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2018年04月05日

『小右記』に見る長徳の変2(四月二日)



承前

道隆の死
 関白道隆が死ぬのは四月十日だが、六日条に死の知らせが届いたことが記される。実際には病気の辛さに出家しただけであった。十一日条に、前日の深夜に亡くなったという知らせが見える。享年は43歳である。
 廿四日の記事には、関白とは関係ないが、左大将藤原済時が前日55歳で亡くなったことが記され、この二日ほどの間に、四位五位の貴族が多くなくなっているとも言う。この日は関白道隆の葬儀が行なわれている。

 この後、公卿補任によれば、四月廿七日に右大臣藤原道兼が関白に任じられるが、五月八日には没してしまう。関白の職にあったのは十二日だが、世には七日関白の名で呼ばれることが多い。『小右記』のこの二日の記事は現存していないが、周辺の日の記事に道兼についての記述がないのは不思議である。五月廿六日の記事に、道兼と同日に亡くなった左大臣源重信とあわせて、亡くなったという報告が天皇になされたことが記されるが、道兼は「右大臣」とされれている。関白になったというのが定着していなかったのだろうか。
 十一日の記事には、道長が関白の詔を受けたという知らせが記される。実資が確認すると、実は関白ではなく、堀河大臣、つまり道長の叔父に当たる藤原兼通の例にならって宮中の所持を管轄せよということだった。そして六月十九日条に、道長が右大臣に任じられたことが現れる。

 ということは、この時点では、円融天皇のときの藤原兼通は、兄伊尹の死後すぐに関白になったのではないと理解されていたことになる。道長は、この後、大納言から右大臣になり筆頭の大臣となるが、兼通は中納言から内大臣になり、その上にはまだ右大臣頼忠と左大臣源兼明がいたのが違うところである。
 この時点では、大臣経験のなかった道長にも、若すぎる上にこれまでの経緯で天皇も含めた貴族社会の反感を集めていた伊周にも、関白就任の可能性があったとは思えない。そして大量の公卿を含む貴族たちの死によって混乱した状況を立て直すことを期待されたのは、伊周ではなく道長であった。これも、伊周が関白に任命されなかったのと理由は同様であろう。若く経験も実績もなく、さらには後見人もいない政治家を指導者として選べる状況ではなかったのである。

 道長中心の政権が誕生したあとも、伊周とその周辺は道長との関係を対等だと考えていたのか、激しく対立する様子を見せている。
 七月廿四日条には、右大臣になった道長と内大臣伊周の最高位の二人が、陣の座で乱闘するかのように口論したことが記録される。それを聞いていた人たちはとんでもないことだと嘆いていたという。
 廿七日条には、中納言になったばかりの隆家の従者が、道長の従者と乱闘事件を起こしたこと、八月三日条には、道長の従者が隆家の従者に殺害されたことが記される。
 実資は『小右記』には出てこないが、四月に検非違使別当に補されており、これらの乱闘事件の解決のために働くことになる。この時期、実資が検非違使別当を務めていたというのも、道長と伊周の権力争いにおいては道長側に有利に働いたところがあろう。

 念のために八人の公卿の死を経て、新たに任命されたものも含めて公卿の一覧を上げれば次のようになる。日付は任命の日である。こちらも正と権の区別はしない。

関白 欠
左大臣 欠
右大臣藤原道長 (30)  六月十九日
内大臣藤原伊周 (22)
大納言藤原顕光 (61)  六月十九日
   藤原公季(36)   四月六日
中納言源時中 (54)
   藤原懐忠 (61)   六月十九日
   藤原隆家 (17)  四月六日
   藤原実資 (39)  八月廿八日
参議 藤原道綱 (41)
   藤原安親 (74)
   藤原時光 (48)
   平惟仲 (52)
   藤原公任 (30)
   藤原誠信 (32)
   源扶義 (45)
   源俊賢 (37)  八月廿九日 


長徳の変
 翌長徳二年正月十六日条の末尾に、実資が道長からの連絡で、花山法皇と伊周、隆家兄弟が故藤原為光邸で起こした乱闘事件について知ったことが記される。花山法皇が連れていた童子二人が殺され首が持ち去られたという。
 二月五日条には、実資が検非違使別当として事件の捜査のために伊周の家人の宅を捜索するさまが記され、十一日条では、公卿たちが陣にいるところに、伊周と隆家の罪名を前例に鑑みて確定せよという命令が届いている。

 その後、四月廿四日の記事に、除目が行われ伊周が大宰府権帥に、隆家が出雲権守に左遷と決まったことが見える。これは実質的は配流で、配流の宣命には理由として、花山法皇に弓を射たことと、天皇の生母の詮子を呪詛したこと、許可なく大元法を行ったことが挙げられている。
 この辺りは実資の指揮した検非違使の捜査の結果であろうか。また、この二人以外にも処罰される人の名前がいくつか挙がっているが、道隆の子供と妻の家族で特例的な出世を遂げた人たちであった。

 伊周は病気を理由に配所に赴かないことを求めているが許可は下りず、中宮定子の下に籠城する。落ちぶれた伊周の様子を見ようというのか、中宮御所には見物の人が集まったらしい。伊周が定子から離れようとしないため、配所への下向を強要することができないと言う話が四月廿八日の記事に見える。
 五月一日になって中宮の元で隆家が捕らえられ配所の出雲に送られるが、伊周は逃亡する。検非違使の捜索はうまく行かず、結局伊周は山崎の離宮に向かおうとしていたところを捕らえられる。伊周は病気を理由に京にとどまれるように願い出るが許可されなかった。ただし、隆家も伊周も配所への途中で病気を言い立て、最終的には隆家が但馬、伊周が播磨に滞在することが許される。

 この時点で、政権の不安定要素だった伊周を排除した道長の政権は安定する。その安定に実資も検非違使別当として伊周、道隆に関する事件を解決するということで大きく貢献したといえる。実資以外の人が別当だった場合に、中宮の御所の捜索などもあったことを考えると、長い時間がかかった可能性も高い。
 実資は伊周兄弟の事件の捜査が終わった後、九月になって検非違使別当と兼官されることが多い右衛門督の辞任を申し出る。十九日の除目で公任が両職に任命されることで、実資の辞任は認められた。まるで、伊周関係の事件の捜査をするためだけに検非違使に任命されたかのように見えてしまう。

 ただし、伊周はこれで諦めたのではなく十月に入って再び京にひそかに舞い戻り中宮のところに潜んでいたことが八日の記事に記される。逮捕された記述はないが、十一日に大宰府まで護送されたことが記されている。
 伊周と隆家は翌年の三月に大赦の一環として帰郷を許され公卿に復帰するのだが、伊周はかつての政治的な権力は取り戻すことはできなかったと考えていい。隆家のほうは後に有能さを発揮して公卿の中でも存在感を持つようになるのだが、道長と政権を争うような存在には、当然なれなかった。

 道長は、伊周を排除して政権を安定させた時点で、右大臣から関白に就任することも可能だったはずだが、左大臣に進んだだけで関白への就任は見送っている。内覧という関白の権力の基礎となった権利を有していたから、関白になってもならなくても大きな違いはなかったと言われれば、その通りであるが、伊周との争いを経てもう一つの目的を持って、関白にならないことを選んだのではないかと推測しているが、それについては稿を改める。
2018年4月3日20時。



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