止論者とか、ローマ字表記論者も同罪である。漢字のない日本語など読めたもんじゃないのはわかりきったことだろうに。ここにも話し言葉を過度に重視する言語学が主流となっている弊害が現れていると思うのは私だけだろうか。

 またまた、看板に偽りがあるなあ。
12月5日10時。

試験監督には昼食に和食のお弁当が出ると言われて、ほいほい引き受けたのに、弁当がなかったのは、非常に残念だった。12月6日追記。




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2016年11月30日

安倍総理大臣の日本語(十一月廿七日)



 ときどき、古典文学作品のテキストファイルを求めて利用することのある「やたがらすナビ」というサイトの「ブログの最新記事」と言うところに、「冥福・半紙」というタイトルの記事が上がっていたので、組み合わせの奇妙さについクリックしてみたところ、「冥福」は安倍首相の使った変な日本語で、「半紙」のほうは、書道用紙の変な製品名のことだった。
 安倍首相は、キューバの革命家カストロ氏の死を受けて「キューバ革命後の卓越した指導者であるフィデル・カストロ前議長の逝去の報に接し、謹んで哀悼の意を表します。本年9月に、私がキューバを訪問しお会いした際には、世界情勢について情熱を込めて語られる姿が印象的でした。日本政府を代表して、キューバ共和国政府および同国国民、ならびに御遺族の皆様に対し、ご冥福をお祈りします」という発言をしたらしい。ソースはNHKだから、省略などの改竄は入っていないものと考えてよかろう。

 上記の「やた管ブログ」では、「ご冥福をお祈りする」相手が違うだろうと指摘している。全くその通りで、これが日本語のままキューバに届くとも思えないが、翻訳する人も、その人が日本語の冥福の使い方をちゃんと知っていたら、面食らうに違いない。「カストロ氏の冥福を祈る」だったらいいのだけど。しかし、こういう首相の発言って事前にチェックが入るものじゃないのだろうか。
 それに、この冥福は本来仏教用語のはずだから、宗教を捨てたはずの共産主義者カストロ氏が、こんな言葉を贈られて喜ぶのかね。晩年にはローマ法王と面会して感激の言葉を漏らしていたような記憶もあるから、キリスト教に転んだのかな。
 個人的には、死を悼む決まり文句として、特に抵抗はないのだけど、以前、政教分離にうるさい人の書いた日本人の宗教観についての本を読んでいたら、テレビのニュースで「死者のご冥福をお祈りする」という表現が頻出するのにもクレームをつけていたから、今回も誰かがいちゃもんをつけるかもしれない。それはちょっと楽しみである。

 それ以前に、冒頭の「キューバ革命後の卓越した指導者」というのは、政治的に問題はないのだろうか。カストロ氏は、「革命後」ではなく、「キューバ革命の指導者」じゃないのか。それとも、この部分には、キューバ革命の指導者は、カストロではなくてゲバラだという首相の主張が隠れているのだろうか。いや、哀悼の意を表現すべきところで、外交問題になりかねないことは言わないだろうから、勘違いなのか、何なのか。

 安倍首相の発言には、少し注意すれば、事前に原稿のチェックをする人がいれば、ありえないような間違いが散見される。以前、聞いた演説では、補助動詞の「いただく」と「くださる」を間違えて使っていた。「選挙民の皆様が支援していただいた」だったか、「選挙民の皆様に支援してくださった」だったか、正確には覚えていないが、演説の間に何度も繰り返していた。一回目を聞いたときには聞き間違いだろうと思ったのだけど、どうもこれが正しいと思って使っているようだった。
 首相の演説なんだから、本人が全てを書くわけではなく、下原稿を書く人がいたり、首相の意向をまとめて原稿化したりする人がいるものではないのだろうか。そういう人は、日本語に堪能であるはずだから、このような不適切な言葉の使い方はせず、首相が使ってしまった場合には、指摘して改めさせるのが仕事じゃないのか。

 それとも、方言なのだろうか。方言なら許せるのだけど、安倍首相の方言というと山口方言ということになるのかな。山口方言といえば、昔知人から、「おはようございました」という人がいるという話を聞いたことがあるけれども、安倍首相も使うのだとすれば、聞いてみたい気はする。
 とまれ、日本を代表すべき首相の日本語がどこか怪しいというのは残念である。これは首相個人の責任というよりは、支えるべき周囲の問題なのだろう。つい政治家の言葉はどこか信用できないと思ってしまうのも、日本語の怪しさゆえなのかもしれない。

