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2016年05月09日

方言の思い出――日本語版(五月六日)



 子供の頃、今から考えると笑い話だが、方言丸出しで話していながら、自分たちは標準語(嫌な言葉だ)で話していると思っていた。自分も含めて日本中の人が、テレビに出てくる役者やアナウンサーと自分たちは同じ話し方をしていると思っていたのだ。

 方言というものを始めて意識したのは、小学校の四年生だったか、五年生だったか、国語の授業で方言についての文章を読んだときのことだ。確か、大阪では、捨てるのことを「ほかす」と言い、他にも「投げる」なんて言い方をするところもあるという話だった。そして、「しあさって」「やなあさって」「ごあさって」などという言葉があって、地方によって指す日が違うことがあるので、お互いに方言で話して予定を立てるとあえないかもしれないよという落ちだっただろうか。我が田舎では「しあさって」しか使わなかったので、「し」の後の「ごあさって」はともかく、「やなあさって」というのは変な言葉だと思ったのを覚えている。
 それから、同じころに、熊本から来た転校生に声をかけたら、「なんば?」と言われて、驚きのあまり反応できなくなったのも忘れられない。一瞬の硬直の後、大笑いしてしまって、その人を怒らせてしまったのだが、突然知らない言葉が飛んできた衝撃は、それほど大きかったのだ。同じ県内からの転校生の場合には、気くほどの言葉の違いはなかったのだけど。

 高校生で北海道まで出かけたときには、途中の東北地方で、電車の中で話しかけてきてくれた地元のお年寄りの人たちの話がわからなかったのが、ちょっとショックだった。最大のショックは、北海道でバスに乗ったときに聞こえてきた「ばくる」という言葉だったのだけど。地元の高校生ぐらいの女の子たちが、それまではごく普通のよその人間にもある程度わかる言葉で話していたのに、突然「ばくろうか」という言葉が聞こえてきた。前後の文脈から、場所を「交換しようか」という意味であることはわかったが、それが方言なのか、聞き間違いなのかはわからなかった。見ず知らずの女の子に声をかけて質問するような度胸はなかったし。
 その答がわかったのは、大学に入って、北海道出身の先輩と知り合ってからだ。その先輩は、「ばくる」の意味が「交換する」で正しいことを証明してくれただけでなく、「はんかくさい」という美しい方言も教えてくれた。北海道では、「バカ」に非常に強い意味があるために、気軽に使えない言葉になっていて、その代わりに「はんかくさい」を使うのだという。

 大学時代に、科学万博を記念した施設を見学するために筑波に出かけたことがある。八十年代に中高生だった我々の世代にとっては、万博と言えば、大阪でも愛知でもなく、筑波なのだ。だから、東京の大学に通えることになった以上、筑波を訪れるのは必然であった。見学が終わって記念に何かお土産を買おうとして、記念館の受付の女性と話していたときだったと思う。裏から近所の農家のおじさんみたいな人が出てきて、二人で話を始めたのだが、それが、さっぱりわからなかったのだ。さっきまで、普通にしゃべっていた女性も、急に別人のような話しかたになっていた。
 筑波のある茨城県は東京から近いのだから、方言なんてあっても東京のことばと大きくは違わないだろうと思っていたのだが、そんなことはなかったらしい。荒っぽいしゃべり方で早口で、しかも急に離し方が変わったせいでついていけなかっただけなのかもしれない。そんな話を茨城出身の同輩にしたら、北関東は東北の入り口だからなどと、わかるような、わからないような返事が返ってきた。

 それで、方言に関する本も読むようになっていくのだが、正直あまり感心するようなものはなかった。一体に、国語学の本や論文で、読んだかいがあったと思えるのは、ほとんどが古文を対象にしたもので、現代日本語を対象にしたものは、途中で投げ出さずに最後まで読み通せれば御の字なのだから方言関係の本にも過度の期待をしてはいけなかったのだ。
 そんな方言関係の本の中で例外的に感動してしまったのが、『全国アホ・バカ分布考』である。本来はテレビ番組の企画から始まったらしい調査が、大部の本にまとめられ、読みやすい文章でどのような経過で調査が進められ、どんな結果が出たのかが語られる。北海道の「はんかくさい」に関しては、どうして北海道で使われるようになったのかの推測までされている。一番の収穫は、柳田國男によって唱えられた方言周圏論が、特殊な言葉にのみ成立するのではなく、ある種類の言葉に関しては一般的に成立しうることを証明したことだろう。名詞よりも形容詞的な意味を持つ言葉の場合に、周圏論敵に方言が広がっているというのである。

 全国放送を行うテレビが広く普及してからかなりの時間が経ち、仕事などの関係で田舎を離れて生活する人の多い現代の日本で、これだけ方言が維持されているのは素晴らしいことである。かつての方言撲滅運動なんてものが、完全にはうまく行かなかったのは僥倖としか言いようがない。おそらく今後も、時代と共に消えていく方言独特の言葉もあることだろう。それでも、日本中の人が、地元の人同士で話すときまで、まったく同じ言葉を使うなんて味気ないことにはならないと信じたい。
 そうか、チェコ語の「プツレ」などの言葉も、方言だと考えると許せるようになる、のかなあ。
5月7日23時。



