2018年07月06日
『済時記』を読む二(七月六日)
次の記事は廿三日。
原文
廿三日己酉、伝聞、右大将奉仰給勅答太政大臣曰、摂籙依請停之、自余如本者、依内記不候、令蔵人惟成作之、臣下上表蓋雖及数度、百王恒典輙不許所請也、而丞相病後始上此表、即停摂行、甚乖旧典、誠雖人主之暗前鑑、亦是相国不忠之所致也、去春以来世之云々盈満街衢、蓋依此故乎、
書下し
廿三日己酉、伝へ聞く、右大将仰を奉り勅答を太政大臣に給はりて曰く、摂籙請に依り之を停す、自余は本の如し、てへり、内記の候ぜざるに依り、蔵人惟成をして之を作らしむ、臣下の上表蓋ひ数度に及ぶと雖も、百王の恒典輙ち請ふ所を許さざるなり、而るに丞相病の後始めて此の表を上す、即ち摂行を停む、甚だ旧典に乖る、誠に人主の前鑑に暗きと雖も、亦た是れ相国の不忠の致す所なり、去ぬる春以来世の云々は街衢に盈満す、蓋し此の故に依るか、
この日の記事も伝聞になっているのは、この混乱の時期、済時が三大を避けていたということなのだろうか。
この日はまず、右大将で大納言の兼家が、天皇の仰せに従って、兄の伊尹に摂政を辞任する許可を伝えている。摂政以外は元の通りというから太政大臣の地位にはとどまったようである。このときの文書は、内記が参上していなかったから、蔵人の藤原惟成に作成させたという。花山朝で暗躍した藤原惟成はこの頃から蔵人を務めていたのである。
以下は、この件に関する済時の批判なのだが、なかなか強烈である。まず、伊尹の摂政辞任が一度目の辞表で認められたことを批判する。済時によれば、臣下が辞表を数回提出しても、辞任を認めないのが昔からのルールなのだという。それなのに、伊尹は病気になって初めて辞表を提出したら、すぐに摂政をやめることが認められた。これはこれまでの慣例に背いている。
次の「誠雖人主之暗前鑑」が少しわかりにくいのだが、天皇が前例を知らないことを批判しているものと読んでおく。それ以上によくないのは伊尹で、すべては伊尹の不忠がもたらしたことだという。「去春以来世之云々盈満街衢」の「云々」が指すものがわかりにくいけれども不平不満の類であろうか。昨年の春以来この世のあれこれが街中に満ち溢れているのは、すべて伊尹の不忠が原因だろうという。
原文
廿六日壬子、早旦□右府諧世事之報、良久言談、
書下し
廿六日壬子、早旦右府に参り世事の報を諧す、やや久しく言談す、
このときの右大臣は一年ほど前に就任した藤原頼忠。「□」で表されている文字には、「参カ」という傍注がついているのでそれにならっておく。「諧」がわかりにくいが、この日の記事は、済時が早朝から右大臣頼忠のところに出向いて世俗のあれこれについてしばらく話したものと理解しておく。内容はおそらく伊尹の後任の摂政についてだろう。
十一月分は次回に回す。
2018年7月6日23時
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