 チェコの政治家のチェコ語についてもコメントしたかったのだが、シュバルツェンベルク氏の言葉がわかりにくい以上のことは、こちらのチェコ語能力の問題で言えそうにない。
11月28日18時。


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2016年11月28日

似非文語文(十一月廿五日)

 今日のは、いつも以上に読まなくてもいいと思う。うん。

 昨日書きし文章は、ただ仮名遣ひを変へたるに過ぎぬ。而るに大きなる時間と労力を用せり。ために費しし時間に比し短かりて内容も又た空疎なる物にて了んぬ。今日は文語にて書くを試してみむとす。然れど一度覚えたりし言葉の已に忘れしも多く、筆の進まぬこと昨日より甚だし。
 思ふに、丸谷才一翁の云はれし如く、我が国の学校教育に於ける文語の軽視は目に余る。英語なる外つ国の言葉など学びおる暇のあらば、古典学ぶべしとは云はねど、江戸の寺子屋が如く素読の繰り返しによりて、文語に慣るるは可能ならん。其れに際し江戸期の文章を選ぶべからざるは云ふを俟たぬ。
 なれど、親の文語読む能はざれば、子の読む能ふは難からむ。若くは師たるべきを学び舎に欠き、誰か教へむを惑ひけむ。国語なる教師の古文、漢文読みて躊躇はざる極めて希なり。如何にして童らを教へえむ。

 ここまでで限界。
 ここまででもかなり怪しい文語文であるけれども、これ以上書くとさらにぐちゃぐちゃになりそうである。現代日本語を歴史的仮名遣いで表記するのは、コンピューター上で書くのを除けば、それほど困難ではないが、文語で書くのは、三分の一ページしか書いていないが、かなり辛かった。

 問題の一つは、文語と言いつつ、普通に書いていると平安期の和文のようにはならず、漢文訓読に近い硬いものになっ
てしまうことだ。漢文訓読風の文体であれば、普段書いているものと大差ない。差はあるけれども、かしこまって偉そうという点では大差はない。これでは当初の目論見に反する。
 それを避けるために、訓読に使わないような助詞を使ったり、接続詞や副詞を加えようとするのだけど、とっさに使える語彙が圧倒的に少ない。そのため、時間のわりに全くと言っていいほどかけなかった。普段から古文では読みも書きもしていないのだから当然といえば当然である。ただ、もう少しましなことが書けると思っていただけに、残念である。訓読だけではなく、平安期の和文も読む訓練をし直すべきかなあ。
 二日続けてしょうもない文章になってしまった。でも、日本の学校教育において古文漢文が軽視されているのを危惧しているのは事実である。読書百遍意おのづから通ずというのは、基本も知らない外国語の場合には通じなくても、古文漢文の場合には通じるところがある。もともと同じ日本語なんだし、現在の下手をすれば外国語よりも難しいと敬遠されている状態は間違っているような気がする。

 南北に長い日本にはさまざまな方言があり、中には一度聞いただけではさっぱり理解できないものもある。それでも何度も聞いているうちに少しずつ理解できるようになる。個人的には体験はないけど、できるようにならなかったら、全国をまたにかけて転勤する人たちは大変である。大阪方言が何となくわかるのも、テレビで頻繁に聞こえてくるからに他ならないのだし。
 ということは、古文の難しさを喧伝するのではなくて、方言の一種、時間的な方言だと捉えて、最初は習うより慣れよで、意味はわからなくても声を出して読んだり、人が読むのを聞いてたりするだけでいいんじゃなかろうか。自分もそうしていたらもう少し古文が読めたかもしれないと思う。蒙昧だったガキのころは、未知の言葉である英語に無意味な憧れを抱いて、古文なんて過去の遺物に目を向ける気はなかったのだから、今の子供たちも同じか。

 かくて目的の果されぬままに了りぬ。
11月26日23時。



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2016年11月27日

歴史的仮名遣ひ(十一月廿四日)