 方言に興味のある人にとって、この本は必読。5月8日追記。


全国アホ・バカ分布考 [ 松本修 ]




posted by olomoučan at 07:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語

2016年04月19日

政治家の日本語(四月十六日)


 作家の丸谷才一氏が書いた日本語に関する本の中に、「総理大臣の日本語」と題する一節があって、当時の総理大臣田中角栄氏の著作『列島改造論』を俎上にあげていた。確か、こんな空疎な文章を一国の首相が書くのかと批判し、いわゆる角栄節が感じられないから、実は本人が書いたのではなくゴーストライターがいるんじゃないかというのが、主な内容だった。文学者ならぬ身には、書かれた文章を読んで評価するなんてことはできそうもない。

 さて、最近、日本の安倍首相の発言を、テレビのニュースで見る、正確には聞く機会が何度かあった。衝撃的だったのは、内容ではなく、ちゃんと聞き取れないことだった。何を発言しているかは、チェコ語の字幕があるから問題ないのだが、同時に耳に入ってくる日本語が、何を言っているのか理解できなかった。日本人が出てくるニュースを見る意味の一つは、チェコ語の字幕と耳で聞く日本語を比べてチェコ語の学習に役立てるところにあると言うのに、まったく使えなかった。
 一般の人がインタビューを受けて、しどろもどろな答を返したり、記者会見でしゃべるのになれていない人の発言が、声が小さすぎて聞き取れなかったりというのはしかたがない面がある。しかし、しゃべることが仕事の一部である政治家の言葉が聞き取れるレベルにないというのは、ちょっと勘弁してほしい。正直な話、チェコの元外務大臣であるシュバルツェンベルク氏のチェコ語と同レベルで聞けなかった。シュバルツェンベルク氏の母語はドイツ語であるし、チェコ人たちには聞き取れるらしいのである。

 それでか、と納得したのが、日本のテレビの画面のうるささだ。ニュースなどでも誰かの発言が流れると、必ず字幕、それともテロップっていうのかな、が入る。明瞭なしゃべり方で字幕なんかなくてもいいような発言であっても、文字が画面に浮かび上がるのである。チェコテレビだと、チェコ語の発言は、電話などを通じての聞き取りにくい場合にだけ、字幕が入るのだけど。そうか、聞き取りにくい発言にだけ、字幕をつけたら、この人の日本語は聞き取りにくいとテレビ局が判断したことになって、字幕を付けられた政治家から批判されることになる。だから、誰彼かまわず字幕をつけてしまうというわけか。それが広まって、バラエティ番組あたりで乱用するようになって、見るにたえない画面が生まれたと言うことなのだろう。テレビの、しかも即興性を尊ぶはずのバラエティー番組で文字を乱用するのは、テレビの存在意義を否定するようなものだと思うのだが、どうせ見ないからどうでもいいか。
 確かに、過去には「言語明瞭意味不明瞭」などと批判された首相もいたし、あの人の話も決して明瞭に聞き取れるものではなかったような気がする。安倍首相に限らず、日本の政治家のコメントがチェコのニュースで流れると、何を言っているのかわからないことも多い。声が小さいからではなく、発音が不明瞭で耳に届かないのだ。政治家、少なくとも大臣や、首相となって、国を代表して発言する人たちには、見た目よりも、しゃべり方に気を使ってほしい。大きな声で勢いよくしゃべっていれば伝わるというものではない。特に今回のような自然災害が起こったときには、しゃべり方一つで、人々を落ち着かせることも、不安を感じさせることもできる。

 それで思い出したのが、東日本大震災のときの枝野氏である。地震直後の政府を代表してあれこれ自分でもわかっていないことを発表していたときの姿ではなく、その後のラジオ番組での枝野氏の話し方は素晴らしかった。発音、滑舌、間の取り方など玄人はだしで、近年レベルの低下の著しいNHKの一部のアナウンサーなどより聞きやすいぐらいだった。震災直後の話しぶりから考えると、おそらく話し方の訓練をして番組に臨んだのだろう。落ち着いた語り口で、聞く人にわかりやすく伝えようとする姿には、感心させられた。
 将来は、枝野氏のような、きれいな日本語で聞きやすい話し方のできる人に、世界に向けて日本を発信するような立場に立ってほしいものである。政治的にどんな主張をしているのか、どの政党にいるのかなんてことはどうでもいい。顔で政治家を選ぶなんて見た目重視の投票をする人もいるし、耳への響きで選ぶ人がいてもいいじゃないか。90年代中盤以降、どの政党が政権をとっても、目くそ鼻くその差異しかないことを、証明してしまったのが日本の政治なのだから。国外在住の身では選挙権を行使する機会もなく、何を言っても無責任な発言になってしまうのだけど。
4月17日15時30分。


posted by olomoučan at 06:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語
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