 牧水の短歌の表記を確認するついでに、「歴史的仮名遣い」で検索をかけてみたら、歴史的仮名遣ひを使用する人たちと、それを嫌ふ人たちの罵り合ひが目に入つてきた。個人的には歴史的仮名遣ひは好きなので、使ふなといふ意見には賛成しかねるのだが、わざわざコンピューター上で歴史的仮名遣ひを使ふ人たちにも、酔狂なといふ思ひを感ずるのを禁じえない。

 歴史的仮名遣ひで書かれたものを読むのは、高校大学で古文を学んだこともあつて、問題は全くない。読み始めはちよつと戸惑ふことはあるが、一度読み始めればすぐに現代仮名遣いと同じやうによめるやうになる。我が愛読の内田百閧フ最高傑作『ノラや』も、全編歴史的仮名遣ひで書かれてゐたが特に読むのに苦労した記憶はない。苦労したのは涙を抑えることであった。
 そもそも漢文の訓読自体が文語、つまりは歴史的仮名遣ひを使ふものであるから、漢文の訓読をやつてゐる人間が、読む段階で苦労してゐたのでは、話にならぬのである。問題は反対、書く場合である。

 丸谷才一氏は、歴史的仮名遣ひで書くことで知られた作家だが、氏の意見では歴史的仮名遣ひの方が、動詞の活用などに一貫性が出てくるため、現代仮名遣ひよりもはるかに日本語を表記するには向ひてゐるといふ。その意見に反対する気はない。
 現代仮名遣ひで、「かった」「こうた」と書くと別物に見える動詞「買う」の過去形の関東方言と関西方言も、歴史的仮名遣ひで「かつた」「かうた」と書くと途端に関連性が見えてきて、本来発音の問題ではなく表記の問題であつたであらうことが理解されるはづである。神戸と書いて「かうべ」「かんべ」と読むのも同様である。

 しかし、コンピューター上で歴史的仮名遣ひを使ふのは、今もやめればよかつたと思ふ位に厄介である。いはゆるIMEが歴史的仮名遣ひに対応してゐないため、歴史的仮名遣ひの部分は一々訂正していく必要があるのである。常に歴史的仮名遣ひを使用するといふのであれば、辞書に登録するといふ手もあらうが、膨大な手間がかかる点は同様である。
 それを避けやうと思へば、現代仮名遣ひで書くときよりも漢字の割合を増やし、送り仮名を原則よりも省略することになる。その結果出来上がるのは読みづらい文章である。百關謳カのやうに面白い文章が書けるのであれば、多少の読みづらさは気にならないのだが、我が文章でそれをやるとただでさへ少ない読者をさらに減らしてしまふことになる。

 それから、歴史的仮名遣ひで文章を書くとなれば、漢字も常用漢字に収録されてゐるやうな新字体ではなく、旧字体を使ふのがある意味当然であらう。しかし、ワープロソフト上で旧字体を使用するのに手間がかかる場合も多い。その点、かつて使つてゐたシャープのワープロ書院はよかつた。カーソルを当てた漢字をキーを一つ押すだけで、新字から旧字、旧字から新字に変える機能がついてゐたのだ。ワープロソフトで再現してくれないかと思ふのだが、需要がないのかな。
 そんな書院でも歴史的仮名遣ひに関しては、辞書にちまちまと登録していくしかなかつた。だから、現在ネット上で、いはゆる旧字旧仮名で文章を書いてゐる人々には、今後とも頑張つてほしいと思ふ。このやうな人々が増えれば、いつの日にか、歴史的仮名遣ひに対応した漢字変換ソフトが登場するかもしれない。歴史的仮名遣ひしか使へないのであれば、不要であるが、現代仮名遣ひも歴史的仮名遣ひも両方とも使へるのであれば、是非もなく手に入れたいと思ふ。

 今回例外的に、歴史的仮名遣ひを使つて見たが、やはり書きづらいものがある。書いてゐる間、しばしば自分が何を書いてゐるのか、わからなくなることがあり、その点はいつもと変はらないと言へなくもないけれども、調子が乗らない。次は漢文訓読風に古文で文章を書いて見やうか。
11月25日23時30分。


 旧字まで使ふ気力はなかつた。11月26日追記。
 「歴史的仮名遣ひ」を「現代仮名遣ひ」と誤っていた部分を修正。11月27日追記。

posted by olomoučan at 07:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語
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